==チェコスロバキア史 ==
* 訳注・この歴史書は1972年版のギムナジウムのチェコの国史教科書です。この教科書で学んだ世代は、今では50歳前後でしょう。現代のチェコの主要な地位を占める人たちが学んだ教科書です。そんなわけで、正常化路線の真っ最中に編まれた本ですから、今では逆に、そのころ書かれた本なるがゆえに、貴重な資料的な意味があると思い紹介する次第です。
原始共同社会制度の時代
(1)原始居住民社会の形成
(2)原始共同社会制度の最盛期
(3)原始共同社会制度の崩壊と原始奴隷制
1.原始居住民社会の形成
わが国の領土内の最も古い人間の住居の痕跡は、およそ25万年前の地層に発見されている。最も古い、今のところ確認された証拠から我々を隔てるところの膨大な時間的広がりのなかで、ヨーロッパでは何度も自然の環境が少しずつ変化した。それとともに生物や植物の発展のための条件も変わってきた。多くの自然要因の影響によって、いわゆる氷河期と呼ばれる長い期間が間氷期とゆっくりと交替していたのである。間氷期は現代に比べると、気候ははるかに暖かかであった。
氷河期には、わが国土は――国境の山々が氷河になるほどの比較的高い標高をもっていることのほかに――北方には寒冷地適応の植物や動物が生息する草原地帯やツンドラ(凍土)地帯が広がり、それらの動物のなかでは、特に、巨大なマンモスや毛深いサイ、また洞窟熊などが際立っている。間氷期には、氷河はずっと北方に後退し、温暖で、湿度をもった気候のなかで、膨大な数の野生動物が生息する、生気に満ちた、特に広葉樹森林地帯が広がっていた。当時、わが国の地域には、巨大象や洞窟ライオン、温帯性サイ、いわゆる、サーヴェル歯の虎、カモシカ、猿などが生きていた。
<ネアンデルタール人>長い時間の経過のなかで、人間の生活も気候や自然の変化に順応していった。最後の間氷期(紀元前約十万年前)とそれに続く最後の氷河期から、多くの考古学的発見が、わが国の土地には温暖な気候のときも寒冷期にも人間が住んでいたことを証明している。しかし、それは持続的な、一貫性をもった居住ではなかった。
わが国最古の人骨の化石はこの時代のものであり、原人の頭蓋骨の形の石灰化したものと、長い骨の押し形の化石がポプラット市<スロバキア>近くのガーノフツェ村から出たものである。時代は7万年より以前のものと推定される。この人間は、いわゆるネアンデルタール人の発展段階に属している。この名称はポリーニーのネアンデル谷で発見されたことからつけられた名称である。この時代に属するものとして、その他には、特に、モラヴァ地方(オホス、シプカ、クールナ)や、スロバキア(シャラ)から発見されている。ネアンデルタール人は自然の実りを集め、動物の狩猟によって生活し、木や石で道具を作っていた。
道具を作るのに石を使うことは原人の特徴である。人類の歴史の最も古い時代、その期間は時間的に膨大な長さであるが、この特徴から、石器時代と呼んでいる。この時代の始まりは人間の発明――道具の生産――によって区切られ、さらに、この時代は長さの均等でないいくつかの時代に分けられる。
<ホモ・サピエンス> ヨーロッパの最後の氷河期に、わが国の領土内にホモ・サピエンス型の人間が現れる――つまり「理解力のある」原人で、人類学的にはすでに今日の人間の型と区別されない。
ホモ・サピエンスは石や骨の道具や武器を製造するという、発達した文化をもっていた。火打石や、その他の硬くて、割れやすい鉱物や鉱石などから、すでに非常に鋭い刃を作り出すことができた。石や、骨、角などから鋭い切っ先を削り出して、木の柄に取り付けて、槍のような形にして投げる武器として、戦争のときにも、狩猟のときにも用いた。
