V.フス主義革命運動


 (1)フス主義運動の原因                      
 (2)ヤン・フス師の影響と民衆の反対運動の始まり          
 (3)フス主義革命運動の全盛期(1419−1422)        
 (4)フス派の民族防衛運動(1422−1434)           
 (5)フス主義革命運動の歴史的意義                  

 1.フス主義運動の原因

 <15世紀初頭の社会的矛盾> 十三、十四世紀における生産力の急激な発展は封建社会内部の階級的対立を深めた。十四世紀には、いくつかの西ヨーロッパの国、フランドル、フランス、イギリスなどでは、すでに支配者階級に反対する大きな民衆蜂起にまで発展した。十五世紀の最初の十年間に階級的緊張の主な焦点はチェコに移ってきた。
 銀産出の豊かな地帯としてのチェコは、当時のヨーロッパの経済的、政治的、また文化的生活において非常に重要な地位を占めていた。貨幣経済の発展とともに、都市居住地の人口の密集化の前提条件が形成されたのである。そこでは手工業生産や製品の交換が集中的におこなわれる。それゆえチェコの国内にも他の多くの先進的な国々と同様によりきびしい階級的な対立が形成されはじめたのである。
 封建的土地所有者と従属的農民とのあいだの基本的階級対立にくわえて、都市における社会的対立も絶えず緊迫の度を加えていた。富裕な市民たちの支配者層は、ほとんどがドイツ国籍であったが、ギルドに組織された零細な手工業の親方たちや、同様にまた、特に都市の貧民層の者たちのにくしみを大いに煽ったものであった。しかし、専門職の親方たちと渡りの職人との間にもすでに対立は深刻化しはじめていた。
 同時に、支配階級の個々の要素間の権力闘争も激化していた。封建領主と「王領の町」の市民層との間にも経済的、政治的、社会的特権をめぐっての対立が増大した。上級の貴族と小さな地主<下級貴族>との間にも、同じように、特に農地をめぐって厳しい抗争や小競合いがおこった。領主貴族たちもやはり王の権力としばしばもめごとを起こした。

 <教会にたいする反感> しかし、なにはさておき、主要な攻撃目標となってきたのは、いやがうえにも繁栄をきわめてきたカトリック教会の物質的かつ宗教的権力である。極端なまでに信心ぶかかったカレルWの治世の時代以後、教会は豊かなチェコの領土にたいし、最も実り豊かな搾取の源泉として注意の目を向けるようになった。教会権力はわが国においてものすごい勢いでふくれあがった。教会や修道院は金や銀の膨大な財産をかき集めた。それらの財宝は遺言や喜捨やお布施として信者からだまし取ったものである。教会の高位の僧がしばしば自分の権力−政治的目的で悪用したこれらの富は、民衆の間には増大する反感を、貴族や富裕な市民の間には羨望を呼び起こした。
 しかしさらに大きな不快感を呼び起こしたのは、教会の手に土地財産をかき集めたことである。十四世紀を通して十五世紀の初めにいたるあいだに、高位の聖職者の土地財産は膨大な量にのぼり、教会は最も強力な封建的、所領民の搾取者となったほどであった。教会の所領が増大しつずけたことの理由には、遺産相続で分割されなかったこともある。その反対に貴族は、特に、下級貴族は土地の不足を一層感じるようになった。
 だが、その上さらに、教会が民衆から吸い上げた金が、滞りなく国境の外に、法王のご座所のほうへと絶えず流れていくという金の流れがあった。教会は恥じることもなく、民衆の目には神聖に見えるものでもって商売をした。教会の価値を、いわゆる免罪符、それを買うために金を払えば、教会のどんな戒律の違反でも許しを得られる免罪符を売っていたのである。この「神聖商売」のシステムは、十四世紀の終わりから十五世紀の初めに最悪の形式をとった。つまり、このとき法王が、最初は二人、次には三人も相対立して立ったのである。
 教会ヒエラルキーの上層部――そのほとんどが封建貴族層または富裕市民層の出身者であった――の手中へ富をかき集めることは、非常に大勢の下位聖職者の憎悪を呼び起こした。彼らは、通常はいつも、貧しさに耐えていた。なぜなら、自分の日々のパンを信者から托鉢によって得なければならなかったからだ。だから、低い階位の僧侶たちはそのほとんどが、無学な民衆の階級の出身であったから、民衆の反対運動の先頭に彼らが立ったのは当然であったのだ。

