Z 美的客観主義の領域
 
(1)芸術と自然

 自然と芸術は、美的客観性という点にかんしては、すでに何度となく、その違いが指摘されてきた。ウティッツによれば、自然から受ける快感とは、本質的には、より主観的であるから、主観的要因を美的客観性から排除しようとする試みは、きわめて困難であり、すべて無駄といった感を否めない。
 純粋な自然観照の際には、観照者の個人的嗜好が芸術にたいするよりも、より一層大きな影響力を示す。188 
 コーンによれば、自然美の美学は、むしろ、主観から出発するべきものであるが、実は(その反対に)、芸術作品の場合は対象自体が美的なのである。だからといって、その両者の間に基本的相違が生ずるわけではない。189
 さらに、ベールBaerは書いている。美的対象は、たしかに美的に見えるが、同時に、美的要因にたいしては主観的妥当性しかない。
 美的性質は、物(対象)の概念と本質的に結合されているとは考えにくい。むしろ、先験的な感覚か、意識そのものに委ねる(設定される)ものとして、認識論的に捉えるべきである。
 だから主観的に設定されてはいるとしても、個人的に設定されているのではない。しかし、この主観性は、主として、自然的対象に有効ではあっても、ここでは美的なものを、対象それ自体の中で目的論的関係と考えることはできない。この自然の美が、ただ、主観との関係においてのみ存在するかぎり、それ(自然の美)は関係という概念的性質を維持している。
しかし、その反対に、芸術作品は質のカテゴリー下で美性という性格を示している。190――美が、自然物よりも、より密接かつ本質的に芸術作品に依存していることは、もちろん真実である。美は目的論的にも、芸術作品にとって不可欠な性質であるが、自然にとっては必ずしもそうではない。
しかし、それにもかかわらず、自然であれ芸術であれ、それらにかかわる私の受容と評価は、いずれにもせよ、主観的であり、個人的である。「美的性質」と自ら(美)の具体的保持者との間の関係は、そして、また、我々の認識との関係はいかなるものであったかは、それほど重要ではない。この認識は美的理解であり、自然の美はその対象ではない。
自然の美には疑問の余地はない。
いかなる特殊な美的理由から、ここ、自然の中に、色、物、あるいは構造の、あれこれの構成が、上位に位置づけられた、いかなる直観、これらの特徴、ないしは特徴のグループその他は、どういうふうに現れてくるか、誰も質問しようとは思はない。
しかしながら、これらの疑問のすべては、芸術作品に目を向けることによって可能となる。昼も夜も、光も影も美的問題ではない。だが、絵画の中の夕闇や光はイエスである。
岩の形状は美的データであるが、彫刻の形は、それ以上に、びてき問題である。自然は美的解説を必要としないし、求めもしない。同じく芸術にも何の説明も要らない。
行って、楽しんで来い。
しかし、一旦、芸術にたいして疑問を呈し始めたら、君は沢山の回答を求めることになるだろう。芸術は人間的だから、理解も可能だし、問題も出てくる。
人間と、その行動に関してだけ、理解の動機と意図について尋ねてみよう。
自分の心の内奥から汲み上げられたかのような、この親密な認識は理解である。理解の目標cilは、常に、何か人間の内奥に関するものだ。ここでは外面的因果関係などといったものは問うのではなく、むしろ、内面的理由と内面的関連を尋ねよう。我々は、このどれかの形式の超美的理由に興味を覚えない。むしろ、それ(形式)の美的根拠と美的意味に関心をもつ。191
そこで、我々は、さらに、美的領域に留まろう。そこでは理解の特殊な純度がある。
“美的”(なもの)は、この地球上で、純粋に人間的要素である。美的自然そのものは、主観的に人間化される。したがって、客観的な美的領域も客観的に人間的である。これは芸術であり、決して自然ではない。だからといって、美的理解の純粋に人間的側面を取り消す必要はない。ここには別の決定的要因がる。
客観的方法は純粋に美的対象に向けられている。しかし、これ(対象)は主観的印象の中で、それぞれに異なる。各人は連想や評価、その他をもって、自分の対象を受容する。
したがって、理解は、いかなる感覚にも条件づけられず、いかなる主観的感覚にも、変化しやすい印象にも、それらに本質的にも依存することなく、独立した美的存在として、それらに対峙する、まさにそのような対象と関連づけができたときにはじめて客観的意味を持つことができる。
