U.十三、十四世紀における封建主義社会の繁栄
(1)経済的、社会的変化
(2)封建的専制の確立
ハンガリー ―― スロヴァキアにおける発展
(3)13、14世紀における文化生活
<入植化> 十二世紀の末から全中央ヨーロッパでは生産力の発展が著しく速まった。農業においても、手工業生産においても徹底的な変化が起き、その結果は当時の現実世界の社会的、政治的、文化的生活の上にも現れた。十三世紀と十四世紀前半の最も大きな特徴は、そのときまで森林地帯であった地域へ入植し、また荒れ地を耕作地に変え、新しい村や町を築くという熱烈な動きである。わが国における、この大きな定住化(入植化)行動に参加したのは国内の住民ばかりでなく、西のほうからの、特にドイツの地域からの外国人のグループもいた。
<農業における進歩> 農業における進歩は単に種を蒔く耕地の広がりだけでなく、耕作の方法の改良によっても達成された。この時代には、種蒔きについては、畑は一般に広がっていた。いわゆる三段方式(trojpolni system)である。その原理は、秋蒔き、春蒔き、休耕の交替に基づいている。この方式は、わが国では初期封建主義時代に、すでにいくつかの地方で知られていた。畑の耕作のためには、原始的なすき、くわの他に、だんだんと鉄のすき刃が用いられるようになってきた。
新しい村の設立に際しては、原則として入植者の権利と義務が明確に定められた。そして、そのことに関しては文書による記録が調えられ、それによって入植者にたいして土地の世襲的借地権者になったことを保証した。封建領主たちは入植者にたいして、契約された領地民としての義務が果たされるならば、割当てた土地は取り上げないと約束した。通常は契約を結ぶ際に入植者は前もって、いわゆる前払金(zakup )を払ったのである。それゆえ、この協定は前払権(pravo zakupne )あるいはnemecke pravo とも呼ばれ、古い居住権(pravo domaci)とは異なる。
新しく設置された村には「リフターシュ rychtar」と呼ばれる村長がいて、所によっては「シュルツ sulc 」または「フォイト fojt 」とも呼ばれ、スロバキアでは「ショルティース」または「シュクルテート」と呼ばれていた。それは通常入植者のなかの最も裕福な人物で、彼は村の組織に気を配る。配下の住民にたいする下級の裁判や警察、処罰の権利も彼に属する。
十三、十四世紀にはチェコの土地にもスロバキアにも、貴金属採掘の大ブームが起こった。チェコもスロバキアも当時のヨーロッパのなかでは、最も豊かな金や銀の発掘場とされていた。チェコは間も無く、特に、豊かな銀の鉱石で有名になった。スロバキアは当時のヨーロッパの金、銀、銅の採掘に重要な役割を分担していた。当時の鉱山の中心地はチェコではイッフラヴァ、ニェメツキー・ブロッド、クトナー・ホラと、イーロヴェーであり、スロバキアではバンスカー・シュチアヴニツァ、クレムニツァ、バンスカー・ビストリツァ、スモルニークと、ゲルニツァだった。
金属を川砂(金、錫)から水で洗って選別して採ったり、露出した鉱石(鉄、一部、銀や銅)から採っていた以前の時代とは異なり、この時代になるとすでにいくらかの機械設備をつかって、深い地下からの採鉱が始まった。そのなかでも最も複雑なのは、馬を動力源にした巻上げ機の仕掛けであった。
貴金属の採掘の主目的は貨幣鋳造の原料の獲得であった。それゆえに、採掘と熔鉱炉と鋳造とは密接な関係があり、王権力の直接的監視下にあった。採掘された貴金属の優先購入権と採掘量の一定割合いの配当が王に属していた。鉱山業と熔鉱炉と貨幣鋳造の領域では、他の産業分野よりも精巧な作業の組織化と、より複雑な生産関係がいちはやく形成された。
