(四)

 白々と明けて行く窓外からの明りの中、静かな寝息たてている由里子を腕に抱きながら、由里子の机のうえにあるあの『悪魔の手毬唄』から目が離せないでいた。
 前にこの部屋で見た時は異質な物として見えなかった物が、今は何故かこの部屋の中になくてはならないようなものようにすら思え、この部屋の中のなによりもその存在を主張しているようにすら見えた。
 どれくらいそうしていたのだろうか。
「そんなに気になる?あの本…」
 と由里子の声が胸の上から聞こえてきてハッと我に帰ると、由里子はまた穏やかに微笑んでみせた。
「気にならないっていったら嘘になるよな…。…白状すれば、先週、横浜に帰ってから読み直してみたんだよ。『悪魔の手毬唄』を。…お前が話そうとしてくれたことが気になってね」
「……」
「確か、この前は事件解明がこれでいいのか…とか言ってたよね。推理小説マニアみたいにも見えないけど、なんであの時お前があんなことを言い出したのか…って思ったら、やっぱり気にはなるしね」
「…やっぱり、木村さんて良い人だよね」
「良い人?…好奇心が強くて自分の好き勝手やってるお調子モンなだけだよ」
「そんなことないよ。…だって、その為にわざわざ読み直してくれたんでしょ『悪魔の手毬唄』…。普通ならバカみたいって取り合わないよ…」
 由里子の表情は長く美しい髪の中に隠れてわからなかったが、泣くのをこらえているかのように思えた。
「でも、正直言って、何度か読み返してみたけど、オレにはさっぱり、お前が言ってたような『事件解明』がおかしいとかいうことまではわからなかったけどね…。腑に落ちないところ…気になったところくらいならいくつかあったし、昔、金田一耕助の推理のここがおかしいんじゃないかっていう本があったことも思い出したんだけどね…」
 由里子は少しの間、私の胸の中に顔を埋めていたが、髪を掻きあげなから顔をあげると、また笑顔を向けながら、裸のままであることも気にしないようにベットから飛び起きると、机の上から『悪魔の手毬唄』を取り上げて、本を手にしたまま、また私の横に戻って来て言った。
「ね、木村さんが腑に落ちないところってどこだった?」
「…どこって言われてもなぁ…。…そうだな…。犯人…青池リカが三人を殺す時、わざわざ老婆に変装して村の中をうろついていたってことかな…。ハハハ。だってそうだろ、いくら老婆にばけて犯人を放庵かもしれないと見せ掛けようとしていたからって、怪しい老婆に化けて村の中を歩きまわってたんだとしたら、いつどこで誰に会うともわからないのに、危険じゃない。…ましてや最後に大空ゆかりの家に火をつけにいく時もわざわざ老婆の姿になっていくなんて…。青池リカの姿のままのほうがよっぽど怪しまれないだろ…。犯行の動機についても確か、いろいろと評論家みたいな連中が『異常な精神状態』だったからこその…とか言ってたりしたけど、わざわざ変装までするとなるとちょっとね…。あ、そうそう、そう言えば変装で思い出した。最初、由良泰子が老婆と歩いて来るのを里子とお幹が目撃した時、あそこだってちょっとおかしくない?…だって、里子とお幹が亀の湯を出てしばらくしてから金田一耕助と磯川警部が遅れて亀の湯を出たことになってるんだけど、その時金田一耕助と磯川警部を亀の湯の玄関までリカは見送っているってあったのに、それからあわてて老婆に扮して金田一耕助たちを追いこしてお陣屋まで行って泰子を呼び出すなんて、ちょっと考えられないでしょ。呼び出すだけならまだしも、それからまた泰子を連れて戻って来た途中で里子たちに目撃されるなんて…。たとえ自転車を使ったからといっても、金田一耕助たちがどの道を行ったかまでリカに判るはずもないし、ましてやその前を里子たちもいるのにね…。ヘタすりゃ老婆姿で慌てて自転車漕いでるところを金田一耕助たちに見つかっちゃうもんね…。学生時代に読んだ時には気が付かなかったけど久し振りに読んでみて驚いたよ」
