Z.封建主義から資本主義への移行、および民族再興運動


  (1)農業における進歩と産業革命の始まり              
   スロヴァキアにおける産業の発展                
 (2)1781−1848年における新しい社会階級の発生と大衆的集団の階級闘争    
    1831年の東スロヴァキアの暴動               
 (3)チェコおよびスロヴァキアの民族再興運動            
     スロヴァキア民族再興運動の展開                
 (4)民族再興運動期の文化 


1.農業における進歩と産業革命の始まり

 十八世紀の終わりに農業と産業において幾つかの変化が始まった。それらの変化は封建的経済・社会秩序の崩壊を早めた。住民人口の急速な増加とあいまって労働力と消費者の数も増大した。国内および国外の商業の発展は物資にたいする需要を増大させた。それとともに生産量の増大の努力も大きくなった。

 <農業の発展> 農業においては牧場をつぶし、養魚池を干拓することによって耕作地を広げた。増産は徹底的な土地の育成と人工肥料の導入によって達成された。農機具はとくに鋤が改良された。大きな意義をもつ進歩は1824−1827年におけるチェコ人による ruchadlo と称する鋤の発見で、これはパルドビツコのヴェヴェルク・ス・リヴィトゥヴィー兄弟の功績であった。
 これまで知られていなかったか、あまり利用されなかったいく種類かの野菜の栽培が非常に増加した。ジャガイモは広い範囲の民衆層の滋養の重要な要素となった。十九世紀の前半に砂糖キビの栽培が急速に広まり、それとの関連で新しい独自の産業分野---    製糖業---が起こった。スロバキアではトウモロコシとタバコの栽培が広まった。新しい飼料(クローヴァー、ムラサキウマゴヤシ、イガマメ)は種をまいたあと数年後に刈り入れることができるが、家畜小屋のなかでの良好な飼育のために必要な飼料の豊かさを保証した。
 これらの改良のすべては、常に耕作地の三分の一は耕作されずに放置され集落の全住民の家畜の共同の放牧場となっていた三段方式(trojpolni soustava)にもとづいた封建的農業経営方式の伝統を破壊した。古くなった三段方式のかわりに十八世紀の末期から、穀物、まぐさ、根菜類の規則的な交替栽培法にもとづく何倍も生産量の大きい連続栽培法が徐々に浸透していった。しかしこの連続的な交替栽培法は最初はおもに大農園においてのみ採用されていた。小作人たちの零細な農地では十九世紀の前半まではその大部分がいぜんとして古い方式を保っていたが、それは零細な農民を多くの農業的苦役にしばりつけていた。

 <産業発展にたいする保護政策> この時期には工業生産の領域においても重大な変化が始まっていた。その上、ジョゼフ二世の時代に農奴制が廃止された。この時代は啓蒙的絶対主義の最盛期で、産業発展の支援のためのその他の重要な制度が定められた。1781年にいわゆる「寛容勅令」によって福音派信仰にたいして宗教的寛容が示された。この勅令の発布を早めたものは1777---1781年における非カトリック教徒の広範な大衆暴動であった。とくにブルニェンスコ、ヴァラッシュスコ、そしてチェスコモラフスカー・ヴルッホヴィニェで激しかった。
 「寛容勅令」は一方では非合法のプロシャの煽動工作に対処するためであり、もう一方ではプロテスタントの国々から来た専門職の親方や、産業の職人に、ハプスブルク専制王国の領土内ではその人の宗教的信仰のために追及されることはないということを保証するはずであった。しかも、ユダヤ人の商人にたいしても生産企業に参加する権利が適用された。その他の手工業の発生と発展は外国製品の輸入制限でも保護された。
 

 <フランスとの戦争の結果> 革命とナポレオンのフランスにともなう長い戦争は武器と軍服の著しい需要を呼び起こした。鉄工業、織物工業、紡績工場が発展したが、それには外国からの輸入の禁止が助けた。なぜなら、発展したイギリスの産業との競争がなくなったからである。それにたいして古いチェコの織物業やガラス業は戦争によって損害をこうむった。なぜならこれらの部門の輸出は外国の市場をうしなったからである。増大する軍費支出はハプスブルク専制国家を疲弊させ、1811年には国家的破産にいたったが、そのとき貨幣価値は五分の一に下落した。多くの生産企業、職人的専門業や小企業は資金繰りつかずの状態に陥り、つぶれてしまった。

 <産業改革のはじまり> ナポレオン戦争終結後、チェコ産業にとって危険な競争相手となったのは、大陸を満たす大量のイギリス製品だった。わが国の領域内で工業生産の次なる発展はより完璧な生産方法と技術の導入を要求した。その一つは新しい加工機具であり、いま一つは動力機械である。動力機械は十八世紀末から十九世紀の最初の十年間に西ヨーロッパにいわゆる産業革命をもたらしたものである。蒸気機関の発明はこの時期全体を性格づけるものであるが、この蒸気機関は機械工業生産と交通の発達において決定的な要因となった。
 生産の機械化と主要な動力としての蒸気機関がだんだんと導入されるにしたがって、手工業生産は工場に変っていった。チェコの領域でのこの転換は十九世紀の30年から40年にかけてやっと起こった。蒸気機関の製造とその工業生産への利用のはじまりは、わが国においても20年代にまでさかのぼることができるとしても、蒸気機関が大規模に工業生産に浸透するのは40年代になってからである。

