Y.ギルド制度の崩壊と手工業生産の発達――農奴性廃止を求める不自由民の戦い
(1)手工業的大量生産への移行
(2)絶対主義的中央集権主義
ハンガリーにたいする産業政策
(3)1775年の農奴の大暴動−奴隷制の廃止
(4)1650−1781年の時代における文化
1.手工業的大量生産への移行
<職種ギルドの解体> 30年戦争のあとの経済の破綻と隷属制の強化は、全ヨーロッパにおけると同様にわが国においても生産力の発展を鈍らせた。しかし、それにもかかわらず、十七世紀の半ば頃から、とくにそれに続く十八世紀において、産業構造に重大な変化が現れはじめた。それはギルドによる小規模生産が崩壊しつつあり、大規模手工業生産マニュファクチャー)が勃興しつつある時代であった。職種別小規模生産はすでに当時の社会需要に対応しきれなくなっていた。十八世紀の前半に、国の役所は諸ギルドの頑強な反発にもかかわらず、時代おくれになったギルド制度を新しい状況に適応させようと努めたものの、ほとんど成果は得られないままであった。細分化されたギルド制度の克服のためにギルド制度の改革が1738年に導入された。
<製造業の特徴> 十七世紀末以後、幾つかの生産部門において職種ギルド的小規模生産を大規模手工業生産に切替えようとする試みがなされてきた。大規模手工業生産は無限の数の労働者を雇うことができる。なぜならこのシステムは親方にたいし仕事場と徒弟の数を制限するギルドの規約に関係がなくなるからである。手工業生産において最高に重要な進歩は分業である。この方式こそまさに大きな数の労働者があってはじめて可能になり、またそれによって職種ギルドノ職人仕事よりも手工業生産のスピードを上昇させたのである。手工業生産においてはすでに幾つかの単純な水力機械を用いていた。しかし、ほとんどの仕事は依然として手でおこなわれていた(マニュファクチャーという言葉はここからきている。つまり手の仕事場である)。職種ギルドはとくに注文によってか、あるいはその土地の市場のために仕事をした。それにたいしマニュファクチャーでは品物は倉庫のために、それにまた遠方の地の市場のために生産された。
大規模手工業生産(マニュファクチャー)はまず最初に織物業や布加工業の分野で取り入れられた。だからといって、すべての生産工程が一つの場所に集中されていたわけではなかった。この段階へもち込まれるのは原則として、すでにある程度家内工業で製造された半製品(とくに紡績糸、ときには同じく未加工の布もの)であった。この半製品がさらに織り、染め、ウールの搗き晒し、その他によって加工されるのである。後になって紡績機械が発明され、導入されるときまで、糸は家内工業の糸紡ぎの男女が紡いだのであり、その大部分は、とくに山間地の、自分の土地ももたぬ貧困層であった。大規模手工業生産には運送システムも結合されていた。
チェコ国内ではマニュファクチャーの工場は都会よりは原材料、亜麻、羊毛、麻大などが大量に手に入り、エネルギー源----川の流れや薪----のある農村地帯や貴族の大農園に設置された。これらの工場を建てたのは最初の十年間はそのほとんどが封建領主たちだった。それというのも彼らは自分の領地の農奴たちのなかから必要な労働力を十分調達できたからである。そのあとになって、しゅとして農奴制が廃止になって、マニュファクチャー業界にブルジョアシーを形成する階層のものも参加してきた。
<初期資本主義生産関係の> マニュファクチャーにおける生産関係は職種ギルド制における場合とまったく異なっている。職人的小規模生産では職種のミストル(親方)は原則として自分も職人や徒弟と一緒に仕事場で働いた。マニュファクチャーの所有者----対建貴族、後にほ資本主義的企業家は自身では生産作業のなかでは助かず、労働者の仕事からはずれて生きた。こうして大規模工業生産の第一段階であるマニュファクチャーの時代に、生産手段の所有者と賃金生産者、つまり労働者との間の資本主義的関係が形成されはじめていたのである。こうしてマニュファクチャーは農奴制の廃止後大いに発展し、より完成された機械の導入によって大工場に変貌する時代に入る。
