I.封建主義の発生と発展----12世紀末まで


 (1)封建的関係の形成                        
 (2)大モラヴァ帝国                         
 (3)10−12世紀におけるチェコ国家とスロヴァキア         
 (4)10−12世紀の文化                      


 1.封建的関係の形成


 <封建的関係の形成> 封建的経済−社会制度への移行は急に起こったのではない。血族的生産共同体の崩壊が完成するまで、また封建主義の新しい秩序が普遍的に広がるまでには数世紀にわたる発展が必要であった。封建制度は、やがてわが国においても、何らかの発展的変化を伴いながらも、本質的には十世紀の間――十九世紀の半ばまで――続いたのである。
 わが国における封建主義は、他の国におけると同様に、社会が生産力発展の一定段階に達したときに起こった。原始的血族連帯制度の形骸から、また父権的奴隷制度から封建制度への移行は、深刻な経済的また社会的な変化によって特徴づけられる。農地の大部分は徐々に、少数の私的所有者−資産家−層の手に移っていった。彼らは時の流れに従って、特権的社会階級、封建貴族へと発展していった。最初の封建支配者たちは恐らく、最も裕福な血族の長老や、種族の首長の周辺で軍隊を形成していた戦士たちのなかから生れてきたのだろうと思われる。彼らは徐々に広大な土地をかき集めて自分の所有にし、零細な農夫に分割して貸し与え、彼らの仕事の利益の部分で寄生的に生活していたのである。農夫たちは封建領主たちに土地の借り賃として歩合を払うことを強いられた。それは現物、穀物、家禽、卵、工芸品など、または(後には)金銭による、それにまた、封建領主のために労働の義務、労役もしなければならなかった。
 こうして、時間の経過とともに、封建社会の二つの基本的な対立する階級が形成された。その一方には、特権的土地所有者、支配者と搾取者の階級としての貴族層があり、そして、そのもう一方には、被抑圧者、被搾取者の階級としての無権力の零細農民、農奴ないしは不自由民があった。これら二つの基本的、対立的階級間の抗争は全封建時代の歴史の特徴的性格である。

 <国家形態の端緒> 階級社会の形成と平行して、わが国土における最初の国家形態の形成のための前提条件も生れてきた。支配者階級は暴力的権力による以外に、他の住民を永続的に支配し、搾取することはできなかった。財産を守り、不自由民から賦課金や労役をシステマティックに絞り取るには、封建支配者たちは、無権力な住民たちに自分の意思を強制する手段としての権力機関をすぐにも作りあげなければならなかった。しかし、同時に、外敵からの攻撃にたいして協力して防衛する必要と、近隣の部族によって専有されている地域を武力で侵略し、略奪したいという願望も増大してきた。最も強大な部族の指導者たちは自己の権力をさらに広げ、周辺の弱い部族を征服しようと努めた。
 こうして――たとえ自発的同意であれ、強制的服従によってであれ――近隣部族の結合と、また、原則として一人の、君主とか司祭とか公爵と呼ばれる、最も有力な指導者に率いられる部族連合の発生というところに到達した。最初、それは単に一時的なものであった。しかし、やがて最も権力のある指導者の軍人たちは支配する全土に永続的な強権的力を確立させ、こうして、持続的社会形態の基盤を築くことに成功したのである。これはすでに原始的国家の性格をもっている。

 <サーモ帝国> 西スラヴ部族の比較的永続きした統一に関する最古の文書は前封建主義時代――つまり、七世紀の前半――に属している。そのころ、スラヴ諸部族はウヘルスケー・ニージニ<ハンガリー低地>地帯で遊牧民族、東部草原地帯から浸透してきたアヴァル族の侵攻に脅かされていた。スラヴ人がアヴァル族にたいして戦争を始めたとき、フランク人の商人サーモが623年に彼らの指導者になった。彼はそのとき武装した部下たちとともにスラヴ人の居住する地域に来ていたのである。彼の指揮によって、アヴァル人たちは撃退された。サーモはその後35年間西スラヴ王国の君主の地位にあったが、その国の性格や版図についての確実な資料はない。多分、それはわが国土をもそのなかに含むほど広範なスラヴ部族の連合体だっただろう。
 サーモ王国はフランクのゲルマン王国の強力な攻撃をも撃退した。当時、この王国の中心は西フランスにあった。同時代のフランクの年代記には、フランク軍は631年、スラヴ人たちに、ヴォガスティスブルク城で決定的敗北を喫したと記している。しかし、その場所がどこか今日ではわからない。七世紀の半ば以後、サーモ王国のその後の運命について、いかなる報告も途絶えてしまった。しかし、恐らくは、サーモの死後も西スラヴ諸部族の統一と、原始的国家形成の努力が続けられたであろうことは、かなりの確実性をもって想定することが可能である。