自然はこのような意味での美的対象ではない。ただ、美的神秘主義になら、そうなりうるかもしれない。美的神秘主義にとって美は自然の本来的存在である。そして、多分、そのことは美の形而上学にとっても言える。それによって美的快感の中で現象v?ciの本質的が見えてくる。
ショーペンハウエルによればプラトンの物v?ciのイデアは物の真の現実であり、ベルグソンによれば、名称の皮を剥がれた現実、ギヨームによれば生命そのものとなる。192
しかし、それは別の種への変移である。Metabasis eis allo genos    
イデア、現実、生命、それらはすでに美の領域圏外である。客観主義の本来の問題は、自然の対象は美的なものに依存する何かを持っているかどうか、それらが美的現実であるかどうかである。だがしかし、自然の美的性質は何か自分自身に関すること、絶対に関すること、究極的なこと、形而上的なことかもしれない。それらは人間の精神性には依存せず、自然の心そのものであるか、何か心的なもの以外のものかもしれない。それではその名称をどう訂正すればいいのか、その訂正された名を依然、美的と称するべきなのか、それはもちろん理解できない。
芸術作品については、その点の事情が全く異なってくる。芸術作品はその受容者に依存しないが、芸術家には影響される。芸術家は何かを造形し、形成し、実現する。なぜなら、芸術家がその何かが美しいとして、美的に気に入ったからであり、したがって、彼の制作物は彼の美的対象である。
彼の制作物が在り続ける限り、作品と芸術家との心理的絆も在り続ける。たとえ、芸術家の美的対象が芸術家の、気に入ろうが、入るまいが、作品が地中に埋められようが埋められまいが、あるいは、また目撃者の記憶の中にしか生きていなかったとしても、(その対象はあり続ける)。
観客、印象、評価は交代し、作品は相対化され、美しくもなく、醜くい、無関心なものにもなる。しかし、それにもかかわらず、芸術家の作品そのものは、すべて、芸術家の独自性を証明する、自律的な美的存在であり続ける。主観的快感の内在的対象とは逆に、この先験的(超越的)美的対象こそ、美的理解の最終目標なのである。
この先験的、客観的美的、芸術家の作品は、実践美学の体系的目標ではあるが、単なる目標であり訂正の余地を残した提案(調整的アイディア)に過ぎない。芸術家自身とその活動は、我々には近寄りがたいものである。
あらゆる確信と理解をもってしても、我々に想定しうるのは、提示された美的状況において重要点は何か、美的に適合するものは何か、対象の質と完全さに必然的に求められるものは何かということも、また、芸術家の美的対象に含まれるということである。
もし、私が画面上に奇妙な描線、光彩、色彩等を見つけたとしても、それは、まさしく芸術家が美的なものとして実現し、また、彼の美的対象に属するものという点を疑う理由にはならない。
その反対に、それら(線や色や感情)に結びつけられた私個人の連想、記憶、感情は、私のものであり、決して芸術家のものではない。作品から受けた印象や快感のどれが芸術家の作品と融合しているかどうかは保証されてない。
だが、その代わり、その場合には、所与のケースにおいて、我々が客観的に美的なものと見なしたものはすべて、芸術家の作品と結合可能である。両者の場合、美的客観性との定義が可能である。
「客観的方法の対象は美的に客観的で」、そして「芸術家の作品も美的に客観的である」ということは、結局、認められる。したがって、自然それ自体は美的にたいして冷淡である。193
自然には、先験的に美的な対象も、自然自身の目的も、理解の問題もない。それに加えて問題の一定の方向性もない。そこには、単に、美的現実性を見出せるだけであり、美的感情が実現され、美的嗜好が客観化される。そしてそれは、芸術的創作物のなかにも、芸術の全領域においても現実化される。


   (2)自然美の主観性と芸術美の客観性

 したがって、芸術家の作品は、唯一、美的客観性と見なし得る唯一のものである。しかし、それは逆説(パラドックス)的に見える。芸術家が現実化するものは、彼に美的に見えるもの、あらゆるものの中で最も優先された、彼の趣味に由来するものである。しかし、それでも、主観的、個人的、それどころか、しばしば極端に主観的な、美の視点である。
だからそれは、「客観的に美的なもの」ではなく、何か純粋に主観的、個人的なものではないだろうか? また、美の客観性と見なされているものは、排他的に主観的に設定されてはいないだろうか? いったいなぜ、芸術家が感情に駆られて作ったものが客観的であり、ほかの誰かが感じるものは、主観的でしかないのだろう?