<最も古いマニュファクチャー> 最も古い織物マニュファクチャーはモラヴァではスラフコフ・ウ・プルナと、クジジャノフ・ウ・ヴェルケーホ・メジジーツィー、チェコ地方ではオセク(1697)とホルニー・リトヴィーノフ・ウ・ドフツォヴァとグデイニュ・ウ・ドマジュリッツ。スロバキアでほフルピツィー・ナ・ジトネーム・オストロヴィエ(1666)にある。織物の大規模生産のほかにマニュファクチャーの性格をもつのは製鉄、鉄加工、ガラス、製紙といった業種である。十八世紀になるとマニュファクチャーはチェコ領内に大規模に設立されるようになる。
2.絶対主義的中央集権主義
くスレスコ地方の喪失> 十八世紀の40年代のはじめに、ハプスプルク専制体制は王朝の危機に見舞われる。皇帝カレル六世は男の跡継ぎを残さずに没したので、王位の継承者は娘のマリエ・テレジエ(1740--1780)になった。周辺のドイツ領、プロシャ、バヴォルスコ、サスコなどはスペインやフランスとともに、ハブスプルクの領土内では女系の子孫に世襲権はみとめられないという理由のもとに「オーストリア継承権」にたいする要求をかかげて名乗りを上げ、オーストリア連合国の分裂についての協約を結んだ。彼らの主な攻撃の目的はチェコの豊かな土地であった。
マリエ・テレジエ治世の初期に、プロシヤ王フリードリッヒニ世はほとんどすべてのスレスコとタラッツコを占鎖することに成功した。フランス・−パパリア連合軍はプラハに打ち立てられたパパリア政府のプラハを一時承認さえし、またほとんど半数の貴族がそれに追従した。ハブスプルク軍は1743年にバリア軍勢をチェコ領土内から放逐することに成功したものの、第二次スレスコ戦争(1744--45)においてスレスコとクラッツコを取戻すことはできなかった。
スレルコの損失はハブスプルク専制体制にとって重い傷となった。そこは人口も多く、経済的にも繁栄しており、発達した農業と産業、とくに織物業をもっていた。スレスコはオーストリア領土を北と東の市場とも結びつけていた。それゆえウィーン政府はスレスコ奪還の意図を放棄してはいなかったのである。フランスとスエーデンとロシアを味方に引き入れるというハプスブルク外交が成功したとき、ハブスプルク政府は1756--1763年にわたて、いわゆる七年戦争に没頭した。プロシャ軍はチェコに侵攻し、プラハを制圧
したが、コリーン近郊の戦闘で敗北した。しかしこのときにもハブスプルク車はまたもやスレスコ奪遵に失敗した。こうしてこの土地はもはや永続的にプロシャの支配下にとどまることになった。
<マリエ・テレジエ時代における行政制度の変化> 長年にわたる武力抗争と次の攻撃にたいする危険は行政制度改革の実行を早めた。この改革によってチェコとハンガリーとオーストリアの国の単なる連合国であるかわりに絶対中央集権的専制体制の確立を目指すハプスブルク王朝の長年の努力が頂点に達したのであった。
行政制度の改革は徴税体系の変更にはじまった。なぜなら大規模な常備軍の維持には高額の経費を必要とするからである。いかなる土地といえども課税をまぬがれることのないように、領地民の土地の全記録(いわゆるテレジエの土地台帳)と領主たちの土地と収入の全記録までもが整備された。微税と徴兵の目的のために1752年、初めての人口調査がわが国で実施された。チェコの領地内には当時300万人以上の住民がいた。そのうちチェコ人そのものは210万人であった。スロバキアには80年代に約200万人の住民が住んでいた。
1749年、ウィーンに政治、税務、裁判にかんするチェコとオーストリア共通の国家中央行政機関が設置され、それによって行政機構改革は完成した。これによってチェコの国家的独立性を、これまで形式的になりと示してきたわずかばかり残っていた外面的な印さえも排除されてしまった。同時にこのときまでわが国の貴族の手中にあった地方や辺境の役所までが国家化され、官僚化された。