 <8−9世紀における経済的進歩> 8−9世紀に関する考古学的発見は、わが国土における著しい経済−社会、及び文化的進歩を証明している。農業も、また多種に及ぶ手工業製品―― 陶芸、紡績、織布、鉄の精練、加工―― は大いに進歩した。鉄鉱石の採掘場の近くには、製鉄所が出来た。たとえば、モラヴァのジェレホヴィツェ・ウ・ウニチョヴァである。ここでは24個の溶鉱炉が発見された。当時、すでに、スラヴの鍛冶や彫金の技術、武器や宝石製品は社会の支配者階級の需要に応えるために高い水準にあったのである。
戦争や築城術の知識も進歩した。とくに遠距離交易の主要路の交差する地域やドナウ河やモラヴァ河の流域では、製品の交換が広範に行われた。そこでは東や南東から、またフランク王国の領土から来た商人たちが交流した。
 <宗教イデオロギーの変化> わが国土内の宗教イデオロギーにも、そのころ、深刻な変化が起こった。スラヴ人たちがまだ血族的制度のなかで生活していた古代においては、各血族集団は自分独自の神を崇拝していた。しかし、血族体制が衰退し、所有と社会的地位の相違が増大するにつれて、その変化は非キリスト教的宗教にも反映した。個々の神の力や作用にいろいろな程度があるのだという観念が生じてきた。最も強力な種族の指導者の権力が段々と広範囲に認められるようになってきたのと同じく、ある神の奇跡的な力を信じることも同様に広がっていった。西スラヴ人には、キリスト教を受け入れる以前に、すでに一神教の徴候が現れていた。
 九世紀にわが国土には新しい宗教イデオロギー ---- キリスト教が浸透しはじめた。キリスト教の宗教体系は、原始的異教に比べると、はるかに成熟していた。なぜなら、その体系は何百年のあいだに、地中海を取り巻く古代文化圏において形成されたものであり、その教義のなかには、東方の神話を、ギリシャ−ローマの崩壊しつつある奴隷社会の思想のいくつかの要素と融合させている。キリスト教は、その発生の当初は反抗的、民衆的性格をもっていたが、そのころはとっくに、支配者階級がくびきに繋がれた階級の上に自分の権力を確立するのを効果的に助ける手段に変わっていた。起こりつつある封建的経済−社会体制はヨーロッパの全土において、その端緒からキリスト教の強力な支持を得ていたのである。
 <封建主義の支持者としてのキリスト教> 唯一最高の全能の神に関するキリスト教の教義は、封建社会を支配する権限を神が直接支配者たちに委ねたのだという神話を周囲にまきちらすことによって支配者たちの権威を確固たるものにするのを助けた。ローマの法王は自分の権威を「神」から直接引き出した。そして彼を仲介者として、大主教も大司教も、その他の高位の僧侶は人民を支配する特別の力を「神から」借りて、そして今度は彼らを仲介にして、さらに低い資格の僧侶たちがその「力」を借りてもつのである。「神の慈悲に基づいて」皇帝も王も領主たちも全人民を支配し、個々の貴族も自分の臣下を支配する。
 それゆえに、キリスト教はわが国土においても反響を真先に封建社会の支配的要因のところに見出だした。それは、むしろ、キリスト教の伝播者がしばしば新しい教義とともに、いくらかの新しい経済的、技術的、社会−組織論的、かつ文化的認識と成果をもたらしたし、それらの認識や成果は社会の支配者階級の代表者の権威や権力を堅固にするのに利用できるものであったということによるものだった。
 キリスト教の宣教師たち、特に、ある修道士団のメンバーはより進んだ農業技術あるいは手工業製品の知識を広げた。彼らのなかにはすぐれた建築家、彫刻家、画家、弁論家、美文家もいたから、それらのすべてによって、彼らの周辺に圧倒的な影響を及ぼすことができたのである。単純な民衆は教会の儀式を覗きみし、礼拝堂の合唱を聞き、たとえ新しい教えの意味をほとんど理解できなかったとしても、神秘な見世物に圧倒され魅惑されたのである。すべての人間は神の前に平等であるとか、キリストの神は貧しい人々に天国での幸福な生活を約束するといった説教は純真な民衆の素朴な想念のなかに、いま受けている抑圧や不正儀は少なくとも死後は取り除かれるだろう、だから、それに反抗して戦う必要はないのだという幻想を焼き付けることになる。
 従って、キリスト教の浸透は、一面においては、文化的進歩によって伴われ、しかし第二の面では、封建社会の搾取階級の権力の確立と、広範な民衆層の不自由化との前提を一緒に作り上げてしまった。初期封建国家の形成に際しても重要な役割をもち、洗礼を受けた支配者たちに、近隣の異教の種族への侵略の「道徳的正当化」を保証した。