芸術家が感情的に提示するものは客観的ではなく、芸術家が客観的現実に即して、それを行うかぎりにおいて、芸術作品になるのである。
創造する芸術家は感じ、考え、作品を制作する。彼(芸術家)は対象に立ち向かい、彼の提示は客観的である。芸術家の創造は定着化であり、客観化である。そしてある意味では技法である。194
芸術家の美的対象は、どのように組成されたか、総合されたか、技法化されたか、その限りにおいて客観的である。芸術家の作品は――それが一般的様式の法則であれ、個人的意見(構想)の法則化であれ、芸術的対象の技法に支配されている。
結局、芸術創造の道はヘウレーカー、つまり、絶えざる発明、発見、関係探しの旅である。195 そこで芸術家にとって美しく、興奮させるものは、彼の主観にかかわる問題であり、創造の過程において初めて、美的客観性の内容を充実させる。
最初は印象、快感、個人的憑依のテーマとして芸術家に与えられる美的対象は、究極的に芸術作品によって客観的に果たされる、また、果たされるべき創造の課題である。
しかし、それには別の重要な反論がある。
もし、あらゆる種類の芸術が真実、美的であるなら、芸術を、客観的美的現実の領域と見なすことが可能かもしれない。しかし、偽芸術、素人芸術、型にはまった仕事(ルーティンワーク)、未熟な仕事がある限り、さらに、また、芸術の中に、不成功、錯誤がある限り、結局、芸術作品を造るか、芸術作品を造ろうと意図している者は誰もが、その作品の中に、自分の美的に気に入っているもの、それでも、多くの場合、我々は彼の作品を美的対象と呼ぶ決心をつけかねるだろう。そこから、芸術創造は 真の客観性の十分な評価基準ではないという結論にいたる。
しかし、あらゆる工芸作品tから価値のあるものを選び出し、無価値な技術作品を排除するとき、それは選択であり、評価であるから、主観的行為となる。もし、我々がその選択を揉み消す(隠蔽する)なら、その結果、我々は美的意図をもって造られたすべての作品や製品を、同程度に客観的な美的作品として承認しなければならなくなる。つまり、それは、美的批評をばかげた方向へ導く。
したがって、ここで決定的な要因は、製作者の主観的嗜好か、それとも受容者の主観的評価ということになる。しかし、ここにはさらに、別の、客観性の物差しがある。美的に客観的とは、理解方法の対象であることである。もちろん、良し悪しにつけ、芸術作品は美の対象ではありうる。しかし、ここに幾種類かのケースが登場してくる。
(1)  客観的方法は“破格”の作品の中に発見できる。不十分さ、隙間、あるいは、余分なもの、一貫性の欠如、統一からの逸脱、美に否定的要因、等々。何かに失敗した芸術家が、自作品の統一性を損ねたとか、何か探していたものを発見できなかった、等々のケースをあげることができる。
だからといって、これで、必ずしも評価が成り立つとは限らない。むしろ、評価は極端な過激さによって損なわれるだろう。なぜなら、我々が理解する間違いや、その発生環境を知っている失敗を、我々は、理解をもって寛容に受け容れるだろう。
(2)  上に示した作品は美的に評価され得るが、美的理解にたいしてほとんど何らの内容も提供しない。それは理解にとっては、まったく不十分である。それが、もし、理解の深みへ通じる過程であるなら、ここにはこの過程の先にその深みそのものがない。きわめて真摯に美的感情に発する作品が存在する。しかし、我々が、それらの作品に、これ以上心を奪われることはないだろう。ただ、真の芸術は本当に理解の対象である。なぜなら、芸術こそが永遠の対象だからである。