採掘は鉱山事業家や鉱石商人に巨大な利益の可能性を提供した。従って、間も無く相互の間に、一方には富んだ採掘業者がいて大事業家 nakladnik と呼ばれるかとおもうと、一方には無一物の炭鉱夫や大勢の予備の「鉱山関係者」がいて、彼らはすでに大部分が賃金契約で働いていた。
<ヴァーツラフ二世の鉱山法> 1300年頃、クトナー・ホラの豊かな銀の鉱床発見後間もなくして、イッフラヴァ銀鉱山法を下敷きにした有名な、ヴァーツラフ二世王の鉱山法が作られた。この法律は、鉱山事業における法律関係を統一的に調整するものであった。これはすぐれた法律的労作であり、鉱夫の労働条件、鉱内の安全作業の確保についての注目すべき規定を含んでいる。この法律はスロバキアの鉱山の町でも直ちにさいようされた。チェコの鉱山法は中央ヨーロッパのあらゆる鉱山法の基本となり、その後、十六世紀には、海の向こうの鉱山地帯へも持ち運ばれていった。
<貨幣鋳造法の改革> 同時に、1300年には、ほとんど純粋な銀による高額貨幣の鋳造が始まった。いわゆるプラハ・グロシュと言われるもので、間もなく広くヨーロッパじゅうで、不可欠な支払い手段となった。あらゆる貨幣の鋳造がクトナー・ホラの王立造幣所に集中された。十四世紀の前半にはすでに、チェコの王は中部ヨーロッパでは最初のドゥカーティ(フロレーニ)と呼ばれる金貨の鋳造をした。
<クレムニツァ> チェコの例にならってハンガリーの王たちも、採掘と貨幣鋳造に改革を行い、クレムニツァではハンガリー金貨(ドゥカーティ)を鋳造しはじめた。この金貨はヨーロッパで最も高価な通貨であった。
<封建主義経済における通貨(銭)の意味の増大> 貴金属採掘の発展はわが国土のあらゆる経済−社会生活に深刻な影響を与えた。急速に蓄えられた非常に豊富な銀は、他のあらゆ商品の価値の尺度としての有価貨幣の大量の鋳造を可能とした。その結果は直ちに、田舎でも都会でも現れた。
田舎では封建的搾取の古い方法(労役、産物の献上)とともに、さらに加えて金銭の形の支払い義務(利子と言われた)が導入された。十四世紀の終わりまでには、わが国土内の封建的租税 renta は金銭の形が優勢になった。封建的租税や前払金 zakupne pravo の金銭形式の一般化は奴隷的拘束といった非人間的形式の排除、また領地民のより緩やかな従属関係への変換に影響を与えた。
<領主貴族と騎士の身分> 租税支払いの金銭形式への移行は封建的貴族階級内部での財産所有の差を深くした。十三世紀の末に、貴族はすでに二つのグループにはっきりと分かれていった。後には身分 stav といわれる、領主貴族 pansky と騎士または下級貴族 vladycky である。領主貴族層(パンスキー・スタフ)は一握りの最も豊かな土地所有者 からなり、領地内の最も重要な処理機関を手中に納め、領地内の政治権力を国王と分かちあっている。数的には何倍も多い騎士層(stav rytirsky )は戦争のときには武装騎兵隊の主な構成要素である。
<都市の発展> 経済生活における金銭の浸透は都市の発達も可能とした。都市は手工業生産の中心地として、同時にまた市場の中心地として、前の時代からすでに存在していた。しかし、あまり発展もしなかったし、数も多くなかった。千人規模の町はすでにどちらかといえば大きい町の部類に入った。十三、十四世紀には大部分の古い町は経済的にも強力になり、人口も多くなり、国王からも大きな特権を与えられた。そのほかにもこの時代には、多くの新しい町が、古い居住地のそばに突然、発生したのである。十四世紀末までに、チェコには中央ヨーロッパでは最も人口密度の高い都市住宅地域が成長したのである。同様にスロバキアでもその時代に都市が生れた、あるいは都市特権を獲得した町が、ハンガリー国の他の領域よりもはるかに多かった。