 2.大モラヴィア帝国 VELKOMORAVSKA RISE

 九世紀にモラヴァと南西スロバキアの種族の統一化が進んだ。九世紀の初めにはすでに、モラヴァとニトラの二人の領主が頭角を現わしてきた。しかし両者とも間もなく、東フランクのドイツ帝国の政治的−軍事的圧力を感じるようになった。822年にモラヴァ人たちは東フランクの王に恭順を誓うことを強制された。多分、同じころに---- それ以前ではないとしても---- モラヴァの貴族階級の支配者層がドイツの宣教師からキリスト教の信仰を受け取っていた。そのすぐ後に、830年頃、ザルツブルクの大司教が、ニトラの領主プリビナの領内で教会堂の献堂式を行なった。845年にはジェズノ<レーゲンスブルグ=ドイツ>でチェコの上級貴族十四人が洗礼を受け、東フランクの優越性を認めた。こうして西方からのキリスト教の浸透に伴って、チェコ及びスロバキアの領土を支配しようというドイツの支配者たちの野心も強まってきた。
 <大モラヴァ王国の誕生> 進行する社会の封建化と増大する外敵の圧力にたいする防衛の必要から大規模な国家形態、大モラヴァ王国形成の気運が起こってきた。それへの決定的一歩を踏み出したのはモラヴァの領主モイミール一世であり、その時期は、彼が九世紀30年代のある年、ニトランスコからプリビナを追放し、その支配権をモラヴァに合併した。プリビナは後にかってのローマの属州パノニエ内のドナウ河の向こう側、バラトン湖を中心とした地に所領を得て、彼の後は息子のコツェルが治めた。バラトン公領は南方に、スラヴのハルヴァートと接していた。モイミール家の権力の中心は今日のモラヴァとスロバキアであり、当時は南はドナウ河まで、東はティサ河、そこはすでにブルガリアの王領との境界であった。この王国が最大の版図をもった時代に、チェコやラベ河スラヴの部族、ポーランド部族(特に、クラフスコのヴィスラニ部族)だどもモラヴァ王国の優越性を認めていた。南方には、大モラヴァ王国の権力はドナウ河の向こうの土地、パノニエにも根付いた。大モラヴァ王国の最重要な拠点は南東モラヴァと南西スロバキヤにあった。
 それはよく築かれた要塞のシステム----城郭であり、そこに領主の館があった。長期にわたって続けられてきた考古学研究はこの拠点を発掘し、寺院、城館建築の注目すべき遺跡や沢山の実用的、装飾的品物を保存していた広大な墓地を発見した。大モラヴァ王国の最も有意義な城郭は現代のミクリチツェ・ウ・ホドニーナ、スタレー・ムニェスト・ウ・ウヘールスケーホ・フラディシュチェ、ポハンスコ・ウ・ブジェツラヴィ、ニトラ、ブラチスラヴァ、モドラー、デヴィーンスカ・ノヴァー・ヴェスなどである。
 大モラヴァ王国は、その存続の期間のほとんどすべてを東フランクの王侯たちの侵略にたいして抵抗しなければならなかた。特に、モイミールの後継者ロスチスラフはドイツ王ルドヴィークの攻撃をうまく撃退するのに成功したが、ドヴィークのわが領地への侵入に際しては、ドイツのキリスト教宣教師---- 彼らは儀式をラテン語で行っていた---- も手引きをしたのだった。
 この圧力に対抗するために、ロスチスラフは、ローマ法王の優越性に屈していなかったビザンチン側を向き、スラヴ語のできる使徒をモラヴァに派遣するよう請願した。ビザンチンの皇帝ミハエル三世は863年に、学識あるギリシャ人の兄弟コンスタンチンとメトヂェイに率いられる宣教師団をモラヴァに送った。彼らはソルン<ギリシャのテッサロニーキ>のスラヴ語ができ、それはわれわれにも理解できるものだった。コンスタンチンはスラヴ語に適した特別の文字<フラホリックまたはグラゴリック>文字を作り、最初の典礼 liturgie 文書を古代スラヴごに翻訳した。大モラヴァにおけるその文書活動によってコンスタンチンはメトジェイとともにスラヴ文学の創始者となたのである。
 一時は、二人はその功績をローマ法王にも認められたことがあった。法王はメトジェイを大司教ににんじた。コンスタンチンまたはキリルは869年にローマの修道院でしんだ。バヴァリアの司教たちはメトジェイの活動を追跡し、ときには逮捕し、投獄したこともあった。
 メトジェイは弟子たちとともにわが国において885年に没するまで活動する。そして、いくつかの報告によればチェコ公ボジボイとその妃ルドミラを洗礼したと伝えられたている。その晩年にいたって、ロスチスラフの後継者スヴァトプルクと激しい対立に陥った。メトジェイの没後、弟子たちは迫害され、ついにはモラヴァから追放された。彼らはブルガリアへ逃れ、ある者はさらに遠く東へ、ロシアへ逃れ、やがてその地で活動した。チェコでは、ラテン語の礼拝方式のほかには、ただひとつスラヴ式礼拝がずいぶん長いあいだ維持されていたが、最後にはラテン語方式が完全に勝利する。