<ハンガリー貴族の抵抗> ハンガリーの領内ではハプスブルク王朝も帝国の西半分で実現したようなところまで中央集権化を実現することはできなかった。とくにハンガリー貴族にたいする課税についてのウィーン政府の努力は頑強な抵抗に出会った。鋭い反貴族的著作において、徴税による領民の一方的な搾取を断罪したスロバキアの啓蒙家フランティシェク・コラールは、貴族や教会の所有財産にも課税できる国家の権利を論証した。披はハンガリーの議会で反逆者と宣告され、彼の著作ほハンガリー内では没収された。
<学校制度の改革> きわめて重要なのは全ハプスブルク専制帝国内での学校制度の改革であった。すべての教区に基本的三科目---読み、書き、算術---を習う小学校を設置しなければならないというのである。大きな都市では高等(hlavni)学校が、地域行政機関の設置の町では教師の養成のための師範(normalni)学校が生れた。しかし高い段階の学校では授業用語はチェコの領土内でもすでにドイツ語であった。五年制のギムナジウムはとくに若い僧職者の教育にたずさわった。そしてそれらは原則として大部分の高等教育の学校と同様にエズイット派の手中にあった。エズイット派の解体(1773)のあとになって、やっと学校制度のなかに進歩的内容の教育が浸透した。
行政機構と教育制度の改革は次の経済発展とハプスブルク専制体制の権力的地位の強化の前提となるはずであった。
<工業生産> ウィーン政府は国家財政の新しい収入港を国内産業の保護に見出だした。外国製品の輸入を禁じ、または高い関税をかけ、企業家には融資し、ある種の物品の生産の特許権をを与えた。新しい生産技術の知識をもった専門家がチェコの国内に招聘された。
国は道路建設、河川の航行可能化を組織的におこない、統一的な貨幣、度量衡の制度を導入し、紡績、織物職人養成学校を設立し、生産のギルド的偏狭さを排除しつずけ、いくつかのギルドはつぶされた。これまで商業発展の主な障害となっていたチェコとオーストリアとの間の関税ほ廃止された。
最も重要な産業部門はチェコの領地では依然として織物業であった。織物業の他では外国市場にたいしてはチェコ・グラス(クリスタル)がトップの位置を占めていた。
生産企業においてはこの時代に貴族階級とともに市民階級も参入してきた。しかし市民階級のマニュファクチャーは大部分が自分の原材料、労働力、資本の不足から破産を繰り返していた。抜きんでた資本主義的ブルジョアジーの構成要素の一つは、かつての金持ちの職人や地方役人、それに地主農民、運送業者、その他の要因から形成されている豊かな商人階級であった。
<マニュファクチャーにおける労働者の搾取> 国内の紡績労働者とマニュファクチャーの労働者の数は十八世紀の後半に著しく増大した。農村地方の何万人ものお人よしの紡績労働者が仲買人(ファクトル)のために働き、その思惑どうりに働かされていた。マニュファクチャーにおいて、彼らは何よりも妻や子供たちのための糧を見つけたのだった。子供にたいする搾取にはとくに際限がなかった。まだ成長もしきれていない年ごろからひどい条件下に日に12--16時間も働くことを強制され,、しばしば、とくに孤児は非衛生的な環境に、まさに工場のなかに住まわせられ、医者の診察はおろか、学校に通うことさえできなかった。もし疲れて仕事中に居眠りでもしようものなら、体罰を課せられるのが常だった。こうして彼らは栄養不足と精神的にも肉体的にも完全に見放された状態のなかで成長したのだ。
マニュファクチャーでの労働者も家内での労働者もその賃金ほわずかなもので、とても最低必要な生活の程を得るのにも満たなかった。国の役所は労働者には興味がなかった。彼らは労働者の搾取においては企業家に自由裁量権を与えていた。ただとくに目にあまる場合にかぎって、国家は児童福祉のためた干渉した。なぜなら、子供たちは国家が必要とする未来の軍人と見ていたからである。
<自由民労働力の不足> 工業生産がフル回転にまで達するのを妨げているのは自由賃金労働者の不足であった。農奴制が労働者集団を大封建領主の土地につなぎとめているかぎり、大規模工業生産が大きく発展するのは不可能であった。
