W.30年戦争にいたるまでの社会的葛藤
(1)リパニ以後の反動の登場と民衆の反発
(2)15世紀末と16世紀における経済社会的変化とその結果
スロヴァキアにおける反封建主義闘争と革命の始まり
(3)多国籍ハプスブルク専制体制と反改革の始まり
トルコ侵略がスロヴァキアにもたらした結果
(4)文化的発展
1.リパニ以後の反動の登場と民衆の反発
<ジクムント、チェコ王に(1436)> フス主義革命運動は封建的経済−社会体制を大きく揺さぶった。しかしそれを覆すことはできなかった。リパニにおける領主軍団の勝利は、従属的民衆にたいする封建領主の支配を堅固にし、国内の反動の代表者と海外の反動との合意への道を開いた。1436年に、チェコ民族の頑迷な敵であるジクムント皇帝がチェコ王として華々しく受け入れられたが、チェコ王の玉座に登るまえに、貴族や市民階級に膨大な土地財産の永久所有を保証しなければならなかった。この土地は、実は、フス革命運動の時代に封建領主や都市とともに教会や王侯から奪い取ったものだった。
<バーゼル協定(1436)> 同時に、すでに受入れられていたローマ教会との間の妥協がイーフラヴァで華々しく宣言された。いわゆるバーゼル協定である。それによって、教会もまたチェコ領土内の奪われた不動産の問題も了解し、ミサに聖杯からも受けるという例外的権利をもチェコ民族に許したのである。
これはフス革命運動の要求の一つだったが、戦術的理由から教会が一時的に許したものだった。大部分のチェコの封建領主たちや市民階級は、奪われた土地資産の奪回やローマにたいする古い上納金の復活にかんする教会の企てにたいする拒否姿勢の象徴として聖杯を守ったのだった。しかし、カトリック・ヒエラルキーの上層部がチェコ人との協定を守る気がないのは最初からわかっていた。なぜなら、聖杯の妥協はローマ教会のこれまでの絶対普遍性<ユニヴァーサリズム>の破壊する危険性を意味していたからである。カトリックの聖職上層部は直ちに聖杯派と対立を起こし、法王職は協定の有効性を認め、聖杯派のヤン・ロキツァンをプラハ大司教として認定することを拒否した。教会にとってはチェコ民族にたいする経済的かつ政治的支配をふたたび取り戻すことのほうが重要であったことは明らかである。
<ヤン・ロハーチュ・ス・ドゥベー(1437)> しかし、反動勢力の擡頭は、裏切り者のジクムントやずる賢いローマのヒエラルキーとのいかなる話合いにも妥協しない反対者の反抗心を一層かたくなにした。新しい反抗の中心点は、ターボルの隊長ヤン・ロハーチュ・ス・ドゥベーの指揮になる、クトナー・ホラの近くの、聖書からの名前シオーンと呼ばれる山の上の彼の城塞に発生した。そしてこの城塞は「神の戦士」の最後の砦となった。
ヤン・ロハーチュはジクムント皇帝に決戦を呼び掛け、4カ月の包囲作戦にも屈しなかった。しかし、包囲軍が卑劣な作戦によって砦によじのぼるのに成功して、やっと激しい戦闘のなかで捕えられ、シオーン城は破壊された。ヤン・ロハーチュは最後の瞬間までフス派の戦士としての勇気と誇りを失わなかった。皇帝ジクムントは1437年、まずロハーチュに恐ろしい拷問をくわえたのち、50人以上もの仲間とともにプラハでこれ見よがしの処刑をさせた。
<民衆的異端> 最後の武装グループが敗北したあと、民衆層の防衛的反抗は長い間打ち砕かれていた。かってのフス派軍の散りぢりになったグループは、あちこちで、いぜんとしてテロ活動を続けるか、あるいは義勇兵として国境の外の「外国の軍務」につき、チェコ人の勇気と戦争術の栄光をヨーロッパじゅうに広げていた。彼らのなかのかなりのものがスロバキアに出ていった。そこで兄弟たちの運動の核になったたのである。
封建支配者や教会にたいする反発はチェコ民衆のなかにその後もずっと生き続け、異端派のかたちで現われた。そのなかにはしばしば、フス主義の最初の時期の思想を思い起こさせるユートピア的な理念がこだましていた。
<ペットル・ヘルチツキーと兄弟団の始まり> この当時の民衆の反体制的傾向の意見は南チェコのすぐれた思想家ペットル・ヘルチツキーの著作のなかにはっきり現われている。ヘルチツキーは十四世紀の終わりから生きて、1460年頃死亡している。彼は恐らく地主階級の出身だろうと言われているが、その生涯についてはほとんどわかっていない。がっちりしたチェコ語で書かれた彼の作品は、一部はすでにフス主義時代に、そして他の一部はリパニ戦の後に書かれている。最も重要な作品は「三種類の人」「説教集」「真の信仰の網」である。ヘルチツキーはそれらの著作のなかで当時の社会や教会や国家までも厳しく批判している。そして、勤勉な人間のみがキリスト教的理想に即した正義の秩序を実現することができると示している。しかし、ヘルチツキーは搾取者と被搾取者とのあいだの妥協不能な矛盾から抜け出す革命的解決を発見しえないでいる。彼は唯一の救済を「死後の生活」への準備のなかに見いだし、救済の過程では「悪を拒否しない」ようにすべきであり、いかなる暴力も権力も拒否する、あらゆる役得、商売、その他の「罪深い職業」をさけることである。ペットル・ヘルチツキーのユートピア思想はフス主義の敗北によって幻滅した広い民衆層のあきらめと同時に、支配者的反動との非妥協性をも表現しているが、いわゆる兄弟団の基礎理念ともなっている。この兄弟団はその信奉者を最も多く、隷属的田舎の民衆や零細な職人たちのんかに見出だしたのである。
兄弟団は1457年に東チェコのクンヴァルト・ウ・ジャンベルカ村に誕生した。その参加者、チェコの兄弟は1467年に独自の教会を設立し、最初からローマ教会とのいかなるかかわりも拒否し、聖杯派すらとも意見を異にした。彼らは司祭を俗人のなかから選び、神の礼拝の儀式も極めて簡素に行なった。しかし、ターボルの革命的闘争心を否定し、すべての希望を「死後の生活」のための忍耐づよい、控え目な準備のなかに積立てた。兄弟団は当時の社会秩序にたいするその批判性によって、封建的搾取者階級には危険なものに写った。だから、十五世紀の60年代の初めには、すでに彼らの支持者は厳しい追及にさらされた。