 <古代スラヴ語文献の意義> 我々の祖先にとって、まさに同じく他のスラヴ系民族のほとんどにとって重要な意味のあることは、キリスト教の受け入れと一緒に、スラヴ独自の文字をも受け入れ、それが独自の文献の嚆矢となったことである。スラヴ人がキリスト教の礼拝儀式にたいして、ほとんどその最初から、スラヴ語を、民衆に理解できる言葉を用いていたという事実は、これは極めて独自の現象であった。大モラヴァ王国はその権力的な立場によって、九世紀に古代スラヴ語が礼拝儀式の言葉となること、それにより当時のヨーロッパにおいてラテン語、ギリシャ語と同じ地位に置かれることを可能としたのである。
 古代スラヴ語文献は後代においてチェコとスロバキアの民族意識のなかでの支柱であったし、わが両民族と他のスラヴ族とをつなぐ文化的絆となった。ブルガリアやロシア、スルプスコにおいてはスラヴ文字は永久に根付き、スラヴ語の礼拝儀式はそれらの土地で、正教会の基本となった。

 <大モラヴィア王国の意義とその没落の結果> スヴァトプルク治世の時代に大モラヴァ王国はその勢力の全盛期を迎えた。キエフ・ロシア、ブルガリアとともに当時の三大スラヴ王国の一つであった。しかし、スヴァトプルクの死後(894年)王国は分裂し始める。そしてその崩壊に導いたものは、古代マジャール遊牧民の諸部族のハンガリー低地への浸透である(903−907年)。
 大モラヴァ王国の没落は重要な歴史的区切りである。なぜなら、この事件はその後の西スラヴ族の発展に深い影響を及ぼすからである。マジャールの侵入は中央ポドゥナイ地帯におけるスラヴ人定住の連続性を中断し、また西スラヴ人を東スラヴの部族から切りはなした。これによって、ビザンチン帝国との文化的、政治的、経済的関係を断たれたということは、東フランクのドイツ王国の増大する圧力に対抗するためのよりどころをビザンチン帝国に求めていた中部ヨーロッパのスラヴ人にとっては、少なからず深刻な結果をもたらしたのである。
 大モラヴァ王国の没落によって、わが国領土内での民族的統一さえも崩壊した。わが国地のスラヴ住民は二つのグループに分けられた。そして各々のグループはその後何百年にわたる長い期間、別々の発展過程を通り、著しく異なる歴史的条件のもとに生きてきた。こうしてすでに千年も前に、二つの自立的民族、チェコとスロバキアの発生の最初の前提が形成されたのである。
 しかし、彼らの成熟は、各々の民族が異なる前提条件のもとに、そして異なる時間的区切りのなかで進んできた長い、年月を経た発展の労作であったのである。チェコ人たちは十世紀にすでに独立の民族国家を形成し、周辺のドイツ的活力と絶えず葛藤しながら力を強め、また強大化した。このことは、チェコの民族的連帯を強めるための大きな意味をもった。その反対に大モラヴァ王国の崩壊後、スラヴ人たちは時間の経過とともに、マジャールの封建領主が決定的に支配するハンガリー国家によって、徐々に取り込まれていった。ハンガリ−国家への百年にわたる経済的、政治的拘束によって、スロバキアの民族的連帯の形成は何百年も遅らされた。
 長い時代にわたって、チェコ人とスロバキア人は異なった国家体制のなかに別々に組み込まれて生きてきた。しかし、相互の関係は決して完全に断絶されたことはなかった。そこには常に経済的接触があり、また文化財産の生きた交換があった。そして、それらのものを通して最も近い親戚の意識と両兄弟民族の古くからの相互依存性の意識が保たれてきたのである。