(3)  前述の作品は快楽主義的に豊か(な内容を持ち)であり、感情的に未熟な観客を驚かせ、魅了し、圧倒する。しかし、客観的な見方に出会うと、その独自性の欠如、内面的欺瞞、職人芸、軽佻浮薄、本物の創造の代わりに、マンネリ仕事、客受け狙いの姿勢が暴露される、等々。
あるいは、否応なしに美圏外への、他の領域への移動(メタバ−ゼ)が始まる。作品は美的効果と評価されるが、しかし、効果に狙いを向けた超美的意図から出て行きは発はするものの、美的対象へではなく、したがって、対象の提示へでもない。
これは芸術の対象性の規範であり、客観的方法の性格その物に設定されている。それは、第一に内面的一貫性の規範である。芸術作品の中にある支離滅裂なものは、芸術家の主観性に、彼の個人的嗜好に、ないしは主観的欠点に書き加えるべきものである。なぜなら理解は、美的対象の首尾一貫性と組織性を探し、この首尾一貫性に踏み込むものは、すべて主観的であるからである。第二に、豊富さの規範である。
もし、芸術的製品が何らの美的理解の内容を提供しないとしたら、製作者のたまたまその時の感情と、政策の意図は純粋に主観的である。
結局、純粋性の基準。美的方法は移行を手定的に排除する。どこで創作の要因が欠如しているか。それは製作者側の純粋に対象的、かつ、美的提示である。そこでは理解の関心は停止する。多分、このような規範は多い。我々が芸術を、より良く、より客観的に理解すればするほど、我々はそれだけより良く理解し、それ自体を認識する。そして、それだけ、より正確に、その限界と規範を決定することが可能となるだろう。
ここで示されるのは、単なる抽象的な輪郭にしか過ぎないし、実際には貧しく、ごく一般的なものである。具体的充実と各々の理論の性格は、まさしくその対象に由来し、ここでは、その対象は技術である。そして、無限に豊かな、生命力あふれた、汲んでも涸れることなき領域であり、美的理論にも重きを置く。


 (3)反論の批評

だが、最も軽視できない反論が残っている。芸術が、純粋に美的であると仮定(想定)することで、本当に正当化されるだろうか? という反論である。
デュッソワールは言う。『美的要因は、我々が全体として芸術と呼ぶ人間の製造物の領域の内容と目的とを把握しきれていない。』196
ハーマンは宗教的、思想的に偏向した超美的な何かを提供しようとするか、要求するかする絵解き的芸術に注目するよう要求する。
「真実に即して芸術を創造する美的視点は、唯一ではない。だから、美の本質を、芸術の本質から導き出す(逆誘導することは)ことはできない。」197
 同様に、ウティッツが考える芸術に関する学の基本的問題(基礎)は、芸術作品の価値は、単に、美的であるかどうかだけ、だろうか? それとも、芸術作品の価値を提示するdavat、
様々な価値の階層化(重層化)vrstveniが適用されるのかどうかと? いうことである。198
 芸術作品は単に美的観点からだけでは汲み尽せないということ、その輻輳した価値は純粋に美的ではないということは、我々にとって、疑う余地はない。だが、それにもかかわらず、美は、その作品の本質的な性質の一つとして評価されるだろう……。
 とはいえ、この美的状態にとどまっている必要は、まったくない。超美的なもの(美の範疇を超えるもの)は、芸術作品の意図を深く掘り下げていき(くと、また)、その構想を実現すべし(したい)という要求を認めるなら、それらのものの表明となり、(他のものの)前面に出てくる。』199
 何故なら、芸術から受ける快感は美的快感であるという等式は全く成立しないからである。
芸術作品の適切な概念のために、芸術作品に込められた効果u?inuのすべてを、完全に汲み取るという行為のために求められる、必要な超美的要因とは何だろう?