<モラヴァは中部ヨーロッパ発展の中心点である>およそ二万五千年前の時代には、モラヴァは特に、中部ヨーロッパの人類の発展の重要な焦点となった。狩猟者の集団が大型動物の豊かさに引き寄せられて、この方面にやってきたのである。豊富な考古学的発見、特に、ドルニー・ヴィエストニツェ、パヴロヴァ・ウ・ミクロヴァ、また、プシェッドモスティー・ウ・プシェロヴァにおける発見は、その当時のマンモスの狩猟者たちの生活を十分に見せてくれる。それは開放された自然のなかでの一時的な居住であり、狩猟者たちは一定期間のあとふたたびその場所を訪れるのである。彼らのキャンプ生活の遺跡はスロバキア地方においても(モラヴァニ・ウ・ピエシュチャン、バルツ・ウ・コシッツ)、チェコ地方においても(プラハ周辺のシャールカやフルボチェピ地区)発見されている。マンモスの狩猟者たちはすでに単純な小屋を立てていたことも、これらの発見の裏付けるところである。寒冷期には狩猟者たちは洞窟のなかに退避していた。
<マンモス狩猟者たちの文化> この時代の人間の精神生活の進歩的発展については、驚嘆すべき造形的表現が証拠を提供している。マンモスの狩猟者たちは高度に発達した観察能力をもっていたから、自分の観察を絵画的にも、立体的にも表現することができた。モラヴァ地方の発見のなかの、彫ったり削ったりした動物の絵や動物や人間の小さな像は世界的な注目を呼んでいる。多くの注目すべき彫像がドルニー・ヴィエストニツェで発見された。なかでも「ヴィエストニツェのヴィーナス」と呼ばれている小さな女性像が最も有名である。古代の狩猟者は自分の造形的表現と原始的祭式行為とを結び付けた。そしてんそれによって、自然の力を服従させようと努め、野生動物を圧倒する力を得ようとしたのである。立体的な女性の表現は多分、女性−母、そして種族の保護者としての女性崇拝の現われである。これらの崇拝観念の暗示や儀式行為が後に宗教へと発展する。
<種族的連帯> マンモスの狩猟者あたちは種族的連帯のなかで生きていた。血族的に近い同じ種族のメンバーたちは協力して生活の糧を得る努力をし、協力して生命を守る戦いのなかで自らを防衛した。時代の経過とともに、種族生活の方法は恒常的形式を加えてきた。そして種族メンバーたちのあいだの関係は、種族集団の経済−社会的必要から出てきた堅固な原則によってコントロールされるようになってきた。最初の種族的連帯においては、私的所有はなかった。仕事の成果も、それらの消費も種族のメンバー全員に共通であった。食糧の調達に際しては、採集−狩猟時代にすでに分業の要素が適用されていた。男たちは狩猟をし、女、老人、子供は森や草原の実りを収集すること、衣料を作るための動物の皮の加工したり、火の番をすることが仕事として課された。こうして、すでにマンモスの狩猟者の時代に、原初的連帯社会秩序の基礎が形成された。それはあらゆる原始的人間社会の法則的な特徴である。原初的連帯種族的秩序は何千年の長きにわたって発展し、原始人がすでに経済的生産手段を所有するようになる後の時代において特に重要性をもってくる。
<母権制社会> 時代の経過とともに、特に、男と女の労働機能の変化と関連して、また種族内部での家族関係の発達に伴って、種族的連帯の形も変わった。不変の社会的単位としての家族はまだ存在していなかった。同じ母の子孫はすべて同じ種族のメンバーとみなされた。女−母は種族のなかで特殊な地位を占めている。それは火の守り手として、また食糧を調える人としての彼女の仕事の機能からきている。それゆえに、女−母の役割が特別前面に押し出されていた古い発展段階の時代は母権制の時代として特徴づけられる。 最後の氷河期は約一万二千年前に終わった。氷河はゆっくりと北のほうに退き、人間は地理学的「現代」に到着する。寒冷地動物の群れも北方に後退し、中部ヨーロッパ地帯はまたもや草原や森林の植物でおおわれる。
