村上 松次郎 氏 を探して…
『宝石』誌に『悪魔の手毬唄』が連載されていた際の挿絵を担当されていた「村上 松次郎」という人は、一体どういった人だったのであろうか…。 戦前から戦後にかけて、挿絵がもてはやされていた時期があったようである。横溝正史ファンであればお馴染みの「新青年」「宝石」といった雑誌などの表紙なども、現在のように、まだカラー写真を簡単に使える時代でなかったからかもしれないが、こういった挿絵画家たちの仕事であったりしたようである。 |
村上 松次郎(むらかみ まつじろう) | |||
1897(明治30)年11月27日生 |
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「帝国潜水艦大模型 」 日本少年 ふろく 昭和8年 |
以上は、あくまでも私が見つけることのできた『記述』の羅列に過ぎず、残念ながらこれらの全てを直接実際に見て確認できているというわけでもない。 こうしてみると、戦前は少年少女向けに冒険小説の挿絵や、時勢柄、戦艦などのメカニカルなイラストを得意としていたようで、メカニカルなイラストと言えば、小松崎茂を思い出すが、この小松崎茂の作品などを展示公開している昭和ロマン館という所での小松崎茂の紹介には「大先輩の樺島勝一、村上松次郎、(以下略)」といった記述も見ることができる。 果たして、如何にして、村上松次郎が『悪魔の手毬唄』の挿絵を担当するといったことになったのかはわからないが、挿絵に見られる柔らかなタッチはメカニカルな戦艦などからは、ちょっと想像するのは難しく、逆に考えると、硬軟どのような挿絵の依頼も器用にこなせてしまったことが、竹中英太郎や松野一夫、あるいは高畠華宵などのように“特徴ある画家”として名が残るようなことにならなかったのしれないと想像することもできる。 ともあれ、生没だけは辛うじて見つけることができたものの、他のことはほとんどわかっていないも同じなのである。 引き続き調査は続けるつもりですので、なんらかの情報をお持ちの方がおられましたら是非御一報いただければと思っております。 |
2002年10月14日、東京・両国にある『東京都江戸東京博物館』5F 常設展示室「東京ゾーン」のモダン東京のコーナーにて“村上松次郎”を発見。思い掛けない遭遇だったので、嬉しかったので載せてみました。 |
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22巻2号/付録
着色 村上 松次郎 の文字が!!→ |
上の『流線形の新機関車』がメカニカルなモノも得意としていた村上松次郎の『硬』の部分の仕事の一例であるならば、下に資料として掲示した南 洋一郎 著『日東の冒険王』(昭和12年講談社刊の物を国書刊行社より昭和60年復刻刊行)の挿絵・カバー絵などは、洋画家出身と思われる滑らかな筆使いと、当時の子供たちの想像力を刺激したのであろう時折唸らされるほどの構図などで、作品に華やかな彩りを加えていて、それでいて、暖かみに満ちた画風は、人の気持ちを優しくさせるようですらある。これこそが『悪魔の手毬唄』の挿絵に見ることができる村上松次郎の柔らかなタッチに繋がる『軟』の面を伺い知ることのできる良い例であろう。 |
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『新青年』昭和17年1月号の目次に“村上松次郎”の文字を見つけ、例によって挿絵の仕事かな…とよくよく見てみると、いつもの『挿絵』といった肩書きとは違った文字にギョッとした。 |
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いやはや、なんとも恥ずかしい思い込みをしていたものである。 |