 <民族的対立> チェコの国では、社会的対立は異常な激しさを示した。それというのも、それは民族的対立によって倍加されたからである。上級貴族、高位聖職者、そのほとんどが移住者である富裕市民、これらの一派を民衆は憎んだ。その憎しみは、ドイツ語が優勢を保とうと力を入れていることによっても一層強められた。社会的反対運動は、それによって、民族防衛の運動にもなったのである。


 2.ヤン・フス師の影響と民衆の反対運動の始まり

 <ヤン・フス(1371−1415)> ヴァーツラフW王の治世の時代に、民衆層出身で、プラハ大学で学んだ若い説教師たちが一般世論に圧倒的な影響を与えはじめた。やて彼らの先頭に立ったのがヤン・フス師であった――彼の名前は、その後、すべての反対運動の名称となった。彼はフシネッツ・ウ・プラハティッツという小さな町の貧しい家庭に、多分、1371年に生れた。カレル大学を卒業後、哲学部の主任教授 dekan になった。間もなく民衆層のあいだでベトレーム礼拝堂の説教師として有名になった。ここに1402年から働いた。

 <ベトレーム礼拝堂> この礼拝堂は1391年に建立されたが、特別の使命をもっていた。この礼拝堂は実質的には大きな講堂で、チェコ語による民衆向けの説教のためとされていた。プラハの民衆の広い層の人たちがここで、その当時の最も切実な問題についてのヤン・フスの熱烈な講義を聞いたのだった。フスは教会の乱脈を批判し、貧しい者たちの搾取を弾劾した。

 <クトノホラの勅令(1409)> 十五世紀の初頭に、大学内で、イギリスの宗教思想家で改革派のウィックリフをめぐって擁護派と反対派とのあいだの抗争が始まったとき、フスは敢然としてウィックリフの側に立った。これにより彼は大司教の怒りと異端にたいする譴責をまともに浴びた。その後、ヴァーツラフWは法王の対立の問題に関して、大司教やプラハ大学のドイツ人教授たちと意見の不一致にいたったとき、フスの刺激もあって大学の規約の徹底的な変更を決意した。いわゆる、1409年のクトノホラの勅令であるが、これによりカレル大学におけるドイツ人教授の根拠のない特典を停止し、チェコ的活力の優位を保証した。この決定は大学の完全なチェコ化をもたらし、フス側の大勝利であった。フス自身はその後直ちに学長に選ばれ、カレル大学は起こりつつある運動の重要な支持基盤となった。

 <フス主義民衆運動の始まり(1412)> フスと大司教とのあいだの絶交状態は1412年に頂点に達した。フスは破門され、プラハでの司祭の職の禁止を宣言された。大司教はウィックリフの著作をひとまとめにして焼かせた。やがてフスが公然と法王の免罪符商売に反対の立場に立ち、信者はたとえ法王の命令であろうと、それがキリストの教えと矛盾しているなら、従う義務はないと公言してはばからなかった。法王はフスを破門にて、投獄し、ベトレーム礼拝堂は破壊するように命じた。
 しかし、プラハの民衆はフスの側に立ち、法王の命令が実行されるのを許さなかった。1412年から、反教会の気運が大きな規模で起こり、民衆の集団運動になった。プラハの街頭でのデモンストレーションには反法王的戯画を持ち出して、反教会的風刺歌を歌った。このときに、フス運動の側に最初の犠牲者が出た。免罪符商売に反対する暴動に参加した三人の若い職人が王の命令によって処刑されたのである。

<フスの著作> これ以上の法王の刑罰からプラハを救うために、フスはその年の秋に地方へくだった。そして1414年まで、コジー・フラーデクやクラコヴェッツにとどまり、田舎の人々の間で説教活動につとめた。領地農民たちの容赦ない搾取に反対し、キリストの教義の精神に反する行いの領主や教会に従う義務はないという考えを公に述べた。この思想は広い民衆層に熱烈な作用を示した。なぜなら、富者、封建領主あるいは富裕市民のだれひとり、本当にキリストの教えに従って生きているものはいないからである。田舎にいるあいだにフスは最も重要な作品を書いた。「神聖商売に関する書」と「説教集」である。彼はそれらの書を、以前の「信仰の解説、十戒と祈り」と同様に、チェコ語で書いた。彼はベトレーム礼拝堂での聴衆や素朴な田舎の人たちとの密接な交わりによって、できるだけ広い社会層の人々に理解できるように、民族の言葉で正しい社会の思想を説明するのがいかに大切なことであるかを認識していた。
 フスのチェコ語作品はチェコ語の文章語の形成と、チェコ民族文学発展にとって根底的な意味をもっている。彼の名前と結びつくのはチェコ語正字法の広範な簡素化である。それは厄介な一音複数文字表記を「チャールカ」や「テチュカ(ハーチェク)」といった記号の表記に代えたことなどである。フスは民衆の広い層を積極化するのに民衆の歌のもつ大きな意味を認識していたから、民衆の歌の育成には大いに心を砕いた。彼の説教活動のころも、またその後のフス戦争の時代にも、民衆の歌は大きな開花を見たのである。