<イジー・ス・ポジェブラット> それはイジー・ス・ポジェブラット(1458−1471)の治世のときだった。彼はクンシュタートの領主貴族の家系の出であり、保守的フス派貴族に属していた。チェコの政治生活のなかでイジーはすでに十五世紀の40年代に指導的立場に立っていた。この時代というのは長い無政府状態が続いていて南チェコの大貴族オルドジフ・ス・ロジュンベルカに率いられるカトリック系の領主貴族たちの勢力の伸長にたいして立ち上がったのだった。やがて彼はチェコ領土の総督 spravce となり、ハプスブルク家出身の弱いチェコ・ハンガリー王ラヂスラフ・ポフロベクの死後、チェコ王に選ばれた。
<マティアーシュ・コルヴィーン> チェコにおけるイジー・ス・ポジェブラッドと同じころ、ハンガリーでは貴族のマティアーシュ・フニャディ、通称コルヴィーンが王となった。両方の支配者にとって共通のエネルギッシュな努力目標は、王権の確立と国家内部の強化であった。最初の間は有好的な同意のなかで進んだが、マティアーシュの前にチェコの領土をわが物にできる展望が開けてきたとき、だんだんと二人は互いに相いれぬ仲になっていった。つまり、イジー・ポジェブラッドは間もなく教会の敵意と、また、王権の強化と利害の相いれぬ領主貴族たちの反感とにぶっつかったのである。
<反イジー連合軍> 1462年、法王ピウス二世は協定(コンパクタート)の無効を宣言し、その直後に彼の後継者はイジー・ス・ポジェブラットを異端として断罪し、チェコ民族にたいして新たな十字軍の遠征を布告した。イジー王にたいして国内と国外の連合軍が結成されたのである。いわゆる「緑山団」(イェドノタ・ゼレノホルスカー)に結合した反動的チェコ・カトリック領主団にたいし、ドイツ化したモラヴァ、スレスコ、ルジツェ地方のいくつかの都市とハンガリー王マティアーシュ・コルヴィーンが加わった。
<国際平和組織設立のイジーの計画> イジー王は法王庁に反対の同調者を獲得しようと努力し、ヨーロッパ諸国の協同の手続きによって国際政治における法王庁の陰謀に対決し、またトルコの危険な脅威にも反撃することが可能であるだろうところの計画に没頭した。この目的のために、イジー・ス・ポジェブラッドの宮廷では、キリスト教国間の永久平和の保証と、相互援助、協力のためのヨーロッパ王国連合の設立への大規模な提案が準備されていた。イジー王の平和提案に関して、1462年−1464年の間に広範な外交交渉が展開されたが、しかし、当時の国際情勢のなかでは肯定的成果を得るまでにはいたらなかった。
外国の強国のなかでは有好的なポーランドがイジーの側に立ち、国内ではイジーが頼りにしたのはチェコの諸都市や下級貴族であった。それに古いフス派の闘士たちも、多くのものがイジーの呼びかけに応じて「外国の奉公」から戻ってきた。
<民族防衛戦争> 数年間にわたってイジー・ポジェブラッツキーは民族防衛戦争を遂行し、法王側によって組織された攻撃をすべて撃退することができた。確かに、マティアーシュ・コルヴィーンはモラヴァ、スレルコ、ルジツェ地方をほとんどすべて支配することに成功はするが、しかし、次の年にはチェコ−モラヴァ高原地帯のヴィレーモフでいじーに包囲され、交渉を強いられたが、その際、コンパクタートを基礎としてチェコとローマとの和解に配慮するように、イジーにたいして厳粛に誓わされた。
しかし、法王庁の駆引で和解は整わず、また、マティアーシュはカトリック派の領主たちの支持によりオモロウツでチェコの王になることを宣言した。戦闘がうたたび始まった。しかし、チェコの兵器の成功によって有利に傾こうとした、まさにそのとき、イジー・ポジェブラッツキーは死んだのである。
<イジー・ス・ポジェブラットの治世の意義> イジー・ス・ポジェブラットの支配の間に、チェコの国は十五世紀の半ばにふたたび堅固になり、強大になったから、国内の反対派も外国の敵の攻撃にもうまく抵抗することができた。支配者貴族階級の一員として、イジーは確かに、まず第一に、搾取者階級の利益を守った、だからそれゆえに、過激な民衆運動の信奉者を弾圧したりもした。しかし、支配者としての機能において、彼は支配者階級間の対立を調整しなければならなかったし、その努力の実現に際しては支持を主として、当時の社会では比較的進歩的要素であった下級貴族やチェコの「王様の町」の市民層に求めざるをえなかったのである。イジー・ス・ポジェブラットは同時にチェコ国の経済的活性化を努めていたし、それを効果的な硬貨による経済の調整によって行った。永久平和の確保というイジーの努力は、時代を早く先取りしていた。法王庁や国内の反動領主によって強いられた戦争は民族防衛戦争の性格をもった。民衆の記憶のなかにイジーは最後の「民族の」王として、「フス主義者」の王として残るだろう。なぜなら、それ以後のチェコの支配者はすべて外国人であり、カトリック教徒だったからである。
<チェコ及びハアンガリー王位についたポーランドのヤゲロヴェッツ家> イジー・ス・ポジェブラットの希望により彼の死後1471年にチェコ王にポーランドの王子ヤゲロヴェッツ家のヴラヂスラフが選ばれた。しかし、最初はチェコのみであった。なぜなら、チェコ王位の隣接の領土(モラヴァ、スレスコ、領ルジツェ)はハンガリー王マティアーシュ・コルヴィーンが支配していたからである。これによってチェコ国は二つに分断されていたのである。1490年、マティアーシュ・コルヴィーンの死後にやっと、隣接の領土がチェコに結び付けられたのである。それはジャゲロヴェッツのヴラヂスラフUがハアンガリー王にも選ばれたときである。こうしてチェコの領土とスロバキアはふたたび同一の王の支配のもとに入ったのである。
スロバキアにおける兄弟団の運動
<スロバキアにおけるヤン・イスケル・ス・ブランディーサの戦闘> スロバキアではマティアーシュの支配の時代に、フス派兄弟団にたいするハンガリー封建領主たちの戦闘が頂点に達していた。この運動にたいするきっかけはフス派軍の残党が与えた。彼らはリパニの敗北の後、スロバキアへ逃れ、そこでチェコの職業軍人ヤン・イスクラの雇兵隊に参入したのである。イスクラの任務はハンガリーの大貴族にたいしてハンガリー王位の未成年継承者<カンディダータ> ラヂスラフ・ポフロベクの利害を守ることであった。
