V.白山後期におけるチェコ及びスロバキア民族の隷属化



 (1)チェコの反ハプスブルク蜂起(1618−1620)       
 (2)30年戦争とその結果                     
 (3)30年戦争後の階級闘争                    
   新しい反ハプスブルク闘争とスロヴァキアにおける階級闘争    



 1.チェコの反ハプスブルグ蜂起(1618−1620)


 <反ハプスブルク蜂起> 長年にわたる経済的かつ政治的緊張は、1618年に、武力的抗争へと帰結した。そのきっかけとなったのは、非カトリック貴族のハプスブルグ−聖職者側にたいする蜂起だった。1618年5月23日、百人以上のチェコ人貴族が王国執務室に侵入し、ハプスブルク−カトリック陣営の憎い二人の代表者、王権の地域執行者ヴィレーム・スラヴァタとヤロスラフ・ス・マルチニッツをプラハ城の窓から放り出した(いわゆる、デフェンストラツェ)。30人の監督からなる身分代表政府が立てられた。この政府はエズイット派を国から追放し、彼らの財産を没収し、ハプスブルク王朝にたいする防衛抵抗軍を組織した。これが、いわゆるチェコ戦争の始まりであり、同時に、三十年戦争へと発展していくヨーロッパ権力闘争にたいするシグナルでもあった。
 しかし、反ハプスブルク抵抗運動は、そもそもそれが起こるもととなった搾取階級の陣営内部に多くの矛盾を抱えていたことによって弱められた。貴族の大荘園領主は相互に国内の権力、土地、行政権をめぐって争っており、二つの陣営に分裂していた。その一方は反ハプスブルク、非カトリックの多数派と、ハプスブルク王朝やローマ教会と結びついた少数派である。領主階級の所属者のなかには両陣営の間を揺れ動いているか、または、表向きだけ抵抗派に加わっていた。反ハプスブルク陣営では、領主階級と貧困化した騎士階級とのあいだに利害の相違があり、貴族階級と王の都市の市民とのあいだにも階級的対立があった。

 <働く民衆と反ハプスブルク闘争> 地方の隷属民や都市の貧民層も蜂起の初期には多くの場所で、ハプスブルグの軍隊や教会的反動の拠点にたいする攻撃に積極的に加わっていた。民衆のなかに改めてフス主義の伝統が蘇ったのだ。しかし、民衆層は、自分たちの敵や搾取者が単にハプスブルク−カトリック陣営に属している者だけでなく、反ハプスブルグ闘争に参加しているプロテスタント封建領主たちでもあることを、多くの場合、意識していた。そんなわけで、チェコの農民もドイツの農民も協力して、カトリックであろうが、プロテスタントであろうが自分たちのチェコやドイツの搾取者貴族たちに向かって進むことがしばしば起こったのである。 この抵抗運動を外国の軍事的介入にたいする全民族的戦争へ転換することを拒んだものは、貴族の利己的階級の利害であった。抵抗の遂行はチェコ民衆の動員にではなく、むしろ雇兵や、外国の同盟者、特にドイツのプロテスタント貴族の「ウニエ」の援助に希望をつないでいた。ハプスブルク−カトリック側は背後にハプスブルク王家のスペイン分家の巨大な権力や法王庁、ドイツ−カトリック連合の後ろ楯をもっていた。