 3.10−12世紀におけるチェコ国とスロバキア
           
 <チェコにおける諸部族> 十世紀のチェコにプシェミスル国家が形成された。マジャールの侵攻もそこまでは及ばなかったのである。この時代の部族の統合はチェコでは、モラヴァや南西スロバキアにおけるよりも遅れていた。古いチェコの諸部族の名前は今でも伝わっている。南方の地にはドゥーブレビ、ヘプ地域にはフバネー、ジャテツコにはルチャネー、北部の地にはディェチャネー、リトムニェジチ、プショヴァネー、レムージ、北東チェコには強力なハルヴァート部族、コウジムスコにはズリチャネー、最中心部のヴルタヴァ河の左岸にはチェコ族が住み着いていた。

 <プシェミスロフツィ> 九世紀の終わりから部族の首長の間で、明らかに、チェコ族の先頭にたつプシェミスル部族の領主たちが力の優位を示しはじめた。プシェミスロフツィはその出自を神秘主義者のプシェミスル・オラーチュに求めている。伝説によれば、彼をプラハ城の領主の位につけたのは女領主リブシェであったといわれている。この部族の歴史的にも証明されている最初の代表者は、九世紀末のボジボイ公であった。彼の名前は「左の城館」 Levy Hradec と「プラハ城」の最古のキリスト教の礼拝堂の建設と結びついている。
 ボジボイの甥ヴァーツラフは921年から支配したが、特別熱心なキリスト教の伝導者だった。プラハ城内にロマネスク様式の聖ヴィート教会堂を建設させた。その残存遺跡は現在の聖ヴィート説教壇の土台のなかに保存されている。ヴァーツラフ公の統治や外交についての記録として信用にたるものはほとんどない。935年に兄弟のボレスラフよって企まれた彼の暗殺にしても、真の動機がなんであったのかはっきりしない。多分、チェコ国にたいして挑戦的な政策をとってきたザックセンの領主インドジフとのヴァーツラフの交渉にたいする不満の表明だったのかも知れない。

 <いわゆる聖ヴァーツラフ伝説> ヴァーツラフ公は死後直ちに聖人の列に加えられた。支配者の家族のメンバーのだれかが聖者として宣言されることは、初期封建主義の時代には珍しい現象ではなかった。支配者の王朝はそれによって権力を固めるために必要な名誉を得るし、同時に、支配者階級の後継者たちは教会を支持するように刺激されるのである。それゆえに、ヴァーツラフの生涯はレゲンドによって広く大衆化され、その作者である司祭や修道士たちは彼の伝記に、彼の教会にたいする献身や、作り上げられた奇跡についての寓話化された細々とした物語を絶えず付け加えていった。ヴァーツラフ王崇拝は間も無く、蝋印や硬貨の図案として、教会や宗教的写本の装飾に表現されるようになる。そして十二世紀には聖ヴァーツラフの合唱曲まで現れた。
 このようにして「チェコ国の守護神」の神話と伝説が形成されたのである。この伝説は古代においては、国の統一を強化したり、チェコの国家意識の発展に力となった。しかしながら、後代になると、支配者階級はしばしばヴァーツラフの人物像をドイツの支配者にたいするチェコ民族の政治的服従と従属の手本として強調した。宗教的反動勢力は受動的で、保守的な聖ヴァーツラフ信仰の伝統をフス主義の闘争的、革命的伝統に対立させた。いかなる歴史的伝統もまさに聖ヴァーツラフの伝統ほど、現代にいたるまでの歴史の発展のなかで、何度となく変更を経験した伝統もないだろう。