自然かんきょうの変化は人間の生存の方法にも変化をもたらした。動物の狩猟や自然の実りの採集はいぜんとして、人間の生存の主要な源泉であった。しかし、この時代になると人間は、洪積世時代の巨大な動物の代わりに、森林−草原の小型の動物や鳥、それに当時は現代よりも何倍も大きかった魚を捕っていた。
このことは、猟の方法の変化、新しい狩猟用の武器や精巧な道具の発明へと人間を導いた。小型の猟の必要から、また自分の護身のために人間は最初の動物、犬を家畜化した。それは古代人類の経済史のなかで重要な一歩だった。なぜなら、人間の長期的な利用のために家畜化された動物を飼育できるという認識は経済の生産的方法へのみちを開く要因の一つだったからである。
同時に、人間は草原地帯に数千年の経験に基づいて、再度より大きな有効性を生み出すために、適切な土地にある種の植物の種を意図的にまくことができるという認識にまで到着しはじめた。こうして、原始的農業の前提が形成されたのである。
人類の経済−社会的発展におけるこの大きな転換点はわが国においては東南地域、黒海、バルカン半島、近東からの影響によって早められた。この広範な進歩の結果は東南方面
から新しい人類がわが国へ侵入というかたちではっきりと現れた。その時期は紀元前四千年の変り目以後、新石器時代である。新石器時代は紀元前4500−2500年の間続いた。
2.原始的共同社会制度の最盛期 Vrcholeny rozvoj prvobytne pospolneho zrizeni
<新石器時代> 新石器時代にわが国の領土内の住居は新しい形態を加えた。四千年から三千年の間に最も実り豊かな地帯はすでに人間の密度も高く、定住化がすすんでいた。彼らの生活様式は先行する何十万年まえの人間の生活様式とは非常に異なっていた。新石器時代の人間はすでに動物の狩猟や自然の実りを単純に集めるということに縛られてはいず、生きるのに必要な手段を体系的な労働によって自然から収穫するよう努力していた。新石器時代に採集農業の段階は終わり、生産経済が始まる。その基本的要素は原始農業であり、家畜の飼育であった。
新石器時代の人類はすでに小麦、大麦、粟、その他の豆類、ヒラマメ、ソラマメ、インゲンマメの栽培を知っていた。彼らは種をまく土地を原始的に石のくわで耕し、また後には、人力で引く単純な木製のすきを用いた。植物の生産は家畜、羊、山羊、牛、豚などの飼育で保完された。生活の定住化への移行と関連して、多くの重要な生産経験を得た。石器や作業道具、武器などの製品が完璧化していった(滑らかで、磨かれ、穴を開けた斧。槌、くわ、溝ほり刀、ドリル、その他)。
新石器時代の人間は穀物を石のうすで粉にひくことができた。また、ある種の植物の繊維は紡いで、布に織ることができるという認識にまで達した。新石器時代の住居跡のなかに、原始的な糸紡ぎと機織りの道具が発見されたが、このことは、この時代にすでに麻織り布が毛皮という古い衣服方法を補完していたことを証明している。
<土器の製造> 農業や家畜の飼育がもたらした生産物を保存する必要から、間もなく製陶法が生れ、発達した。新石器時代の人間はすでに手で形を作り、それを火にかけた。それは小さな土器ばかりでなく、種用のもみや、粉、ミルク、脂肪、肉といったものわ保存できるような大きなものもあった。容器の形や装飾も特徴があり、時代や地域によって、それぞれ異なっている。それによって、出土品のおよその時代を特定することができ、また、それ以外に手掛りのない個々の文化領域を区別できる。それゆえに、原始人類の文化的なまとまりを、しばしば、それぞれ土器の典型的な特徴によって呼ぶのである。例えば、最古の農耕民を土器の表面に彫られた渦巻きの紋様に従って「うず巻紋様土器人」と呼んでいる。