<ルチェネッツの戦闘(1451)> イスクラの軍隊はフス派軍のときの経験に物を言わせて戦術おいても、装備についても、それらはスロバキアの町々で作られたものだったが、勝れていた。ハンガリー貴族軍団にたいする最大の勝利は、1451年のルチェネッツの戦闘で収めたのだった。
<スロバキアにおける兄弟団の分隊> しかし、ラヂスラフ・ポホルベクが王位についたあと、大勢のイスクラの一般兵士が退役して、フス派兄弟団の独立した戦闘部隊を作りはじめた。彼らに、隷属農民も加わり、没落した地主<下級貴族> や都市の貧民も加わった。兄弟団たちはターボルの伝統を蘇らせた。裕福な貴族や高位の聖職者の館を襲って得た獲物はお互いの間で平等に分け、ターボルと呼ばれる野戦要塞を築いた。そして、ターボルに所属するものは全員で兄弟団を作り、年長者から選ばれた委員会がこれを指導した。1450年頃の兄弟団運動の指導者はかってのイスクラ軍の隊長ペットル・アクサミット・ス・コショヴァだった。十五世紀の40年代の終わりからスロバキアで兄弟団の関与する反封建的民衆蜂起が勃発した。最大規模の頃には運動へくわさった兵士たちは一万五千から二万にのぼったという。
兄弟団の運動は徐々にスロバキア全土に広がり、ポーランド、オーストリア、それにハンガリーのマトラ地方の兄弟団の部隊とも関係をもった。彼らの運動に抵抗できたのは大きな城や、城壁で固めた都市だけだった。運動の名乗りを上げたのは、1456年のゼンプリーンスカー・ストリツェでの農民の暴動だった。30年に及ぶ闘争の末に、マティアーシュ・コルヴィーンは兄弟団の運動を中部と東部のスロバキアで殲滅することに成功した。
<ヴェリケー・コストラニの戦闘(1467)> 兄弟団の運動はやがてポヴァージー地方に移ったが、スロバキアの地主たちが彼らを支持した。運動の中心地はフロホヴェッツの周辺だった。そこから兄弟団たちはトルナヴァ、ブラチスラヴァやニトラににらみを利かしていた。1467年、マティアーシュ王はヴェリケー・コストラニ(フロホヴェッツ)の兄弟団のターボルに、歩兵に騎兵、それに大砲を伴った大部隊を差し向け、激しい戦闘の後に、飢えに弱った兄弟団の兵士たちを下した。兄弟団の指導者たちをぶら下げた絞首台は百五十本に及んだ。一般の兵士の大部分のものは雇兵として自分の軍隊に引き取った。こうして、兄弟団たちは王の雇兵隊の中核となった。いわゆる、勇敢さで名を轟かせた、黒連隊である。
<兄弟団運動の意義> フス派兄弟団の反封建主義運動はチェコとスロバキアとの兄弟関係の歴史のなかで重要な一章をなすものである。それはスロバキア民衆の反抗の精神と民族的自立の意識を強めた。それはまた、スロバキア的活力が多くの町で自立性を保ちはじめ、またラテン語とともに、書き言葉としてチェコ語がスロバキアでも一般に広く用いられるようになったことにも影響を及ぼしたのである。
2.十五世紀末および十六世紀における経済社会的変化とその結果
<貴族的事業の発展> 十五世紀末と十六世紀におけるチェコの国土とスロバキアで徹底的な経済的変化が起こった。それはヨーロッパ経済の相対的な変化とも関連していた。そのなかで最も重要な意味をもつのは、貴族の大資本家的事業の発展である。封建領主ちはこれ以前の時代のように単なる領地民からの税金だけでは満足できなくなっていたばかりか、収入増加につながる他の方策はないものかと探しまわっていた。彼らは土地資産をかき集め、大きな領地を築き、それに基づいて大規模な自己投資による事業を始めた。
貴族の収入の最も重要な源泉は漁獲池事業にあった。当時、この事業はかってないほどの広がりを見せていた。特に、パルドゥビツコ、トチェボニュスコ、テルチュスコ、また、スロバキアの南の地方その他である。領主貴族は自分の広大な領地を農場として整備し、そこを根城に新しい方法による封建的農業の大規模生産を発展させたのである。特に、羊の飼育、穀物の作付け、それらを外国への輸出のためにも行ったのである。経済的に「王侯の町」に匹敵しうるように、貴族はいくつかの村を大小の「臣下の町」に格上げをして、そこに沢山の生産企業を経営した。たとえば、ビール工場、水車屋、ワイン蒸溜所、製材所、製鉄所、精練所、煉瓦工場、織物工場、ガラス工場、その他である。
<鉱山業の新しい繁栄> 十五世紀末から十六世紀初頭にかけて、チェコ領内でも、スロバキアでも鉱山業に新しいブームが起こった。その第一位にあるのは相変わらず銀の採掘である。スロバキアでは金も採掘された。だが、十六世紀になると、その他にも有色金属、つまり錫、銅、鉛の鉱石の採掘も発展し、鉄の生産は著しく増大した。十六世紀の初めには、スロバキアは世界でも最大の銅の生産国に属していた。古い鉱山の主要な中心地―― クトナー・ホラ、バンスカー・シュチアヴニツァ、クレムニツァ―― のほかにも、新しい採掘場が開かれた。特に、クルシュネー・ホリ、スロヴェンスケー・ルドホジー、ブルディ、イェセニーク地帯である。1516年には、ヤヒモフに銀採掘の新しい重要な中心地が起こった。そこではトラリと呼ばれる銀貨が鋳造された。それは後にオランダとアメリカの通貨の呼称となる。つまり、ドルである。
<農奴的拘束の強化と階級闘争の激化> 大規模農園企業のために、貴族階級は大量の労働力と金銭を必要とした。それゆえに、貴族は税金や義務労役を高くし、彼らの領地からの離脱を防いだ。抑圧と搾取の増大にたいして、農奴化した民衆は都市へ逃れ、大農園主貴族に反抗の戦いを強化することによって応えた。チェコの領地でもスロバキアでも、多くの不自由農民の運動が広がり、また同時に、都市貧民層の豊かな組合業者市民や富裕商人階級にたいする暴動が頻発した。
1483年、プラハに大きな民衆暴動が起きた。聖杯擁護をスローガンに掲げて、民衆は市役所を占領し、反動的な市参議を捕えて、処刑した。また、何箇所かのプラハの修道院から修道士たちを追放した。十五世紀の90年代に、モラヴァのザーブジェフ領の農奴たちが、労役の重圧と養魚池の設置の際、貴族が彼らにおこなった不公正に反発して暴動を起こした。それより少し遅れて、リトムニェジツコのプロスコヴェッツ領の農奴たちが領主にたいして反抗し、自由意思で隣の騎士ダリボル・ス・コゾエットの農奴となった。ダリボルは後に封建的裁判で死刑になった。1496年には、クトナー・ホラの十人の鉱夫が斬首された。彼らは鉱山役人側の抑圧に反対する暴動の指導者だった。スロバキアでも十五世紀の終わりにはすでに鉱山暴動が起こっていた。