 <フリードリッヒ・ファルツキー> 1619年7月、プラハでチェコ国に属するすべての国土の身分代表議会で、特権的身分層のおかげで王権が著しく制限された。同時に、ハプスブルグ家はチェコ王位から下ろされ、ドイツのプロテスタント貴族の代表フリードリッヒ・ファルツキー公がチェコ王に選ばれた。彼のイギリス王との近親関係は反抗的身分派に、イギリスが反ハプスブルク戦争に参加してくるだろうという期待を抱かせた。しかし、イギリスもオランダも期待された援軍を送ってこなかったし、ドイツのプロテスタント貴族もフリードリッヒ・ファルツキーを危機の状況のなかで見殺しにした。彼らのなかの一人、ドイツ・ルーテル派の指導者、サクソンの選帝侯ヤン・イジーは、そのときまでチェコ国の構成部分であった両ルジツェ地方を裏切りの報酬として約束されたとき、ハプスブルク側に寝返った。スロバキアにおける反ハアプスブルク蜂起の援助はセドミフラーツコの領主ガブリエル・ベトレンの指導されることになったが、話がまとまるのがあまりにも遅く、ほとんどチェコ戦争は終わりに近かった。チェコの身分代表派の反乱軍は、実際には、この援助をほとんど利用することができなかった。というのも、彼らはベトレンの軍部隊のための報酬を払えなかったからである。

 <白山の戦闘(1620)> 決戦は1620年11月8日、プラハの近くの「白山」 Bila Hora で行われた。二時間の戦闘でチェコ身分代表派軍は敗走し、皇帝軍はその後、なんの抵抗もなくプラハを占拠した。プラハの陥落は実質的に降伏を意味していた。「一冬王」フリードリッヒ・ファルツキーと反乱の首謀者たちはチェコから逃亡した。土地は勝者に無条件で分配された。
 敗戦の経済的、社会的、民族的、文化的結果はすべてのチェコ民衆を襲った。ハプスブルグ家は一握りのカトリック領主貴族とともに、民衆を何百年の奴隷的状態に投げ込む口実として利用した。

 <反乱参加者の処罰> 1621年の初め、反乱の主要な参加者は、国内にとどまっていた限り、逮捕され、その財産は没収された。1621年6月12日、チェコ人とドイツ人の反乱代表者はプラハの旧市街広場で処刑された。それは3人の貴族、7人の騎士、17人の市民だった。彼らのなかにはチェコの政治的、文化的生活でのすぐれた人物がいた。特に、ヴァーツラフ・ブドヴェッツ・ス・ブドヴァ、ヤーヒム・オンドジェイ・シュリク、クリシュトフ・ハラント・ス・ポルジッツ、それに当時、カレル大学の学長であったスロバキアの医者ヤン・イェセンスキーが含まれていた。財産の没収は反乱に実際に参加した者も、参加したと思われた者もすべてを襲った。三十年戦争の間に没収された土地はわが国の領土のはとんど四分の三に及んだ。

 <国家財政の破綻> 代表的なカトリックの上級の貴族の何人かと、外国の高利貸しとが共謀して、当時、大掛りな通過の詐欺を行ない、それによって大儲けをした。彼らのなかには、地方総督のカレル・ス・リヒテンシュテイナ、それに後の皇帝軍の将軍アルブレヒト・ス・ヴァルトシュテイナもいた。価値を落とした、いわゆる「長い硬貨」 dlouha mince の鋳造により生活用品の価格の膨大な上昇(穀物の値段はその当時4000% まで高騰した)と異常なインフレを呼び起こし、結局、1622−1623年には国家財政の完全な破産に導いた。

 <強制的再カトリック化> 経済の破綻とともに、政治的、民族的、文化的抑圧も強まった。ハプスブルグ−聖職者反動勢力は、軍事的勝利がチェコ民族のイデオロギー的隷属化によって仕上げをされるように努力した。チェコ民族はカトリック化され、改めてローマ教会の従属下に移行させるべきであった。プロテルタントの説教師は国から追放され、エズイット派が軍部隊の援助のもとにチェコの民衆を強引にカトリックへ改宗させ始めた。1627年の法令により、特権的身分に属する者で、一定の期間のあいだにカトリックの信仰へ改宗しないものは追放された。隷属領民は移転を許されなかったから、密かに隣国へ逃げた。1651年になってもカトリック派へ改宗したものは、チェコ住民の五分の一にも満たなかったので、いわゆる反改革委員会が設置されて、エズイット派主導のもとに、隠れ異端にたいしてさらに厳しい圧力を加えた。