 <織物産業> もっとも重要な産業領域は、チェコ領域においてはそれ以後も織物業であった。織物産業(soukenictvi )のほかにもとくに新しい部門、綿糸産業が発達した。綿からは一般向きの色とりどりの模様を印刷した安価な布地(kartoun )は市場で高級布地(platno)を圧迫した。40年代にはすでに高級布地産業は没落していた。

 <石炭採掘と製鉄工業> 30年、40年代には石炭の採掘が増大しはじめたが、そのはじまりはすでに十八世紀にわが国のほとんどの山岳地周辺に見ることができる。製鉄工業は、その大部分がいぜんとして封建的大資産家の手にあったため極端な後れをみせていたが、この領域にも徐々に新しい生産方法が浸透してきた。30年代の半ば、ヴィトコヴィツェの製鉄工場に初めての高い溶鉱炉が建設され、それにはコークスが用いられた。20年代から新しい産業分野となったのは機械製造業の部門であった。

 <交通機関の発達> 産業と製品の交換の発達は新しい輸送手段の建設を要求した。体系的な道路網の建設がはじまり、水路のより有効な利用が努力された。1815年から1817年にかけてプラハ高等技術学校の技師ヨゼフ・ボジェクは蒸気自動車と蒸気船を組立てた。ラベ、ヴルタヴァ、ドナウ川で蒸気船による交通が導入された。その完成に寄与したのは有名なチェコの発明(船のスクリューの取付け)であり、1826年のヨゼフ・レッセルの発明である。
 交通の発達のうえで大きな進歩となったのは鉄道の建設である。このことは原材料の生産地から離れたところにも工場建設を徐々に可能とするようになった。初め、列車は馬によって引かれ、主として貨物の輸送に使われた。最初の鉄道馬車はアルプスからチェスケー・ブジェヨヴィツェまで塩を運んできた(1825)。30年代末から40年代の初めにかけて蒸気機関車が使用されはじめた。鉄道の発達にかんしてはすぐれた技師フランティシェク・Ant.ゲルネルとヤン・ペルネルの功績が大きい。

 <金融業> 資本主義的企業にたいしては最初の金融機関の設立が大きな力となった。1824年にプラハで「チェコ貯蓄銀行」が設立された。この銀行は零細な預金者の倹約した金を生産企業に貸し付けた。スロバキアでは最初の貯蓄銀行は1842年にブラチスラヴァに出来た。個人の企業心を促進させたのは1833年に設立された「チェコ企業促進協会」だった。
 産業博覧会も工業生産の発展に寄与した。ヨーロッパ大陸で最初の産業博覧会は1791年にプラハで開催された。1828年からはチェコ工業製品の博覧会はしばしばプラハで行われてきた。

 スロバキアにおける産業の発展

 しかしスロバキアではウィーン宮廷の経済政策はその後も手工業生産の発展をはばんでいた。オーストリアの企業家たちは帝国の東半分の市場が彼らにとっては開かれており、ここでは競争に出会わないように努めていた。しかしスロバキアとハンガリーにおける産業のおくれにたいしてはハンガリーの貴族にも責任があった。つまり彼らは農産物取引における利益に多く目を奪われており、手工業生産にはあまり関心をもたなかったからである。
 スロバキアにおける手工業生産の発展の制約は、十九世紀の初めにおいてもいぜんとしてギルド的職能と家内手工業生産が製品産業において優位を占めるという結果的をもたらした。生産の社会的側面からいえば、家内工業製品、とくに織物業が重要であった。
 発展にとっての好条件を備えていたのは農産業の幾つかの部門である。それはとくに製糖業、製粉業、酒造業などである。1848年にはハンガリー領域では19の製糖工場があったが、そのうちの12の工場はスロバキアにあった。
 機械の導入と工場生産への移行の歩みは、ハンガリーとスロバキアではゆっくりとしたものではあったが、後には帝国の西側部分と拮抗するまでになった。
 <ハンガリーとスロバキアにおける後れ> 織物産業におきるよりも以前に、機械設備は食品産業に取り入れられた。とくに製粉業と製糖業であり、また製紙業にも導入された。40年代になるとハンガリーの市民階級は、ハンガリーがオーストリアにたいする経済的従属関係から離れ、独自の産業と経済を築くよう努力した。ペシュトはすでに経済、交通、政治の中心として築かれていた。
 


 2.1781−1848年における新しい社会階級の発生と大衆的集団の階級闘争

 <人口の増大> 十八世紀末から十九世紀前半における経済発展はこれまでのあらゆる社会構造を変化させた。この時代に人口は著しく増大した。チェコ領土内における人口の増加はおよそ250万を示している(1781年には400万人に満たない数が確認されているが、1846年にはすでにおよそ650万の人口に達している)。資本主義的企業の発展とともに産業と経済と行政の中心が成長した。1784年に四つのプラハの街区が結合されて、一つの行政単位となった。それらの街区とは「プラハの古い街区」(スタレー・ムニェスト・プラシュスケー)、「プラハの新しい街区」(ノヴェー・ムニェスト・プラーシュスケー)、「「小さな街区」(マラー・ストラナ)および「プラハ城の街区」(フラッチャニ)である。十九世紀の40年代にプラハには12万5千人の住民が住んでいた。大部分の他の町は住民の数でもずっと少なく、いぜんとして手工業的、農業主体の性格を保っていた。