<1517−1525年の間におけるチェコ地域内の民衆運動> しかし反抗的な民衆運動はそれ以後の時期にもチェコ地域でもスロバキアでも発生した。1517年、チェコの封建領主たちは、クシヴォクラーツコの農民暴動を制圧し、周辺地域への拡散を防止するために軍隊の緊急動員をかけなければならなかった。十六世紀の20年代の初めに、プラハ、プルゼン、ヤーヒモフ、イッフラヴァ、ブルノ、オロモウツ、その他の一連のチェコ及びモラヴァの都市では民衆の暴動が起こった。その頃、ドイツの改革の民衆陣営の第一の代表者トマーシュ・ミュンツェルがチェコ領内に住み、ジャテッツやプラハで説教師として活動した。彼は、この土地から――フス主義の時代と同じく 社会の公平な秩序――を求める努力が生まれ、チェコ民族は全世界の見本となると信じていた。しかし、すでに1524年には反動勢力は反撃に転じた。そしてプラハでも田舎でも過激な民衆の潮流の信奉者たちの追及が始まった。それでも1525年、ドイツでは大農民戦争の時代であったが、ヤヒモフ、ヘプ、ホッツコで、また、テプラーやヴィシェブロットその他の教会領でも民衆の蜂起が燃え上がった。しかし、武装した封建権力によって鎮圧された。
<ヤゲロヴェッツ家時代の王権の低落> 十五世紀の終わりから十六世紀の初頭に、チェコ領土内の王権のひどい落ち込みを見た。ヤゲロヴェッツ家のイジー・ヴラヂスラフU(1471−1516)も、「子供」と呼ばれるその未成年の息子ルドヴィーク(治世1516−1526)も大部分ハンガリーに住み、最大の権力者である領主貴族たちの言いなりであった。王領はふたたび奪い取られ、封建領主たちのわがままは最高潮に達した。ある時期など、チェコ領内の状況は完全な無政府状態に近かった。
<貴族と都市の階級闘争> ヤゲロヴェッツ家の治世の間には、貴族と都市との間の権力争いも激しくなった。王直轄都市の経済及び政治的地位はフス主義の時代以後、非常に上昇した。それらの都市の大部分は、フス戦争時代に獲得した地方の領地にたいする広大な支配権を保持していた。これが両者のいざこざの主要な原因であった。しかし市民たちは、封建的大農園経営者たちが容赦なく踏みにじる生産と取引に関する都市の特権をめぐっても、封建領主たちと戦争をすることを強いられた。また、王直轄都市がフス主義時代に獲得した政治的特権、特に、国会と王の選挙への参加の権利が、貴族の攻撃の対象であった。
貴族と市民層との階級的緊張はときには公然たる内戦の様相に変ずることもあった。騎士の家のもののなかには、商品の輸送を襲って生計を立てるものがあった。王直轄都市はしばしば盗族貴族にたいして征伐の遠征を企て、騎士の城塞を攻略し、破壊し、捕えた泥棒騎士を処刑した。
しかし、これらの戦闘の間にも、強大化する貴族の攻撃にだんだんと守勢に回されることになってきた。1500年に貴族はヴラヂスラフの土地法という自分たちの封建的権利の大要を発表した。これは王であれ王直轄の都市であれ一切関係なく、土地にかんする封建領主の絶対支配権を法律化しようとする試みであった。長い戦争のなかで市民階級は国会に参加する権利は守ることに成功したが、しかし、貴族のみが関与する問題については封建領主たちが、その後も自分たちだけで決めた。
1517年に農民−貧民集団の反乱が起こって、チェコ国内を極めて危険な状態に陥れたとき、チェコの貴族と都市の間の対立を、いわゆる「聖ヴァーツラフの契約」を締結することにより、一時的に中断した。この了解によって、諸都市は封建領主にたいして多くの経済的譲歩を余儀なくされた。貴族と都市との強烈な対立抗争は間もなくふたたび燃え上がるのである。
<大貴族の擡頭と小貴族の没落> これらの葛藤のなかから上級貴族、最も富裕な土地所有者からなる身分のものが勝ち残っていった。これらの封建領主たちのほんのわずかな者の手に国内の最大の支配権とあらゆる重要な行政機構とが握られたのである。
それにたいして、騎士や郷士といった小貴族は、フス主義時代、ポジェブラット治世時代には経済的にも政治的にも権力の表面に達することができたが、十五世紀末から十六世紀になると、救いがたい危機に直面することになった。封建農業的大規模生産への移行期のなかで、大資本家的領主貴族は自分と同一歩調を保つことができない小貴族を配下に加えることによって、さらに領地を拡大した。戦争技術の進歩と、雇兵軍団の発達と平行して、騎士たちも同時に封建的武装戦士階級としての存在理由をなくしてしまった。こうして、領地の完全支配を求める戦いを続ける支配者貴族の経済的かつ政治的権力が絶えず増大していくための条件がけいせいされたのである。
スロバキアにおける反封建主義闘争と革命の始まり
<いわゆるドージュの蜂起> 1514年、ハンガリーの広い領域において、反乱の火の手が燃え上がった。その発端となったのは、国土を脅かしていたトルコにたいする十字軍遠征のための準備だった。兵士たち――大部分は農奴と都市の貧民だった―― は農具を武器にして、その数四万が遠征に参加するために集まった。しかし、高位のハンガリーの貴族が、遠征に参加する者たちの武具や装備を確認することを拒否すると、ペテンに会った民衆の怒りは貴族や指導的聖職者に向けられた。反乱者たちは領主の城や教会の高位の僧侶たちの館や屋敷を攻撃した。そして郷士イジー・ドージャの指揮のもとに一時はハンガリー低地のほとんど全域を支配したほどだった。この暴動は南東スロバキアにも反響を呼び、マジャール領域の暴動分隊では多くのスロバキア民衆が戦った。
反封建主義暴動の大部分と同じように、1514年のハンガリーにおける民衆の大暴動も残酷に弾圧された。「農民王」イジー・ドージャは残酷に責め殺され、彼とともに反乱の参加者数百人が殺された。この暴動の鎮圧にはチェコの雇兵の貴族も一役かった。ハンガリーの封建領主たちはこの機会を利用して、新しく発布される法律によって(この法律は実質的に1848年までスロバキアで適用されていた)ハンガリーにおける農奴を厳格な隷属のなかに放り込み、領地の支配を確実にするようにした。
