最終更新日:04年01月28日

[裏方放談」 裏方の戦後史への試み



目 次

(1) 演劇との出会いのころ
(2) 虎ノ門時代
(3) 六本木食堂
(4) 昔の旅公演
(5) テレコ置き忘れ事件
(6) 上乗りの思い出
(7) ”となりのミヨちゃん
(8) よき時代(裏方制作部)
(9) どん帳吊り
(10) 舞台監督論の原点
(11) 大道具技術
(12) 技術の伝承
(13) 演劇の密度
(14) 今、面白い芝居
(15) 新しい技術
(16) 舞台技術とライセンス
(17) 舞台監督の境界線
(18) 観 客 史
(19) 演劇の展望――未来はあるか?
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田才 今日の座談会のテーマと言いますか、企画の意図を簡単にお話しておきますと、裏方の戦後世代も大体において、もう50歳に達したようですし、ここらでそろそろわれわれも裏方の戦後史を記録しなければならないのではないかとあるとき、ふと思い至ったのです。ところが、われわれの周囲を見回したところでは、誰か『裏方の戦後史』なんてものを書いてくれそうな筆の立つ人もおられないようだし、それならば手っ取り早く、こういう座談会などという『放談』の形式なら、いろいろと自由に、奔放に話をしていただけるのではないかと、そして、それを記録することも、演劇の一側面の歴史を形作るものになるだろうと、まあ、そういう発想でこの企画を立てたわけです。
これには、まあ、武勇伝の持主などという方々のなかには、あまり好ましくないというか、煙たがっている向きもあるみたいですけれども、それはそれとして、事実を記録に残したいと・・・・・・
 それからもう一つは、中堅というか、もうそろそろ大御所に達してこられた世代から、現在の若い世代の裏方、照明、効果を含めての裏方にたいする、苦い・・・・・・苦言といいますか、そんなものをできるだけそのものズバリと、まあ、ブッチャケタところで出していただけたらと思うわけです。