 <ブルジョアジーとプロレタリアートの発生> 農奴制廃止後の資本主義的生産関係の成長は社会階級---ブルジョアジーとプロレタリアート--- の新しい対立を生み出すことになった。古い、ほろびゆく封建社会の内部では資本主義的経済・社会秩序の開始を宣言する新しい社会構造が形成されはじめていた。ブルジョアジーはもっとも重要な生産手段、工場、鉱山、後には大きな土地を徐々にその手に納め、工場労働者や農業労働者の搾取によって得た資本を蓄積していた---プロレタリアート、彼らはたしかに不自由な身分に拘束されてはいなかったが、いかなる生産手段も所有せず、したがって、彼らは資本家のために賃金と引替えに働かざるをえなかった。
 十九世紀の前半にわが国でも新しい社会階級が初めて形成された。そしていぜんとして古い封建的社会構造が優位を保っていた。

 <従属身分の問題> 人口構成のうえから数的にはもっとも多い零細農民はもっとも厳しかった封建的抑圧の方法は除かれていたとはいえ、その地位は以後もずっとみじめな状態にとどまっていた。労役、代金、税金を義務とする農奴経済は時代おくれとなり、あまり有利ではなかった。労役にたいしては金銭によって支払われ、農奴への支払いは安くすることによって労役の義務を完全に排除するというヨゼフ二世の試みは失敗した。貴族・聖職者の反動はあらためて封建的搾取を強化しようと努めたのである。

 <フランス・ブルジョア革命の反響> しかし、農奴は古い関係を回復しようとする意図にしばしば抵抗してきた。農奴的関係を排除したフランス・ブルジョア革命は民衆のなかに、わが国でも、フランス人たちが到来して、貴族たちの支配が倒れ、貴族と教会の土地が零細農民のあいだに分配されるだろうという希望が勢いを得てきた。その後になっても農奴たちは、労役は廃止されるはずだという希望を捨てなかった。そして封建領主たちとの階級闘争で農奴的義務をはたすことを集団的に拒否したのである(たとえば、南モラヴァにおける1821年)。

 <産業プロレタリアートの成長とその搾取> 農業で生活できなくなったチェコ領土内の貧しい農村の住民は工業製品の生産のなかに生活の糧を求めた。工業の機械化の進展の結果として、おもに織物業においてであるが、農村の家内工業の大勢の紡績職人や織物職人が仕事を失い、工場プロレタリアートの階級に参入せざるをえなくなった。資本家たちは増大する労働力の供給を労賃の容赦ない低減に利用した。
 産業プロレタリアートはもっとも悪辣な方法によって搾取された。彼らは暗い、風も通らない、暖房もなく、もっとも原始的な衛生設備もない仕事場でわずかな賃金で一日に12--16時間も働いていた。もしもっと高い賃金を要求したり、もっとよい労働環境を獲得しようという試みをしようものなら、体罰を受けるか、投獄されるか、解雇された。いつも、もっともひどく搾取されたのは女性や子供だった。彼らは最低の賃金で働いた。幾つかの工場では労働者総数の大半を6歳から12歳の子供が占めていた。1843年になってやっと、12歳未満の子供の労働を制限するはずの法令が施行された。
 産業プロレタリアートはただちに自分たちの地位にたいする不満を表明した。もっとも積極的に実行したのは織物工場の労働者、とくにプリント布地の捺染工たちであった。彼らは最初の労働者の抗議組織を創立し、ストライキをも計画した。
 1843年から1844年にかけて経済危機の時期に織物製品の売れゆきがぱったり止まり、生活必需品の値段が高騰したとき、ブルノ、プラハ、リベレツコ、その他のところでストライキと賃金の切下げと労働者の首きりにたいする抗議の集団デモンストレーションが起こった。しかし当時、労働者は彼らの貧困の主要な原因が工場の資本主義的所有者の利益追及であることをまだ知らなかった。そして彼らの絶望的境遇の主要な原因を主として工場への機械の導入にあると考えた。幾つかの場所で彼らは捺染工場の攻撃を企て、新しい型染め機械(ペロティナ)を破壊した。
 この暴動は1844年6月にプラハでピークを迎えた。同じ年、パルドゥビツェからプラハへの鉄道建設に働く労働者のデモが残酷な弾圧を受けた(数人の死者と大勢の負傷者を出した)。それに続いて、年々多くの場所でパン屋や肉屋の店先で、腹をすかした貧しいものたちの暴動が起こった。
 しかし当時は産業プロレタリアートはまだ数的に弱かったし、組織もされていず、階級的にも明確化していなかった。彼らの闘争はむしろ怒りと反感の突発的な爆発といった性格のものであり、彼らは目的意識によるコントロールはなかったが、しかし生れつつある労働者階級にたいして闘争の経験を与えた。

