(十四)

 いったいこの『告白』をどう受け止めたら良いというのであろうか。
 由里子もそんな私の反応を予測していたかのように、私の上から身体を起こすと、私に背中を向けたまま言葉を続けた。
「始めて母からこの話しを聞いた時のあたしもきっと今の木村さんと同じ顔してたんでしょうね…」
 由里子が由里子の母親からこの話しを聞かされたのは五年前に母親が過労で倒れて入院した時だということであった。幸いにもその時の過労は軽くて済んだのだが、それまでほとんど病気などしたことがなかった母親にとっては、あるいは自分の命のことも心配になったこともあって、それまであまり娘に話して聞かせたことのない父親のことを話しておかねばと思ったのだそうである。
 それまで由里子は、自分が三歳になる前に事故で亡くなったという由里子の父のことを、あまり母親から聞いたことはなかったらしかった。女手ひとつで自分を育てることに一生懸命だった母親を見ていて、子供ながらに、そういうことを訊ねることは憚られたのだそうで、また、母親もあまりその話題に触れたがっていなかったらしいというのが由里子の受けた印象だったらしい。そんな中で、やがて二人の間に父親のことは極力触れないという暗黙の了解のようなものが出来ていったらしいのだが、病に倒れた時、もし、由里子ひとりを遺して自分も死ぬようなことがあれば、由里子の父親のことを由里子に話して聞かせてやれる人間がいなくなるのだと思うようになった母親が、話しをしてくれたのだと由里子は言った。
 由里子の母親の話しは、そのまま由里子が私に話して聞かせたとおりであるのだが、由里子が私に話して聞かせた“推理”部分に関しては由里子自身が考えたものであった。
 それというのも、母親にこの話しを聞かされるにあたって、母親のいわれるままに、母親がしまいこんでいたこの『悪魔の手毬唄』を箪笥の奥から探し出す際、この本といっしょに見なれぬ黒いワンピースがしまってあったのだそうで、そのワンピースのことを母親に訊ねてみると、そのワンピースは母親のものでもなく、由里子の父親が亡くなった後、その遺品を整理していたところ出てきたものだと話したということであった。
 母親は決してそのワンピースがどういったものであるかとは言わなかったが、由里子はその時このイブニングに見まがうばかりのスタイルのワンピースこそが青池里子が持っていたといわれているものであり、つまりは『悪魔の手毬唄』のなかではついに発見されることがなかったとされているワンピースを歌名雄が見つけ出し、鬼首村を出る際にいっしょに持って出て、それが今山梨の由里子の手元にあるのだと理解したというのだ。
 その自分の手のなかにあるワンピースから、由里子の“推理”は始まったのだそうである。
 『悪魔の手毬唄』ではついにその行方が曖昧にされたままのワンピ−スが、現実に自分の手元にあるのだとしたら、金田一耕助の推理にも問題があるのではないかと考えるようになると、まるで小さな穴から巨大なダムが欠壊していくかのように、その疑惑が膨らんでいったのだということだった。
 青池歌名雄がこのワンピースを見つけた時に、その意味、つまりは、金田一耕助が語ったように、里子が殺された時にこのワンピースを着ていたのではないかという言葉が違っていたのだと知った時に、何を感じ、何に気付いたのか?
 そういった歌名雄の胸の内を考えると、わずかばかりの写真での面影だけでほとんど記憶にない父親への想いが、ただの想像や願望だけに留まらず、果たして青池歌名雄がどのような思いでこの『悪魔の手毬唄』を手にし、それを母親に手渡しながらどのような気持ちで自分のことを語ったのだろうかとの思いまでが加わって増幅され、この『悪魔の手毬唄』をただの本以上の存在へと変わっていったのだと由里子は話した。
「あんまり憶えていない父へのファザコンなのかな?」