<スロバキアの大鉱山暴動(1525−1526)> スロバキアには1525年、大きな規模の鉱山暴動が加わる。この暴動は中部スロバキアのすべての鉱山町に広がり、次の年1526年の後半まで続いた。その主要な中心地はバンスカー・ビストリツァ、バンスカー・シュチアヴニツァ、それにクレムニツァであった。強大さ、規模、持続期間、それらは当時の中央ヨーロッパ全体のなかでも最大級の鉱山暴動であった。そのなかで、当時スロバキアの鉱山で働いていたスロバキアとドイツの鉱夫の相互の連帯も見られた。富裕市民たちは貴族の力を借りて暴動をつぶしたが、それでも鉱夫たちは賃金の値上げを獲得した。隣のドイツで民衆の集団が敗北した後で、やがて民衆の反感はわが国では長い間、単なる地域的な暴動として現れたにすぎなかった。
3.多国籍ハプスブルグ専制体制と反改革の始まり
<ハプスブルグ複合国の誕生> ルドヴィーク・ヤゲロネッツの治世の間に、トルコ人がハンガリーの奥深く侵入してきて、1526年、モハーチュの戦闘でハンガリー軍を撃ち破ったが、この戦闘でルドヴィーク王は死亡した。この敗戦ののちトルコ人は長い期間、ハンガリー王国の大部分の土地に住み着くことになるのだが、中部ヨーロッパにおけるその後の事態の進展に広範な影響を及ぼすことになった。
1526年、オーストリア王家のフェルヂナンド・ハプスブルスキーがチェコとハンガリーの王に選ばれた。当時のヨーロッパにおける最も権力のある王家の一員であった。彼の選定について決定的要因となったのは、特に、絶えず脅かし続けるトルコの脅威であった。この脅威はチェコ、ハンガリー、オーストリアの諸国を大きな全体に統一するための重大な要因であった。これによって、中部ヨーロッパに多民族の大連合国を徐々に建設するための基礎が築かれたのである。チェコとスロバキアの民族はドイツ−オーストリア王朝の権力のもとに置かれ、その後、ほとんど四百年のあいだ、第一次世界大戦の終わりまで、支配され、搾取されることになったのである。
ハプスブルグ支配はチェコ及びスロバキア民族にとって、広範な影響、結果をもたらした。ハプスブルグ家はカトリックの封建領主を頼りにしており、自己の大権力の目的のために、「神聖な帝国」内の唯一の支配者――ハプスブルグ家からの皇帝――という思想を説くユニヴァーサリズムのイデオロギーを利用した。
ハプスブルグ家の連合国家は、特に、ドイツ−オーストリアの、そして後にはマジャールの搾取階級の力が増大し、それらの階級は国家行政機関にも、経済活動においても決定的影響力を獲得した。
<フェルヂナンドT.の政治> フェルヂナンド一世は、支配権力を強化し、新たに獲得した領土からできるだけ多く絞り取ることができるよう、努力に努めた。王位につくに際しては、チェコの領土においてはチェコ人の顧問官の立会いのもとに支配を行ない、宮廷ごとプラハに移住すると約束したが、その約束を実行しなかった。彼は、貴族−官僚機構を導入することによって古い封建的国家機構を改革しはじめた。そのほとんどが、ウィーンに住居をもつドイツ人だった。完璧な土地台帳システムによって、ハプスブルグ家はチェコの領地やスロバキアから巨額の金銭税を吸い上げた。それらは、絶え間ないトルコとの戦争や、また政治工作に必要となるものだった。それらはチェコやスロバキアの民衆にはなんの共通する利害もないものだった。
しかし間もなく、ハアプスブルグ家は貴族や市民層の特権も制限しはじめ、十六世紀にはすでに、後の絶対君主制の最初の基礎を築いた。それはもちろん、貴族と市民階級の一部の反発を買い、ハプスブルグ家支配に反対する傾向を呼び起こした。それはイデオロギーのうえからは反カトリック的な宗教傾向と一体化した。彼らの間の重要な役割は兄弟団が果たした。そしてそれは、いち早く、ハアプスブルグ−クレリカリズム反動にたいする反発の主要な中心地となった。
<反ハプスブルグ暴動> 最初のあからさまの反ハプスブルグ闘争は1546−1547年に起こっている。フェルヂナンド・ハプスブルスキーはこのとき、ドイツのプロテスタント、シュマルカルツカー団にたいする遠征を準備中であった。抵抗運動はプラハを先頭に大部分の王直轄都市が主になって進め、それに下級貴族や何人かの領主貴族も加わった。蜂起者たちは遠征への参加を拒否し、独自の軍をもった暫定政権を立てた。しかし、彼らの優柔不断が作用して、フェルヂナンドがシュマルカルド団を征服した後、反乱は失敗に終わる。
<反乱の処罰> フェルヂナンドはこの勝利を王権の強化と、貴族たちやとりわけ王直轄都市内部の反抗分子の抹殺のために利用した。あらゆる種類の武器素材を没収することにより都市の武力を壊滅させた。都市から地方の土地資産が没収され、王室財政を潤したし、そのほかにも、都市には特別の税金がかけられた。フェルヂナンドはまた、町(都市)やギルドの自治権を異常なまでに制限した。町に王直轄の警察官吏、総督を置き、特に、都市の貧民や同業者組合(ギルド= cech )のあらゆる動向を見張らせた。このような措置により王直轄都市は著しく貧しくなり、政治りょくも極めて弱体化した。
<カトリック反改革の擡頭> フェルヂナンドは兄弟団にたいしてもかたくなな態度に出た。その多くのメンバーが牢につながれるか、チェコから出ていくことを強いられた。同時に、チェコ領内にカトリック反改革勢力が擡頭してきた。
この時代になっても、チェコ民族と言われる者の大部分はずっと聖杯派、反ロ−マの陣営に属していた。聖杯派にもカトリックにも信仰告白の自由は保証されていた。しかし、十六世紀の50年代からローマ教会の内部に、異端とのいかなる妥協の締結をも排除する闘争的で、不寛容な傾向が登場した。この傾向の主要な伝播者が新しく設立されたイェズイット派の戦闘的集団だった。この集団はあらゆる非カトリックのイデオロギーを攻撃すべく登場してきたのだった。そしてそれを若者に影響を与えることによって、また説教によって、印刷物によっても行なった。プラハではイェズイット派のおもな拠点はクレメンチヌムの教場となった。モラヴァ地方では教場はオロモウツとブルノに出来た。スロバキアでは拠点をトルナヴァの教場に置いた。