演劇との出会いのころ

それでは、まず、田村さんの演劇キャリアのはじめからお話していただきましょうか。

田村 俳優座に技術実習生としての第一期というのがあってねね・・・・・・。要するに劇場(旧俳優座劇場)を建てるために・・・・・・、もう演出部は要らないと・・・・・・、演出部はそのとき、もう、すでに二十何人もいたんだからね、昔の俳優去っていうのはゴウカ。それで、もう演出部は要らんと、技術生が欲しいんだということで・・・・・・
湯藤 劇場を建てる前に熹朔先生(千田是也の実兄、舞台装置家)が技術生を養成しようっていうんで出来たんだ。
田才 じゃあ、その話を少ししてください。
田村 だぁら、それはね、夏、一ヶ月くらいかかったのかね、講習は。そのとき五六十人いたの。それこそ左(すけ)さん(篠木左夫・照明家)がいたりで、錚々(そうそう)たる講師陣でね、大変なもんだったんだ。で、古い養成所の夏休みの期間にね、実習生というのが集まって五六十人・・・・・・。
田才 それは何年頃の話ですか? 
湯藤 二十九年(昭和)ぐらいじゃないかな。
秋本 二十九年に劇場が出来たんだよ。
湯藤 じゃあ二十八年だ。
田村 いや、もっと前だ。だって、あすこ(六本木四丁目)はまだ原っぱでさ、オレらはあの原っぱを・・・・・・。
秋本 つまり、あんたら何年いたんだよ、養成所に・・・・・・、それを考えりゃ、簡単じゃない。
田村 劇場が建ったのが二十九年の・・・・・・四月に建ったの? そうするとね、二十七年くらい。二十七年の夏じゃない?
湯藤 あっ、そうだったかな。
田村 そして十人残ったんだ。その十人というのが、オレに湯藤・・・・・・。
田才 ええっ? じゃ、湯藤さんと田村さんはそのときの同級生?
湯藤 そうなんですよ。
田才 それは知らなかった。
田村 それから、伊藤洪太。
田才 もしかしたら製作場(俳優座)の?
湯藤 そう、いま、草加工場の工場長ですよ。
田村 それに中部末代(故人)。それから石田のチョンボ(孝氏)。松井、これが劇団「仲間」でしばらく音(音響)をやっていた。
湯藤 それから衣装の女の子がいたな。
田村 もう一人、発展かみたいなのもいた。
湯藤 たしか女が三人いたよな。
田村 それから、あれがいるんじゃないのか? いま、建築家になっているヤツ。
湯藤 それから舞台監督やってるのが一人いるんですよ。
田村 松樹いたる。あれは「ぶどうの会」に入って・・・・・・
湯藤 そう、それで十人ぐらいになるんじゃないか。それで劇場が出来るまで、ずっといたんだ。そしてオレなんか二年ぐらい研究所に残されて、いろんなことをやらされて、それで三期会が公演をはじめて出ていっちゃった。
田村 まあ、ひどい話よ。なんの保証もなくな。オレはあの当時は、音屋ではタダよ。一銭ももらえないの、ずっと。
秋本 オレが俳優座の演出部と一番最初につき合ったのは、二十七年かな、オペラの『フィガロの結婚』を旅でやったんだ。そのときにね、俳優座の演出部とつき合った。たしか熊ちゃん(熊井啓之氏)、内っちゃん(内田透氏)、河路さん(昌夫氏)とか・・・・・・、そして河路さんが舞台監督だった。
田村 河路さんはランクがちょっと上だな。
秋本 二十八年のときにはタリさん(広渡常敏氏)もいたしね。東京駅でタリさんに紹介されたりしたことを覚えている。
田村 長沼(広光氏)なんかもいたよ。
秋本 そう、長沼もいた。岩さん(岩村久雄氏)もいた。
湯藤 演出コースの三期生っていうのはよく働いたんだよな。
田村 そうだ、熊、ジャコ(小林進氏)、内田、長沼、李・・・・・・。
秋本 演出コースの三期生なの、彼らは?
湯藤 そう、三期生です。
田村 あのあとが・・・・・・
秋本 湯藤さんたちは演出コースの一期生なわけ?
田村 ちゃう、ちゃう、われわれは・・・・・・
湯藤 それでね、三期でなくなっちゃったんだ・・・・・・
秋本 演出コースが? で、その後に・・・・・・
湯藤 舞台技術コースが出来たんだ。
秋本 じゃ、あんた方は演出コースではなくて舞台技術コースなんだね。
湯藤 だから演出コースっていうのは三期でなくなっちゃったんだよ、たしか。
秋本 じゃ、演出コースの一期生っていうのは誰なの?
湯藤 オレもよくわかんないけど、しいて言えば大木ちゃん(靖氏)なんかじゃないかな。
田才 二期は?
湯藤 二期は河路さんとか・・・・・・
田村 西木(一夫氏)、増見(利清氏・故人)さん、下村の節っちゃん。
湯藤 あの辺はね、曖昧模糊としている。
田才 じゃ、三期は?
湯藤 三期はいま言った、熊井、タリ、内田、ジャコ・・・・・・、女ではハム(上田公子さん)、ピン子(児玉品子さん)、おくめさん(宮城粂子さん)。
田才 演出コースと技術部の間は?
田村 その間にね、準一(中村・故人)とか・・・・・・
湯藤 そうだ、四期があったんだ。
田村 四期の変なのがあった。
湯藤 それが中途半端になって一緒になっちゃったんだ。
秋本 あんまり区分けがはっきりしてないわけだ。
田村 昔から演出部と舞台部とかなんかっていうのはいいかげんなのよ。
湯藤 四期っていうのはね、川和(孝氏)さんとかさ、それから準一だろう・・・・・・
田村 それから・・・・・・、TBSにいった野口。
湯藤 そうそう、野口。いまは偉いですよ、彼は。
田村 だから、ああいうのがいたんだ。
湯藤 そして中途半端で、オレたちと一緒になったんだ。
田才 つまり、技術実習生と一緒になったわけね。
田村 いやあ、入ってしまえば同じこっちゃない、やつらは。演出部っていうんじゃないんだよ。
湯藤 だから岩さんなんかが二期だと思うよ。
田村 そう、二期だよね、一つ上だ。
湯藤 だから、岩さん、沼田幸二さん・・・・・・
田村 西木、増見。あの辺がみんなそうだ。
湯藤 さっき、秋ちゃんは、俳優座の演出部とはオペラでつき合ったって言ってたけど、ボクと田村なんかとのつき合いっていうのはどの辺だったろうかね?
秋本 劇場(旧俳優座劇場)が出来てからだね。だってボクはさ、劇場に一番最初に行ったのは『赤いランプ』なんですよね。なぜ行くことになったかというと、よっちゃん(吉田豊氏・故人)だとか、滝尾(輝雄氏・故人)さんなんかと飛行館で仕事をしたとき、今度は俳優座劇場ってのが開いてね、『森は生きている』ってのをやるんだけど、人が足りないんで誰か紹介してくれないかって言われて、オレがある男を紹介したら、そいつが二日酔いで行かなかったわけ。それでさ、謝りに行ったんだ。どうも申し訳ない、具合が悪くなって来れなかったって。そしたら、「ああ、あれはいいんですよ。今度は『赤いランプ』って芝居をちょっと手伝って暮れ』って。オレ、ちょうどそのころ、仕事がいくつか重なっててね、だけど他人をやって、またキャンセルされると困るしね。そのときの俳優座ってのは、夜、『女の平和』の本番をやりながら、昼、『赤いランプ』の舞台稽古をやってた。オレは夜、日比谷公会堂のバレーの本番があるから、昼間の舞台稽古が終わるか終わらないうちに飛んでいくわけだ、日比谷まで。そうやって『赤いランプ』についてからなんだ、俳優座やみんなとのつき合いは。
田村 そのころは、まだ東京舞台照明じゃないんだよね。
秋本 もちろん。東京舞台照明の前身の「光芸クラブ」だよ。
湯藤 ボクの記憶のなかでね『赤いランプ』のときに篠木さんが舞台稽古の客席にいてね、あのころさ・・・・・・
秋本 雲ね。
湯藤 いや、雲じゃなくて天の川。何千て点けたじゃない。「もうちょっと、こっち」とかなんとか言ってさ、そんとき、一生懸命に、あの豆球をさ、つけて歩いてた。そんときにね、どこにいたのか、秋ちゃんがいた記憶があるんですよ。
秋本 オレはね、その星の灯入れをしているとき以内の。
湯藤 ああ、そうお?
秋本 あれはヨッちゃんがやってた。ヨッちゃんがチーフだったからね。オレはいなかった。オレは星の灯入れとか、段取りが出来てから行ったんだよ。
湯藤 あんとき、田村さんなんかついてた?
田村 ついてた差。オレなんかもう、転換と・・・・・・、オレなんか昔は大道具だからな。
湯藤 そうそう、出はそうなんだよ。