都市はその当時、多くの経済−社会的、また政治的性格の特権を受け取っていた。それは市場を開く権利と、さらに、一マイル権(つまり、町の周辺一マイル以内では、なに人たりとも職業を営むことを許さない特権)、ビール醸造権、町の周辺を防壁で囲う権利、市民の個人的自由の権利、重要なのは、町の自治権、町の紋章、印章、その他の権利である。
<国王の町と家臣の町> 最も重要なのは国王の領地に置かれ、国王から広範な特権を付与された「王様の町 kralovske mesto」があることである。王様の町のなかでも特別の地位にあるのが鉱山の町である(イッフラヴァ、クトナー・ホラ、バンスカー・シュチアヴニツァ、クレムニツァ等)。王様の町の市民たちは、貴族、騎士、聖職者といった封建社会の他の特権的身分階層<privilegovany stav>と並んで、市民身分<mestsky stav>をしばしば組織した。貴族や騎士や聖職者によって作られたそれ以外の町は「臣下の町」と称された。それらの町は王様の町ほど広範な特権をもっていず、その町の住民はときには不自由農民と同じレベルに置かれることさえあった。
町の住民はその大部分がなんらかの手工業的小規模生産に携わっていた。しかもその生産はだんだんと細分化されていき、ついにはどんな種類の製品にも専門的職能部門が出来た。職人たちは大部分が注文によってのみ、あるいは地元か地方の市のためにのみ製造した。個々の職能への所属者は結合して自己防衛の組織を作った。それがギルド<cechy>である。なかでも最も古いものはチェコとスロバキアに十四世紀の初めに設立された(たとえば、コシツェの毛皮兄弟団は1307年創立である)。
ギルドはある技能の限られた一定数の親方<ミストル=マイスター>に専門製品の独占権を保証し、相互間の競争を防ぎ、材料と製品の質と価格を監視し、渡り職人の賃金を決めるなどの役割をはたす。渡り職人はギルドの規定によって親方と従属関係に置かれる。
<富裕市民> すべての大都市には間もなく豊かな商人、そのほとんどが外国人だったが、定住するようになった。彼らは数的には多くはなかったが経済的にも政治的にも強力な社会の構成要素となった。いわゆる都市裕福市民層であり、彼らは必ずと言っていいほど町の行政を牛耳っていた。職人の大部分は町の行政に影響力をもっていなかった。職人と裕福市民との対立は民族的性格をさえ加えてきた。例えば、1381年にルドヴィーク一世王はジリナの町議委員にスラヴ人とドイツ人を同数にする勅令を出した。
<都市の貧民区> しかし、このほかにも当時すでに大きな町(=都市)には大勢の都市貧困層、無産市民 plebejec がおり、彼らは不動産も、多くの場合自分の仕事の道具も持たず、大部分が日雇いの助手労働者としての生活を余儀なくされていた。十四世紀には技能をもった渡り職人の大部分がすでにこの種の労働者に属していた。彼らはいつかは独立の親方になるという可能性を失っていた。
<国王と上級貴族、及び教会との葛藤> 経済−社会的変化はチェコおよびスロバキアにおける支配権力の発展にも反映した。十三、十四世紀における貴金属生産の発展はチェコ王国及びハンガリー王国の国力増大の基本的前提を築いた。しかし、封建主義的専制の確立は直線的に、なんの障害もなしに進んだわけではない。国王たちは上級貴族たちの領地の細分化を阻止しようとする努力を克服しなければならなかった。上級貴族たちは確かに、一方で国王を支持した。それというのも自分たちの階級的利害を守るためだったのだが、またもう一方では、国王の権力が強くなりすぎたとか、国王が支持基盤を他の特権的社会要素――高位聖職者または下級貴族や市民階級に求めようとしていることを感じ取ったといはいつでも抵抗に出た。