ハンガリーにたいする産業政策
ウィーン政府はハンガリーにたいしては関税障壁を残したままだった。このことは専制 王国の東半分にたいして国家が異なる経済政策を取っていたことを示している。一方、チ ェコとオーストリアの領地では手工業的大規模生産を支持していたのにたいして、スロバキアとその他のハンガリーでほ逆に抑制していた。
要するにハンガリーの諸領地はチェコ とオーストリアの産業に原料を供給し、そしノて安い農業生産物と引替えに専制王国の西の半分から工業生産物を受け入れることになっていた。
<スロバキアにおけるマニュファクチャー時代> スロバキアはその発展した家内産業(とくに十八世紀の半ばからの織物業)によってハ ンガリーの産業基盤となっていた。そして工業生産のための好条件−一普瀕と土地不所有 者の数の増加による十分な労働力…をもっていた。十九世紀20年代後半からスロバキ アに織物マニュファクチャーが出現してきた。例えば、バンスカー・ビストリツェ(1725年設立)とラドヴァニュのマニュファクチャーである。シャシュティーニュの捺染工場(1736年設立)とホリーチエのマジョリカ焼きと磁器の工場(1743年設立)もハプスブルク専制国家のなかで重要なものに入る。
重要といえばチェクリース(現在のベルノラーコヴォ)の捺染工場もある。しかし18世紀の70年代以後のウィーン政府の好ましくない政策のゆえに、またウィーンにたいするハンガリー貴族の反体制的な姿勢のおかげで、スロバキアはチェコ地方とくらぺてマニュファクチャー生産において後れをとってしまった。
十八世紀の半ばにチェコめ顔地で、とくにスロバキア地方で鉱物の採掘が息を吹き返した。スロバキアの技術頓十八世紀の前半には国際的にも適用する幾つかのスロバキア人の発明を生んだ。そのなかで最も注目に値するのは、立坑の底にたまった水を吸い上げるヨゼフ・カレル・ヘルの水圧式の排水ポンプであった。1763年にはナンスカー・シュチアヴニッアに鉱山技師養成校「バンスカー・アカデミエ」が設立された。この種の学校としては世界で最初であり、そのあと直ちに全中部ヨーロッパで有名になった。バンスカー・シュチアヴニッアにほ十八世紀の終わりには2万人以上の住民がいた。そしてハンガリーの五指に入る重要な町になっていた。
3.1775年の農奴の大暴動 農奴制の廃止
農奴制は農業生産の発展にもブレーキとなってきた。人口の増大と常備軍の保有の必要は青果、食肉製品の増産を要求した。十八世紀の後半から種まき栽培の土地がひろがり、新しい、ないしはこれまでは栽培されていなかった果物、じゃがいも、クローバー、かぶ、その他が栽培されるようになった。布地にたいする需要の増大とともに産業植物、麻、亜麻の栽培が、とくにチェコ北部および東北地方にひろがった。
<農村住民の貧困> 広い範囲の農村集団の生活条件は依然とし極めて惨めな状態にとどまっていた。長い年月の戦争、凶作、激しさを増す税金と苦役は多くの微細な農奴を極貧と破滅へと導いた。農奴集団は最悪の搾取状態を排除するために闘争という手段を選ばざるをえないところに追いやられた。地域的な農奴の暴動が頻発したが、決まって残酷な刑罰でおわった。こうして1768年、ドブジーシュの領地では反逆者の何人かは皮の鞭で死ぬまで打ちすえられ、その他のものは拷問を受けた。また農奴の家族は酷寒の最中でも領主の山で薪を拾うことを禁じられた。
チェコやスロバキアの他の領地でも状況は同じであった。十八世紀の70年代の初めには農村民衆の貧困は際限もないものとなり、当時の破滅的な不作のあとには集団的な餓死者を出し、その結果チェコではおよそ住民の十分の一が犠牲となって死んだ。
<農村の社会的階層化> しかし、搾取、抑圧、貧困はあらゆる農村の住民に同じ程度に加えられたわけではない。十八世紀には農村の社会的階層化が著しく進んだ。どんな村にも、労役義務の重圧を直接感じずにす裕福農民の薄い層 それというのも自分の代わ