 <コンスタンツの宗教会議とフスの死> 1414年、コストニツェ(コンスタンツ)に宗教会議が召集された。この会議は法王の対立と教会組織の混乱を取り除こうとするための会議だった。ローマ皇帝でありハンガリー王でもあるジクムント・ルツェンブルスキーはヤン・フスも会議に参加するように召喚し、安全な旅行と会議の傍聴と、その上に祖国への自由な帰国を保証する通行証をも約束した。しかしコンスタンツについて間もなく、フスは異端信仰の罪を着せられて、投獄された。そして教会の権威にたいし無条件で従うことを拒否したので、1415年7月6日、改心せぬ異端者としてジクムントの同意のもとにコストニツェの市門の前で焚刑にかけられた。

 <フスの意義> 真理のための英雄的戦い、性格的な強靭さ、たとえ命を代償としようと正しいことのために闘うという決意、これらのものがヤン・フス師をしてわが民族の歴史のなかの最も偉大な人物の一人にしたばかりでなく、全人類の歴史のなかでも偉大な人物にしたのである。フスはその活動の最初から、民族の真の代弁者であった。彼は説教においても、著作やそのたの公的活動において、民衆の広い階層の関心や、苦しみや、願望を表現した。彼の主要な功績は教会ヒエラルキーとの戦いであった。教会のドグマにたいする盲目的服従に反して理性を強調したことは、ヨーロッパ文化の発展において大きな一歩前進であった。

 <聖杯> フスの名前は革命運動と不可分に融合している。その革命の揺籃のそばにフスは立っていたのであり、フスの死後、それは完全に燃焼したのだった。フス運動はその象徴として、いちはやく聖杯を受け入れた。それによって「ふたつの方法 pod oboji zpusobou <ポドボイ スプーソプ>」(つまり、キリストの体と血の象徴としてのパンとワインである)による受け入れ派に帰依したのである――これはローマ教会の公式の教義とは異なる。
 その教義によれば信者にたいして、ただ「ひとつの方法」(つまり、パンだけ)によって、いわゆる聖なるものを与えるのである。ここから、フス派は「ポドボイ」または「ウトラグヴィステー」<ラテン語の uterque=チェコ語の oboji より>と呼ばれる。聖杯の象徴によってフス運動はキリストの最初の形の教会への回帰を願っただけでなく、一般の信者と、カトリックの教義により「キリストの血」(ワイン)をも受ける排他的権利を自分のものとした聖職者層との間の差をなくそうとする努力でもあった。聖杯のシンボルはフスの死後、わが国内での反教会的抵抗の広範な前線の連帯の絆となった。

 <民衆の過激化> フスの死はチェコの民族内にこの上もない憤りを呼び起こした。民衆の怒りは、フスの一年後にコストニツェでフスの最も親密な友人であり、フスの教えの熱烈な支持者であったイェロニーム・プラシュスキーも焼き殺されたときには、さらに激しさを増大させた。町でも、田舎でも、高位教会ヒエラルキーの憎々しい代表者たちにしかるべき償いをさせようとの決意を固めた。広い民衆層の過激化に大きな作用を及ぼしたのは、大きな群衆の小さな丘への集中効果であった。その丘へ周辺の遠いところからもやってきたし、それらの丘にたいしていつのまにか聖書からの名前がつけられた。例えば、ターボルの丘、フラデッツ・クラーロヴェーの耕地、ムラダー・ヴォジツェの羊とかである。プルゼン、クラトヴィ、ジャテッツ、ロウニ、スラニーといった町々ではフス運動の初期には民衆が支配権をもち、人々が予言によって救済を得る五つの「選ばれた」町とみなされていた。


 3.フス主義革命運動の全盛期(1419−1422)

 <1419年、プラハにおける大転換> 1419年の夏に民衆の反体制の流れは、巨大な社会革命運動の性格を加えた。民衆集団の闘争的登場の合図となったのは1419年7月30日のプラハの転覆であった。怒りに満ちた民衆は、急進的な説教師ヤン・ジェリヴィンスキーに導かれて、新市街区の市役所を襲って占領し、憎い市民階級出の評議員たちを窓から、住民の「大群衆」のうえに投げ落とし、新しい町の役員を選んだ。その後、間もなくしてヴァーツラフWは死んだときには、プラハにも、地方の町にも民衆の一大デモンストレーションがおこった。貧しいものたちは修道院や裕福な司祭の館を襲い、チェコ人の職人たちは市役所から、高位の聖職者や一部の領主たちとともに反動陣営にくみする裕福な市民階級のドイツ人を追い出した。革命運動の先頭には、職人たちと貧民層が主として住んでいたプラハの新市街<ノヴェー・ムニェスト>が立ち、その町の大勢の住民のなかに、ヤン・ジェリフスキーは後継者を見出だしたのである。