しかしながら、王権強化の努力の前には、国内政治の理由からであれ、国際政治の理由からであれ、教会もしばしば立ちふさがった。この時代、教会はあらゆる世俗的干渉から逃れるために、また、大きな経済的かつ政治的権力と教会の治外法権性を永久に保証する大きな特権を得るために、執拗な戦闘に突入していた。教会ヒエラルキーは常にローマ法王の決定的な影響下にあったから、法王の国際政策は度々チェコ王の権力的発展と衝突した。
<チェコ国の権力増大> 十二世紀の終わりに、チェコ国の危機はうまく回避され、先の領土分割もその大部分を回復することができた。十三世紀の前半、頑健なる国王たちプシェミスル・オタカル一世(1197−1230)とヴァーツラフ一世(1230−1253)の治世の時代に、チェコ国は内部的に確固となり経済的にも強大になったばかりでなく、国際的にもだんだんと重要な地位を占めはじめた。そのことを証明するのが、いわゆる1212年の「シチリア金印勅書 Zlata bula sicilska」であり、ローマとドイツの王フリードリッヒ二世が公式に証言し、ローマ−ドイツ帝国にたいする関係においてチェコ国の自由を広げたのである。
<プシェミスル・オタカル二世(1253−1278)> はチェコ歴代の王のなかでも最も力ある王の一人だった。彼の治世の時代にプシェミスル王国の版図は南はアドリア海にまで広がったのである。チェコの王権は当時、中部ヨーロッパの最も重要な王家の一つだったのである。そして、プシェミスル二世はローマ王の称号にも手が届きそうな希望すらもてたのである。しかし、チェコの権力があまりにも大きくなることを危惧した法王の外交政策の影響で、ドイツのルドルフ・ハプスブルグ公が選ばれてローマ王となった。プシェミスルはこの選挙を承認せず、法王にも反抗して立った。
しかしこのとき、チェコ貴族の一部が密かに裏切りの反抗を起こした。やがてルドルフ・ハプスブルクがハンガリー王も味方につけることに成功すると、1278年、モラヴァ平原の戦闘でプシェミスルにたいし勝利を収め、そこでプシェミスルは殺された。プシェミスルの死後モラヴァは一時オーストリアの併合され、チェコは数年間、オタ・ブラニボルスキーの軍隊に残酷に略奪された。彼は未成年の王位継承者ヴァーツラフ二世の後見人だったのである。
<ヴァーツラフ二世(1278−1305)> の治世になる後年になって初めて、チェコ国の力はふたたび確固となった。1300年にヴァーツラフ二世はポーランド王の位にもつき、これまで長いあいだ細かく分断されていたポーランドの国土を一体化させた。
こうして十一世紀の初め、ボレスラフ・フラブリーの時代にあったように強大なチェコ−ポーランド連合国の形成の試みにふたたび達したのである。そのすぐ後、ヴァーツラフ二世は自己の血族の権力をハンガリーの王家にまで広げた。