 1831年の東スロバキアの暴動

 1831年の東スロバキア農民の強力な暴動は大きな意義をもった。零細農村住民の地位はスロバキアではチェコ地方におけるよりも一層苦しいものでものであった。なぜならこの地方ではまだ大部分が、きわめて不条理な封建的抑圧と搾取という、古い封建的形式を保っていたからである。農民の土地は細分化されて、その土地を耕すものの食糧にも満たないほどであった。農村の貧困層は土地に経済的発展性がないからといって産業のなかに生活の糧を見出だす可能性すらもっていなかった。彼らの都会への移住を役所が認めなかったからである。貴族や裕福農民は土地なし農民が共同牧場に放牧するのを拒否した。貴族が羊の大きな群れを飼っている幾つかの領地では農奴たちの小さな土地を取り上げ、共同牧場を廃止した。この危機的状況に1830年の不作がさらに輪をかけた。
 暴動の直接的引き金となったのは1830年から1831年にかけてヨーロッパの多くの地域を襲ったコレラ流行の時期に役所がとった健康管理にたいする処置にたいする農村住民の不信感であった。不満が起こり、領主たちは井戸を汚染して貧民たちを排除しようとしているという噂がひろまった。暴動は1831年の6月末に起こり、東スロバキアの多くの領地にひろまった。暴動には百姓や農村の貧民のほかに、鉱山労働者や没落地主も加わった。領主にたいする戦いのなかで東スロバキア地方に住むスロバキア、ハンガリー、ウクライナ、ドイツの民衆の連帯が生れた。この暴動のなかで女性の参加が重要な意味をもった。
 暴動の参加者たちは貴族や教会の領地を襲い、幾つかの土地では貴族の土地を奪い、分配し、あらゆる封建的義務を破棄した。しかし暴動は統一的な指揮系統をもたず、槍騎兵隊の残酷な介入によりいちはやく血なまぐさく鎮圧された。暴動に参加した120人が絞首刑になったが、そのなかに女性三人がふくまれていた。

 <暴動の意義> 東スロバキア農民暴動は封建的搾取にたいするわが国での不自由農民の最後の巨大な闘争的登場となった。この暴動さえもが、支配体制にたいして労役問題の解決に向かうようにしむけなかった。しかしまたもやその問題解決の緊急性を強調した。1840年ハンガリー議会は農奴的拘束からの解放を金で買い取る可能性についての法律を公表した。
 <農奴身分からの解放> 1846年、ハリッチュにおける大農民暴動が起こるにおよんで、ウィーン政府はやっとチェコ地域にたいして農奴身分の解放の買い取りにかんする法律を発布した。
 しかし、農民たちはこの解放にたいして喜ばず、労役が全面的に、金銭の支払いなしに行われることを期待した。

 3.チェコおよびスロバキアの民族再興運動

 <新時代の民族誕生への資本主義の影響> 他の国におけると同様に封建主義の崩壊と資本主義的企業の成長が、チェコおよびスロバキアの民族的また政治的活動においても広範な変化をもたらした。生れつつある資本主義的秩序は民族的連帯と新時代の諸民族の誕生のための前提を形成した。
 それは普遍的、合法則的性格の現象であった。資本主義が浸透したところはどこでも、経済的、社会的、政治的、文化的活動の古い封建的不統一性は姿を消した。資本主義的工業生産、商業、交通の発達とともに、封建主義時代に個々の町や貴族の領地、地方や地域を隔てていた境界は壊された。物資の工場大量生産は原始的な自然経済の残滓をも閉め出した。無数にあった関税や通行税は廃止され、商業の自由な発展の障害となっていたばらばらだった度量衡も排除された。資本主義的生産の発展の基本的前提としての国家の全領域にとっての統一的商品市場をもった統一的経済活動が形成されたのである。
 これらのすべては、共同の土地に住み、同じ言葉を話し、共通の文化的価値を形成している人民の連帯を固めた。経済活動の連帯性はすべての新時代の民族の重要な特質となった。

 <民族運動におけるブルジョアジーの役割> 封建主義の崩壊と資本主義の初期の時代に民族意識と民族の権利を求める闘争において主導的役割をになったのは、資本主義的市民階級、つまりブルジョアジーと称する新たに登場してきた階級であった。この階級の歴史的目的は残存する封建的秩序をくつがえし、貴族階級の経済的、政治的恩典を無効にし、ブルジョアジー自身が経済的、政治的決定権を有する資本主義的社会制度を導入することであった。ブルジョアジーはこの自分たちの階級的目的を全民族の名において戦い取ろうとしたのだった。なぜなら封建領主たちの支配にたいしてもっともひろい範囲の民族が立ちあがったからである。資本主義登場の時代にブルジョアジーは経済的、社会的、かつ文化的進歩のにない手として全民族的利害の代弁者となった。

 <チェコ人およびスロバキア人の地位> しかし新時代の民族の形成は全領土内で同一の方法で、また同一の条件のなかで進められたわけではない。他民族の抑圧のもとにではなく、独立した国家のなかに生きた無制約の民族性は、自分の国家をもたず、その進歩的ブルジョアジーの力も弱く、ほとんど進展もしていない抑圧された民族の民族性よりも何倍も速く明確化されたのである。そしてまさにこのような地位にチェコとスロバキアはあったのである。
 民族的抑圧と社会的抑圧がもつれあっているハプスブルク専制王国の多民族性のなかで、新しい時代のブルジョア国家の形成はことに複雑な様相を示しながら進んでいったのである。