 <土地改革法> 王権と大荘園主−教会反動勢力の勝利は、いわゆる土地改革法という新しい制度によって完璧となる(チェコには1627年、モラヴァでは1628年施行)。その法律の基本原理は、チェコ民族が「忌わしき反逆により」自分たちの権利と自由をすべて失ったということである。チェコの王位はハプスブルグ王家の世襲となることが宣言された。国会のあらゆる決定は王侯とカトリックの僧侶たちの手に落ち、これれらの僧侶たちはふたたび前フス主義時代と同様の、最も重要な「高位聖職者身分」となったのである。騎士階級と王の都市の代表者たちは、政治的生活からほとんど締め出されてしまった。カトリック派はわが国の唯一の公認の宗教として宣言された。ドイツ語はチェコ語と並んで同等の公用語となり、チェコの国の支配権は完全にウィーンへ移された。これらすべての処置によりチェコの王位の支配する国土は、オーストリーの土地にたいする厳しい従属関係のもとに置かれたのだった。


 2.30年戦争とその結果

 <その後の軍事行動> チェコの反乱制圧後も軍事行動は、特に、ハプスブルグ家統治領内でチェコの富裕貴族アルブレヒト・ス・ヴァルトシュテイナが雇兵の大部隊によって号令しているドイツ領域内で継続された。戦闘は何度もチェコ領内にも持ち込まれてきて、両軍陣営の雇兵たちにひどく蹂躙された。かけがえのない価値のある芸術記念碑が数多くわが国から外国に運び出された。

 <30年戦争期間中の農民蜂起> 30年戦争のほとんど全期間にわたって、民衆層こそが、白山の封建・教会聖職派の勝利にたいするチェコ民族の不従属の実質的代表者だった。封建領主にたいして、また雇兵軍にたいしての反抗の暴動が起こった。いくつかの領地では、土地の民衆は攻撃によって封建領主の館や修道院や司祭館を占領して、牢屋を開き、反乱者を解放し、領主を追放した。
 こうして北モラヴァでは、厳しい報復処置にもかかわらず、ヴァラッシュスコ地方の農民たちはほぼ30年戦争の終わりまで、反乱を続けていた。1625年にはアルブレヒト・ス・ヴァルトシュテイナの農奴が反乱に立ちあがり、十分な武装と大砲まで備えた優勢な軍隊に半年以上ものあいだもちこたえた。1627年にはコウジムスコとチャースラフスコに、1628年にはフラデツコに、闘争的フス主義の伝統が広範な民衆蜂起のなかに蘇った。

 <ウェストファリア平和会議(1648)> 三十年戦争は1648年、いわゆる「ブェストファールスキーの平和」で終わった。少なくとも、平和会議の際にはチェコ民族の状況にたいする配慮が払われるだろうという期待は満たされなかった。ヨーロッパの列強国は、チェコ民族の代表の参加もなしに、その民族の運命にたいする最低の考慮もなしに、自分たちの間だけで合意しあった。

 <外国の支配> 「ウェストファリア平和」はハプスブルク王朝に絶対中央集権国家の建設への次の一歩を踏み出すことを可能にした。支配権はこの時代、主に、三十念戦争により途方もなく強大化した大荘園領主を支持基盤にしていた。しかし、古いチェコ貴族階級の多くは、反ハプスブルク暴動に参加していたものは当然として、新参の大資産家に取って代わられた。その大部分はドイツ、スペイン、イタリア、フランス、その他から来た山師であり、ハプスブルグ家にたいして、軍の将軍として、また軍需物資の供給者としての勤めを果たすということの代償として貴族の身分に引上げられ、没収財産の分配にあずかったのである。三十年戦争の後、わが国のすべての農民によって耕作される農地の四分の三以上がこの一握りの貴族と教会ヒエラルキーの手に握られたのである。貴族は完全な経済的かつ政治的支配権を領地農民に振い、その搾取を極限にまで高めた。