<製品の交換> 多様な製品は、原料やいく種類かの製品の広範な交換へと導いた。しばしばそれは非常な遠距離のこともあった。こうして、いわゆる彩色紋様土器の時代には黒曜石が東スロバキアからチェコに持ち込まれた。バルト海からはこはく製品が入っていきた。新石器時代の末期にはヨーロッパ中をすでに隊商キャラバンが交通しており、ぜいたく品類まで持ち込んできた。そのなかには、初めての金属―― 金や銅の―― 製品も含まれていた。この時代に、わが国土には飼育された馬も現れ、一馬引きの四輪馬車あった。
<社会的関係> 新石器時代に、生産手段、特に土地の共有に基礎を置いた原始共同社会制度の発展は頂点に達する。母権家族制度はこの後も、経済−社会単位の基礎として残る。近親関係の家族は血族的連合に集り、ときにはすでに家系 kmen の萌芽を形成していた。新石器時代の人間の共同生活については、その住居跡も証言している。そのなかでは、大きな家屋が主要な地位を占めている。長さ20−30メートル、ときには40メ−トルのこともあり、木の丸太、枝、土で建てられている。新石器時代の末期には、敵の攻撃にたいする防御から、高台の上に要塞化した住居(砦)が築かれた。そのなかには、隊商キャラバンにたいする攻撃基地であるものもあった。
<宗教の始まり> 狩猟優勢の段階から農業への移行は、古代人の自然にたいする考え方にも徹底した変化をもたらした。新石器時代の人間は、古い狩猟−魔法的観念から徐々に抜け出して、彼らの農作業の結果に好ましい影響か、好ましくない影響を与える自然現象に注意の重点を向けた。反復される自然現象とそれらの現象の相互関係に注目したが、まだそれらを合理的に説明することはできなかった。彼らはその現象を人間ないしは動物の形をした超自然的存在の仕業とみなした。このような存在の好意を得ようとして、彼らは祭儀や祈願、供物やいけにえの行事を行なった。このようにして、人間社会の発達のより低い段階の宗教的イデオロギーとして、多神教(ポリテイスム)の萌芽が徐々に生れてきた。
葬儀方法の変化も宗教的儀式と関連している。死者にたいする恐れは死後の生活の信仰につながる。死者たちは、だから、儀式をもって埋葬され、いろんなお供えもので慰められる。最も古い農業民たちは同族者を単純に地中に埋葬したが、しばしば体を縮めた姿勢であった。新石器時代の末期に、いくつかの地域では火による葬儀、その灰は骨壷に納めるという習慣が現われ、相当後の時代まで普遍的な広がりを見せた。
新石器時代の末期に、わが国の領域内に、土着の農民と生活方法の異なる外人の集団が浸透してきた。彼らは戦闘的な遊牧民であり、恐らく、定着した住居をもたず、移動を続けて生活していたと思われる。北東からは縄紋土器 keramika snurova をもった民族、南東からは、いわゆる釣鐘杯 zvoncovy pohar の土器をもった弓射手族が入ってきた。両種族の流れは主としてチェコ領内にまで達し、彼らは新しい生産方法や経験、また血族制度の別の形式をもたらした。
農業と独立した牧畜との並存は、人類の社会発展における初めての大きな分業の現われとなった。牧畜の生活方法は多くの点で、農業の生活方法と異なっている。農業民たちは彼らの労働努力の結果が、自分たちが食べるに足りればそれで十分であった。それにたいして、牧畜民は好条件下ではかなりの過剰物を生むことになる。なぜなら、家畜の群れは急速に繁殖するが、その飼育にはそれほどの労力を必要としないからである。それゆえに、牧畜者たちは、生きた家畜であれ皮であれ、余分のものをはるかに大きな規模で、他のものと交換できるのである。