 <フス主義運動における民衆陣営と市民−貴族陣営> フス主義運動のこの時期には、教会権力にたいする反対陣営のなかに大勢の上級貴族たちもいた。これらの上級貴族っちは、莫大な教会の資産に攻撃をかけるチャンスが到来したことを認識していました。この無政府状態を利用して彼らは教会や王の所領を奪いとり、途方もなく富を築いたのである。しかし、彼らは十分満足すると、今度は、過激化した民衆の群れが自分たちに向かってくるのを防止する方策を求め始めた。しかし、同時に富裕化したチェコの市民たち(新しい市民階級)は、かってフスの支持者であった大学の教師たちのなかの何人かのものを自分たちのスポークスマンに仕立てて、民衆の運動にたいして、早くも反対の態度を示しはじめたのである。
 こうして、フス運動は最初から二つの陣営――革命的民衆の陣営と市民――貴族的反体制の日和見的保守陣営 に分裂していたのである。民衆陣営には職人たちや貧窮市民、田舎の不自由農民、大勢の零細な、貧困化した自作農民が属し、究極まで戦いを押し進めようと決心していた。それにたいして、市民−貴族陣営は反動勢力との妥協点を探ろうとしていた。

 <ジクムントにたいする反感> ヴァーツラフWの死後、王位の継承者には彼の兄弟のジクムント――ハンガリー王でありローマ皇帝――がなったが、チェコの民衆にとって彼の背信行為、とくにフスの死にたいする罪は忘れることのできないものであった。教会の反動勢力はチェコ内で根底から揺るがされた権力回復の希望をチェコ王としての彼の登場に託したのだった。それゆえ、チェコの王冠を得ようとするジクムントの努力はチェコ国内で決定的な決定的な抵抗に会うのである。その抵抗は15年間続き、その間にチェコ民族は外国と国内の反動勢力からの集中攻撃を受けなければならなかったのである。

 <ヤン・ジシュカ・ス・トゥロツノヴァ> これらの戦闘のなかで全フス軍の先頭に立ったのが、すぐれた指揮官ヤン・ジシュカ・ス・トゥロツノヴァであった。ジシュカは南チェコの小さな自作農(ゼマン)の家庭の出である。そしてすでに若いころ、南チェコの自作農から土地を取り上げたロジュンベルクの領主(パーン)たちへの報復の戦争に参加している。次の戦争体験はポーランドとドイツ騎士階級の修道士団との戦争に参加して得た。それは1410年、グルンドヴァルドでのポーランド軍の輝かしい勝利によってクライマックスにいたる。

 <ターボルの設立> 1420年の春にジシュカはフス派の戦士とともに、セジモヴォ・ウースティーからそれほど遠くないターボルの山に新しく設置されたフス革命運動の拠点に加わった。この驚くべき革命集団社会<レヴォルチュニー・オフツェ>、ここに最も確固たるフス主義の信奉者たちが集まっていきて、ジシュカの到着後、フス主義運動の最も堅固な戦略拠点となったのである。

 <フス戦争> ジシュカはその他の自作農出身の練達の兵士たちとともにフス戦争のあいだに、民衆革命軍の新しい、天才的な戦術、戦略を編み出した。フス派軍で最も効果的な戦争手段は、戦車によって組立てられた、移動式防壁だった。ジシュカは驚きの要因を戦闘に効果的に利用した。それによって、一握りの不完全な装備の農民軍をもって、大いに優勢な騎士軍団を打破ることができたのである。フス派軍は農機具の他にもしばしば飛び道具、鉄砲や軽砲を用いたが、それらは町のほうで作られたものだった。彼らはまた騎士たちの騎兵隊へ一斉射撃の強力な心理的効果を利用することもできた。

 <フス派軍の士気> フス派軍の優勢さは彼らの高い士気によっても示された。
その軍隊は主に町や村の貧民層に属する人たち、小作農や小職人たちから構成されている革命軍であり、彼らの全員が正義のために戦うのだという信念をもって戦争にきていた。それゆえに、フス派の合唱歌「だれぞ、神の兵士なるは」もまた力強い戦闘効果をもっていたし、その歌はしばしば戦争が始まる前に、もう敵を逃走に向かわせた。フス派の軍隊は完璧な組織と規律を保証する、特殊な軍の階級制度をもっていた。だから、ヨーロッパの隅々から徴用してきた、そして戦利品を血まなこであさりまわるような、反フス主義軍にそのような組織や規律を要求することはとうてい無理だった。