 <人口の減少> 三十年戦争中の国土の荒廃、経済の破綻、飢えと疫病、これらのものは、町でも村でも最も重く民衆の集団を襲った。白山以前の時代は、チェコの領地はヨーロッパのなかで最も人口の豊かな地方に属していた。しかし戦争と国外移住によって住民の数は三分の一以下に減少した。チェコ地方には百万を少し越える数、モラヴァは約五十万が生き残った。この人口の恐ろしい減少を補うために、ドイツ人のわが国への移住が、とくに、国境周辺の領域で起こった。
 三十年戦争後、全耕地の約三分の一が放置されたままだった。農民の住居の一部は焼き払われ、打ち捨てられた。労働力が不足していた。貴族の大領主たちは放置された農奴たちの土地をかき集め、さらに次の荘園を作った。労働力の不足は領民にたいする労役の一層の強化によって補充された。三十年戦争後は、大荘園領主たちは労役をほとんど毎日のように要求し、ほとんど一年中にまでなった。農民たちは自分の畑の耕作のためには、夜とか日曜日、祭日しか残らなかった。

 <増税> 金銭や生産物による搾取も増大した。同様に納税体系も領民により一層容赦なく重くのしかかってきた。経済的な締めつけは、十八世紀の前半には農民たちは自分の仕事のほとんど全産物を搾取者に差出すことを余儀なくされるまでにいたった。半分は税金(醵金 kontribuce )の形で国家に提出し、残りはその大部分が土地の封建的所有者とわずかの部分が教区司祭に提出する。貧しい農民には、その頃、生活のためにはほとんど残らなかった。

 <個人的隷属> 労働力の不足対策として封建的搾取者たちは、領地からも国からも領民が逃亡するのを防ぐ法令を厳しくした。不自由領民は土地に縛りつけられ、封建領主は領民の子供にたいする権利まで自分のものにした。毎年、領主は領民の子供のなかから何人かを選び、領主館での奉仕につかせた。領主の許しがなければ領民の子供は学校にいくこともできなければ、職業につくことも、また、許しがなければ領民は結婚することもできなかった。

 <隷属領民の体罰> 封建領主は隷属領民を、再三の逃亡や頑固な異端信仰、また領主の森での狩猟したとか領主の池での漁をしたという理由で、自分の思い通りに、死をもってさえも、罰することができた。領民たちは小さな違反は鞭打ちや拷問、焼き印、さらし台、その他の残酷な刑罰で罰した。同時に、隷属領民はどこにも自分の保護を求める可能性をもっていなかった。すべての役所、裁判所は封建領主の手のなかにあった。
 こうして、白山後時代にはわが国では他の中部ヨーロッパと同様に、最も苛酷な自由喪失の時代に入ったのである。

 <コメンスキーとチェコの文化生活> わが国からの非カトリック者の追放はチェコ文化生活のこの上もない貧困化をもたらした。祖国の放棄を強いられた人たちのなかには、チェコ文化の最も重要な代表者たちがいたが、その筆頭にあげられるのは、偉大な思想家であり教育者でもあったヤン・アーモス・コメンスキー(1592−1670)である。コメンスキーは兄弟団の古い文学伝統に結びついて、言語学的、哲学的、教育学的に重要な作品を書いた。そのなかでも最も重要なものは「開かれた言葉の門」「世界の迷宮と心の楽園」「教育学」「幼稚園教育」その他である。教育に関する彼の労作によってコメンスキーは近代学校制度の創始者になった。彼の著書のなかには、すでに各種の学校について、明確な教授法、すべての人、それに貧しい人のための教育についての思想が述べられている。若いころから材料を集めていた辞書的主要作品『チェコ語の宝庫』は原稿のままポーランドのレシュノの火事で焼失した。コメンスキーは亡命中、一時的にそこですごしたのだった。彼は数年間、ハンガリーのブラットニー・ポトクで勤め、そこで、ハンガリーの学校制度の整備に奉仕した。晩年にはオランダに住み、そこで死んだ。
 祖国から出なければならなかったすぐれた文化労働者のなかには、パヴェル・ストラーンスキーもいる。彼には愛国的著作『チェコ国について』がある。また、身分制度反乱の歴史家パヴェル・スカーラ・ゼ・スホジェもいる。外国で活躍した人としては、有名なチェコのデッサン画家で版画家のヴァーツラフ・ホラル(1607−1677)があり、彼は生涯イギリスに住み、その地でイギリスのグラフック画の創設者の一人になった。彼は生涯、チェコ民族への帰属の意思を表明し、自分の作品に誇りをもって「ボヘミア人」 Bohemus と署名した。