田村 それで、生音(なまおと)やってたんだ、アレは。あのときはステレオ。スリー・チャンネル。東通工時代に向こうからやらしてくれって来てね、で、俳優座劇場でオーケストラを録音したんだよ。東通工が機械もってきて、ちゃんと三点吊りしてね。スリーチャンネルで録音して、そして、なおかつ、ツーチャンネルでいろんな音をね、ニコライ堂に行っては鐘の音をステレオで取ってきたり・・・・・・、あれは立体音響のハシリだよ。
湯藤 あのころのほうがさ、なんか音が走るとかなんとかやってたじゃない。
田村 逆に、大変なことやってたんだ。
秋本 そうそう、あのとき、墓場の場面で、ソ連参戦でソ連機が客席のほうから来るわけ。それでね、上手(かみて・舞台に向かって右手)のギャラリーの上のスピーカーから、舞台スピーカーへグワーッと来て墜落すると下手(しもて、舞台左)ホリゾント裏から煙が出るんだけど、飛行機の音が上手のギャラリーから下手裏っ側へ来るまで、オレはホリゾントに飛行機雲出しているわけだよ。その音と飛行機雲が合わなくちゃいけない。こんなちっちゃなスライドをホリゾントいっぱいに出しているわけじゃない。ゆっくりカッターを引いているんだけどシューッと行っちゃうわけだ。そのリハーサルだけで、音とスライドが合うまで二時間ぐらいやったんじゃないかな。
湯藤 あのころのね、演出家とか照明家とかいうのはね、コルっていうか、楽しんでいたよ。それでオレたちは苦労したんだから。
田村 そりゃあ、もう大変なものだった。あれは十六か? 十八尺か、張物の立端(タッパ・高さ)は? そんなんだって、オレだって、生音、上でカーッといっちゃあ、おまえ・・・・・・
田才 カーア?
田村 カラス。カラスをやって、それから飛び降りて、転換だよ。(笑い)もう、何をやっているんやら・・・・・・もう、とにかく、無我夢中・・・・・・
湯藤 鶏の羽音っていうのもあったよな。
田村 ああ、もう何だって・・・・・・
秋本 オレ、一番、転換で覚えていっるのはキャバレーの場面ね。
田村 (感嘆をこめて)ああ!
秋本 キャバレーの場面は暗転つなぎでね。
田村 『黒い瞳』か? あの音楽。何だったっけ。ほら、タンゴの。
湯藤 そうそう、関・・・・・・
田村 関カンコ?
湯藤 いや、娘、あれが出てたよ。
田村 関・・・・・・
秋本 ヒロコ?
湯藤 関弘子が出てた。
田村 関ヒロにしたって、あのときはみんな出てたんだもん。山岡久乃とかね、あの連中が・・・・・・
湯藤 あのころはさ、十八尺の張物を立てるわけよ。
秋本 二十尺あったんじゃない?
田村 いや、どうだったかな。
秋本 十八尺ってことはないよ。
湯藤 で、そいつをガチでとめるわけよ。そいで裏方はね、口にガチをくわえて、十八尺までバーッとあがっていってね、トンカチでポンポーンと打つのが粋な商売でね、どこで覚えてきたのか・・・・・・
田才 まるで鳶職じゃない。
秋本 なんで十八尺でなくて二十尺かっていうとね、仕込みの晩に、ベニヤ張りの張物が重くって、スノコの滑車が飛んじゃったの。河路棟梁が上にあがってってね、一生懸命直していたの覚えている。だから、十八尺なんてもんじゃないよ。二十尺、二十一尺あったかもしれない。
田村 昔の劇場(俳優座)だからな。ギリギリに有効に使ったからな。いや、いま、かんがえてみりゃあ、できないね。あんな装置といい、あんな転換といい、あんなことは、いまの裏方じゃできやしない。
田才 できないというより、もっと合理化するだろう。
田村 いや、合理化というより、まず、金もかけられないだろうし。
湯藤 その後なんだよ、紐が出てきたのは。
田村 引っかけね。
湯藤 昔はそれがなくてね、張物の上まであがっていってガチどめしていたんだよ。まあ、自慢するほどのことじゃないけどな。あれの舞台監督は誰だったっけ。
秋本 河路さんだよ。<編集部注・『俳優座史』によると舞台監督は阿部広次氏(故人)>
湯藤 河路さんだっけ。
田村 河路さんだった? 大木ちゃんもついてたけど。
秋本 大木ちゃんは大道具で、河路さんが舞台監督よ。そいで、節ちゃんが舞台監督助手なの。いや、演出助手かな?
湯藤 演出助手。
秋本 そして進行は全部、節ちゃんがやってた。
田才 節ちゃんて?
田村 下村節子っていって、二期会の河内さんの奥さんよ。ガチ袋をぶら下げてね、それがまた似合うのよ。
秋本 こんな大きなお尻にね・・・・・・
田村 その上に似合うのが中部末代よ(故人)。
湯藤 節ちゃんというのは、いつもニコニコしてたね、いい女だったよ。
秋本 こ、こう・・・・・・
湯藤 そう、オカメみたいに、こう目がさがってて・・・・・・
秋本 なんで節ちゃん覚えているかっていうと、そのキャバレーの場面の転換のシーンでね、もう、間に合わないわけ。もう、すごい大転換なわけ。引枠が下手からワーッと出てくるね。そいで上からイルミネーションの灯入れが降りてくる。それから下でもって電気スタンドの灯入れはあるわね、そいから後にふっとすぽっとがあるわね、それからマシーンで水玉をこんなに流してるし、もう、大転換なわけよ。
湯藤 ミラーボールみたいなものもね・・・・・・
秋本 そうミラーボールも回っているしね。それはドン帳を下ろした暗転間縄毛だけれどもね。ともかく、なるべく早くやろうと思って一生懸命やっているんだけど間に合わないわけ。まだ仕込みをやっている最中にオレんところへ節ちゃんが来て、「秋ちゃん、いい、いい? 暗転するわよ、いい?」って言うんだよ。オレも仕様がないから、自分の仕事やりながらね、「むこうの電気スタンドがついたらいいよ」って・・・・・・。「電気スタンド点いてるよ、いいね」「いいよ」で、舞台の転換明かりがパッと消えてドン帳が飛ぶ。そしてフェイド・インしてからね、そのマシンを付けたスライド用のアークを下手から持ってきて、ホリゾントに水玉を出していた。そうでないと、暗転になると出演者も多いし、危なくてもってこれないわけだよね。だからどうしても二三分遅れるわけよ。それでも転換を早くせざるをえないから、節ちゃんに言われると「いいよ、向こうの電気スタンドが点いているといいよ」って言うより仕方がない。それをステージ(係りの照明家)二人でやってたんだ。
田村 あれはね、本当に、『赤いランプ』なんてのはね、ステージのいろんなパートのチームワークが絶対だね。
田才 それを演出した裏方泣かせの演出家は誰なの?(笑い)
田村 言わずと知れた、千田是也先生(故人)よ。
湯藤 書いたのが真船豊先生(故人)だ。
田村 そう、真船豊。伊藤熹朔装置よ。それに篠木佐夫照明、芥川也寸志音楽。そりゃあ、もう、たーいへん。あんなもん、二度とできないだろう。
秋本 でもね、オレなんか二十九年から俳優座とつき合いが・・・・・・、まあ、オレはその前からオペラなんかであるけども、でもね、俳優座の演出部ってのはすごいなって思ったね。そのころね、三劇団のなかで一番仕事のできる演出部がそろっているなって思ったよ。
田村 そらあ、大変なもんだった。
秋本 それがあるとき、演出部ってのを全部首切って、舞台部っていうのを作ったわけじゃない。でも、それがね、俳優座にとってよかったか悪かったかっていうのはね・・・・・・なんともいえないね。
湯藤 いまね、秋ちゃんが言ったのを補足するとね、俳優座の演出部がいかに優秀だったかっていうのはね・・・・・・、大木ちゃんと、いま言った三期生だよな。
秋本 非常に確実な仕事をしたしね。職人として大変なもんだった。
湯藤 そりゃ、もう、すごいもんでしたよ。
秋本 駄目なのもいたけどね。
田村 職人としてということでは、そりゃあ、なんたって大木ちゃんだよ。大木靖・・・・・・。やっぱり大変なもんだった。
田才 われわれの印象としては大酒飲みで、ちょっと・・・・・・という印象が強いけどね。
田村 そういう意味ではね。でも、昔の裏方っていうのは、飲んで・・・・・・、いや、そんなもんだよ。
秋本 飲もうと、何しようと、仕事はきちんとやるっていうのがね。
田村 そうそう、キチッと。そいで何かのグジャグジャは酒で終わりにしようっていって、一晩で終わりだよ。これはもう有無を言わせず。
湯藤 オレたちの世代は、なんか知らないけど、みんな大木ちゃんを頼ってきたんだよな、不思議と。
田村 この人(湯藤氏)も、土岐も、服部典宏もそうだし・・・・・・みたいな形で、あそこの虎ノ門に集まってきたんだ。