 <ターボル派の所有社会> ターボルはこの運動の最も重要なイデオロギー的中心だった。最初のターボルの住民の多くは、今こそ、キリストが地上に来臨して、千年間この地上に平和の王国を作る、そのときが来ようとしているのだというキリアズム<千年至福説>の信仰に満たされていた。彼らはこれまでの家を売るか、焼くかして、社会的使用に供するために、自分の財産の一切をもって新しい住居へやってきた。ターボルでも、その他のフス派の町、ピーセク、ヴォドニャニでも、広場に木桶が置かれ、共有の動産が集められた。
 ターボルはの所有社会はもちろん、生産手段の社会化に基づいてはいなかった。それは、忠実に実行されたキリスト教的隣人愛のユートピア的理念に基づく消費的コミュニズムであった。しかし、それには軍事上の意味もあった。なぜなら、それは次の戦争継続に必要な金銭的貯えの、ある種の共通の<どんぶり勘定の>軍資金でもあったからである。

 <ターボル貧困層の過激思想> 貧困層が決定的影響力をもっていたターボルの初期には、封建制度の根幹に触れるような非常に大胆な社会観がtーボルのなかで発言されていた。ターボル派の過激思想家たちは、これまでの支配階級の排除と、あらゆる権力の民衆への移管を要求した。野や畑、池や森はすべての者たちに共有のものであり、民衆のあらゆる搾取は停止すべきであるというのだ。
 同様に、信仰や神への奉仕の問題でも、ターボルのなかではカトリック教会のドグマを根底から揺るがすような思想が叫ばれていた。例えば、教会堂のなかには聖画、聖像、祭壇も不要である。それどころか、教会堂そのものが余計なものである。なぜなら、ミサなら穀物倉庫でも野っ原ででもできる。行列祈祷式、鐘、式服、断食、懺悔、祈祷、死者のための犠牲などは放棄され、教会の祭日、その他の廃止が叫ばれた。無学な民衆、靴屋、仕立屋、鍛冶屋が説教師として登場して、司祭の役を勤めた。女性までが説教することを許された。

 <ヤン・ジェリフスキーの過激派> ターボルにおけると同じような思想が他の場所、特にプラハでも広まった。それもヤン・ジェリフスキーを指導者とする過激派民衆陣営の間であった。この陣営の影響が著しく燃え上がったのは、1420年、十字軍の遠征に脅かされていたプラハの救援のために、ジシュカを先頭にターボル派軍が駆けつけたときであった。この十字軍は法王の要請によりジクムント王が、異端のチェコ民族を成敗するために動員したものだった。

 <プラハの四条項> 決戦の前に、ターボル派陣営はプラハの二つの陣営と共通の政治プログラムについて同意した。すなわち、プラハ四条項である。その第一は「神の言葉」の自由な発言にたいする要求。次に、両方<ポドボイ>での受入れの権利。第三は、貴族によるあらゆる種類の「世俗的支配」(とりわけ、いかなる土地も私有化しない)の停止。第四に、「重い罪」を払拭する。要するに、これらはキリスト教の教えにたいするもっとも重い違反なのである。

 <ナ・ヴィートコヴィエとポド・ヴィシェフラデムでの勝利> 1420年、フス派連合軍はヴィートコフの頂上とヴィシェフラッド城下でジクムントの十字軍にたいし大勝利を収めた。フス派のプラハは当時、その政治的力の絶頂期であった。1421年、プラハの指導のもとにチェコ諸都市からなる強力な防衛同盟が結成された。