りに賃金を払っている小作人を出せばいいから と、零細な経営規模で日々の糧にも困
るような、大勢の中小農民の層とが共存した。十八世紀の後半には農村の貧困層、土地なし百姓の数が急速に増大し、貧困と搾取は彼らの上に最も重くのしかかった。この社会層はその位置付けからいって、まだ数的には多くないとはいえ、都市でいま発生しつつある産業プロレタリアートに近かった。農村貧困者層は最も積極的な革命的要素となり、1775年の農奴の大蜂起に、かなりの規模で参加した。
<1775年の農奴の大蜂起> この蜂起は1775年の五月、毎年チェコの各地から農民がプラハに集まってくる聖ヤンの巡礼の頃に起るはずだった。労役義務の軽減を求めるために準備された運動の中心はナーホト領リティニェ郡だった。ここで治安判事のアントニーン・ニーヴルトが秘密の「農民政府」(グベルノ)を組織した。ナーホツコのチェコ人とドイツ人の農民によって構成されたこの「農民政府」は東北チェコの他の領地の農民をも運動に引き入れた。しかし、農奴たちは、女帝はもうとっくに苦役を廃止するとの「黄金勅令」を出しているのだが貴族がそれを隠しているらしいという嘘の報告に興奮して、取り決めの期限よりも早く行動を開始してしまった。こうして1775年の一月か二月には暴動は始まり農奴の群れはもはや押しとどめることもできぬ幾つかの流れとなってとくに東北と北チェコ地方からプラハへ向かって行進を始めたのだった。道々貴族の館を襲い、拷問台やさらし台を壊し、領主の役人たちに労役と農奴身分の廃止を強要した。彼らの掲げる旗のぼりには「自由を、さもなくば死を」とか「黄金の時代を」というスローガンが書かれていた。
不完全な組織、劣った装備、不統一な指揮が災いしてこの反乱も鎮圧された。反乱者たちの一部はフルメッツ・ナト・ツィドリノウの近くで皇帝軍に打ち負かされた。幾つかの群はプラハの目のまえまで到達したが軍隊にちりぢりに追い払われた。反逆者の七名が絞首刑の宣告を受け、それ以外の多くのものが牢屋か、強制労働に送られた。
<1775年の苦役勅令> 1775年の蜂起によって封建的抑圧と搾取に反抗する不自由農民の戦いは頂点に達する。それは1680年の大蜂起のとき以来、農民による最大の階級闘争であった。反抗が粉砕された後でさえも1775年の刈入れ時にはチェコやモラヴァの多くの領地では労役に反対する集団的抵抗が起こったため、新しい労役勅令が発布され、これまでの領主の完全な恣意は制限された。また勅令によって農民の貧富の度合いにしたかって労役義務を査定する一定のガイドラインも示されたし、労役の期間も調停されたものの、農奴の身分そのものにはなんら変りはなかった。それにもかかわらず、この勅令も政府が農奴の生活を改善し、税を払い軍役にも十分耐えられるようになるようにしようとする他の試みと同様に貴族たちの抵抗にぶっつかった。
<スロバキアにおける土地住民台帳勅令(1767)> ハンガリーにおいても農奴たちは労役義務の改善を要求した。1767年、マリエ・テレジエはハンガリーにたいしていわゆる土地住民台帳勅令を発布した。しかしこの勅令はよほどの極端な場合にのみ限られていた。改革の実施は貴族たちの手中にあり、彼らは自分の利益のために多くの条例を握りつぶしていた。だから、この勅令の発布のあともスロバキアでは民衆の反封建的抵抗は止まることがなかった。
<農奴制の廃止(1781)> 十八世紀70年代の終りには多くの貴族階級の人々にとって農奴制の廃止以外に農業の発展も、産業の発展もありえないということが明らかになってきた。資本主義的利益の新しい可能性への展望は、一部の貴族たちに封建的搾取という克服された方法の排除に妥協する必要があるのだという認識に導いた。この状況のなかで、マリエ・テレジエの没後、彼女の息子皇帝ヨゼフ二世(1780−1790)が農奴制の廃止にとりかかった。
1781年の勅令で封建領主にたいする農奴の厳しい個人的従属は領民による緩やかな従属に変えられた。もし農民が他の領地へ引越ししたいと思ったとしても、今後はもう領主の了解を得る義務はなくなった。封建領主たちは領民たちの結婚や、彼らの子供たちが職業の見習や勉強に他の土地へ出かけるのを禁ずる権利を失ってしまった。