 <チェコ民族の隷属化> 三十年戦争における反動勢力の勝利によって作り出された深刻な経済的、社会的、政治的、文化的変化はチェコ民族を何百年にわたる被搾取民族の地位に投げ込み、民族の長い発展のなかに深い傷跡を残すことになった。チェコ民族の運命はこのとき以来、さらに一層、スロバキア民族の運命と近くなったのである。

 <東スロバキアにおける隷属農民の蜂起> スロバキアの領域ではガブリエル・ベトレンの後、三十年戦争のあいだに、セドミフラツコの領主イジー・ラーコーツィが反ハプスブルク暴動の指揮を取った。両陣営の軍隊の破壊行為はスロバキアの民衆に多くの苦難と損害をもたらした。スロバキアの民衆の抵抗運動は1631年から1632年の東スロバキアの田舎の民衆の大蜂起によって頂点を極める。これは1514年以来、スロバキアの田舎の民衆の階級闘争としては最大のものであったし、またこの闘争にはマジャールの農奴たちも加わった。捕えられた反乱の指導者ペットル・チャーサールをハンガリーの封建領主たちは、1632年の春、みせしめのためにコシツェで四つ裂きにされた。だが、反抗はその当時でさえやまなかった。その反抗を血なまぐさいやりかたで、やっと圧殺したのは大砲を装備したイジー・ラーコーツィの軍隊だった。


 3.三十年戦争後の階級闘争

<地域的な農民の反抗> 不自由民の暴動は三十年戦争が終結したあとも止まなかった。十七世紀の後半と十八世紀の全期間をとうして地域的な農民の反乱の連鎖はほとんど切れ目なく続いた。それらのはしばしばチェコの領域やスロバキアの広い範囲を巻き込んだ。
 この反抗の主な原因は厳しい社会的抑圧と貴族階級による農村民衆の搾取にあった。暴動の直接の引金になったのは、ときには強制的なカトリックへの再改宗の際のエズイット派や国王の雇兵たちの残虐な手口であることもあった。例えば1672年にオラヴァでの暴動がそうだった。暴動の指導者ゼンプリーンの郷士ガシュパル・ピカは暴動鎮圧ののち25人の村長たちとともにひどい拷問のあと処刑された。

<不自由農民の反乱−1680年> チェコにおける農民の最も大規模な階級闘争は1680年の農奴暴動である。当時、農民は耐えがたい奴隷的苦役を緩和してもらう要求を集団的に宮廷に提出しはじめていた。しかし救済が得られなかったとき、苦役を放棄し、支配者にたいする公然の闘争に突入した。暴動は直ちに幾つかのチェコの地方に広がり、モラヴァ地方にまで達した。
 国境の地域ではチェコとドイツの不自由農民たちはしばしば協同して共通の封建搾取者にたいして戦った。幾つかの地方では反逆者農民にその土地の貧困者も加わった。暴動を鎮圧するために、何連隊かの軍隊を呼ぶ必要さえあった。大規模な武力衝突がプルゼンスコのオフチー・ヴルフ・ウ・チェリヴァとジャテツコのペットロフラデッツの領地で起った。暴動の鎮圧後大勢の暴動の荷担者が拷問をうけ、処刑された。また何百もの者が領主の監獄につながれるか、ハンガリーの城塞へ強制労働のために送られ、額に恥さらしな焼印をおされるか、あるいは他の方法でも醜くされた。暴動鎮圧後に発布された苦役保有権(ロボトニー・パテント=苦役を正当化する王の法令)は不自由農民の地位を一層悪化させた。