そのことは、傾向的、宗教的、その他の作品の場合についても、確かである。ここでは芸術的快感にも、美的行動にも、ともに当てはまらない。我々は、また、純粋に美的にそれらの作品にアプローチすることができるが、それでも、この姿勢(態度‐構え)では、作品のすべての意図を完全に賞味することはできない。大多数の芸術作品は、完全な美的恍惚感を与える(魅惑する)以外に他の目的をもたない。200
もっとも普遍的な芸術の目的は『芸術であろうとする要求するどんな作品も、その作品としての美しさを見せることによって、我々の感情的快感を呼び起こそうとする。芸術はあらゆる価値を介して、それを行うことができる・・・。
価値のあらゆる、可能な重層化は芸術の中に入っていき、それによって芸術的性格を得る。』201
それでも、反論は、(いくらかは)可能である。芸術作品が、本質的に他の人の作品と区別される根拠となるものは何か、また、それらの作品を芸術作品とするものは何か――それは倫理的でも、宗教的でも、その他どんな内容でもない。そうではなく、それは、それらの作品の芸術的質である。
 しかし、それ(芸術的質)は常に美的であり、美のためにこそ、そこにあるのであって、他の意味においてはでは、決してない。芸術がまったく美的ではないという証拠は、特有のspecificka芸術要因が美的でないということである。
それにしても、もし、芸術作品の中に、美の範疇を逸脱していると感じさせるような、我々が“芸術的”とは決して言わない、そんな作品があるとしたら、それはグルーズ(ジャン・バティスト)のカンバス画とか、ドーミエの政治宣伝・風刺画などで、これらの作品は美的でもなければ、とくに芸術的でもない。
大事なのは提示の方法であり、その全体的特質が美的なのである。そうでなければ芸術についてここで語る意味がない。』202
信仰する人は自分の信仰対象の聖画ikonとか呪物feti?を我々よりより適切に受け入れる。我々よりも、はるかに徹底的に、その意図、目的、欲しい効果をくみ上げる。それでも、その概念は、典型的に非芸術的である。しかし、その快感は純粋に美的estetickyでありうるが――すべての主観的、すべての想像力と感情は、美と価値の個人的体験に参加し、共有することができる。203
その反対に、芸術的理解は芸術作品の中にある美とは何かという点に注目する。体験(受容)においては、すべてが客観的に美的でありうる?。しかし、ただ、芸術における美的ものだけが、客観的に美的である。ハーマンとウティッツの立場は彼らの美的なるものの定義から、究極的に、説明できる。両人は、現象の世界の、単に、純粋に思索的受容、したがって、美的行動の三種のタイプのうち、第一型だけが美的なものということになる。
ウティッツによれば“美的行為とは現象世界への感情的献身となる。204
また、ハーマンによれば美的行動の本質は快感とは無関係に――我々の日々の生活の、習慣、不足といったある一定の義務に基づいて決定された生活事情を排除された体験に基づいている。』205
 しかし、それは、美的受容の場合にのみ当てはまるが、美的評価については、もはや当てはまらない。これは、世界にたいする個人的回答として例の『生活関連』の中に、『現象の世界』とは無関係に、十分対応する。結局、美的理解は完全に不関連性と現象性を超越する。
 もちろん、著作者の権利によって、美的性質の概念を広くも狭くも定義することができる。ただし、美的なるもの定義を受容だけに限定すると、美の本当の性質を見えにくくしてしまう。
 なぜなら、実際に、美は我々の快感のためにだけあるのではなく、その流派の概念の境界を越えて、至る所で、絶えず、驚嘆させるからである。なにはともあれ、芸術家の経験は人それぞれに異なっている。だから、誰にたいしても、美は、快感への刺激として、評価の対象として、または、理解の課題として提示されうる。それは相当に広い、しかし、どんな広がりの中にも、真の、完全な美krasouとなる。
 同じく、芸術作品は無関係性と現象世界の境界を越える。要求、習慣や欲望の現実世界との関係を満たしていく。しかし、それはその美的性質にかんするものを、何一つ変えることはない。
 たとえ、それがどんなものであれ、それぞれ別のものとして、美的に受容されうるとしても、ただし、それは芸術的、または、客観的に美的なものがそこにあるという場合においてのみ、美的理解の対象となることができる。したがって、決して快感や評価の側面ではなく、印象、効果でもなく、むしろ芸術性と芸術的理解の側面に即してpo、芸術作品の、真実、客観的に適切な概念を見出すことが出えきるだろう。