 <民族的抑圧の強化> オーストリア・ドイツおよびハンガリーの搾取階級はもっとも重要な生産手段を専有し、あらゆる権力機構をも支配することによってチェコおよびスロバキアの住民の大部分を隷属の状態にしばりつけた。資本主義的企業の登場とともにチェコおよびスロバキア民衆にたいする民族的抑圧が著しく増大した。十八世紀末からハプスブルク専制王国の全領域でウィーン政府のゲルマン化政策が強化された。この政府は中央集権的絶対主義国家形成の努力のなかで、必然的に全王国内の統一的公用語としてドイツ語を導入した。
 支配民族の言葉としてのドイツ語は下級の役所、学校や教会、そしてあらゆる公的活動の領域にも浸透した。成長をはじめたオーストリア・ドイツのブルジョアジーはこの新しい手続きを全面的に支持した。なぜなら行政的かつ言語的中央集権化は彼らの階級的利害に合致していたからである。十八世紀の終わり、そして十九世紀の最初の10年間にチェコ領域におけるゲルマン化の危機は頂点に達した。
 ゲルマン化に大いに傾いたのはとくに裕福な市民階級であった。彼らは経済的にも社会的にも支配階級にはいあがろうと努力していた。チェコのブルジョアジーは社会階級としては、支配者民族のブルジョアジーよりも遅れて、ゆっくりと発生した。民族意識の持主は最初は主として小市民階級に属する者たち---職人や知識人、教師、学生、役人、弁護士、僧侶---だった。民族意識をもった初期の企業家たちは製粉業者や農民であり、プラハではポトスカリー地区の薪炭業者たちであった。

 <成長するチェコ・ブルジョアジー> 長い間、形成されつつあったチェコ・ブルジョアジーは明確な政治プログラムをもっていなかった。彼らは民族の存在自体にたいする、言語的かつ文化的自立性にたいする権利の擁護と正当化からとりかかったが、しかしフランス・ブルジョア革命が求めて闘ったような市民的、政治的デモクラシーの要求を宣言することはできなかった。発生しつつあるチェコ・ブルジョアジーの経済的かつ政治的な弱さは、ウィーン政府の中央集権てき傾向に反対して古い「身分代表的(スタヴォフスケー)」権利の擁護に立ちあがった一部の貴族たちの影響下に自らを置くことになった。フランス革命の民主的スローガンはインテリ階級のわずかばかりの者たちにのみ影響を与えたが、彼らは反動にたいする戦いにおいて孤立していたのである。

 <進歩的勢力にたいする追及> フランス革命における急進的傾向に恐怖を感じたウィーン政府は封建聖職主義反動勢力擁護のために警察的絶対主義体制を築いた。いかなる自由思想の表明も、それが労働者のあいだであろうと、市民的知識人のグループにおいてであろうと、またそれが貴族や聖職者のあいだであっても、容赦なく追及された。

 <ハンガリーにおける「ジャコバン派の共謀」> このことはとくに「平等」の秘密結社のメンバーについても言える。この結社には何人かのハンガリーやスロバキアの市民や貴族の出身の知識人が結びついていた。彼らはハンガリーの民主的な秩序について提案しており、そのなかでスロバキアもまた特別の一地区を形成するはずであった。イグナーツ・マルチノヴィッチュに指導された「ジャコバン派」共謀の主要メンバーたちは1795年ブディーンにおいて公開の場で処刑され、他は監獄に監禁された。

 <メッテルニッヒの反動> その後の時代、とくにオーストリアの政治を牛耳ったメッテルニッヒ公爵がウィーン政府のトップの座についた1848年までの時代に反動はさらに強化された。警察と検閲が民族運動を圧殺した。なぜならそのなかにハプスブルク専制王国の統一と、またその存在そのものにたいする危機を感じたからである。
 しかし大きな経済・社会的変化の結果を警察権力によって阻止することはできなかった。民族運動は力と勇気とを増した。とくにその仲間に、民族の未来にたいする明るい(オプティミスティックな)信念に満たされた、大部分が民衆層の出身者である知識人の若い世代の代表者たちが参加したときにそうであった。そしてチェコ人とスロバキア人がその戦いにおい孤独ではなく、他のスラヴ民族、とくに大民族ロシアに援助を見出だすことができるという意識がよりどころであった。この意識は反ナポレオン戦争の時代からもっとも広い民衆層に根をおろし、わが国の民衆とわが領域を通過するロシア軍との同胞意識を生み出すまでにいたった。

 <チェコにおける政治的流れの初期> 十九世紀の30年代から民族運動は強大化し、政治的性格をもちはじめた。ここでは一つには経済的変化、とくに産業化の成長の社会的結果、いまま一つは、第二フランス・ブルジョア革命、いわゆる1830年6月の、そして1831年の最後の蜂起の影響が作用していた。知識層と民衆層の若い世代が、ツァーの暴力政治に反抗するポーランドの愛国主義者に共感をもち、有好的なロシア民衆と反動的ツァーの体制とを混同してはならないのだということを意識しはじめた。
 40年代にはすでに急進的な市民階級と知識人層との政治サークルも形成された。「歴史的」貴族階級と結合するチェコ・ブルジョアジーの民族的リベラル派との違って、この起こりつつある急進的民主主義的傾向は貴族にたいして拒否的な姿勢を保っていた。次の政治的発展においては、むしろ都市プロレタリアートと農村住民の参加をもって始まる。
  

 スロバキア民族再興運動の展開

 ブルジョアジーと産業プロレタリアートの形成は全ハンガリー地域においては専制王国の西側の部分に比べてゆっくりとしたものであったが、それは工場生産の発展のおくれと関連していた。スロバキアの小ブルジョアは経済的にはまだ弱く、製鉄工場、ガラス工場、水車、織物商人その他からやっと形成されはじめていた。初めのうちは政治的に明確化していなかったが、30年代になって彼らはスロバキア知識人の民族的努力に関心をもちはじめた。