<プシェミスル王家の断絶> チェコ国の力は急速に増大したのだが、またもや外国からの抵抗に阻止される。プシェミスル・オタカルUの治世の終わりころと同様に、チェコの王権にたいして当時ローマ−ドイツ国の王だったアルブレヒト・ハプスブルスキーが抵抗を示したのである。同時にローマ法王はハンガリーの王位にヴァーツラフVの代わりにフランス王家アンジュオフツィのナポリ分家のカレル・ロベルトを据えようと画策をはじめた。これまではプシェミスル家にくみしていたハンガリーの領主貴族<velmoz>や高位の聖職者たちの多くがアンジュオフツィ側に移った。それらのなかに強力な領主マトゥーシュ・チャークがいた。彼の主城は要塞堅固なトレンチーン城だった。こうして1305年にヴァーツラフUが没すると、ヴァーツラフVには、少なくともチェコとポーランドの王位を守るためにはハンガリー王位を放棄するしかなかった。たとえ、その直後に、1306年に、ポーランド出征の際、オロモウツで暗殺されることになったとしてもである。ヴァーツラフVの死によってプシェミスル家の男系は絶えたが、その末期の王たちはチェコの国を中部ヨーロッパのなかで最も豊かにしたのだった。
<ヤン・ルツェンブルスキー> 1310年、チェコの王位は政治的にも文化的にもフランスの影響を受けた外国の王朝ルツェンブルク家の手に入った。ルツェンブルク家の最初のチェコ王位には、ヴァーツラフVの妹エリシュカ・ルツェンブルクを妻としたヤン(1310−1346)がついた。彼の治世の間は王権は著しく低下した。ヤン・ルツェンブルスキーは確かに有能な外交官であった。チェコのために新たに何箇所かの領土を獲得した。特に、スレスコである。しかし、彼は大部分を外国で過ごし、チェコに来るのはいつも短期間にすぎず、彼自身の出費の多い騎士的生活の財政手段を得るためであった。
チェコの王位の名声は外国には広まったが、国内では「外人王」のままであった。国内支配の実権は領主貴族が完全に握っていた。1346年にヤン・ルツェンブルスキーはフランスのクレシュチャクの戦闘で戦死した。彼は完全に失明していたが、フランス王の側についてイギリス軍と闘っていたのである。
<カレル四世(1346−1378)> 彼の息子カレルWは揺らいでいた王権をふたたび立て直し、チェコ国を強大な封建的専制国家に仕上げたのである。カレル四世はローマ−ドイツ王の称号を受けた最初のチェコ王であり、そして後には皇帝の王冠をさえ得た。
特別の法律、いわゆる1356年の「黄金勅書 Zlata bula 」によって、皇帝の権限によって、ローマ−ドイツ帝国にたいしてチェコ国の自由を改めて、公に宣言した。黄金勅書のなかでカレルWはチェコ語にたいする彼の愛情を表明し、代表的ドイツの王侯(選帝侯)たちに、息子たちにチェコ語を学ばせるように指示した。彼はまたスラヴ典礼の復活をも試み、プラハにホルヴァーツコから呼びよせた、フラホリック文字もわかる修道士たちのための「ナ・スロヴァネフ(スラヴ人のための)」と呼ばれる修道院をエマウジ地区に建てさせた。
カレルWはチェコ国内における権利関係を正すために、「マエスタース・カロリナ」と呼ばれる特別の法律を準備していた。しかし、国内議会での貴族の反発のためにこのすぐれた法律作品は日の目を見ずに終わった。なぜなら、法律は封建領主の絶対的権利をいくつかの点で侵害していたからである。
<ルツェンブルク勢力の全盛> カレルの治世の時代にチェコの国にはドルニー・ルジツェもスレスコの大部分とブラニボルスコが加えられた。カレルの死後、膨大な封建的専制国家はルツェンブルスキー一族の面々の間で分配された。カレルの息子のヴァーツラフW(1378年から1419年まで)はまだ父の存命中にローマ王に選ばれていたが、チェコの王位を手放さなかった。彼の兄弟ジクムントは1387年にハンガリー王になった。ルツェエンブルスキー一族の権勢は1400年頃にはヨーロッパの権力者のだれも比べるものがないまでになった。