 <二人のボレスラフ時代におけるチェコ国の強大化> ヴァーツラフの後継者ボレスラフ一世とボレスラフ二世の時代に、チェコ封建主義国家は新しい領土を得て拡大し、国内的にも充実し、武力抗争においても外交的交渉においても、チェコの国土を支配しようとするドイツの封建的侵略者の野心にたいして自立性を守った。こうしてチェコ国は大モラヴァ王国の遺産相続者となり、また後継者となったのである。
 実際のところ、十世紀の初めにはすでに、プシェミスロフツィが恐らく、一時的にしろモラヴァとスロヴバキアのポヴァージーを支配したことがあったようだ。その一方、南スロバキアはマジャールの勢力に早くも浸透されていたと思われる。ボレスラフ一世の治世の終わりに(十世紀の60年代)チェコ国の力は東はポーランドのクラコフにまで及んでいた。ボレスラフ二世の時代には、チェコ国は東はキエフのロシアと国境を接し、両スラヴの強国は有効関係を増進させた。

 <経済と社会> チェコ国の政治的力と経済的能力についての興味ある証言をイブラヒム・イブン・ヤクブが残している。彼はスペイン−アラブ外交使節団の随員として十世紀の60年代に中部ヨーロッパを横断旅行をしたのである。彼は特にプラハの意義を評価している。プラハは当時すでに政治や商業の重要な中心地であり、そこを目指して商人が西からも東からもやってくる――ロシアからも、バルカンの地からも、また小アジアの国からも。チェコの地からは、当時、主として毛皮、錫、馬、奴隷――ほとんどが戦争の捕虜――だった。
 しかし、その当時、チェコの国も、スロバキアも現代と比べれば住居はまだ比較的まれであり、はるかに森林地帯が多かった。国境の山岳地帯には、越えることのできない密林の帯に覆われており、それが、同時に、敵の侵入を防ぐ自然の要害となっていた。
 住民の主な生活の手段は――本来は、封建時代の全期を通じて言えることだが――農業だった。村や城下町、封建領主の領地内では基本的種類の手工業製品が発展した。製品はそのほとんどが地域の需要のみを満たし、決して市場で売るためのものであはなかった。まだ、いぜんとして自然経済の範囲であり、貨幣はあまり大きな意味をもってはいなかった。銀の硬貨(デナーリ)が両ボレスラフの時代に打たれていたが、主として外国商人との取引関係にのみ使用された。

 <国家権力強化の手段> 領地内のすべての未所有の土地の最高の所有者は領主とみなされた。彼はその土地を徐々に一方では、自分の家臣に奉仕にたいする報酬として所有権を分配し、また、一方では教会の高位の僧侶や修道院に与えた。十世紀の間に、特に、続く世紀の間にチェコ国の全土に、城や館や宮廷、修道院や教会のネットワークが出来上がり、それらは戦略的かつ統治的役割をも果たし、封建支配力増大のための重要な基盤であった。教会管理の完璧化のために大きな意味をもったのは、プラハ司教区の設置である。973年のことと思われる。二人目のプラハの司教、スラヴニーコヴェッツ・ヴォイツェッフは死後同様に聖人の列に加えられた。

 <スラヴニーコフツィの殺害(995)> 十世紀の間にプシェミスロフツィは国内のこれまでのすべての部族的領主を凌駕する確固たる支配権を獲得した。彼らにとって最後に残った危険な競争相手は強力なスラヴニーコフツィ部族だった。この部族はチェコの地の東の半分における広大な領地を支配していたが、隣の領主から援助を受けるかわりに意見の不一致に陥った。ボレスラフ二世は当時としてはあまり例を見ない方法で、この問題に決着をつけた。995年、彼は一族郎党とともにリビツェ・ナド・ツィドリノウの城のスラヴニーコフツィの本館を襲い、血族のもの全員を殺し、城を取り潰した。この残忍な行為により、プシェミスロフツィは国内における絶対的な権力を得たのである。

 <ボレスラフ・フラブリーの国家> 十、十一世紀の変り目にチェコ国家は重いショックと広範な変化を経験した。ボレスラフ二世の死後、プシェミスル家内部で王位をめぐる激しい抗争が起こった。この抗争の間にポーランドの強力な領主ボレスラフ ・フラブリーがチェコの問題に介入してきた。彼はポーランド国の建国者ムニェシェク一世と女領主ドウブラフカとの息子であった。彼はクラコフスコばかりか、モラヴァとスロバキアをポーランド国に加えたばかりか、ついにはチェコの統治にすら手をだした(1003年)。それは大きな西スラヴ国家を建設しようというさらに有意義な試行だった。この国はポーランドやわが国の領土を含むだけでなく、ポラブスケー・スロヴァネーの領土も含み、東の方、ドイツ封建主義侵略者の侵入を防ぐ強力な防壁となるはずであった。
 しかし、ボレスラフ ・フラブリーの意図は実現しなかった。彼の失敗に大きな寄与をしたのは主にプシェミスロフツィであり、彼らはドイツの王に救援を頼み、ポーランドの軍隊をチェコから締め出したのだった。ポラプスケー・スロヴァネーの土地をめぐる長年の抗争においてもプシェミスロフツィはドイツの侵攻者側にくみし、チェコ領土にたいするドイツの包囲攻撃に自らも北方から参加したのである。