 <チャースラフ会議> 1421年、チャースラフにおけるチェコ国の通常会議において、ジクムントは形式的にもチェコ王位から下ろされ、20名のメンバーからなる行政委員会が選ばれた。その構成は五人の上級貴族階級の身分のもの、七人の下級貴族、八人の市民階級のものが選ばれ、新しい王が選ばれるまで、行政を司ることになった。
 1421年は、フス革命運動が反動勢力との戦いにおいて最高潮に達したときだった。ターボルやプラハの軍隊は多くの領主貴族の城や、このときまでジクムント側にあった町を放棄せざるをえなくなった。ターボルやプラハの町の他にもフス派の重要な拠点が、ジャテッツやフラデッツ・クラーロヴェーにも作られた。フラデッツ・クラーロヴェーではオレプッスケー友愛団のリーダーにアムブロース司祭がなった。
 <フス派陣営内での対立> しかしながら、1421年の間にすでにフス派内部でも深刻な対立が発生していた。プラハ市民階級の日和見陣営は革命プログラムから逸れてくるのがだんだんとはっきりしてきたし、反動貴族の影響に屈し、ヤン・ジェリフスキーの貧民陣営とも、ターボル過激派陣営とも対立するにいたった。
 深刻な抗争はターボルそのもののなかでも起こった。貧民たちの苦痛や願望を代弁する過激なキリアズム(千年至福説)派にたいして、思想的に比較的保守的な僧侶たちが出てきたが、彼らはむしろ職人階級や小地主の利害に適合していた。過激なターボル派の僧侶たちのなかの何人かは、特に、ロクヴィスと呼ばれているマルチン・フースカとペットル・カーニシュは社会的にも宗教的にも大胆な見解に到達し、キリスト教の教義の基本自体についての疑問を広言するようになった。
 このことはもちろん、他のターボルの僧侶たちやプラハの大学の保守的な教授たちにも反感と怒りを呼び起こした。過激なキリアズムの信奉者たちは1421年にターボルから追放された。そして、頑として自分の確信を守り通すものは、次々に逮捕され、火あぶりにされた。ジシュカ自身、彼らにたいしては容赦ない厳しさで臨んだ。キリアズムの過激分子の排除は、ターボルないでの貧民層の発言力を弱め、零細市民と小地主<下級貴族>出身の戦士を優勢にした。

 <ジェリフスキーの死とプラハ人民支配の崩壊(1422)> その間、プラハではヤ・ジェリフスキーの陣営はプラハとターボルとの協同戦線を妨害しようとする市民−貴族陣営の企みを打ち砕いた。だが、しかし、1422年の初めに裕福市民の代表者たちが権力を握り、その後、間もなく、ジェリフスキーとその仲間9人をだまし討ちに暗殺してしまった。
 プラハ民衆の愛する指導者の死は大きな暴動を引き起こした。民衆は旧市街区にある市役所、裕福市民や司祭たちの館を襲い、五人の市評議員を処刑し、その後に自分たちの代表者をすえた。しかし彼らの支配も長くは続かなかった。プラハの反動は直ちに権力を取り返したからである。


 4.フス派の民族防衛戦争<1422−1434>

<フス主義運動左派のプラハ> プラハにおける過激派陣営の敗退の後、フス主義運動の歴史に新しい段階が始まった。農民−貧民集団はこれ以後の発展のなかで、もはやこれまでの何年間かのあいだに演じたような重要な役割を演じない。これ以後に連続する事件の舵取り役は主に市民階級と貴族階級のてに移ったと言える。プラハの政治的右傾化の後は、プラハとターボル、その他のフス派都市との連帯はとぎれ始めた。この両派の緊張関係は時として公然たる戦争となることもあり、その後はまたもや一時的な妥協に終わった。しかし、本質的にはフス派軍がリパニの戦いで究極的敗北を喫するにいたる展開の方向が、すでに1422年に決定されていたのである。この数年間、フス戦争は、過去三年間を満たしていた社会革命の戦争というよりも、民族防衛戦争の性格を強めていた。

 <ジシュカの勝利> 1422年の初めに、ジシュカはジクムント王軍をクトナー・ホラで敗走させ、ニェメツキー・ブロッド(現在のハヴリーチュクーフ・ブロッド)まで追跡して、そこで壊滅させた。

 <ジシュカの小ターボル> その後、ジシュカはターボルから出て、北東チェコに、いわゆる「小ターボル」をフラデッツ・クラーロヴェーの拠点とともに建設した。小ターボルには東チェコの都市連合が貴族し、大勢のフス派の下級貴族も参加を表明した。ジシュカはその後もずっと都市ターボル連合と有効関係を保ち、フス主義運動のあらゆる要因の協同の進行をするよう努めた。

 <マレショフでの戦闘> しかし、1424年、領主貴族と手を組みジシュカの部隊を粉砕しようと欲する、裏切りもののプラハ市民階級の軍隊と闘うことを余儀なくされた。ジシュカはクトナー・ホラの近くのマレショフの戦いで領主軍に徹底的打撃を与え、プラハ軍に講和と、モラヴァ遠征に一緒に参加することを強いた。しかし、この遠征の途中、1424年10月11日にプシビスラフで急死した。