(2) 虎ノ門時代

田才 すると現舞台監督協会会長の土岐八夫氏との関係はどうなるの?
田村 あれはね、オレらよりちょっと遅れて来やがったのな。死んだ服部典宏よりちょっと遅れてかな・・・・・・、同じくらいかな?
湯藤 同じくらい。服部典宏というのは、ちょっと亜流で入って来たんですよ。大木ちゃんの何かっていう形で、一升瓶もってきやがってな、虎の門時代にね。虎ノ門といっても知らないだろうけど、虎の門に製作場(現在の俳優座劇場舞台美術部)があったの。製作場のハシリだな。
田才 どの辺にあったの?
田村 佐久間町だからね、いまで言うとどの辺になるのかなあ。
秋本 虎ノ門の神社のそばだよね。
田村 金毘羅山。それの反対側のね・・・・・・、交番があるだろう、虎ノ門の・・・・・・、あれの筋向いのほうの裏一本のところだ。
秋本 要するに佐久間町に近いほうよ。
田村 そこにね、二階を二期会に貸してた。
湯藤 そうそう。
田村 二期会が間借りしてたの。
湯藤 二期会なんて、いま偉そうな顔してるけどな。昔はね・・・・・・。
田村 オレらが下でがんがんやっているところをね。
湯藤 このくらいの部屋かな(パブの部屋、3間x4間くらい)。
田村 うん、あるかないかぐらいな。そしてこのピアノ(一番小型のグランド・ピアノ)があるんだよ、一つ。二期会は要するに俳優座の製作場の二階の一室。オレらが階段のこっち側、あれは右へ行った。左はオレらの寝室よ。オレと湯藤が・・・・・・、土岐は後から入ってきたんだな。そこで寝起きしてたんだ。
湯藤 そうそう、二階の、あれは四畳半くらいの部屋だったよな。
田村 六畳くらいあったよ。
湯藤 そこへ寝泊まりしていたときに、熊さんなんかしょっちゅう来て、泊まって歩いてたんだよ。
田村 あの、マージャンな。六本木でマージャンして、佐藤マーちゃん(正之氏・故人)とかさ、沼田幸二とか、
秋山の庄ちゃん(庄太郎氏・写真家)から稼いじゃあね、夜、遅くなって、ドン、ドン、ドンて、「うるせえな」って、「田村ァ!」って、やあ、熊だなってのがわかるから、「あ、でも来るんならお土産があるだろう」っていうんで、「やあ」って行くと、「勝ったからな、今日はちょっと豪勢にいこう」っていって、「オーッ」てな具合で、着替えして、新橋まで歩いていってね、豪勢に・・・・・・、豪勢ったって知れてるよな。
湯藤 柳枝園(りゅうしえん)って喫茶店があってさ、よく行ったんだよ。
田村 柳枝園な。あすこで、なんかセットを食って、コーヒー飲んで、いい気分になって帰ってきたんだよ。
湯藤 おかしかったね、あのころは。でも、なんとなく、あんまり不安も感じずに生きてたもんな。
田村 まるっきり不安なんて感じなかったね。
湯藤 オレなんかね、さっきも出た、劇場の出来るまえの劇場の野っ原にな、俳優座の大道具の小屋があったんだけど、オレなんか寝るとこがなくて、そこにさ、夏場寝てたんだよ。というのはさ、俳優座の演出部のところにね幕やなんかあって、仕事やなんかっていうと、みんなそこに寝てたんだ。今日は仕事だっていうことになると・・・・・・。そしたらお爺さんいたろう、小使いの・・・・・・。そのお爺さんがな、夜十一時になると鍵かけちゃうんだ。それで夜帰ってくると締め出されちゃってさ、仕方なくてその小屋でさ、大道具とかソファーとか置いてあるなかで寝てたんだ。上を見ると月が見えるんだ、穴があいてて、そしたら雨が降り出してきて、それで仕方なくて、コーモリ傘さして、一晩、寝ないで座っていたってこともある。それでも、そのころ不安を感じなかったもんね。
田村 なんて言うのかな・・・・・・
湯藤 何かオレたちは・・・・・・
田村 未来があったな。
湯藤 新しい仕事をしているっていう・・・・・・
田村 未来があったね。
湯藤 なんか、そういうね、こう、プライドというかさ・・・・・・。

(3) 六本木食堂

 湯藤 裏方っていうのはな、昔はね・・・・・・
 田村 飯だけ食えりゃいいって・・・・・・
 湯藤 李さんというのがいてさ、これがね、裏方は役者より倍食わなきゃならないっていうのを確立したんだ。だから、オレたちはいっも役者よりもいっばい食えるという…… 田村 いやいや、それとね、飯はふんだんに食わす、酒は飲ますっていうんでついたんだ。
 湯藤 その頃ね、忘れもされない、オレたちの唯一の拠り所っていうのがね、俳優座の前にあった『六本木食堂』だった。そこで飯食うっていうのがな……
 秋本 あれでどれだけ助かったか分かんない。
 田村 あれはね、オレなんかでも二杯半くらい食ってたもん。
 秋本 丼でね。
 田村 ああ、丼で。
 湯藤 旅でひと月くらい行って来るとさ、その頃忘れもされない、外食券っていうのが来るわけよ。『六本木食堂』っていうのは「頼みます」って言うと、その外食券がなくても食えたんだ。
 田村 食えるし、それから券を買ってくれたりもしたよな。旅なんか行くと余るじゃない。
 湯藤 だから、それ持って、親父さんとこ行って「買ってよ」って言うと、金出して買ってくれる。それが嬉しくって、もう……
 秋本 外食券ていうのは切実なんだよ、その頃はね。なきゃ、だって、飯が食えないっていうんだから。
田村あの六本木食堂っのはね、本当にね、演劇史に残る。
湯蘭残る、残る。


(4)昔の旅公演

 湯藤 これは当時の旅の話なんだけどね、サブロク、その頃はさ、張物は全部三六で……
 田村 三六の……
 秋本 三尺に六尺。
 田才 畳一枚の大きさね。
 湯藤 それで、あれ、四十五キロだっけ…
 田村 四十五キロ……、四十五キロじゃないかな……
 秋本 全部、チッキにしてね。
 田村 四十五キロだったかな、とにかく、これが難しいのよ。キチッとならないんだよ。
 湯藤 これは忘れもされないけどね、芝居が終るだろう。九時頃終って、バラしてな、梱包すると、十一時になるんだよな。それから直ぐそれを運んで行ってさ……
 田村 トラックで駅まで運んで……
 湯藤 眠い駅員にさ、「私たち全部やりますからね、見てて下さい」って言ってな、秤にかける時、みんなゴマカシてんだ。
 田村 たいてい一人しかいないんだよ、向こうの係は、もう、夜遅いから。
 秋本 荷物をこうのせるじゃない。そうすると、裏でそうっと持ち上げるんだ。
 田村 いや、軽いのはそのまま置くんだよ。な、だけどもさ、「おっ、はいよ」って二人で持つと分かるじゃない。そして、カンカンに乗せて、「オッ」てな、足で、こうやって足でスケるんだよ。そしたら、カンカンの針がチラチラッて、こう動くんだけど、「OK」
って言って……もう、「オイッ次」だよ。
 湯藤 そう。で、裏方はね、それを今度は貨車に積み込まなくちゃいけないんだよね。
 秋本 それまでやっちゃうのね。
 田村 そう。
 湯藤 だけど、これが大変なの。小さな駅だと停車がな、三分……
 秋本 三分ないんだよ。
 田村 一分。一分よ。地方の駅は。
 湯藤  それを四十個入れるんだよ。バーツと・・・・・・
 田村 もう、到着寸前になると、もう……
 秋本 だけどさ、九州で「新協」(劇団)がさ、『石狩川』の時にね、急行を遅らしちったってのがあるんだよ、乗替えで。その荷物を積むのでね。そんなの、もう、平気でやっちゃうわけよね。
 田村 当り前のようにね。
 湯藤 その頃は、もう本当に大変だよ。今、言ったように先ずカンカンで計って、そして荷物をどこに置くかだよ、プラットホームの。荷物車の止まる所にピシャッと置かないと、持って走らなきゃならないわけよ。
 田村 だから、前もって聞いとくわけ。どの辺りに荷物車が来るかっていうのをね。
 湯藤 で、いい所へ来ないとドアだってさ・・・・・・。それをブォーツと積み込む、二人組んで……。だから、裏方っていうのはいつも荷物車に乗ってたよな、何人かは。
 田村 いや、荷物車には乗れないんだ。その近くにいて、もう近いぞっていうんで……
 湯藤 でも、オレ、荷物車で行ったこと何回もあるよ。そして忘れもしない、吉田豊(照明家・故人)がさ、動き出したら、間に合わなくてさ、走って来るのに「ホーラ」なんて手を引っぱったりなんかて……
 田村 あれは延岡。
 湯藤 そいで置いて来ちゃった。
 田村 あれは宮崎から延岡へ行く時かな、まあ、色んなのがあるからなあ。
 湯藤 一番大変だったのは大分のね、どっかへ行く時にな……
 田村 じゃあ、延岡よ。
 湯藤 乗替えなくちゃいけないんだ。汽車が着いて、荷物を下ろして、次の汽車を待って、それへ乗っけるっていうね……。
 田村 そういうのもあったね。それから、朝、寝坊した奴は、もう、置いて行ったのもある。それで乗った人数が十数人中、四五人しかいなくてさ。あと二三時間経たないと来ないんだ、ローカル線だもん。