<スロバキアにおける農奴制の廃止(1785)> スロバキアとハンガリーでは1785年の勅令によって農奴制は廃止された。しかし幾つかの地方では搾取の農奴制的形式は十九世紀の半ばまで維持された。
<農奴制廃止の意義> 農奴制廃止の勅令はもちろん、それだけで封建的抑圧を完全に排除したことを意味するものではない。農村の人々はその後も労役につかねばならなかったし、農奴制の廃止の後も領主の行政や警察や裁判所の権力の下に置かれていた。
農奴制の廃止はその後のはるかに広範な社会的力の組替えのための条件を作った。農村の人々にとって職人仕事や手工業的仕事についたり、まれには高等教育をさえ受けるチャンスはこれまでに比べてはるかに多くなった。農村で生計を立てられない貧困層は賃金仕事を求めて都市へ、そして大規模産業に出ていった。都市における無職の貧困層の余剰分を集めることによって労働力市場が出現した。それは資本主義的産業の発展にとっての不可欠な条件の一つであった。主に農奴の労働に基づいていた生き残りの封建的生産関係の代わりに、新しい資本主義的生産関係が登場した。
農村から都市への住民の流入は、次の十年間に都市におけるチェコとスロバキアの活力を強めた。新しい社会階級、プロレタリアとブルジョアジーの成長は民族文化の再生と新時代のチェコとスロバキア民族形成のための基本的前提を築いた。
4.1650−1781年の時代における文化
<「白山」後時代における文学の没落> 「白山」後、市民的知識人の最良の代表者の追放による国外脱出によってチェコ文学言語と民族文学の没落が始まった。支配階級の言葉はドイツ語だったが、その一方でチェコ語は価値の低い言葉として農奴や都市貧民層の話し言葉としてのみ残った。異端の書との疑いのあるあらゆる書物 だから、それは前
「白山」時代のほとんどすべての種類の文学作品であった は禁じられ、公衆の面前で
焼かれた。そしてそれらの本の持主は異端者として追及された。この行為によって悪名を馳せたのはエズイット僧のアントニーン・コニアーシュであり、彼自身3万以上の「異端」の書物を焼いたと豪語していた。
抹殺された高価な作品の代りにチェコの民衆に与えられたものは無価値な時代おくれの印刷物で、その主な任務はいかなる反抗の表示も地獄の拷問に会うということへの恐怖と屈従という精神的な退嬰性と無自覚のなかに広い範囲の大衆層を引きとどめておくことであった。カトリック僧職者階級のなかの自由思想と愛国的感情表明のわずかばかりのケースも教会ヒエラルキーによって沈黙を強いられた。例えば『スラブ語、とくにチェコ語の擁護』は出版が許されなかった。この書は十七世紀の後半にエズイットの僧ボフスラフ・バルビーンによってラテン語で書かれたものである。宗教的迫害が最高潮に達した十八世紀の前半の「暗黒時代(テムノ)」にエズイット派の「バロックの聖者」ヤン・ポムツキー信仰(カルト)が広がった。それは民衆の心のなかからヤン・フスの記憶を拭い去るはずであった。
<民衆の文学作品> こうして、上流の社会階級がとくに外国人や外国かぶれのものたちによって成り立っており、彼らがイタリアやスペイン、フランスの貴族たちの生活様式にうつつをぬかしていた時代に、ただ働く民衆だけがあらゆる追及にもかかわらず、民族の言葉や抑圧者にたいする不屈の精神という古い伝統を自分たちの歌や伝説や民衆劇の形で世代から世代へと伝えてきた。
<スロバキアにおける文化状況> カトリックの反革命的努力を貴族の反ハプスブルク闘争が防止してきたスロバキアでは、非カトリックのスロバキア人やチェコ人は何人かのカルヴィン派の貴族の領地に庇護を見出だした。チェコ人亡命者がなした働きは、とくにスロバキアの福音書派の宗教文学(文書)のなかに用いられた言語として、チェコ語のその後の発展に影響を与えたことである(いわゆる聖書語)。ハンガリーにおけるカトリック反革命の代表者、エズイットの大司教ペットル・パーズマーニは1635年にロルナヴァに大学を設立した。しかしこの学校は年を経るにしたがって大勢の医者や法律家を育てることに成功し、そこから進歩的な自然科学的認識が広まっていった。コシツェにもまた1675年に不完全ながら大学ができた。1667年からはプロテスタントの高等教育の学校がプレショフにできた(いわゆる「コレギウム」である)。