<ホツコの反乱> 十七世紀の90年代に、遠い昔からの自由と特権をめぐるドマジュリッツのホト人たちの何百年来の抗争が頂点に達する。この抵抗も厳しく弾圧され、不屈のホト人の指導者ジャン・スラットキー、通称コジナは1693年にプルゼニュで処刑された。

<不自由農民のフス主義の伝統>
 十八世紀の30年代に東チェコのオポチェンスコの領地での不自由農民の抵抗のなかにフス主義革命の伝統が再び強く蘇った。この地域は聖職権主義(クレリカリズム)の暗黒時代に民衆の秘密の異端の教えが広く根を張っていた。チェコとモラヴァ地方の多くの領地を巻き込んでいた奴隷的苦役への抵抗が1738年には最大の規模になっていた。
 搾取者にたいする不自由民の無数の抗争が封建的社会秩序をだんだんと破壊しはじめていた。しかし勢力的な民衆の暴動はまだ全経済−社会秩序の変化を意図した革命的努力へと結集することはできなかった。しかしわが国の民族の歴史のなかで、社会的搾取者にたいして戦う決意の表現として、またチェコおよびスロバキア人民の不屈さの意思表示としての革命的意味がある。これらの搾取者はだいぶぶんが民族的な抑圧者でもあった。多くの不自由農民の蜂起のなかで、同時にチェコとスロバキア民衆とドイツとハンガリーの不自由農民との間の相互の闘争的連帯の要素も現れた。

 新しい反ハプスブルク闘争とスロバキアにおける階級闘争

 スロバキアでは十七世紀の後半にも、何回となくトルコに支持された貴族と市民階級との反ハプスブルク闘争が続いていた。1683年−1685年の間にトルコ人たちが南スロバキアから完全に追放されたとき、ハプスブルク権力は抵抗者に残酷に復讐した。1687年にプレショフでは24人の貴族と市民の抵抗者が処刑された。残酷な処刑は人々の記憶のなかにいわゆる「プレショフの屠殺」として刻み込まれた。国内には強力な絶対主義が支配した。
 1703年、東南スロバキアでまたもや皇帝の雇兵たちからの抑圧にたいする農奴たちの反乱がもちあがった。農奴たちの不満は広範な反響を呼び、スロバキアにおける最大の反ハプスブルク暴動へと発展した。その先頭に立ったのはセドミフラッツコの領主フランティシェク・ラコーツィ二世であった。彼の軍隊は全スロバキア領を占領し、数年にわたって統治することに成功した。ラコーツィの支持者貴族たちはラコーツィ軍の敗北のあと、1711年になってやっとハアプスブルク政府と協定を結ぶことができた。いわゆるサートマールスキーの平和である。

<ヤーノシーク> 集団的な暴動がもはや不可能になった地方では、反逆者たちは義賊として支配者たちと闘うために森や山へ逃げ込んだ。このことはとくに国境近くのスロバキアの山岳地帯についていえる。そのような義賊団の一つを率いていたのがジリンスクでのユライ・ヤーノシィーク・ス・テルホヴェーである。彼はその勇敢さによって名声を馳せ、彼の行動については伝説としてスロバキアの国境を遠く越えて広がった。1713年にヤーノシークは捕えられて、残酷に処刑された。「山男」たちの仲間は追放された。しかし、民衆は彼らの思い出を歌や伝説や絵の形で伝えた。
 オンドラーシュ・ス・ヤノヴィッツ・ウ・フリートクによって率いられる義賊の一派も、当時、ヴァラッシュスコの人民に加えられた不公正にたいしてスロバキアのジャーノシ
ークのようにして復讐した。ヤーノシークやオンドラーシュなどの人物像は、不公正や抑圧に抵抗する勇気と英雄的行為の見本としてわが国の民衆の心のなかにしみ込んだ。




「第六章 ギルド制度の崩壊と手工業生産の発達」 へ進む

[目次]へもどる

フロント・ページへ戻る