 (5)テレコ置き忘れ事件

 湯藤 オレが覚えているのはさ、大阪のどっかでさ、テレコを置き忘れたのがあったじゃない。
 田村 三期会が? 
 湯藤 うん、プラットホームに置き忘れて、そのまま乗っかっちゃって……
 田村 いや、それをオレら、裏方がね、役者に任せたわけよ、手持ちで…『森の野獣』で。そして、オレらが二三時間遅れて行ったのよ。そして京都駅で、なんかして、ふとね、見たのよ、しゃべっててな。オレら大阪まで行くのに。「オイ、あれ、オレのテレコにそっくりじゃないか」って言って、「そうだな、似てるなあ」って言うけど、それはね、こっちに線路があって、その向こうのプラットホームなんだよ。だもんだからね、こう、行って見に行くつもりもないんだよ。「似てるね、でもあれがあそこにあるわけないよなあ」って……。そしたら、丁度、列車が入って来たんだよ。列車が入って、ふと見たらね、昔の列車だからさ、あいている所をホイホイと渡れるんで、「オレちょっと見て来るわ、気になるんで」って行ったわけよ。そしたら、紛れもなく、オレの手垢といい……、なんか似てる……、ね、え?「うわあツ、これっ……、うう…」ってって、持って来て……。誰も持って行かないのね、二三時問あったって言うから、ホームに、京都駅の。そして持って来てね……
 秋本 まだ、人が好かったんだよ。
 田村 いやいや、世の中はまあ……。それとね、「そんなもん」という、みたいな所あ
るから誰も持って行かない。
 秋本 時限爆弾かも知れない。
 田村 そうそう。
 湯藤 あの頃はさ、劇団の宝物よ。
 田村 オレの手製のテレコだもん。あの当時でね、部品に二三万かかってんの。
 田才 よくも、まあ、そんなもん出来たね。
 秋本 その頃、二三万と言や、大変なもんだよ。
 田村 いやあ、大変なことよ。
 秋本 オレの一ヶ月のギャラが六千円だっていうぐらいの時だから、それが二三万だからね。
 田村 当時、買えぱ十万ぐらいするやつを組立てて、オレが……
 湯藤 あれは田村、自分で作ったのか?
 田村 オレが作ったんだ、あのテレコ。
 秋本 その頃、チッキで送るものの外にね、まず照明器具と音響器具は全部手持ちなわけ。
 湯藤 そうなんだ、手持ちなんだ。
 秋本 役者が自分のスーツケースを一つ持って、そして片方に、麻袋にベビースポットを四つなり、二つなり入れたやつを役者に持たせたんだ。それと、その頃は、もうテレコだったかも知れないけど、その前はディスクでやってたわけだよ。
 田村 いやいや、その頃も併用よ。その時も併用、テレコとディスクと……。
 秋本 だから、プレーヤーを持つのもいるし、アンプを持ってるのもいる。アンプも小さなやつでね、だから一人で持てるくらいのやつ。それからスピーカー持ってるのもいる。
 田村 スピーカーと、テレコと、アンプとプレーヤーね。
 秋本 それぞれを全部持たしてるわけ。それから配電盤持ってるわけ。低抗器持ってるわけ。
 湯藤 そうそう、重いのがあったよ。
 秋本 だから配電盤や抵抗器の重いのは裏が持っているケースが多いけれども、あとは役者が持っているわけね。それを持ってて、テレコを忘れた役者がいたわけよ。
 田村 だから、オレはそいでさ・・・・・・、え、興奮して、持って旅館へ入ったわけよ。そしたら会議してんだよ。「ない」って……。それを脇へ置いといて、素知らぬ顔で会議に乗り込もうということにしたんだ。そして、行ったらね、もう、深刻すぎて、可哀そうなんだよ。係の奴がこうね。この人だよ(湯藤氏に)もう、先にバラしちゃって笑ってんだよ。
 湯藤 あれ、どこだっけ。
 田村 大阪の、天六の、ヨッちゃんのものすごく馴染の旅館よ。
 秋本 教職員組合の寮かなんかね。
 田村 そうそう、あの当時はね、ちゃんとした旅館なんかじゃねえんだよ。安い所でね、待遇の悪い。夜だと、もう、けんもほろろ。
 秋本 ホテルなんて、ナニ? ってなぐらいのもんだもんね。ホテルなんて見たこともない。
 田村 ないない。
 湯藤 学校教員宿舎みたいな所ばかり泊ったよ。
 田村 そこでさ、乗り込んで、先ずオレが……。いや、先ず最初の切り出しが難しいんだよな。「お前たち忘れよったろう」って言うのは、あっ、こりゃいかんと……、で「どうしたの? うん? なんて言って、そしたら、「すみません」とかなんとか言って、「なんだ!」て言ったって、こっちは分かってるわけだろう。もう怒ろうと思ってんのが、むうは、もう真剣に、こうって……。ところが、こっちは、もう、エヘヘヘッて感じだもん。オレだって、もう駄目だよ。ヨッちゃんだって、もう……、「お前たち、忘れもんしたんだろう」って言ったって、もう答え出してんだよな、言ってみりやあ。