 <ジシュカの意義> ジシュカの死とともに、フス主義運動はその最も重要な軍事的代表者を失ったのである。独創的な戦術は片目の指揮官の名を有名にし、同時に、遠くヨーロッパじゅうを恐れさせた。
 しかし、ジシュカの無敵さは彼の軍の指揮官的才能にのみあったのではなく、むしろ、彼の革命軍の比類のない士気にあった。その軍の戦果はチェコの人民の記憶のなかに焼きついている。

 <みなしご> 指揮官の死後「みなしご」の名称をもらったジシュカ軍は、その後も大部分ターボル派とともに進み、決定的瞬間にはプラハ方にも同一歩調を取らせることができた。

 <大プロコプ> そのことに関しては、すぐれたジシュカの後継者、通称「禿げの」とも呼ばれている大プロコプの功績に負うところ大である。彼はすぐれた指揮官であり政治家であったばかりでなく、フス主義運動の重要なイデオローグでもあった。十字軍の名をかかげた国際的反動の干渉にたいして、フス派軍があげたこれ以後の輝かしい勝利は、すべて彼の名と結びつく。
 1426年、ターボル派、みなしご、及び、プラハ人連合軍はウースティー・ナド・ラベムで、ドイツの封建領主たちが組織した遠征軍を撃ちやぶった。次の年に、フス派軍はタホフにおいて、イギリス人の枢機卿の指揮する十字軍の大部隊を惨めな敗走においやった。

 <周辺国へのフス派軍の遠征> その頃、フス派軍はしばしば反撃に転じ、周辺の国にまで遠征を企てた。そのようなとき、彼らは民衆の効果的な共鳴に出会ったのである。民衆は多くの場合、封建領主や高位の聖職者の館の攻撃のときにはフス派軍にくわわったのである。フス派軍がチェコから出かけたときよりも大勢になって、「代成功の遠征」から戻ってくることも少なくなかった。フス派軍は遠征によってスロバキア、ハンガリー、オーストリア、ドイツ、スレスコにまで進軍し、また、ドイツ騎士団に反抗するポーランド援助の作戦のときは、バルト海沿岸にまで達した。同時に彼らは自分たちの思想を、いろいろな国の言葉で書いた宣言文を、広く中部、西部ヨーロッパに配布することによって広めた。フス主義の思想はスロバキア、ドイツ、フランス、その他の国での民衆の運動に直接影響を与えた。

 <スロバキアのフス主義> フス派軍の何度かのスロバキア遠征あいだに、スロバキアの民衆は蜂起によってフス派軍を応援した。例えば、フス派軍のブラチスラヴァの包囲作戦のときは、そこの都市貧民層は裕福市民にたいして立ちあがった。これらのスロバキア遠征の間に、フス主義についての認識は広まり、ドイツ富裕市民に反感をもつ諸都市ではスロバキア的活力が強まった。ブラチスラヴァのフス派は1428年にすでにスロバキアのフス派の最大のグループを作っていた。有名なフス派軍の軍団はリカヴァ、ホリーチュ、トポルチャニであり、みなしご軍団はトルナヴァにも駐屯した。1429年ブラチスラヴァで行われた、チェコのフス派の指揮官たちとジクムント王との交渉の間に、フス派はそこの住民たちのあいだに多くの新しい信奉者を獲得した。フス主義運動の影響のもとにラテン語とともにチェコ語も文書の言葉になった。

 <ドマジュリツェの勝利> 1431年、外国の反動は法王の名代ユリアーン・ケサリーノの率いる第五回十字軍遠征を企てた。この十字軍は結局は異端のチェコ人を壊滅させるはずのものだった。しかし、十字軍はドマジュリツェで、遠くから近付いてくるフス派軍の軍歌を聞くやいなや不可解な混乱に陥り、敗走してしまった。

 <領主軍団の誕生> その頃、法王は、外国の軍団ではチェコ民族を撃ち負かすことはできないという認識をもつにいたった。それゆえ、和解の振りをみせて、フス派陣営<ターボル>内部の対立を深め、チェコ内に裏切りの要因を強め、それをターボル−みなしごの頑強な野戦部隊と決定的衝突に至らせるというのである。そこで、大プロコプを先頭にフス派の面々がバシレイ<バーゼル>の宗教会議に招待されさえする。そこでまる三カ月の間、彼らと枢機卿たちとのあいだで、チェコ民族が何故に、法王によってこれまで祝福を拒否されてきたかという問題点について議論した。しかし同意にはいたらず、話はプラハに持ち越された。この交渉の間に領主軍団が組織された。つまり、この軍団はターボル−みなしご軍の裏をかいたのだった。領主軍団にはカトリックの領主貴族と大部分の聖杯派貴族とプラハ旧市街の富裕市民が手を組んだ。