<チェコの信仰告白> こうして十六世紀の後半に長い年月にわたる政治権力闘争が始まるのであるが、表面上は信仰の自由を求める闘争として現われる。増大するハプスブルク家の政治権力に反抗して、反対派の一大共同戦線が形成される。しかし、この共同戦線は宗教−政治的綱領、つまり1575年の「チェコの信仰告白」の確認をかちうるところまでは成功しなかった。「チェコの信仰告白」は信仰告白の自由を兄弟団にも、チェコ領内のルーテル派信仰者にも保証するはずだった。
<経済恐慌と「価値」革命> 十六世紀後半と十七世紀初頭にかけての権力闘争激化のなかで、経済及び社会発展の領域において深刻なショックが起こった。大土地所有の領主貴族は大きな経済的繁栄を得ると同時に、また権力的地位も固めた。領主に属する者たちの大資産は、なかには巨大なまでになり、否応なしに下級貴族地主<ゼマン>の零細な土地を併呑していった。小貴族は経済的には破綻を来たし、事務職とかハプスブルク王朝の雇兵になることに生活の糧を見出だそうとしていた。
この時代、中部ヨーロッパにおける世界市場の発生と、西ヨーロッパのいくつかの国の急速化した経済発展の結果が、すでに現われ始めていた。オランダやイギリスの資本主義的大商人は国際市場において指導的地位を獲得したし、中部ヨーロッパ市場にも浸透しはじめていた。
十六世紀の後半になって、ヨーロッパの経済生活には大きなショックが起こった。それは中部及び南アメリカから輸入された膨大な量の貴金属の急激な流入によって呼び起こされたものだった。銀の価格の急激な下落とその結果は金銭の価値にも影響を及ぼし、中部ヨーロッパ鉱山における、常に上昇傾向にあった採掘経費と採算が合わなくなったのである。「価格革命 cenova revoluce」と銀の国内生産の破滅はわが国の都市の大部分の経済力のさらに一層の低下に重要な影響を及ぼしたのである。
<社会的闘争> 手工業小規模生産の職人ギルドの多くの部門も渡り職人(tovarysu)によってしばしば起こされるストライキと結びついた苦境を経験していた。それらの渡り職人の多くは、いつかは親方になれるという希望はなくなっていたから、現実問題として、すでに、永久的な賃金労働者になっていた。都市では、特に鉱山地帯の町では、急に仕事と生活の可能性とを奪われ、腹をすかし、貧困化した賃金労働者の暴動が激化した。
都市における貧民層と同様に、十六世紀末の経済ショックは地方の領地農民をも強く捕えた。領主貴族層は、大部分がこの経済危機からも大いに利を図り、税金を上げ、大農園の労役義務をも強化していた。地域的な農民暴動の数は十六世紀の最後の四半期から増大した。深刻な暴動も起こった。例えば、1575年にプシーブラムスコとロジュミタールスコのもののような、あるいは、フルボカー領内のブラティの暴動。これには不屈の反逆者クバタの伝説が結びついている。
貴族階級は従属都市の経済権をも制限しようとした。例えば、ビールの醸造権、塩の販売権などだが、つまり自分で握ろうとしたのである。従属都市と封建領主との裁判は時にはたっぷり十年も続くことがあった。
<織物業の発達> 北チェコと北モラヴァの山地のすそ野地帯には十六世紀の後半から外国の商業資本に刺激されて織物業が発達した。大商舘の、特にニュルンベルクの代表者たち、いわゆる集荷業者または仲買人は、家内工業の紡績業者や織物業者から製品を、あらかじめ契約した値段で買い集めた。貧しい業者にたいしては金を貸付け、こうして彼らを商業資本の従属下に置いていったのである。チェコの布地はやがてドイツの工場で処理されて、ヨーロッパの遠くや海の向こうにまで運ばれていったのである。集荷、ないし仲買システムはいわゆる零細、分散型手工業生産の重要な要素であり、後の、織物の大規模生産への経過的段階なのであった。
トルコの侵略がスロバキアに与えた結果
スロバキアにおける状況の発展に関しては、モハーチュの戦闘以後、トルコ人がドナウ河とティサ河のあいだの領域を一世紀半にわたって支配したという事実が決定的影響を及ぼした。ハンガリー王としてのハプスブルクの諸王は主としてスロバキアにとどまった。ブラチスラヴァはハンガリーのハプスブルグ家部分の首都となった。そしてスロバキアの領地にはトルコの侵入以来、大勢のマジャールの搾取者階級の所属者が移住してきた。
十六、十七世紀にはトルコ人たちは自分たちの支配権をスロバキアにも広めようと努めた。特に、中部スロバキアの豊かな鉱山町を手に入れようと努力したが、できたのは南スロバキアのいくつかの領域を支配することだけだった。それにしても破壊的なトルコ人の攻撃を撃退し、絶えず戦時態勢を保っているということはスロバキアの民衆に大きな犠牲を要求し、この国の経済的、文化的発展を阻害した。
ハプスブルグ王朝はトルコの脅威をハンガリー王国における支配権の確立に利用した。チェコ地域と同様にスロバキアやハンガリーでも貴族や王の都市の身分的特権を切り詰め、絶対的支配方法を導入しようとつとめた。この努力に際しては、カトリック教会を頼りとした。
ルーテル派はヤゲロヴェッツ家の支配の時代からすでにスロバキア地方、特に、鉱山町に広がっていた。スロバキアのルテル派信者は教会の礼拝の儀式にラテン語の代わりにチェコ語を取り入れた。ルーテル派教会の運営は貴族の手中にあった。しかし、民衆層の間には、いろんな宗派が広がり、それらはルーテル派よりは過激であった。
<スロバキアにおける反ハプスブルグ闘争> ハプスブルグ家の絶対支配にたいして、ハンガリーの貴族は十六、十七世紀に反抗運動を組織した。階級的・政治的な利害はしばしば非カトリックの信仰告白の自由を求める戦いと融合した。反ハプスブルグ暴動のなかにはスロバキアの田舎や都市における民衆の反体制運動をも利用した。ハンガリー貴族の反ハプスブルグ闘争の主要舞台はスロバキアであった。そしてその領域には両陣営の雇兵がせめぎ合っていた。このようなものの一つが1604年から1606年にかけての闘争である。このとき、セドミフラッツコの貴族シュチェパン・ボチュカイはトルコの援助によりスロバキアのほとんど全土を獲得し、一時、ハンガリー王として認められた。