 (6)上乗りの思い出

 湯藤 昔はさ、裏方はトラックの上に乗っかって行ったんだ。
 秋本 うわのりってやつね。
 田村 そうよ。いや、それで『ピクニック』ていうのが日本縦断したわけね。その最初の幕開けがね、北の盛岡かなんかだった。
 湯藤 あれは浜ちゃんだったよな。
 秋本 そう、浜ちゃん(浜田寅彦)と薫(楠木薫)ちゃん。あれは山ちゃんだ。照明は山内晴雄だよ。
 田村 そうなんだよ。山なの。山と唯一だよ。一緒に仕事をしてね、あいつは……
 秋本 だから、俳優座と旅をやった穴沢照明の最初じゃないかな。その後「十二夜」とかあるけど。
 田村 そう。だから山とはね、あれでアホみたいにっき合ったんだけども……、日本全
国を回った、アレに関してはね。当時の道の悪さっていうのはね、大変なことよ。
 湯藤 東北なんてのはひどい……
 田村 いやいや、東北だけじゃない。東北に一ヶ月行ってね、帰って来て、三ヶ月日本中。勿論、その間にオレは上乗り。で、神田運送のね、二人、運転手と助手がいて、その間に入ってさ、徹夜で走るんだからね。最初、いつ着くか分かんないって言うんで……。福島の先あたりで夜明け迎えるっていうヤツよ。延々と走ったという記憶だけで……。で、着いちゃ、まず、テレコ類だとか、いっぱい出して、音出しして……、まず、出ないのよ。で、引っくり返し、ひっくり返しして、修理をやって……。毎回、そうよ。音に関して言やあ。
 秋本 振動で、もう全部駄目になっちゃう。
 田村 道が悪いわけだし…
 湯藤 舗装されてないんだ。
 田村 それと、車だって、今の車みたいにクッションがあってとかいうんじゃないんだもん。
 田才 そんなの運転席の横に置くっていうわけにはいかないの?
 田村 いや、そんなことできない。そこに三人乗らなきゃいけないんだもん。
 秋本 でもね、本当に壊れるものは幾つか置いてあるけど、そんなに量は置けないから……。たとえば、照明で言えば電球みたいなものは、予備球みたいなものは置くけど、機械自身は全部荷台に乗ってるみたいな……
 田村 そりゃ、もうね、今の道路状況じゃないわ。一般道路のデコボコ道だもん。
 湯藤 オレな、上乗りして、助手席に乗っててな、頭に座布団当てとかなくちゃ…
 田村 あ、そりゃもう、オレが発明したんだもん、アレ。
 湯藤 こうやっとかなくちゃ、どーんと上に飛びあがっちゃうんだから……、本当に。
 田村 そんでね、じゃあっていうんで、座布団をこうしてね、それでね、こうやりながら寝るんだ。
 湯藤 そうそう。
 田村 そうしたら、上手くなったって、もうベテランで助手出来るって、神田運送の運転手に誉められた。
 湯藤 忘れもしないけどな、東北の、自動車で行った旅でな、運転手が止まっちゃってな、「いや、こりゃあ、道間違えた」って言うんだよな、だって河原なんだよ。もう、道がないんだ。
 田村 いや、そんなのいっぱいあった。
 湯藤 うん、石ころでさ、「こりゃあ、国道なんてもんじゃない」って。それから近所を走ってね、民家に聞いたら、「いや、これ国道ですよ」って言ってな。
 田村 いやあ、そういうのいっぱいあった。それから、山道のこんな狭い所を走るわけな。そうすると途中でガッチャンコするんだ。地元のバスとか、大型のトラックみたいなのと……、すれ違えないんだ。それをどうするかで、もう……。そいでね、パッと出すからね。何を出すと思う、運ちゃん? 尺五寸。ドス持ってんだよ。いや、雲助とはよう言ったもんだと思うくらいに……。いや、本当よ、これ実話よ。尺五寸のコレ持ってんだよ。
 秋本 それ、どうすんの?
 田村 いや、相手が何者だか分からないって言うんだ。で、それを持って下りるんだもん。命がけよ、運転手というのは、その当時。
 湯藤 いま、言ったね、助手席に座れるんならいいけどさ、ぺーぺーはさ、張物の上に貼り付いていたんだよ。本当、忘れもしない。それでな、あの頃はね、車に乗っててもな、怒られない県と、怒られる県があるんだよ。で、許可にならない県を通る時はシートかぶ
って隠れてたんだ。何も言われない所は上に出ちゃう。
 田村 いっばい、色んなことがあるけどね、上乗りに関しちゃ話がつきない。


(7)“となリの、ミヨちゃん”

ミヨちゃん 湯藤 昔の話ということで、もう一つ付け加えておくとね、今はどうか知らないけど、田村っていうのは昔は純情だったんだよ。
 田村 いまだって純情ですよ。
 湯藤 で、彼の美談と言うかね、馴染めの由来というのをちょっとやりましょう。
 村田 そんなのは関係ないよ。
 秋本 エピソード、エピソード。(笑い)
 湯藤 『みんな我が子』の丸亀でね…
 田村 嘘だよ、あんた、まるっきり混同してるよ。あれは高知。『みんな我が子』は高知が終りなの。丸亀では公演してないの。
 湯藤 アツ、そうか。高知から大歩危小歩危月を通つて--
 田村 そう、土讃線ていうやつね。
 湯藤 土讃線か。それで、高松まで帰って来る汽車の中でね、奇麗なね、可愛い女の娘が乗ってたんですよ。
これが忘れもされない……。その頃はオレもまだ若かったからな、そいでな……
 秋本 それがミヨちゃんだったわけだ。
 湯藤 それでね、みんなな……
 田村 あれは、だって、ヨッちゃんだとかお前さんとかが囲んだんだよ。最初……オレなんかこっちの方の車輌でさ、酒飲んでたんだから……
 湯藤 そうそう、「アノネ、可愛い娘がいるぞ」ってんでね……。その車輌がガランコでな。
 田村 オレだけさ、ポツンと、隅っこにいたんたよ。それでヨッちゃんとかが取り囲んで……
 湯藤 あの時、アレいたっけ? 内田透。
 田村 勿論、いたよ。
 湯藤 そして、なんとなくみんなその女の娘の側へ座ってさ、なんとか話をしようと思うんだけど、俯いてんだよ。そして、なんとか話をしたんだよな。それで、その時、田村は来たのかなあ。
 田村 いやあ、そいで、長いから、そのうちオレも行ったよ。
 湯藤 そうなんだ。そして話したら丸亀と高松で話が合っちゃってさ。で、オレたちゃ入る隙がなくなったわけよ。それが馴染めの始めですよ。今の田村夫人。
 田才 あっ、そう。この前、電話で話したけど、今でも若々しい、可愛い声で……
 田村 バカ、もう五十にもなるよ、何を言ってるんだ。そんな話は置いといた方がいいよ。話が進まないよ。

披露宴  湯藤 いや、これは美談だぞ。
 田村 美談ということで言やあ、オレは三十年近くも、まだ一緒にいるということよ。
 湯藤 だって未だにさあ、可愛いミヨちゃんというのはさ……。みんなで歌ったんだよ。
 秋本 その頃ね、披露パーティをみんなでやったわけ。ところが当時はそんなにお酒が飲めないわけ。飲めないと言うか、そんなにお金も持ってないし、だから劇場の喫茶室でね、昼間、お茶とケーキでやったわけ。
 湯藤 ビールは出たよ。
 田村 まあ、ハシリよ、そういうパーティの……
 秋本 そして最後に、「隣りのミヨちゃんじゃないでしょか」って歌をうたったんだ。そしたらミヨちゃんのお母さんがね、もう、涙ぐんじゃってね。
 田才 ああ、それは感動的ないい話だ・・・・・・
 秋本 でもね、ボクらの友達じゃハシリだったよ、結婚ではね。


(8) よき時代(裏方制作部)