 <アプラードフツィ> ボレスラフ・フラブリーの死後(1025年没)モラヴァは再びチェコの領主の権力下に戻った。しかしスロバキアは徐々にマジャールの指導的部族アルパードフツィの権力下に入っていった。その王シュチェパーン一世はハンガリー国の強化を図った際、教会に支持を求め、それによって死後は聖者に列せられた(治世998−1038)。その後、強力な領主ブジェチスラフ一世(治世1034−1055)がチェコの王位についたとき、ポーランドの内部の抗争に付け入って、激しい侵攻を行った。その際、クラコフとフニェズドノを占領した。しかし、ローマ−ドイツ王の激しい圧力にあって、ポーランド侵略の大部分を放棄することを強いられた。

 <スロバキアの支配> スロバキアはすでにハンガリーの領主の支配の下にあった。1042年、ブジェチスラフ一世はドイツ王の軍隊とともに侵攻して、しばらくの間、九つの城(その名前は知られていない)を奪回したが、この侵攻はもはや初期封建主義ハンガリー国のスロバキア支配の傾向に歯止めをかけることには全くならなかった。

 <チェコ国とドイツ王国との関係> チェコの領主ブジェチスラフは支配権力を固め、チェコ国を統合化させようとしていた。しかし、ローマ−ドイツ王国の外国の政策の影響からチェコ国を完全に自由にすることはできなかった。それにもかかわらず、その当時でさえ、またその後でも、チェコの国家主権喪失を意味するような、そんなローマ−ドイツ王国への従属関係に陥ることはなかった。チェコの領主が封建的服従をローマ皇帝の手に約束を手渡したとしても、それは個人的な約束であり、それによってチェコの国家的自立性が制限されることは絶対になかった。

 <封建的領地分割の時代> 十一世紀の中葉から十二世紀の終わりまでの時代に、支配者のプシェミスル家内部での葛藤があまりにも強力なものとなったため、それがドイツの領主たちが、チェコ問題に介入する口実となった。それは、いわゆる封建的分裂の時代であり、各々の封建領主貴族の権力が固まってくると同時に、遠心的傾向が増大し、中心的支配権力への個々の領地の従属関係を解放したのである。封建領主の権力はその当時、これらの傾向に対決するほどには、まだ十分強くなかった。
 ブジェチスラフの息子のヴラチスラフは1085年に、皇帝に援助した報酬として自分のために手に入れた。それ以後の支配者のなかでは、特に目立っているのはソビェスラフ一世である。彼は1126年にクルシュネー・ホリのフルメッツでの戦闘で勝利を収め、チェコの内政問題に介入しようとローマ皇帝の野心を撃退した。彼の跡継ぎヴラヂスラフ二世は、1158年イタリア領内における戦闘でチェコ軍の効果的援助の功によって、皇帝から王位につけられた。
 十二世紀の80年代にチェコ王位をめぐる争いは頂点に達し、チェコ国の統一と自立を脅かすほどの危険な状態になった。しかし、その世紀の終わりに転換がおこり、強力なプシェミスル専制体制確立のための基礎が築かれた。


 4.10−12世紀の文化

 <異教とキリスト教の戦い> 初期封建主義時代における文化の発展は余韻を響かせる異郷文化と擡頭しつつあるキリスト教文化との葛藤によって特徴づけられる。キリスト教は最初は狭い支配的社会要素に限定されていた。社会の広い層ではかなり長い期間、例えば、異教の神々の像や聖なる森や泉の崇拝、いけにえの動物の屠殺といった異教的道徳や習慣を保存していた。11、12世紀になってもまだチェコやハンガリーの領主たちは民衆の間に頑として保ち続けられている異教的祭式にたいする厳しい禁令を出さねばならなかった。教会は異教時代からの古い儀式のいくつかは引き継ぎ、それらをキリスト教の要求に合うように直した。しかし、それと同時に、キリスト教の僧侶や修道士たちは、異教的儀式の物質的残存物の一切を抹殺するように用心したので、古代スラヴの異端の宗教について語ってくれるものはほんの断片的なものにすぎない。前キリスト教時代の民衆の口碑のなかでも、寓話や伝説の後の時代になって記録されたものを除けば、ほとんどなにも保存されてはいない。