 由里子はそう言って笑ったが、そう言われてみると、店では『あっちゃん』と私を呼び、他の客たちともふざけあっているのに、二人きりの時は絶対に『木村さん』以外の呼び方をせず、どことなく目上の人に接しているかのような態度をすることもあったし、私が由里子と二人の時、由里子を『お前』と馴れ馴れしく呼ぶようになったのも、何度目かの食事の時、ちょっとした弾みからそう口からでたのを、由里子が「その『お前』って呼ばれ方、好きだな…」と言って、これからはそう呼んで欲しいと言い出したからであって、それらのことを考えあわせてみると、あるいは、私に対して父親的役割をも与えていたのかもしれないと思えるフシもあった。
 由里子の母親は、由里子にこれといって『悪魔の手毬唄』について話したこともなく、由里子もまた自分の“推理”を母親に話したことはないのだそうである。二人の母娘の間では、歌名雄がすでにこの世にいない以上、これまでどおりとかわらず、『悪魔の手毬唄』は単に歌名雄の遺していったものであるという事実以外のものではないということになったらしい。
「母には、例え何年かだけとはいっても、父といっしょにいることできて、父という存在を肌で感じることができていたから、別に『悪魔の手毬唄』がどういうものであったかなんて関係なかったらしいのね…」
 由里子は、そう自分と母親との受け止め方の違いを考えていた。
 由里子にしてみたところで、もちろん一日中『悪魔の手毬唄』のことだけに囚われているというわけでもなく、普通の時であれば、『悪魔の手毬唄』は、ただの話しにすぎないものとして置いておけるのだが、自分という人間の存在を考えてしまうような時、例えば人を好きになり、相手にとっての自分とは…などということを思った時にだけ、自分とこの『悪魔の手毬唄』との関わりに取り憑かれるようになるというのである。
 これまでも何度と別の男からの誘いに対して、同じような思いにかられた時があったのだが、いずれもその男たちが『悪魔の手毬唄』というものに興味を持つこともないタイプだと感じると、その男たちにも興味が持てなくなってしまっていたというのだ。もちろん、『悪魔の手毬唄』のことなど気にすることを止めて普通に男たちの気持ちに答えようと考えないこともなかったが、それができずにいたまま、たまたま現れたのが私であったということらしい。
 由里子も、この『悪魔の手毬唄』との関わりを誰かに話したところで、それが一体何になるのか…という思いは持っていて、自分は自分なのだから、たとえどんな関わりがあろうとも関係ないはずだと思っていても、そういった思いが自分が自分の中にあるのだということは、誰かに判ってもらいたいという気持ちもまた捨てきれずにあったのだと話した。
 由里子がこの生家のはずれにある自分の子供の頃の“自分の場所”に私を連れて来たのは、一つにはそういった過去のことを話すには自分の気持ちを穏やかにもてる場所であるここがふさわしいという気持ちがあったからで、もう一つ、もし私が由里子からの『告白』を聞いて、望むのであれば、今は親戚に預けてある生家の蔵の中にしまい込んだままになっている、里子のワンピースというものを見せるのに、ここからであればすぐに見にいくことができるからでもあったらしい。ワンピースという実際に存在するものを見れば、この『話しだけ』のことに真実味を加えることができる…言ってみれば『物的証拠』を示したいという思いがあったのかもしれない。
 しかし、私はそのワンピースを見せてもらうことはさすがに遠回しに辞退した。一着のワンピースを見せてもらったところで、それが本当に青池里子のものであるのかなど、私にわかるはずもないからである。
 そのことを由里子が残念がるかとも思ったが、由里子は思いのほか平然と、
「そうだよね…。それに、知らない男の人と蔵の中でゴソゴソやってるとこを伯父さんにでも見つかったら、後で何言われるかわかんないもんね」
  と笑いながら答え、その後も二度とこのワンピースを見ることを持ち出したりはしなかっ
た。