 湯藤 昔はよかったね……
 田村 昔がいいっていうのはさ、なんでも出来たもんな。『みんな我が子』でね、高知で、忘れもしない。高知で、あれ大手前高校とかって名門の高校、高知城のすぐ近くの、あの高校でやったんだよ。あの時、オレがまた制作者。ね、オレが売ったんだから……。あの昔な、三期会なんたって有名じゃない。誰がいるっていうんだ。入江洋佑くらいかね、大映の青春映画に出てたっていうくらいの…しかいない、十何人の役者の芝居をね、アーサー」・ミラーの『みんな我が子』を、「お前、四国出身だから、なんとか売って来てくれ」って言ってね、オレなんか、なんかの芝居から帰って来たとたんにね……、まあ、チョンガーで、なんだからいいって、オレね、入江洋佑と熊丼宏之がね、夜行列車の切符と二万円だか三万円だか……、「頼む、一ヶ所でもいいから」って、それから、青山杉作とか、千田是也両先生の紹介状、こんなに持って、それから行き先の、こんな所へ行けという、各都市の文化人とかなんとかの名簿…。オレ、それを真面目で歩いたんだよ。今の制作者にモノ言いたいぐらい。オレね、それで今治、松山、宇和島、高知の四ヶ所取ったんだもん。
 湯藤 制作者やってたんだ。
 田村 ああ、『みんな我が子』は。だからオールマイティよ。
 湯藤 逆瀬川というのと田村はね……
 田村 オレは四国を担当したんだ。ヤツは九州。だけどあの頃の三期会は九州は強いんだもん。四国はお添えでいいって言ってね。それで四ヶ所取ったんだよ。大変なことよ。いや、ほんと、大変だった。それで高知で、オマエ、内ちゃんが、「おい、ワイヤー、ここへ引くんだ。この窓ガラス空けろ」って言うんだよ。「ええっ!」って、学校の窓を-…、「ガラス切り借りて来い」って言うんだもん。オレは必死で…」「そんなことされちゃ困ります」って、むこうは言うわけよ。「そいじゃ、芝居はできません」と言ったって、むこうはただ貸してるだけだよ。それが、どうのこうの言ったって、そんなこと当直の先生、怒りますよ。
 湯藤 そいでな、昔のトンカチの頭の反対側はこうトンガッててさ、で、ガラス切りなんかないからさ、こうやって、チョンチョンチョンとやってね……
 田才 で、やったの? 
 田村 「あとでガラス入れますから」っていうことで……、割っちゃって……
 湯藤 少し割ればいいからなんて言ったって、こうやりゃバーツと割れちゃうよ。でもあの頃はさ、それでも向こうが許してくれたしな、出来たからな。
 田村 まだな。よき時代ってのはそういうことよ。しかし、今じゃ、もうそんなことは出来ない。



 9 ドン帳吊り

 湯藤 その頃はね、演出部っていうのは、劇場にドン帳がないとね、ドン帳吊りっていう仕事があるんだ。
 田村 ドン帳張りはもう、オレ、ベテラン。『ピクニック』の時、一人で吊ったもん。体育館で。
 湯藤 ワイヤーロープを張るんだよ。これがね、出来る奴と出来ない奴がいる。オレなんか上手だったから……
 秋本 こういう窓枠のところにね、フックを付けて、向こうへ張って……、それだけだと真中が弛むからね、下へもう一本、ワイヤーを引っ張るの、そして下でギュッとつめるのね。そうするとね、ピンと張る。それでも重みで若干、こうなるけどね。
 田村 恰好よくやろうとしたらダブルでないと駄目なんだ。凝る時はダブルの両引きで行く。大変なんだ、あれは……
 湯藤 それでな、九州の目田でやった時だ、三期会が。オレがドン帳張ってたんだけどさ、開演中に窓枠がさ、ソレごとガシャッと落っこって来ちゃったわけよ。
 田村 あれはお前、芝居も、もう終り頃だよ。ぶちこわし……。
 湯藤 そうそう。
 田村 ドーンと。もう幕、切れない。
 湯藤 窓枠に引っかけてたのが落っこって来ちゃった、力で……。あの時は驚いたね。
 田村 オレもね、一人でね、体育館で、『ピクニック』の時にね、体育館でだよ、一人でドン帳吊りしたよ。
 秋本 三十一、二年だな。
 田村 古い話よ。要するにヨリセン時代ってやつよ。
 田才 そのヨリセン時代っていうのの由来を聞かなきゃあ。
 田村 昔さ、トッサにワイヤーツてのが出て来なくてさ「コラッ、そのヨリセンをこっちへよこせ」って言ったら、「ヨリセンてなんですか」って、神戸孝時がさ……。「バカッ、よじった線だからヨリセンだッ」て。そしたら、「ああ、ワイヤーか」だって、あの神戸孝時が。ヨリセン時代っていうのはそれだよ。ワイヤーってのが出て来なくて、ヨリセンと言ったために馬鹿にされたんだけど……。で、あの時にさ、西木が舞台監督。それで「大道具を連れて行かない予算で…」どうのこうので「オマエ、大道具主任をやってくれ」って。「ああ、まあ、いいよ」って。音より自信のあることで……。
 オレ昔ね、音ではゼロの時代にね、ちょっと叩きに行くとか、転換に行って、あの当時さ、一橋講堂で合同公演なんかやった頃を知ってる? オレ、東宝の大道具さんなんか来てる中に混って、日、五百円もらったことがある、大道具では。音屋で行ったらゼロよ。音屋じゃ、まだ研究生でね。修業中だからってゼロ。大道具で行ったら五百円。大道具じゃ、どこへ行ったって一人前で通ってたんだから。
 それがさ、その旅で、オレが音のプランナー兼オペレーターで行くのは分かってんだから、西木には。それでね、どういう所に行くのか見たらね、ドン帳のない所が随分あった。それでさ、ドン帳吊りでも、ベテランが三人から四人は行くんだぞって言ったんだけど、「いや、なんとしてでも手伝うから」って。いざ行ってみたら、一杯道具のアレをコンチカコンチカやって、やっと立てたら、演出部の連中、みんなお茶飲んでやがんの。オレ、もう、上から怒鳴りつけたよ、先輩たちを。「馬鹿野郎、お茶飲むの早いぞツ! この野郎、手伝えツ!」って。それまで一人で歯食いしばってさ、ダブルのアレを、とにかく張ってから、もう。一人でドン帳もこうやって担いで上って、ナス環を引っかけて……
 湯藤 あれはね、ワィヤーを張るだけで、うんとかかって、それから、また、アレを引っかけるのが大変なんだよ。昔のドン帳は安い生地買うからさ、みんな化繊で、ものすごく重いんですよ。
 田村 それからだよ、音のセッティングは。それで出すと音は出ない。引っくり返してハンダ付けして……しかしね、奴らに四の五の言わせなかったのは、オレは一人でそれをやって来ているからね、少々のことじゃ、偉そうなことは言わせないんだ、大概の奴らには。ヘナチョコ言うなっていうのはそこよ。