 <大モラヴァ王国の文化遺産> 異教にたいする戦いと同時に、この時代のわが国ではローマ式典礼とスラヴ的東方典礼の方式をめぐる抗争が続いていた。東方典礼は十世紀にはまだいくつかの場所で保たれており、サーザヴァ修道院では十一世紀になっても行われていた。ローマ式典礼の伝播者はここにも見境もなく進出して、古代スラヴの文書を抹殺していった。
 スロバキア−ハンガリー領域ではスラヴ文化の活力は最初は明らかにマジャールの遊牧民部族を圧倒していた。そして大モラヴァ王国の文化遺産の多くのものが、初期封建的マジャール文化形成の際には受け継がれたのである。そのことはマジャール語のなかに沢山の古代スラヴ語起源の言葉があること、特に、農機具の名称や、さらに、教会や法律、行政用語などについて言える。

 <教会の役割> 初期封建主義時代のあらゆる文化活動はキリスト教の僧侶や修道士の階級の専有事項であった。文化活動は神への奉仕の目的と封建支配者の階級的利害のために奉仕した。教会堂や修道院は、特に社会の支配者層に向けられた造形的また文学的活動の主要な中心地であった。十二世紀末までにチェコの領地及びスロバキア中に教会と修道院のネットワークが張り巡らされた。修道士会(ベネディクト派、プレモンストラート派、シトー派)の所属者たちはほとんどがヨーロッパの西と南からやってきて、文字で表現する場合はいたるところでラテン語を広めた。

 <ロマネスク様式> 十世紀から十三世紀初頭にいたる時代の造形芸術作品はロマネスク様式で作られている。当時は、建築においては石造よりもまだ木造建築のほうが重視されていた。寸法どうりに注意深く削った方形の石を積みあげた石造建築は著しい技術進歩の成果である。ロマネスクの教会建築に特徴的なのは円形の礼拝堂(ロトゥンダ)と広い空間をもった細長いバジリカ建築である。ロトゥンダで最も有名なのは、プラハ、ジーパ、ズノイモ。スロバキアのほうでは、デフティツェ・ウ・トルナヴィとスカリツェのものである。バジリカではプラハ城の聖イジー礼拝堂、トチェビーチュ・ナ・モラヴィエ、ビーニュ・ウ・シュトゥーロヴァ、ディアコフツェ・ウ・ガランティ、スピツカー・カピトゥラ・ポド・スピシュキーム・フラデムにあるものである。
 世俗的建築物のなかでは最も重要なものはプラハ城内、ヴィシェフラッド、オロモウツの宮殿や今のプラハのスタレー・ムニェストの石の建物である。十二世紀の終わりには、現在のプラハの領域に40以上の石の教会や世俗建築物があった。十二世紀の後半にはプラハに最初の石の橋が建造され、ヴラヂスラフ二世王の妃の名にちなんでユディット(の橋)と呼ばれた。この橋はその後長い間、中部ヨーロッパの数少ない石橋の一つだった。 教会堂は聖書や聖人の生涯から事跡を題材とした彫像や壁画で飾られた。ただごくまれに、世俗的テーマのものもある。例えば、1134年のズノイモの城内の円形礼拝堂(ロトゥンダ)のプシェミスル家の人物たちである。修道院内では多くの配慮がなされた。宗教書の写本における小絵画(ミニアチュア)装飾である。最も有名なのは十一世紀の作である、豊かな装飾を施したヴィシェフラッド・コーデックス(写本)である。

 <文学と歌> 保存されている最も古い文学記念碑「キリル−メトジェイ」「ルドミラ」「ヴァーツラフ」などのレゲンドは一方では古代スラヴ語で、もう一方はラテン語で書かれた。十二世紀の最初の四半期に最も古いチェコ年代記が生れた。この年代記を実に見事な語り口でラテン語で書いたのは、プラハ大聖堂参事会員コスマス(1125年没)だった。コスマスの年代記はチェコ封建国家成立当初の歴史を知るうえでの第一級の歴史資料である。そしてそのなかにはチェコの歴史の始まりに関する古い伝説や寓話の類いも記録されている。礼拝の儀式の際に歌われる芸術的歌のなかでは「主よ、われらを哀れみたまえ」のチェコ語の歌詞とメロディーが伝えられており、そのなかには古代スラヴ語のいくつかの痕跡がはっきりと残っている。



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