 由里子の言葉をそのまま使うならば、
「木村さんが好きだって言ってくれてる女って、こんなヘンな女なんだよ…」
 と伝えたかったのが、この『告白』の真意だったらしい。
 前にも書いたが、私は心理学だとか精神分析学だとかいった専門的な知識も持ち合わせていないし、またそのような面から由里子を見たいとも思わない。
 確かに、これまで聞かされてきた“話し”は、私としては突拍子もないもので、それだけを抜き出してみると少なからず私の常識から外れているような感じもしないではないが、だからといって、そういった面だけで由里子という女を見ることはできない。
 私の拙い文章から、由里子を愚かしい女だと思われるのであれば、それは私の書き方が悪いだけであって、由里子は決して愚かな女でも、由里子自身が言うほど『ヘンな女』でもない。
 それどころか、まともな女であるからこそ、この『告白』や“推理”といったものが余計に突拍子もないものに思えるのである。
 例え、この『告白』にあるように、由里子の亡くなった父というのが由里子の話してくれたような人物だとしても、彼が別に殺人を犯しているわけでもなく、たまたま不幸な巡り合わせによって、彼の母と、あるいは由里子の推理からすれば彼の妹までもが人を殺めるまでに追い詰められてしまったのだというだけなのである。彼には何の罪もないし、その娘であるという由里子と『悪魔の手毬唄』は何も関係ないと言っても構わないとすら思える。
 だからこそ、この『告白』を聞いた後も、それまでと変わる事なく由里子とは良い関係を続けているのである。
 由里子もこの『告白』をした後は、まるで憑き物が落ちたかのように、この話題を持ち出すこともなくなり、もちろん、“推理”のことも、まるでそんなことなどなかったかのように口にすることはなかった。
 それならば、冒頭に書いたような『困惑』など、何も私がすることなどないであろう…といわれるかもしれない。
 確かに、そうできるならば、越した事はないのだが、あれ以来、由里子の口からは二度と聞かれることがなくなった“推理”が今度は私に取り付いてしまったかのように、私のなかで時折浮かんできては大きなうねりとなって、物事のとらえかたを左右するようになってしまったのである。
 由里子は『悪魔の手毬唄』以外の横溝正史作品をほとんど読んだことがなく、他の横溝正史の作品には興味を感じないらしいのだが、私は、この『悪魔の手毬唄』以来、あらためて横溝正史の作品をいろいろと読み直すようになってしまった。
 一度、由里子の“推理”を受け入れてしまってからというもの、どの作品を読んでも、その裏に何が隠されているのであろうかと、必要以上に疑ってしまうようになってしまっているのである。
 仮に『悪魔の手毬唄』が由里子の言うとおりの話しであるならば、『悪魔の手毬唄』の後に『人面瘡』という岡山県を舞台にした作品が発表されているにもかかわらず、この『人面瘡』は時代的に『悪魔の手毬唄』より以前の事件であるということや、『悪魔の手毬唄』以後、金田一耕助が岡山県で活躍する事件は『悪霊島』まで十数年の間があいてしまっていることなどにも何かしら意味があるのではないか…と思うようになってしまっているし、その『悪霊島』があのような作品であるということにも、また深い意味があるのではないかとすら思っているのである。
 こういったことが、単に読書のことだけに影響を及ぼしているだけなら、何もこれほどまでに『困惑』などしないのだが、日常生活にまで影を落とすようになってきているようでは、『困惑』せざるを得ない。
 もちろん、四六時中、何事に対しても猜疑心に満ちた目で物事を見ているわけではないのだが、時折気がつくと、必要以上に『疑い』や『疑問』を感じ、素直にモノを見ることができなくなっている自分をみることがあるのだ。
 そして、そういった自分に気付いた時に、ふと、老婆の姿をした赤痣の女の微笑みが脳裡を掠めるのである。

 これが私の困惑であり、私のはまり込んでしまっている、何をどうしたら抜けだせるのかわからないままの退っ引きならない状態なのであり、この私自身の告白文を書き記すことによって、こんな状態にはまり込んでしまった原因から見つめ直し、あるいはこの事態から抜けだせるのではないかと一縷の望みをかけているのである。

< 了 >   



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