牧畜民はそれゆえ、富の大きさで農業民を抜いていた。それらの富は、また、遠征の獲物や略奪によって補充された。定住的な農業者よりも一所不住の遊牧民のほうがこれらの行為に走りやすい傾向が常にある。遊牧民の武器のほうが国内農民の武器よりも完成されていた。釣鐘杯土器の弓矢族は弓矢だけでなく、わが国では初めて知る金属の武――単純な銅の剣――をすでに装備していた。
<銅器時代> 紀元前二千年代の経過のなかで、わが国でも、他の中央ヨーロッパでも有色金属、銅や錫、後にはその合金――青銅(ブロンズ)――の生産が定着した。ブロンズは紀元前四千年代の終わりには、近東で知られていた。ブロンズの生産は古代人類の経済の発展において、さらに大きな一歩前進であった。ブロンズは直ちに大きな広がりをみせ、青銅器時代と称する全歴史的時代を画するほどであった。
青銅文化発展のための原料供給源は、わが国の場合、主に、中部ヨーロッパ最大の錫鉱脈をもっているクルシュネー・ホリ<山脈>の斜面であった。必要な銅は、青銅時代に、多分、最初はクルシュネー・ホリの表層の鉱脈から直接得ていたが、そこを掘り尽くしたあとは、かなりの苦労をして、深い鉱床から掘り出さなければならなかった。
金属を溶かしたり、鋳造の知識は間も無く、鍛造や、特殊な型に金属を流し込む技術鋳物)の熟練へと導いた。こうして、大量の道具や武器や芸術的装飾品(バックル、耳飾り、ピン、腕輪、首飾り、他)を生産品として比較的短期間に、量産的に製造する全く新しい可能性が開けたのである。じくつかの生産部門、特に、金属加工の部門では生産は専門化しはじめた。重要な労働の分業化、つまり職人的生産と農業の分離が起こったのである。また、製品の交換もこの時代に、かってなかったほどの広がりを見せた。
<ウーニェティツカー文化とマジャロフスカー文化> 青銅の古い時代に、わが領土内には二つの独立した文化が豊かに発展していた。すなわち、ウーニェティツカー文化(プラハ近郊のウーニェティツェで発見された墓地によってこう呼ばれている)とマジャロフスカー文化(スロバキアのマジャロフツェの発見場による)である。両文化は古い住居のいろんな要素の融合によって起こっている。この人類の生活水準は急速に発展すると同時に、新しい形態と経済−社会制度にも到達した。
<私有財産の発生> 当時の経済――社会秩序の基礎は依然として、主要な生産手段としての土地の集団所有に基づいた原始的血族連帯だった。しかし、新しい生産方法の発達は、その点において、重要な変化をもたらした。牧畜と職人生産は家族間に著しい財産の差を生じさせ、ついには、これ以前の古い時代には知られていなかったほどの私有財産の発生を見るにいたった。
それと同時に、血族的連帯の組織も変化した。血族の先頭に母が立っていた、これ以前の時代と違って、男の重要性が増大した。それは男の新しい生産機能(家畜業者、職人)と同時に、戦士としての役割によるものである。それによって、血族連帯の主導権の重心は女から男へ、血族の長老へ移っていった。古い母権血族制度は徐々に父権制へと変化した。この広範な変化に最初に達したのは、多分、牧畜に携わる血族連帯であったであろう。この連帯のなかでは、間も無く、最も強い男――戦士――の手に、家畜の私的所有として発達しただろう。しかし、農業者の血族集団のなかにも徐々に浸透し、原始的血族連帯制度の後期段階の普遍的特徴形式となった。
<モヒラ人の侵入> ウーニェティツェ人とマジャロフツェ人の経済−社会的かつ文化的発展は紀元前二千年代の中葉に、いわゆるモヒラ人の侵入によって中断された。ホヒラ人はポドゥナイ地帯から南チェコ、南西チェコ、モラヴァ、西スロバキアへと進んでいった。彼らは成熟した父権制度をもった牧畜民であり、そのことは血族の首長の豊かな副葬品も、また、それを覆う巨大な古墳(モヒラ)も証明している。モヒラ人は、多分、一時、特にチェコ領土内で支配階級になったと思われる。