<ハンガリー王オンドジェイUの黄金勅書> プシェミスロフツィと同様に、十三世紀を通してアルパードフツィ王朝のハンガリー王たちも支配権力の強化に努めた。しかし彼らの努力はハンガリーの領主貴族などの頑強な抵抗に直面した。加えて、中小貴族も自己の特権の拡張に賛同し、1222年にはハンガリー王オンドジェイUにたいしいわゆる「黄金勅書」の発布を強要した。その勅書は今後の数百年にわたってハンガリーの封建領主に広範な自由を保証するものであった。
<ハンガリーのクマーン族> オンドジェイの後継者ベーラWは王権の強化のために戦闘的な遊牧民クマーン−ポロヴェッツ族をも利用した。彼らはその数は約四万ほどで、モンゴル族に敗れた後、ハンガリー王国の庇護の下に東方から避難してきていた。しかし、彼らが異端の信仰を捨て、定住生活と、封建的経済−社会制度を受け入れるまでにはずいぶんと長い時間がかかったのである。
<スロバキアとモラヴァへのタタール族の侵攻> クマーン族の後、1241年にスロバキアとハンガリー低地にモンゴル・タタールの軍隊が攻め込んできた。彼らはキエフ・ロシアを占領したのち、侵略の矛先を中央ヨーロッパに向けたのだった。1241年から1242年の間、彼らはスロバキアとモラヴァの一部をひどく荒らし回り、大勢の住民を奴隷に連れ去った。ハンガリー王ベーラWは彼らが去ったあと、住民の減少を補うために、そのあとの地、主に中部および北部スロバキアの鉱山地帯への入植をドイツ人(サクソン人)に熱心に呼びかけた。
<13世紀後半のスロバキアにおけるチェコ軍> 十三世紀後半に、ハンガリーには、王家内部の抗争に起因する封建的無政府状態が頂点に達した。ハンガリーの王たちとチェコ王プシェミスルUが不仲であったときに、チェコの軍隊が度々スロバキアに侵入し、スロバキアの西部、中部領域、フロン河のほうまで達し、一時的に駐屯した。ラディスラフWは母方がクマーン族の出だったので、彼の治世の時代にはクマーン族が王の宮廷で強い影響力をもった。クマーン族とタタール族の軍隊の暴虐な侵入は特に、東スロバキアの民衆にとってはとんだ災難だった。
<1301年、アルパード王家の断絶とハンガリー王位のチェコ王> ラディッスラフの跡継ぎオンドジェイV(1290−1301)の死によってマジャールのアルパードフツィ王朝は途絶えた。ハンガリーの貴族の大部分は、そのとき、聖シュチェパン<ハンガリー王国の建国者>の冠をチェコの王子ヴァーツラフVに差し出した。彼は新しく受けた名前ラヂスラフXとしてハンガリーの王位についた。こうしてチェコの王家は一時的にではあったが、三つの強大な王国チェコ、ポーランド、ハンガリーの支配権を手中に結び合せることに成功したのである。プシェミスロフ家はこのとき権力の絶頂期に達していたのである。
<カレルU.ロベルト> やがてハンガリー王にカレル・ロベルト(1308年から1342年まで)。しかし、大貴族たちの強すぎる勢力を押え、国内に王の支配権を確立するまでには、かなり長い時間を要した。西と中央スロバキアはマトゥーシュ・チャーク・トレチアンスキーが、その死の1321年まで、実質的な支配者だった。彼の軍隊のなかには大勢のチェコやモラヴァの騎士の雇兵がいた。東スロバキアでは強力な部族アボヴェッツ族の領主貴族オモジェイの息子たちが支配していた。しかし彼らの支配も1312年にハンガリー王の軍隊により、コシツェの近くロズハノフツェの戦闘で覆された。
<ルドヴィーク I.> ハンガリー大貴族の遠心てき傾向が打破された後、アンジュオフツィ家は王権を堅固にし、経済活動にも国の行政組織にも多くの進歩を導入した。カレルU.ロベルトの治世は都市、商業、鉱山事業の、特にスロバキアにおける、発展によって重要である。ルドヴィークI.王(1342−1382)は最も勇敢なハンガリー王のひとりだったが、聖シュチェパンの王冠にバルカン半島のスラヴ領をも一時的ながら付け加えた。そして1370年にはポーランド王にも選ばれた。彼の治世の間、ハンガリー王国は堅固になったが、ジークムント・ルツェンブルスキーの治世の時代に、貴族たちによる内部的弱体化がふたたび起こる。