 10 舞台監督論の原点

 秋本それはさ、当時の舞台監督部というのは、つまり、演出家へのワンステップだったわけだよ。
 田村 そうだよ。
 秋本 だから、舞台監督を真剣にやってるのかなという気がしないでもない。
 田村 いやあ、真剣になんかやっていないよ。
 秋本 それが舞台監督の歴史みたいなところがあるんだね。だから、土岐ちゃんなんかの舞台監督の行き方は、はっきり言ってね、「オレは舞台監督なんだ。しかし舞台監督というのは全体の責任を負っているんだから、オレは全体を見るんだ」っていう意識の現われだと思うんだ。
 湯藤 舞台監督協会というのが出来た時点でね、我々は演出者協会から離れて舞台監督協会を作ったわけですよね。それで今年、十一年目になるわけですけどね、その初期の時には、分かれたということは、我々は舞台監督だという意識のもとに作ったわけですよ。
 秋本 つまり、一線を画すと……
 湯藤そういうこと。
 秋本 職能的に確立しようということが一つあったわけだね。
 湯藤 それがだんだん暖昧になりっっあるんですよ。そりゃ、まあ、色んな事情もあるんですけどね。その辺はもう一度もとへ戻すということを我々自身が問いかけることが必要だと思うんですよ。
 田村 だから下手な助平根性を持ってさ、演出の方へどうのこうのなんて言うのは、もう入れない方がいいよ。裏は裏で、舞台監督で胸を張ってさ、やるようじゃないと。
 湯藤 劇団体制としてはさ、舞台監督というのは、いわゆる演出コースの一過程だと考えている……
 田村 ……劇団にはあるわけだよな。
 湯藤 今だに残っている。
 秋本 でもね、ボクはね、それはそれで、目標があればいいと思う。
 田村 そう、目標だよな。
 秋本 ところが、目標のないところがあるわけじゃない。つまり、舞台監督として使われてて…。勿論、本人の意識と劇団側と、あるいは劇団主宰者たる演出家との意識の問題もあるかも知れないけど、当人は演出家になりたいと思ってやっているにもかかわらず。演出の企画を持って行っても全部否定されてしまう。それが欝積している部分も劇団の中にはあるわけだ。それが別の面に出て来るみたいなところがあるわけだね。
 田才 それは劇団としては、非常にまずい政策を取っているんじゃないかな。
 湯藤 いや、それはずるい政策ですよ。
 田村 つまり、舞台部へ入ってる奴が助平根性を起こしてるんだよ。それなら、ハッキリとね、演出部へ入りゃいいのよ。禄を食まない方へ入ってさ、自分が……っ.てな風になりゃいいのに、そうじゃなくて、生活の方は生活の方だとか……湯藤我々舞台監督協会の方針としてはね、舞台監督の職能の確立に資するものとして舞台監督協会を作ったわけ。だから、個人として演出に行きたい者、あるいは、たまたま演出家になってしまった者は、それは大いに結構でしょう。その代り、出て行ってもらいましょうと。
 田才 いや、まあ、出て行かなくてもいいんだよ。
 田村 作家志望もいるだろうし……
 田才 そりゃそうだ。役者だって演出する人はいるわけだし、舞台監督が演出したって構わないのさ。
 田村 構わないけどね、オレら裏方の立場から言やあね、舞台監督がその業務をね、一生懸命やってくれりゃ、何を外でやっていようが……、演出をやろうが、飲み屋のナニやってようが構わないんだよ。舞台監督やったその時に、ちゃんと全うしてくれりゃいいんだよ。
 田才 問題はそこだよ。
 田村 オレらに迷惑かけなきゃいいんだよ。オレに言わせりゃそれなんだよ。オレが声を大にして、ずっと言い続けてんのはそれなんだよ。舞台監督とい職種を全うしてくれさえすりゃいいんだよ。一音響プランナーに対して迷惑かけないようにピシッとやってくれりゃいいんだ。それだけの話なんだ。明快なんだ、オレは。
 田才 演出家になる過程だとかなんとかいう言訳を自分の中に持つなと、舞台監督と名乗る以上は。
 田村 そうだよ。舞台監督というのは偉いんだ。タテてんだから、オレは。
 田才 その上で、自分で本を書こうと、演出をやろうと、飲み屋のナニやろうと構わないと。しかし、舞台監督としてやる時には、舞台監督であるという責任を全身で受止めろっていうことだね。
 田村 そうですよ。金の面にしろ、芸術の面にしろ、あるいは人問関係にしろ、全部責任持ってやってくれりゃ、オレは尊敬するし、また、そういう風に舞台監督はこうだって、オレは思っているけれども、それが往々にして違って来る、ヒドい舞台監督が多いってことよ。
 湯藤 これは舞台監督協会の問題なんだよね。それで、今、田村さんが言ったのは、全くそうなんでね、少くともお金をもらっている以上は、やっばり職能に徹しなければさ、そこで芸術だ、ヘッタクレだって言ったって始まらないんだ。
 秋本 ボクはね、舞台監督……、照明にしたってそうだけども、っまり、オペレーター部分も職人だと思う。
 田村 職人だよ。
 秋本 だとしたら、徹底した職人意識がなければやっていけない。
 田村 それともね、それがさ、ペイ出来るギャラであるのかどうかっていうのは、本人がそこら辺りでさ、一般論がこうでって言ってね、偉そうにふっかけてね、なんかしてんのがオレは績なんだよ。
 湯藤 分かる、分かる。
 田村 ギャラが安くたって何だって、この仕事はオレが命かけてんだって言うんならさ、それなら、そこでさ、やってるのが分かりゃ、こっちだって、ヨーシッて気になるけどさ、今の連中は……
 湯藤 少くとも舞台監督が手を抜けば、ハッキリ、公演のやってることに出て来ちゃうからな、絶対に。
 秋本 そりゃ、出て来ますよ、当り前ですよ。
 湯藤 だから舞台監督という名をもらって、お金をもらった以上は、それに徹しなければならない。それは舞台監督だってピンからキリまであるから……、キャリアの点でも、あるいは技術の面でも、高いのと低いのとあるだろうけどさ、その辺をね、これから舞台監替協会としても、あるいは個人的にしても、意識を持たなけれぱならないということは大きな問題だと思うよ。
 田才 効果プランナーにしても、照明プランナーにしてもね、舞台の上で、究極的に拠り所とするのは舞台監督なんだよ。演出家じゃないんだ、ある意味では。
 秋本 そりゃそうですよ。
 田才 結局ね、裏でね、こういう問題をどう処理するかってことはね、演出家と相談しても駄目なところがある。
 田村 そうですよ。だから昔のね、舞台監督というのは酒も飲んで、人間的に言やあアホもやり、無茶もやって来たけども全てが分かる。それで、ま、それこそナントカ手当ってのも捻出してくれたりしたけども、今の舞台監督ってのは、こっちが逆に面倒見てやらなきゃならないような舞台監督が多すぎるんだよ。
 田才 そりゃあ、世代的な差もあるよ。
 田村 世代的な差だけじゃないよ。そりゃもう、劇団も、演劇界も悪いけども、人間的にもうちょっとね……。淋しいよ、今の舞台監督っていうのは。
 湯藤 それはね、どんなに科学が発達したってね、芝居っていうのは手造りで作らなきや……
 田村 そうだよ、人問関係だもん。
 湯藤 手造りっていうのは人問関係でしかあり得ないわけだから……、だから、そこを大事にしないとね。



(11)大道具技術

 秋本 しかしね、三十年代後半になって舞台監督がどんどん若くなって来た。つまり、若い劇団なんかがさ、舞台監督だとか大道具にお金が払えないにもかかわらず、大公演を持つ方向になって来た、そういう傾向が出て来たわけだ。外部のプロというか、ソコソコのね、裏方が雇えないわけですよ。舞台監督も劇団の中でなんとかしなきゃならないみたいなことで、ちゃんと雇えないから……。俳優座劇場に来てもひどかった。シギの打ち方や外し方なんか。下を外さないで上から外すから舞台の床が全部めくれちゃうし、大きな張物が持てなくて倒すし、危くてね、もう、オレたち見てて頭に来たもんだ。こいつら、