 <スロバキアにおける非民族化の二重の脅威> スロバキアでは民族的抑圧は二つの方向から起こった。ウィーン政権はドイツ語の影響をハンガリーにも広げようと努めた。住民のゲルマン化の試みはスロバキアの町々で、とくにブラチスラヴァにおいて強く現れた。しかし、はやくもゲルマン化の傾向にたいする反感から、ハンガリー貴族も発生しつつあるハンガリー・ブルジョアジーも全ハンガリー王国の領域での統一的言葉としてハンガリー語の導入に努めた。こうしてハンガリーにおけるすべての非ハンガリー民族     スロバキア人、クロアチア人、ウクライナ人、ルーマニア人にたいしてゲルマン化のほかに、とくにハンガリー化の危険が起こったのである。

 <スロバキア民族知識人の努力> 経済的、社会的未発展性と二重の民族的抑圧という条件のなかで、スロバキア民族運動の第一期においてとくに大きな意味をもっていたのは言語・文化の領域でのスロバキア先覚者の活動であった。スロバキア文化活動の発展は民族再興運動期にこの上もなく大きな障害にぶっつかった。スロバキアの知識人はチェコの領域でプラハがそうであったような、それと同様の民族文化の重要な中心点をもたなかった。スロバキアではそれぞれの地域が独特の方言をかなり長いあいだ保ちつずけてきたので、そのことももまた統一的な標準語をつくる可能性を困難にしていた。

 <標準スロバキア語の誕生> 標準スロバキア語の文法体系をつくり出したのはカトリックの司祭アントン・ベルノラーク(1762年から1813年まで)に指導された、ブラチスラヴァの若いスロバキア知識人のグループであり、西スロバキア地方の方言にもとにしたものであった。ベルノラークの一派は1787年の学術的討論において、最初の標準スロバキア語の法則化を学問的論証とスロバキア社会の現実の必要性によって強調した。ベルノラークは、スロバキア人は他の民族と同様に自己の民族的個性を表現する権利があるという確信を表明した。

 <ベルノラーク派> ベルノラーク一派の登場は単に哲学的な問題に限られてはいず、社会的また文化的に大きな意義を有していた。しかしすべてのスロバキア人がベルノラークのスロバキア語を必ずしも受け入れたわけではなかった。スロバキア福音派の知識人たちは以後も「チェコ・スロバキア語」にこだわりつずけた。ベルノラークは同じく膨大な辞書をもつくった。それは彼の死後になってユライ・パールコヴィッチュによって6巻本として出版され(1825−1827)、スロバキア語の確立と伝播に重要な役割をはたした。

 <リュドヴィート・シュトゥール> 近代の標準スロバキア語にしっかりとした基礎が築かれたのは、リュドヴィート・シュトゥール(1815−1856)と彼の友人ヨゼフ・ミロスラフ・フルバンおよびミハル・ミロスラフ・ホッジャなどに率いられて30年代の半ばに登場してきた若い世代のスロバキア知識人たちが標準スロバキア語として中部スロバキアの方言を取り上げた1843年になってのことである。言語学者マルチン・ハッタラによって決定的な形に仕上げられたこの新しい標準語はだんだんと福音派にもカトリックにも受け入れられていった。
 スロバキアの標準語はスロバキア民族運動の統一と発展および民族文化の発展のための重要な手段となった。

 <タトリーン協会> 1844年の夏に全スロバキア文化組織「タトリーン」が設立された。1845年にはL.シュトゥールは「スロバキア民族新聞」を創立した。この新聞はスロバキアの政治活動とスロバキアの政治プログラムの発展に大きな意義をもった。

 <スロバキア標準語の形成の意義> 近代標準スロバキア語の誕生は自立的スロバキア民族の発展における画期的事件であり、社会発展の法則にも対応したものであった。スロバキア人は何世紀ものあいだチェコ人とは経済的にも、社会的にも、文化的にもことなる条件のなかで発展してきたが、民族再興の時代に民族的一体性を確立した。その重要なシンボルとなったのが独自の標準語でもあった。個性的な標準語の創造はスロバキア意識をこの上もなく強め、ハンガリーの支配階級の増大する非民族化の圧力との闘争において不可欠なものであった。スロバキアの民族的自立は民族的かつ社会的解放をもとめるチェコとスロバキアの兄弟民族の次なる社会闘争のための堅固な基盤となった。


 4.民族再興期の文化

 チェコとスロバキアの民衆の数百年におよぶ隷属はわが民族文化の発展を停滞させ、遅滞させることになった。経済・社会的抑圧と聖職的反動の長期にわたる支配は破滅的結果を残した。エズイット派のスコラスティックなドグマティズムは自由な合理的な思索にもとづく科学研究の発展を麻痺させ、民衆層を偏見と蒙昧のなかにしばりつけた。
 それゆえに、チェコとスロバキアの民族再興運動においては文化領域、とくに言語学、文学、歴史の分野における運動が大きな重要性をもつことになったのは当然であった。新しい時代の民族教育、学問、文学、そして芸術にたいする基礎づくりをする必要があった。なぜなら、一つにはこうして民族自立の権利を守り、民族同化の危険を防ぐことが可能となるからである。

 <カトリック教会の影響力の低下> 広い民衆層における教育活動の発展を助けたのは十八世紀の80年代にはじまる啓蒙的合理主義である。カトリック教会の反動的イデオロギーによる支配はヨゼフ二世の改革によって弱められ、教会の数も制限され、修道院の数も全体のほぼ半分が閉鎖された。修道士の団体も学校や病人の介抱、あるいはその他の有益な活動に携わるものだけが残された。