<生活様式と文化における変化> 十三、十四世紀の封建的生産方式、封建的社会秩序の発展の全盛期はまた、封建文化の大きな開花の時期でもあった。経済−社会的進歩は生活様式、個々の社会階級の思考方法の変化にも反映した。貨幣経済、商取引、外交関係の発展は、社会の支配的構成要素の生活様式に新しい性格を導入し、また南や西ヨーロッパの進歩的文化創造物の認識を速めた。
ローマ教会はさらに、あらゆる文化行為を性格づけてきた。しかしそれにもかかわらず十四世紀の文化生活においては、すでにはっきりと「現世的」、世俗的要素が主張されはじめており、カトリックの聖職者がこの領域でその絶対的地位を失いはじめていることを裏づけている。文化活動への参加を真先に名乗り出たのは貴族だった。しかし十四せいきの半ばごろからはだんだんと封建市民階級の文化的寄与も前面に出てきはじめた。
<ゴシック様式> 上級の社会層の住居方式が顕著な変化を見せた。建築技術の進歩によって堅固に築かれた都市や修道院や封建領主の城館といった大規模な建築を可能とした。特に、城館は王や王の一族がなかなか近寄りがたい、険しい岩山のなかに建設させた。十三世紀の前半にはまだロマネスクの美術様式の余韻が残っていた。しかし同時に、わが国にもフランスから新しい、はるかに成熟した、封建主義全盛期を性格づけるゴチック様式が入ってきた。初期ゴチック建築の最も重要なものとしてはアネシュスキー修道院、プラハの旧街区シナゴーグ、またヴィッシー・ブロット、ズラター・コルナ、モラヴァのティシュノフ、ヴェレフラットなどの修道院や教会堂がある。初期ゴチックの時代には強力なチェコの城も出現した。ピーセク、ズヴィーコフ、クシヴォクラート、ベズデス。モラヴァ地方ではシュチアヴニツキー、スピッシュスキー、トレンチーンスキー、ズヴォレンスキーなどである。
チェコのゴチック建築の全盛期は十四世紀の後半に迎える。ローマの皇帝の居住の町としてのプラハは中部ヨーロッパで最も重要な中心都市となった。十四世紀の半ばにはプラハ新市街(ノヴェー・ムニェスト)が出来たが、それは大規模な統一的計画に従って設置されたものであった。プラハは宗教的また世俗的な独特な建築物で際立っている。例えば、聖ヴィート寺院、カルロフ、エマウジ、カロリヌム、旧市街の市庁舎(ラドニツェ)、ティーンスキー礼拝堂、処女マリア・スニェジュナー教会、カレル橋、その他である。当時の建築師のなかで特に際立っているのは、聖ヴィート寺院の共同製作者フランツォウス・マティアーシュ・ス・アルラスとペットル・パルレーシュ、彼はシュワーベンのグミュントの出である。ゴチック最盛期の第一級の記念碑に属するものとしては、同じく、王の城カルルシュテイン、コリーン・ナド・ラベムとプルゼンの礼拝堂、それにコシツェの住居建築である。
<スロバキアのゴシック> スロバキアにおけるコチック建築の最初の現れは、1244年のカプルナー・ウ・トルナヴィの教会建築である。十三世紀の半ばにクラーシュトル・ポド・ズニエヴォムの教会が建てられた。ゴチック全盛期の初期にブラチスラヴァの聖マルチナのバジリカの建物が完成した。レヴォチュ、プレショヴァ、トルナヴァに教会が建てられ、コシツェにはドミニコ派の教会、ブラチスラヴァにはフランチスコ派の教会が建てられた。