<骨壷の野原人> 新青銅器時代、紀元前二千年代の末、チェコの領域の北部とスロバキアの北西部に「骨壷の野原」人が住みついた。彼らは死者を鄭重に火葬し、その灰を骨壷に収めて広大な聖なる野原に安置した。また、ルジツェ文化の人とも呼ばれている。彼らはザーレ、エルベ川から、東の方はほとんどプリペツケー・バジニにいたるまで、北はバルト海までの広大な領域を占めていた。骨壷の野原人の経済基盤は農業であったが、家畜の飼育と発達した手工業生産で補っていた。この人種は注目すべき経済的かつ社会的組織を形成しており、それを支えたものはいろんなものがある。つまり、自然によってよく保護され、さらに城壁によって人工的に固められた、居住砦であった。
<鉄器時代> 紀元前七世紀からわが国の住民は徐々に次の経済的には極めて重要な金属――鉄――の生産に出会うことになる。どうやら、鉄の知識はわが国には、一つには南東のほうから、つまり、黒海地帯から南スロバキアにまで勢力を伸ばしていた戦闘的スキタイ族からもたらされ、今一つは南方、アルプス地方からであり、この時代の記念碑の主要な発見場所は、高地オー々ストリア集落ハールシュタットである。ブロンズと比べると鉄は大きな長所をもっている。加工が簡単であり、非常な堅さと丈夫さで勝れている。新しい金属はこの歴史的区切りをおよそ紀元前七百年から紀元前・後の変り目までとし、鉄器時代という名称を与えた。その第一期はハルシュタット期(紀元前四世紀まで)と言われる。
チェコの領地とスロバキアは鉄鉱石の地表鉱床が豊かで、それらは原始的な低温の炉で溶かされた。溶出された鉄はより完成した武器や農機具、その他の作業用機械の製造に用いられた(斧、刃物、すき、くわ、その他)。生産の自国化と鉄の使用はわが領土ないにおける経済−社会発展における次の重要な変化に本質的に寄与した。
<種族=kmeny> 武器生産の技術向上によって、すぐれた武器の所有者は弱い、非武装の住民を支配することを可能にした。弱者を支配しようという努力と敵にたいする共同防衛の必要から、近親氏族、全氏族一門が、部族の指導者としての有能な個人に率いられたより高い社会的単位――部族――へと結合しはじめた。この傾向は多分、前の時代にはすでに始まっていたのだろうが、鉄が知られる時代になって初めて、部族的組織の発展の前提が形成されたのである。
<ビラニ文化> 住民の所有財産や社会的地位の格差の増大の証拠となるのは、「モヒル文化」人の強力な指導者の特に豪華な墓である。このモヒル文化人は古くからのらの土着民と融合し、中部チェコに独自の文化を作りあげた。その文化遺跡はビラニ・ウ・チェスケーホ・ブロドゥに広い範囲で発見されたので、その地名によって「ビラニ文化」と名付けられた。
<ケルト人> わが国土の大部分に、ハルシュタット時代には「骨壷の野原」人が居住していたが、その各々の部族(クメン)はこの人種の最盛期にはチェコの土地や西及び中央スロバキアばかりでなく、アルプス地方のほうまで浸透していた。しかし、紀元前五世紀から、「骨壷の野原」人の伸展はケルト族(ガル)の強力な軍事的抵抗によって阻止され、打ち砕かれた。
<ケルト文化> ケルト人はわが国土の古代住居のなかの確実に名前によって呼ぶことのできる最初の民俗的要素である。ケルト人はハルシュタット時代にはすでに東フランスから南チェコにいたる広い地域に住んでいた。紀元前四百年頃、ケルト族はイタリアを襲い、同時に中央ヨーロッパをカルパチア盆地まで支配したが、そこで、スキタイ族に占有された領土と接触した。チェコにはボユー部族が住みつき、その後にラテン語の名称ボヨヘムム Bojohemum、ボヘミア Bohemia が残った。スロバキアにはコティヌー部族が住みつき、後に鉄鉱石の採堀で勝れた。