 <大衆のための著作家> 文化水準と民衆の自覚の向上のために大衆のためのチェコおよびスロバキアの作家たちが多くの貢献をした。彼らはやさしい言葉で書いた親しみやすい文章やパンフレットを通して、新しい生産技術や、経営のよりすぐれた方法、健康管理、若者の教育その他について教えていった。

 <チェコの探検隊> プラハではチェコで最初の書店で出版社であるヴァーツラフ・マチェイ・クラメリウスの「チェコの探検隊(チェスカー・エクスペディツェ)」社の周辺に重要な教育的拠点が作られた。1789年から発行されたクラメリウスの「愛国新聞(ヴラステンスケー・ノヴィニ)」はチェコの民衆に経済的知識を与えたばかりでなく、何よりも民族的自覚をうながした。

 <ユライ・ファーンドリ> 同様の仕事をシュテファン・レシュカが「プレシュプルスケー・ノヴィニ」<prespursky←Prespurk=Bratislava>(1783−1787)のまわりに集まった福音派の知識人とともに行なった。そしてとくにユライ・ファーンドリ(1750−1811)は大胆に民族自立とハンガリー王国内におけるスロバキア人の同権を防衛した。

 <啓蒙的学問> 同時に十八世紀末からチェコ語の擁護についての論文、わが国の文化の古い文献やわが民族の輝かしい過去にかんする重要な学問的研究を書く学者のサークルが生れた。しかしこれらの作品はほとんどがまだラテン語かドイツ語で書かれた。なぜなら古いチェコの文書語は低迷しており、その状態はチェコ語を蘇らせ、その語彙を新しい時代の要求に応えさせることを成し遂げるまで続いていたのである。それゆえにこの時代の学術活動はむしろアカデミックな性格のものであった。
 十八世紀の80年代からチェコ地域での最初の科学アカデミーである「チェコ王立学術協会」(もとは「私立知識人協会」)は重要な学問の中心点となった。その設立者の一人であるすぐれた鉱物学者イグナーツ・アントニーン・ボルンは最初のプラハの学術評論雑誌を創刊し、スロバキアにおいても活躍し、とくにカルパチア山系の地質学的調査に貢献した。

 <スロバキアの学術活動> スロバキアでは学術活動は学者の協会に集中した。バンスカー・ビストリツァでは1785年に「学術協会」が設立され、その会員のなかでもっとも重要なのはオンドレイ・プラヒー、ヤン・フルドリチュカ、ドブロフスキーの協力者ユライ・リバイである。1786年にトルナヴァを中心とする「スロバキア職人協会」設立された。
 1834年にはマルチン・ハムリャクの努力によってブディーンに最初の全民族的文化機関が誕生したが、この機関は福音派とカトリックの再興運動の知識人を連帯させた(スロバキアの言語と文学を愛する者の協会)。
 30年代の半ばからL.シュトゥールに指導される若い民族的知識人の主要拠点はヴラチスラヴァ・スロバカア研究所となった。この機関はチェコ、その他のスラヴの愛国者と活発に接触をもった。
 チェコ民族の古い歴史の最初の叙述を提出したのはフランティシェク・マルチン・ペルツルのチェコ語による「新年代記(ノヴァー・クロニカ)」であった。1793年にプラハ大学にチェコ語と文学の講座が設置され、彼はその最初の教授となった。ラテン語で書かれたユライ・パパーネクのスロバキア民族の歴史(1780)は民族再興の先覚者的また民族防衛的性格のものであった。

 <ヨゼフ・ドブロフスキー> 十八世紀から十九世紀への転換期における啓蒙的学問の最大の人物はヨゼル・ドブロウスキー(1753−1829)であった。彼はその著作
(いぜんとしてラテン語とドイツ語で書かれていた)によって新しいチェコ語の確固たる文法的基盤とスラヴ文学研究の基礎を築いた。プラハ大学の、のちにはウィーン大学の医学部教授ですぐれた医者のイジー・プロハースカ(1749−1820)は唯物論的視点からの生理学研究の先駆者であった。

 <新しい学校とチェコの博物館> 十九世紀の初めにプラハではチェコの文化生活を豊かにするその他の重要な機関が幾つか設立された。
 1806年にプラハに総合技術学校が開設された。この学校は以前からの技術学校に結合されたもので、ヨーロッパにおける最古の高等技術養成機関となった。ここの校長になったのはFr.J.ゲルストネルだった。1811年に中部ヨーロッパでは最初のプラハ音楽院が開設され、1818年にはチェコ(後の民族)博物館が設立され、しばしばチェコの学術、文化活動の特別重要な中心地となった。

 <ヨゼフ・ユングマン> 十九世紀の20年代に啓蒙的合理主義者と交替して現れた民族再興運動の若い世代の代表者のなかで指導的役割を演じたのはヨゼフ・ユングマン(1773−1847)であった。彼がほぼ40年の歳月を献身的に捧げた五巻からなる「チェコ−独辞典」は当時にあってかけがえのない労作であり、標準チェコ語の新しい形を定着させるために基本的意味をもっていた。

 <P.J.シャファジーク> スロバキアの学者パヴェル・ヨゼフ・シャファジーク(1795−1861)はプラハで活動していたが、彼の最も重要な著作 『スラヴ民族の古代的性格(Slovanske starozitnosti )』(1837)のなかで、古代スラヴ民族は他の大民族とならんでヨーロッパ文化の共同創作者の一員であったことをしめした。彼のライフワークはイフワークはスラヴ人とチェコ人の民族的誇りを強化するのに有意義な貢献をした。