ゴチックの書籍装飾画(例えば、ブラチスラヴァの写本作業場)、壁画(スピッシュスカー・カピトゥラ、ゲメルにおける)。
十四世紀の後半には、チェコ地方にも有名なゴチックの絵画、彫刻の作品が現われた。この頃、チェコの書籍装飾画の最高傑作がものされたのである(女子修道院長クンフタの伝記、ヴェレスラフの聖書、ヴァーツラフW王の図書室の写本)。チェコの油絵<板>はテオドリク(ディエトジフ・プラシュスキー)の作品、また未知の画家たち、トチェボンスキーのミストル、ヴィシェブロッツキーのミストル、クルムロフのマドンナのミストルなどである。偉大な創造的人物ペットル・パルレーシュは彫刻芸術の発展に力強く貢献した。聖ヴィート寺院は最も美しい彫刻作品によって飾られている。十四世紀の間をとうして、鋳造、金細工、彫刻、石工、陶芸の作品にかかわる芸術的技能も大きな進展を記録した。
<文学> 文学の領域ではチェコ語で書かれた最初の作品が現われた。もっとも注目すべき作品は十四世紀初頭のダリミルの作と言われている韻文の年代記(クロニカ)である。この年代記はチェコ語とチェコの民族性の熱烈な擁護に満たされ、また同時に、ドイツ出身の富裕市民階級や、強化される王権にたいして、貴族の階級的権利の明確な主張ともなっている。この時代のラテン語文学作品の頂点に位置するものは「ズブラスラフの年代記」である。十四世紀の後半から十五世紀の初頭にかけては、寓話、物語、風刺的小歌といった民衆層のためにチェコ語で書かれた文学作品が多く成ってきた。広く一般的に好まれ、喜ばれたのは民衆演劇であった。これらの劇は復活祭のころ路上で演じられ、そのなかには、まじめな聖書的題材のものと、野放図な書生っぽいユーモア作品とが交替で演じられたのである。十四世紀の前半の作としては「膏薬売り」の名前で知られている復活祭劇の断片が残っている。
<カレル大学の開設(1348)> カレル時代の大規模な文化事業は1348年のプラハの大学の設置である。それは中部ヨーロッパで最初の大学であった。生徒(学生)やミストル(教授)が近隣の諸国から、特にドイツ圏から、そればかりかポーランドやハンガリーからもやってきた。また、大勢のスロヴ人たちの憧れともなった。プラハの高等教育の場はたちまちイデオロギーの国際試合の場となり、そこでは当時の社会の階級的また民族的矛盾から湧き出した相反する思想の流れがせめぎ合った。
その時代の学問領域でのチェコ的活力の役割の増大を証明するのはラテン語の専門用語をチェコ語化しようとする試みである。ミストル・バルトロミェイ・ス・フルメッツ(通称カレット)は学校の必要のために広範な手書きの「用語辞典」<グロッサリー>を作った。そのなかには7000語のラテン語の専門用語をチェコ語で解説した。これによって、そのころの時代のなかで最重要な専門書のチェコ語化のための基本的な言語学的な前提が出来上がったのである。
あまりにも強大になりすぎた教会の権力に対抗して、民衆的異端を表明する反対の流れが、カレルWの治世の時代にすでに起こっていた。しかしそれらの異端は宗教裁判によって厳しく追及された。教会の乱脈を厳しく批判して何人かの説教師が登場した。特にジャン・ミリーチュ・ス・クロムニェジージェとマチェイ・ス・ヤノヴァは裕福な教会の高位の僧侶や無数の修道士団の所属者の寄生的生活を攻撃した。文化活動への世俗人の参加の増加については十四世紀末から十五世紀初頭の、南チェコの下級貴族トマーシュ・ゼ・シュティートネーホの道徳教育的著作が証明している。シュティートンネーホの瞑想は美しい簡潔な様式で書かれており、明晰さと、わかり易さで際立っており、中世のチェコ散文の最高傑作のひとつである。