ケルト族は地中海の成熟した領域の影響、特にイタリアのエトルリア文化、ギリシャ文化や、小アジア地域の影響もを多く吸収し、間も無く、高い水準の独自の文化を創造した。それは(スイスの遺跡発見の場所ラ・テーヌにちなんで)ラテーヌ文化と呼ばれる。ラテーヌ期は鉄器時代の後期の段階をいうが、およそ紀元前四百年から紀元前・後の変り目までである。
ケルト族の支配の時代においても、わが国土には古くからの定住者がとどまって、主に農業と牧畜に携わっていた。ケルトの支配者は中央ヨーロッパの文明発展に大きな役割を果たした。彼らは鉱山技術と製鉄技術を完成し、金含有の川砂から金を精練する技術も発展させ、鉄鉱石や黒鉛の新しい鉱床を発見した。特に注目すべき技術の進歩は、陶器作り用のろくろ、すきの鉄の刃、鉄の円形鎌、草刈り鎌、また、回転石うすの導入である。鉄製の作業道具の何種類かのものは、本質的には今日でも保たれている、完璧な基本的形態をその当時に得たのである。ケルト人たちは細かな芸術的な職能をもものにした(宝石細工、エナメル技法、ガラス器具製造)。刀剣類の完璧さ、また組織の際立った堅固さは、ケルト人が領土内で優位を保つ拠り所であった軍隊の高度の組織性を証明している。
ケルト人たちは、その最盛期には、巨大な生産と商業の中心地(オッピドゥムと呼ぶ)を形成した。これは後の「町」のある種の原型である。そのなかで最も有名なのはストラドニツェ・ウ・ベロウナ、スタレー・フラディスコ・ウ・プロステイヨヴァ、及び、フラザニ・ウ・スラプスケー・プシェフラディである。また、ズブラスラフの砦のシステムも確かに重要な地位をもっていた。製品の交換の非常な発展は、ケルトの金や銀の小さな貨幣もまた証明している――わが国で知られているもっとも古いものである。
<原始奴隷制> 中央ヨーロッパにおけるケルト族の定住が最盛期にいたり、製品の生産と交換が発展するとともに、労働力需要が上昇した。恐らく、大きな苦労を要求する最も激しい労働(砦の建設、鉱石掘り、森林の伐採、水汲み、商品の遠方への運搬など)は不自由民や奴隷によって行われていたと思われる。彼らは多分、戦争の捕虜とか、あるいは隷属させられた先住民だったかも知れない。だから、ケルト時代には、わが国土内においても原始奴隷制が形成されたと想定することができる。この制度の高度に発達した形式をケルト人たちは南ヨーロッパの奴隷制国家、特にローマ帝国との接触から知っていた。それというのも、ローマ人の権力的関心はケルト人の居住圏領域にまで達していたからである。
<わが国土におけるゲルマン人とローマ人> 紀元前・後の交替期にケルト勢力は二つの外圧に遭遇した。ドナウ河にはローマ帝国の軍団が待機しており、同時に、北方からはゲルマン系の戦闘的部族、特に、マルコマン族とクヴァード族が攻撃を仕掛けていた。彼らはわが国土内のケルト人領主たちを打ち破った。マルコマン族の長マロブドは一時、ゲルマン部族の統一と一大軍事力の形成に成功した。この軍事力はローマ帝国には多くの不安の種となった。マロブドの勢力が没落した後もゲルマン部族とローマ帝国との抗争は終わらなかった。ローマ帝国はドナウ河ぞいに堅固な防壁を築き、強力な軍団によって見張らせた(例えば、現代のウィーンのある場所にヴィンドボナ、ブリゲチオ――コマールノその他)。前進した軍団はときにはドナウ河の北にまで、あるいは、南モラヴァのムショフ、スロバキアのストゥパヴァ、ディェヴィーンやイシュにまで拠点を進めた。ローマ人とクヴァードとの間の激しい戦闘が、特に、マルクス・アウレリウス帝(166−180)の時代に展開された。その軍団の一部はポヴァージー、現在のトレンチーンにまで進攻してきた。そのことはトレンチーンの城壁に179年に記されたラテン語の記録が証明している。