<スロバキア労働者民衆の蜂起と戦闘> 十六世紀の終わりから十七世紀全体にわたって、スロバキア民衆の状況は田舎でも都市でも甚だしく悪化した。チェコ領内におけると同様に、領主貴族の大農園経営は労役の増大と隷属の強化によって行われていた。都市では貧民層にはいっそうの困窮が増し、それは特に、賃金労働がすでに広範囲に広がった鉱山地帯の町でひどかった。
スロバキアにおける増大する抑圧は、封建領主や都市富裕市民にたいする数多くの民衆暴動を呼び起こした。1606年と1609年に中部スロバキアの鉱山町でさらなる鉱夫の暴動とストライキが起こり、それは、その後も繰り返して起こった。
<チェコ領内における、反ハプスブルグ体制> 十七世紀の初頭にハプスブルク王朝とチェコ領内の諸社会身分内の反体制の傾向との対立が尖鋭化した。反体制陣営には聖杯派の貴族とともに市民階級も参加した。一方、チェコ領内で最も重要な行政を司る一握りのカトリックの上級貴族はハプスブルグ側に立った。
<ルドルフUの憲章(1609)> ハプスブルグ家のメンバーの間の対立のなかで、反カトリック連合は1906年にルドルフ二世から特典、すなわちマギスタートをもぎとることに成功した。これにより、たとえ兄弟団であれルーテル派であれ、信仰告白の自由が保証されたのである。しかし、この広範な特典は長くは続かなかった。ハプスブルク−聖職者反動勢力は、その後の勢力伸展の方法によって両陣営の緊張をたかめ、両者の衝突はもはや避けられないところまできた。それはまた、国際的な尺度においても、危険なほど増大してきたハプスブルグ家の権力と反ハプスブルグ陣営とのあいだの大きな抗争へと近付いていったのである。
4.文化的発展
<チェコ語の開花> チェコとモラヴァはフス主義後の時代に、長い間、純粋にチェコ的性格を保存していた。ただ、国境地帯の狭い範囲といくつかの町に、特にモラヴァの町に、ドイツ人の少数をかかえていた。フス主義後の時代はチェコ語とチェコの民族文化が開花した時代だった。チェコ語は公的生活においても完全に勝利を収め、ポーランドでもリトアニア、ハンガリーでも外交語として用いられた。
<文化生活の民衆化> フス主義はチェコ地域でもスロバキアでも文化生活の民衆化に大きな影響を与えた。チェコ民族の敵、法王の使節エネアーシュ・シルヴィウス(後の法王ピウスU.)でさえも1451年にターボルを訪問した後で告白している。「このがさつな民衆も一つだけ長所をもっている。それは知識を愛しているということだ」、それにターボルのごく普通の女も、イタリアのどんな司祭よりも聖書をよく知っている、と。
文学の次の発展と文学の民衆化のための重要な技術的前提は印刷術の発明であった。この知識はドイツからたちまちわが国にも広がった。チェコ語の最初の印刷された本はプルゼンで1468年に出版された(「トロイ年代記」)。十五世紀末から十六世紀の最初の十年間、チェコの領地は印刷所の数において、ヨーロッパの最も先進的な国に属していた。間もなく、世界のエクサイティングな事件、例えば、アメリカの発見といったような事件にかんするチェコ語の「新聞=新しいこと」 noviny を機会あるごとに印刷していた。十六世紀の後半に、プラハの印刷者のなかで最も抜きんでていたのはイジー・メラントリッヒ・ス・アヴェンチナとダニエル・アダム・ス・ヴェレスラヴィーナである。
十五世紀の後半から、わが国の文学のなかにも古代文学の古典の作品と結びついたフマニスムスが浸透しはじめた。しかし、フス主義の影響の強いわが国の環境のなかでは、かなり長い間、抵抗にぶっつかっていた。なぜなら、フマニズムはカトリックのイタリアから広まったものであり、また、それのほかにも、キリスト教から異端への転向ともみなされたからである。それゆえ、チェコの領土内よりも前に、フマニズムの思潮はハンガリーに浸透し、その地に、特に、教養あるマティアーシュ・コルヴィーン王の宮廷に支持を見出だしたのである。
<ブラチスラヴァに大学の設置> マチアーシュの発案で1467年にブラチスラヴァに大学が設置された。この大学はフマニスティックな思想を広げるはずであった。しかし長くは続かなかった。教授としてこの大学ですぐれたスロバキアの数学者ヴァヴジネッツ・コッフ・ス・クロンパフが活動した。
<市民文化> 十五、十六世紀のチェコ及びスロバキアの文化生活においては、市民階級が決定的な意味をもってきた。フス主義の文化伝統を引き継いで進めていたのは兄弟団だったが、十五世紀の終わりになって本来の厳しい原理から、一般の生活とかかわりをもつ方向へ態度を和らげたため、市民のインテリゲンチャ層のなかに大勢の帰依者を得ることになった。チェコの兄弟団たちは当時の学校組織、特に低学年の学校を発達させ、純粋なチェコの書き言葉に気を配った。町の学校のなかでは、当時、特にジャテッツ市の学校が有名であった。
<専門領域の文献> この時代のチェコ語の文献資料のなかでは、特に専門的著作が注目に値する。十五世紀末にはヴィクトリーン・コルネル・ゼ・ヴィシェフラッドの有名なチェコ語の法律書が書かれている。熱烈な愛国心と従属民衆の運命にたいする同情とに満たされている。チェコ語と文学の開花は特にヤン・ブラホスラフ(1523−1571)に負うところ大である。彼はチェコ兄弟団の司祭であり、自著の「グラマティカ」によって、チェコ言語学の基礎を築いた。彼の周辺から生れた最も重要な文学作品は配慮の行き届いたいた聖書の翻訳である。十六世紀末にモラヴァのクラリツェで出版された。
<マルチン・ラコフスキー・ス・トゥルツェ> ブラホスラフの言語学的作品につながるのは進歩的スロヴァキア人ヴァヴジネッツ・ベネディクティ・ス・ネドジエルで、十七世紀の初めにプラハ大学の教授だった。国家学的問題に没頭したのはスロバキアのフマニスト、マルチン・ラコフスキー・ス・トゥルツェであった。