「白山後」期におけるわが国の造形芸術の分野ではバロック様式が勝利を収めた。この様式は南ヨーロッパのカトリックの国、とくにイタリアから反改革の流れとともにわが国に浸透してきた。静かで、古典的なものを志向したルネサンス様式との違って、バロック様式は、見る者をして驚嘆させ、圧倒せずにはおかない劇的身振りと超現世的幻想による感情の高揚を表現につとめた。多くの教会、修道院、礼拝堂、群像彫刻、それにけばけばしい貴族の邸宅もがバロック様式で建てられた。例えば、プラハのマラー・ストラナの聖ミクラーシュ寺院、フラチャニのチェルニーンスキー宮殿、カレル橋の彫像、ヤロムニェジツェ・ウ・スヴィタフの館、ブラチスラヴァの三連の教会、トルナヴァの大学と教会などである。
この時代の大多数の芸術作品はわが国に帰化した外国の芸術家の作品である。それらのなかで最も注目に値する建築作品を創造したのはカルロ・ルラゴとクリシュトフとキリアーン・ディーンツェンホーフェル父子である。彫刻の最高の作品はマチアーシュ・ブラウン、フェルヂナンド・マクシミリアーン・ブロコッフとイグナーツ・プラッツェラの仕事場から生れた。
ブラチスラヴァでは十八世紀の前半にすぐれたウィーンの彫刻家ジョージ・ラファエル・ドンネル(1728−39)が活躍していた。彼はスロバキアでバロック彫刻の頂点を築いた。
十七世紀のチェコの画家のなかでリアリスティックなポートレートの工匠の首席を占めるのはカレル・シュクレータ(1610−1674)である。十八世紀の前半におけるバロックの最盛期の時代にはペットル・ブランドルとヴァーツラフ・ヴァヴジネッツ・ライネルがすぐれていた。後期バロック、いわゆるロココの時代にノベルト・グルントが風俗画(ジャーンル)の領域で市民階級や無名の人々を描いた。多くのすぐれた芸術家たちが自分の非カトリックの信仰のために外国での活動を余儀なくされた。すぐれた肖像画家ヤン・クペツキー(1667−1740)は多くのヨーロッパの国々で名声を馳せた。
<チェコ音楽> バロック時代には音楽文化がゆたかに発展した。この時代のチェコ音楽を有名にしたのはフランティシェク・ミーチャ、ボフスラフ・チェルノホルスキー、ヤン・スタミッツ、フランティシェク・クサヴェル・リヒテル、フランティシェク・ブリクシ、ヤンとイジー・ベンダ、ヨゼフ・ミスリヴェチェク、ヴォイチェフ・イーロヴェッツ、その他である。彼らのなかの何人かは長年にわたって外国で活躍した。ドイツの貴族の宮廷やイタリアで、ヨーロッパ音楽の発展に本質的に影響を与えた。
<学問的研究> 十七世紀の学問的研究者たちのなかで、チェコ出身の医者で物理学者ヤン・マルクス・マルツィとプレショフの福音書派の学校で働いたスロバキアの哲学者イザーク・ツァヴァンが注目をひいた。彼の原子研究のなかには唯物論てき世界観への幾つかの傾向が見られる。十八世紀の前半に活躍したスロバキアの学者ヤーン・バルタザル・マギンとマチェイ・ベルの歴史的、言語学的思索のなかにははっきりと民族意識が宣言されている。(マギンの「アポロギエ・スロヴァークー」)
十八世紀の後半にはすでに最初の学問的組織と経済的組織が生れた。それらの組織は啓蒙主義的合理主義の精神をもって、とくに自然科学の研究に注目の目を向けた。この時代の学者では鉱物学者のイグナーツ・ボルン、数学者で物理学者のヤン・テサーネク、また歴史家のゲラシウス・ドブネルが抜きんでていた。チェコの学者プロコプ・ディヴィシュは1754年に避雷針を発明した。
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