 <リパンの戦い(1434)> 連合反革命軍は真先にプラハの新市街を攻撃した。そこはふたたびフス派の過激陣営に支配されていたのだった。その指導者にはヤン・ジェリフスキーの後継者ヤクプ・ヴルクがなっていた。そのすぐ後の、1434年5月30日、ターボル−みなしご連合野戦軍はリパニの決戦で領主軍団に完敗する。大プロコプをはじめ、フス主義運動のその他の名だたる代表者たちはこの戦闘で倒れ、捕えられたフス派の多数の勇士たちは火あぶりになった。こうしてフス主義運動は国内の裏切りによって敗れた。その運動はヨーロッパの反動勢力の集中的圧力をゆうに十五年間、堂々と耐えてきたのであった。


 5.フス主義革命運動の歴史的意義

 <フス主義の国際的意義> フス主義の革命運動は、その目的を十全に果たしえなかったとしても、わが民族の過去におけると同様に、全人類の歴史的発展においてもこの上もなく大きな意味をもっている。チェコ民族は歴史的発展のなかで、全ヨーロッパ民族のなかの最初の民族としてローマ教会の絶対支配に反抗して立ちあがる。フス主義運動は、他のヨーロッパの国々が実行するよりも優に百年も早く、教会の膨大な土地財産を世俗化した。同時に長い間にわたって、ローマ教会側からのイデオロギー的圧力からチェコの国を解放した。法王の地位というドグマチックな権威に深刻なショックを与えたし、それはまた、人類の思想発展のなかで、教会的ドグマチックな世界観から理性的世界観へ向かう進路の上の大きな前進の一歩であった。十六世紀にプロテスタント教会のローマからの分離を頂点とするカトリック教会の大規模な分裂も、もとはフス主義に端を発するものであった。

 <フス主義イデオロギーの性格> 最も過激なフス主義の理念は、教会的かつ支配者的権力や全封建的、経済−社会的制度の排除を目指した。フス主義はもちろん、社会秩序の革命的変革という明確なイデオロギーをまだもっていなかったし、当時では、まだもちえなかったのだ。フス主義の思想家はキリスト教的隣人愛を基礎にして、公平な社会秩序を実現することはできないだろうかという、ユートピア的観念から出てきたものである。だが、たとえ、フス主義時代に民衆の集団が求めて戦った社会理念は、もともとそのユートピア的性格のゆえに実現不能なものだったとしても、階級闘争の発展のなかで、封建時代としては大きな意味がある。

 <フス主義革命運動における民族性の問題> フス主義運動は単に強力な社会革命的運動であったばかりでなく、チェコ民族の愛国主義的戦争でもあった。フス派の民衆は、ドイツ人の富裕な市民階級やドイツ人の高いヒエラルキーにも抵抗して戦いながら、自分の社会的、そればかりでなく、民族的抑圧者とも戦ったのである。ドイツの搾取階級のチェコからの追放と外国の敵の軍事的介入の撃退は、チェコ人の民族的連帯の強固化に大きな作用を及ぼした。フス運動はチェコ民族意識と他のスラヴ民族との近親感を強めた。しかしながら、フス主義的愛国心は国家主義的偏見と憎悪に満ちたショーヴィニズムとは区別された。フス自身もまた、善良なドイツ人は悪い兄弟よりも好ましいと強調しているし、フス派の戦士たちは自分たちの陣営にドイツの貧しい人々を迎え入れた。彼らもまた、フス派たちが彼らと同じ生活の問題のために戦っていることを感じ取ったのだ。

 <フス主義の伝統> フス主義は輝かしい進歩的そして革命的伝統の発端と与えた。この伝統はチェコとスロバキアの民衆のその後の自由化の戦いにおける大きな力となった。それはまた、聖職者たちの反動性との不妥協性の伝統、あらゆる抑圧と搾取にたいする戦いの伝統、デモクラシーと自由と独立の伝統であり、その伝統は、15−18世紀の無数の農民の暴動において、また、その後の、民族再興の時代に、そして1848年のプラハにおけるバリケードによる6月の戦いにおいて、常に新たに蘇ったのである。わが国の革命的労働運動はその最初からフス主義の伝統に結びついている。チェコスロヴバキア・コミュニスティツカー・ストラナはそれを高く掲げたのだった。それはまた、スペインの反ファシズム戦争において、また、第二次世界大戦時代に、ソヴェット軍と肩をならべて民族解放のためのチェコスロバキアの民衆の愛国的戦いにおいて、チェコやスロバキアの義勇兵たちにとっての心の支えだった。フス主義の伝統は今日までわれわれにとって生きた力の源泉である。



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