戦争の時期と平和の時期は交替で訪れる。平和な時代とは、ローマの商業がわが国土の部族の長にイタリアや、ローマの地方の町からの製品――ブロンズの器具、ガラスの品物、その他を――貢いだときである。しかし、四世紀末から五世紀前半に、わが国土内のゲルマン族の戦闘軍団は、遊牧民フン族の侵入により徹底的かつ決定的打撃を被る。彼らは指揮官アッチラの指導のもとに中央アジアから東南および中央ヨーロッパに浸透してきたのである。
フン族の侵入は他の種族の移動をも呼び、時代的には居住地の大変動の時代にあたり、ローマ帝国の滅亡を伴っている。そしてこれまでは――完全に正確ではないが――「民族移動」(4−6世紀)という名称で呼ばれている。しかしこの時代には、すでにわが国土をスラヴ部族が支配していた。
<スラヴ人の登場> スラヴ人は最も古いヨーロッパの住民に属している。彼らの揺籃の地はカルパチア山脈の北、オドラ河からドニェプル河の間の広大な空間である。多分、新石器時代には、すでにその土地に、独自の民俗的全体として原スラヴ住民が明確になりはじめていた。恐らく、「骨壷の野原」人(ルジツカー文化をもった種族)はすでに新青銅器時代にはわが国土にも居住しており、西スラヴ種族の形成に重要な役割を演じている。しかし、わが国土の居住の最終的特徴にとって決定的意味は、最初の世紀に裏カルパチアからのスラヴ勢力の流入にある。この動向は五世紀と六世紀に最高頂に達した。この時代にスラヴ人はヨーロッパのかなりの部分において決定的要因となった。彼らは西方にはラベ河流域まで、南はアルプス地帯、ポドゥナイ地帯にまで浸透し、その後、間も無くビザンチン帝国とその首都コンスタンチノープルまでも脅かすにいたった。
<古代スラヴ族の経済及び社会生活> 古代スラヴ人の食生活の基本的源泉は発達した農業と牧畜であった。スラヴ人はいく種類かの手工芸製品にすぐれていた。特に、金工、木材加工、骨細工などである。彼らは勇敢な戦士であり、城塞都市の包囲攻撃に勝れていた。
製品製造と交換の全体的水準はスラヴ人の場合、ケルト人の時代よりも発達度は低かった。それゆえ、当然のことながら、スラヴ種族の場合、比較的長い間、父権家族制度の旧習を維持していた。そして、彼らのところでは、奴隷労働は全経済−社会制度を特徴づけるほど、産業において広がりを見せなかった。スラヴ人たちはどうやら奴隷を、農業や手工業生産の小範囲においてしか使わなかったようだ(いわゆる父権的奴隷制)。しかし多くの奴隷たち、主として戦争捕虜は、外国の商人がスラヴの土地から南ヨーロッパの奴隷制国家に運び出した。
スラヴ人とゲルマン人との間に経済的側面では本質的な相違はなかった。しかし、ゲルマン社会は、社会的に多くの格差があった。それにたいして、古い血族連帯的制度の崩壊はスラヴ人の場合、生産手段の私的所有の発展と相関して、止めようもなく進んだ。父権的血族制は徐々に個々の家族に分解していった。それらの家族は多くの場合新しい農業集団 obec を形成していった。そしてそれらの集団には、もはや血縁的また血族的近親性によってではなく、単に隣人であるということによって構成されるのである。こうして古い血族的土地と並んで、隣人の新しい土地が生れた。その地所の住人は初めはまだ、彼ら共通の所有物であった土地によって農業経営をしていた。しかし、徐々に、広大な土地は豊かな、権力のある個人の私的所有になっていく。彼らは自分では土地を耕さないが、特別の条件で零細な農夫たちに使用させるのである。こうして、原始的血族連帯制度が崩壊している時代に、新しい、より成熟した経済−社会制度―封建主義―成立のための条件が徐々に形成されていたのである。