 自分でもこんなことくらいをなんで自慢げに長饒舌しちゃってんだろ…とちょっと恥じ入りながら由里子の顔を見ると、驚いたことに由里子はいつもの穏やかな笑みを浮かべながら私を見つめていたが、その目からは涙が溢れ出て頬を濡らしていたのであった。
「ちょっと、ちょっと。…どうしちゃったの?…まいったな…。オレ、また何かおかしなこと言っちゃったかな?何も泣くことはないでしょ…」
 そう私に指摘され、始めて自分が涙を零していることに気が付いたように、由里子はあわてて頬を拭いながら呟くように言った。
「あ、違うの。…ごめん。なんで涙なんかでちゃったのかな…。…なんだか木村さんの話し聞いてるうちに感動しちゃって…」
 そう言いながら照れをごまかすかのように身体を預けてくる由里子を抱きながらも、頭のなかでは自分の話したことのどこがそれほど由里子の言う『感動』になるのか理解しきれず困惑していた。
 確かに由里子の感受性が人並み以上に強いのは、これまでもいろいろと見てきた中で感じていたし、それを表現する言葉や行動にしても、外見相応の女であったかと思えば突然子供のように振舞ってみたり、そうかと思うと男みたいな蓮っ葉な言葉を使ってみたりと様々な面を見せていたのもそれを由里子自身が面白がってやているだけなのだろうと思っていたのだが、こんなことに『感動』して自分でもわからないうちに涙を零しているというのは果たして普通のことなのだろうか…。
 私は別に心理学だか精神分析学だかよくわからないが、そういった学問的な専門家ではないので、由里子の希有と言ってもいいような性格を私が見て感じたまま以外にどうこう言うことはできないし、またそのようなことをしたいとも思わないが、この時だけは、由里子の手といっしょに私の胸の上におかれた『悪魔の手毬唄』がとても重たいもののように思えて、この話しをこのまま続けるのは由里子にとっては勿論のこと、私にとっても良くないのではないだろうかという漠然とした不安のようなものを感じていた。
「もっと早く木村さんみたいな人と会えてたらよかったのにな…」
 由里子の呟く声も普通の時ならば甘い囁きとも受け取れていたのだろうが、胸の上の本の存在が、そんな言葉すら暗い陰のようなものをまとった響きを伴っているような気がした。
「木村さんみたいな人って、なんだか変な買い被り方されても困るんだけどな…。そんなたいそうな男じゃないし。…ちょっとここの部分おかしくないか…くらいなところなら案外みんな気付いてることなんじゃないのかな?…それに、おかしいと思うところを言えっていわれれば言えるけど、だからといって、お前の言うような事件解明までがおかしいとかそういったことまでになったら全然オレにはお手上げだもの…」
「そうじゃないの。…何て言ったらいいのか、よくわからないけど、こういう風にあたしの言うことをちゃんと真剣に聞いてくれようとしてくれてることが嬉しいの。…それにね。お手上げだって言うけど、もう木村さんは肝心なところに気付いてるんだもん」
「肝心なところ?」
「リカが老婆に扮して泰子を誘い出したっていうのは無理だってこと」
 どうやら由里子はこの話しをまだ終わりにする気はないらしいと判り、あわよくば簡単に終らすことができるかもしれないかとの希望から自分が行き詰まった問題をぶつけてみることにした。
「無理かどうかはともかく、リカは自殺してるんだぜ。それも溜め池に落ちる前に農薬まで飲んで。リカが犯人であることは揺るがないところだろ。…まさか、リカまでが別の犯人に自殺に見せかけて殺されたなんていう訳じゃないよね…。犯人でないとしたら自殺する必要もないわけだし、細かなことはともかく事件解明に問題ありということまでは言えないんじゃない?」
 私の言葉を聞いた時の由里子の目を見た瞬間、私は自分の言葉がこの話しを終らせるどころか増々火に油を注いでしまったことになったことに気付いて後悔した。


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