 <ヤン・コラール> スラヴ民族の相互関係の思想の詩的代表者はヤン・コラール(1793−1852)だった。スケールの大きな情熱的叙事詩『スラヴの娘』(1824)はスラヴ民族の文化的共有性とヒューマニズムの理念を熱っぽく歌いあげ、同時代者にも若い世代にも強く訴えた。

 <F・パラーツキー> 十九世紀の20年代から偉大なる歴史家フランティシェク・パラーツキー(1798−1876)はすでに科学的な研究をはじめていた。彼の巨大な 『チェコおよびモラヴァにおけるチェコ民族の歴史』(1836年からドイツ語で、1848年からチェコ語で出版されはじめた)はその概念のゆえに、チェコ・ブルジョアジーの政治的擡頭を広範な理論的根拠づけたものとして意義がある。またチェコ歴史のもっとも輝かしい時代としてフス主義運動の時代の意義をはじめて評価している。パラーツキーは学問的かつあらゆる文化的活動の大きな抱擁力をもった組織者であったと同時に、チェコの学術機関誌「チェコ博物館雑誌」(1827)の創刊者であった。

 <自然科学> 新時代のチェコ語の自然科学、とくに植物学の学術用語の基礎を築いたのはプラハ大学の教授ヤン・スヴァトプルクとカレル・ボジヴォイのプレスロヴィー兄弟であった。スレスコのヴラチスラフ大学と、後にプラハ大学で活動した世界的に重要なチェコの生理学者でその時代の代表的人物はヤン・エヴァンゲリスタ・プルキニェ(1787−1869)である。イタリア出身の自由思想家の僧侶ベルナルド・ボルザーノ(1781−1848)は近代数学の発展に基本的意義を有する作品を残し、ヒューマニズム哲学はチェコ再興運動の若い世代に影響を与えた。

 <ロマン主義世代> ロマン主義世代の詩人のなかでフランティシェク・チェラコフスキー(1789−1852)はチェコとロシアの民衆歌謡の宝庫に注意の目を向けた。言語学者ヴァーツラフ・ハンカの周辺から1817−18年に 『王宮写本』(rukopis kralovedvorsky)と 『緑山写本』(rukopis zelenohorsky)が現れた。これらの写本は9世紀および13世紀に著された作品として出版され、ロマンティックな精神のなかでチェコ文化の古代性を証明し、それによって民族的自意識を目覚めさせるはずであった。1836年に詩 『マーイ』 が出版されたが、それはフランスの革命運動とポーランドの暴動の熱烈な支持者カレル・ヒネク・マーハ(1810−1836)の作品だった。

 <演劇と音楽> 演劇と音楽も目覚めつつある民族意識と民族感情に強く作用した。十八世紀80年代のプラハの民衆層のあいだでは、いわゆる「馬市場の芝居小屋」で演じられる単純で愛国的な劇が非常に人気を博していた。貴族たちはこの時代にはでやかな「スタヴォフスケー・ディヴァドロ」を建てた。農村地域では民族意識を覚醒させる大きな仕事を巡業劇団や民族再興運動の意識をもった人形師カチェイ・コペツキーが行っていた。

 <わが祖国はいずこ> 1826年、作曲家フランティシェク・シュクロウプのチェコ最初のオリジナル・オペラ『いかけ屋』(Dratenik)が上演されはじめた。劇作家のなかではヴァーツラフ・クリメント・クリッツペラとヨゼフ・カイエターン・ティル(1808−1856)がもっとも大衆のなかに浸透していた。Fr.シュクロウプがメロディーをつけた『わが祖国はいずこ』(Kde domov muj )という歌は1834年、ティルの劇 『靴屋の春祭り』(Fidlovacka)のなかではじめて歌われ、たちまち民族的な歌となり、のちにはチェコの国歌となった。 

 <タトラ山のうえに雷光がはしる> スロバキアの民衆は国歌として『タトラ山のうえに雷光がはしる』(Nad Tatrou sa blyska)選んだが、その熱烈な歌詞は民衆歌謡のメロディーに詩人のヤンコ・マトゥーシュカが1844年につけたものである。

 <造形芸術> 造形芸術における民族再興運動の使命についての関心は、文学や音楽芸術におけるよりも遅れてあらわれた。建築はまず最初に古代(いわゆるエンピール)を、ロマンティズムの時代にはゴチックを模倣したが、そのほとんどは外国の建築家の手になるものであった。この時代の絵画の性格はとくに大芸術家ヨゼフ・ナヴラーティル(1798−1865)に代表される。アントニーン・マヘクは肖像画においてチェコの市民やインテリ階級の社会を描いた。自然の美と平凡な古いプラハの生活の魅力を絵画的にまた素描的にとらえたのはアントニーン・マーネスである。彼はアマーリエ、クイダ、ヨゼフ・マーネスなどの画家たちの父である。彫刻家ヨゼフ・マリーンスキーは農民や下男や乞食の表情をとらえた。ヴァーツラフ・レヴィーはムニェルニークの近くのリビェホフの山の岩にチェコ民族的英雄たちの姿を彫りこんだ。

 スロバキア民族の覚醒者ヨゼフ・ボジェチェフ・クレメンス(1817−1883)とペテル・ボフーニュ(1822−1879)はスロバキア再興期絵画の古典となった。 文化は民族再興運動の時代には政治的努力の一部であった。スロバキア民族運動の実行者となったのはとくに知識人であった。スロバキア再興期の知識人階級はチェコの文化的再興運動とも協力した。



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