十六世紀に国際的水準に達した専門文献は、自然学、医学、技術、経済学などのものである。この世紀の前半期には、ヤヒモフ<市>において、世界的意義をもつ広範な技術的、鉱物学的作品「鉱山学と冶金学に関する十二巻」が著わされた。その著作はドイツ人の医者イジー・アグリコラ(バウエル)がラテン語で書いた。彼は隣のサクソンの出身であった。この時代にはヤン・スカーラ・ドウブラフスキー(ドゥブラヴィウス)の価値あるラテン語の論文「養魚池論 O Rybnicich」がある。この書はチェコの養魚法の有名な高い水準を証明している。注目すべきなのはチェコ語で書かれた農業論、継ぎ木論、羊飼育論、その他のパンフレットがあることである。1518年には、最初の独立したチェコの地図が印刷で出た。ムラダーボレスラフの医者ミクラーシュ・クラウディアーンによって出版されたものだ。独立のモラヴァの地図は数学者で医者のパヴェル・ファブリチウスが1569年に初めて出版した。
チェコの医学は十五世紀前半のクジシュチャン・ス・プラハティッツ師やヤン・シンデル作品において、すでに古い伝統をもっている。十六世紀の初頭にはすぐれたチェコの医師ヤン・チェルニーが医学−植物学的論文を書いたが、この作品には、後に、当時の最大のチェコの自然学者タデアーシュ・ハーエク・ス・ハイク(1525から1600まで)がつながっていく。タデアーシュ・ハーエクは数学者、天体学者、測地学者としても有名だったが、彼の最も重要な作品は、イタリアの医者で植物学者ペットル・マッティオーリの筆になる「植物標本集 Herbarium」のチェコ語版の作成である。この作品は沢山の生き生きと描かれた標本画とともに1562年にプラハで出版された。別のチェコの天文学者ツィプリアーン・ルヴォヴィツキー・ゼ・ルヴォヴィッツは長期周期の惑星の軌道や、月と太陽の食の価値ある計算を行なった。ルドルフ二世の治世の時代にプラハでは学識豊かな外国の天文学者デンマーク人のチコ・ブラーエ、ドイツ人のヨハンネス・ケプラーも活躍していた。ケプラーはチェコに滞在中に有名な作品「新天文学」 Astronomia nova を書いた。プラハ大学にはスロバキア出身の有名な医学者ヤン・イェセンスキー(イェッセニウス)が働いていた。彼はわが国における実験解剖学の先駆者であり、プラハで初めて公式に学問的解剖を行なった。
<音楽と歌> 十五世紀と十六世紀にはわが国においては声楽が、フス主義の歌の伝統と結びつきながら発達した。それは、いわゆる文学的友好会、市民合唱団などが最高に花開き、教会の歌を育てたのだった。わが国には非常に沢山の賛美歌集 kancional と呼ばれる手書きの歌集が保存されており、それらの多くは豊かな絵の装飾が施されている。この時代から十九世紀まで、いくつかの「世俗的」民衆の歌も伝えられていた。音楽芸術は十六世紀には主として封建的宮廷に働く音楽家たちが発展させた。作曲家のなかで有名なのは貴族のクリシュトフ・ハラント・ス・ポルジッツであるが、後に1621年、反ハプスブルクの暴動に荷担した罪で処刑された。
<後期ゴシック造形芸術> 十五世紀の後半と十六世紀の初頭のわが国では、いわゆるヴラヂスラフ・ゴチックと呼ばれる後期ゴチックの造形芸術様式の影響がまだ残っていた。この時代の最もじゅうような建築記念碑はマチェイ・レイセクの諸作品(プラハのプラシュナ・ブラーナ、クトナー・ホラの聖バルバラ礼拝堂の完成)及び、ベネディクト・レイトの作品(プラハ城のブラヂスラフ・ザール、ロウニやクトナー・ホラの教会堂、その他)である。
スロバキアで最も注目すべき後期ゴチックの建築作品はブラチスラヴァやコシツェの大聖堂の完成とスピシュスキー・シュトヴルトクのザーポルスカー・カプレである。
<イェンスキー写本> 彫刻や絵画においては宗教的モチーフのほかに、日常生活の素材もすでに、しばしば利用されていた(例えば、鉱夫、百姓、職人の仕事から)。特に、賛美歌集やミサ曲集などの装飾に見られる。装飾の豊かさと美しさで際立っているのは、例えば、クトノホルスキー賛美歌集があり、少し後の時代のものでは、チェスコブロッツキー賛美歌集、その他がある。この時代のかけがえのない記念碑は、いわゆるイェンスキー写本と言われるもので、風刺的な、反聖職者的絵が描かれている(その後の保管場所の名称によってこう呼ばれているが、現在は「国立博物館」にある)。板の絵や壁絵は作者名不詳のまま「リトムニェジツキーの画匠」と呼ばれている画家の作品において高いs水準に達していることがわかる。同じ時代のスロバキアの彫刻家パヴェル・ス・レヴォチェは人間像のリアリスチックな表現にすぐれており、彼の作品は世界的に有名である。
皇帝ルドルフ二世の治世の時代にプラハの宮廷には外国の芸術家――彫刻家、画家、グ
ラフィック家など――も仕えていた。皇帝ルドルフ二世はプラハ城に、比類のない芸術作
品の収集を行なった。そのなかには異国趣味の珍奇なものの他に、時代の最先端をいく造形芸術作品をおさめた見事な画廊であった。
<ルネサンス建築> 十六世紀の30年代からわが国ではルネサンス芸術が優勢となった。貴族や王侯のルネサンス建築のほとんどはイタリア人の建築家の作品である。王侯貴族は古いゴチックの城が進歩した戦争技術のまえに軍事的意味を失い、すでに当時の生活に適応できなくなったとわかると、それらの城を険しい岩山の上に置き去りにした。新しい住み心地のいい館は平地の上に、最も多いケースは「臣下の都市」に隣接した場所、そして貴族経営農園の近くに建てられた。
この時代の建築記念碑のなかでは、プラハ城内の「アンナ王妃の夏の館」、リトミシュル、インジフーフ・フラデッツ、パルドゥヴィツェ、オポチュノの館。モラヴァ地方では、ブチョヴィツェ、ヴェリケー・ロシニ、ナームニェシュチ。スロバキアではベトラノフツェ・ウ・スピッシスケー・ノヴェー・フシ、ヂヴィアキ・ウ・トゥルチアンスキーヒ・テプリッツ、フリチョフツェ・ナ・スピシ、その他の領主屋敷である。
多くの町々がルネサンス様式に建て変えられた。美しいルネサンス風都市建築はプラハやプルゼン、ブルノ、オロモウツ、テルチュ、ブラチスラヴァ、レボチァ、バルデイヨフ、バンスカー・ビストリツェ、シュチアヴニツァ、その他の町に残っている。
十六世紀には、芸術的技能のなかで冶金、ガラス、陶芸が技術的にも芸術的にも高い水準に達した。
「第五章 白山後期におけるチェコおよびスロバキア民族の隷属化」へ進む
[目次]へもどる