「和名抄」流布本に見える高井郡五郷のうち日野(ひむの)郷は新野(しんの)村を中心として南部地方に発展した郷と推定される。また「延喜式」神名帳に載っている笠原神社・高杜(たかもり)神社は高社山麓寄りにあり、「今昔物語」には東部の山麓の如法寺がみえる。
古代の東山道より分かれて越へ通ずる千曲川東谷筋道は腰巻(もと部木田(へきだ)郷)で渡河している。中世の「吾妻鏡」に中野牧・笠原牧があらわれる。両牧ともに古代末期には設けられた勅使牧である。殊に笠原牧は文治二年(1186)三月には左馬寮領内として笠原南条・同北条にわかれ、その広大な規模がうかがわれ、笠司笠原氏の土着が知られる。また中野牧は尾藤氏の支配する所であったが中野郷の成立とともに御牧の姿が不明となっている。・・・・・・・中野郷の地名の由来は・・・・・・古代日野郷が当地に移り、野の中心であったため中野と呼ぶようになったという。
~中世~
鎌倉時代は中野郷には中野氏が栄え、高社山麓には笠原氏の一族が余端を保っていた。八条院領中の東条庄は千曲川両岸に広がっていただ河東には本郷の狩田郷(現上高井郡小布施町)に続いて新保・真野(新野)・部木田(壁田)のほか、不明となっている法蓮・甕(もたい)・治(はる)もみえる。更に後には南北大熊・江辺(えべ)庄内に編入されている。
その後東条庄内に成立したと推定される櫪(くぬぎ)原庄の地頭高梨氏が山ノ内地方と高丘地方へ進出して中野郷包囲の形勢で寛正四年(1463)高梨政高が高橋の合戦を契機に新野・大熊の土豪を滅し、政盛に至って中野氏を追放して中野小館を根拠として高社山南部地方一円を支配した。しかし、政頼に至って武田晴信の侵入により、その謀略のため、越後の長尾影虎のもとに亡命する運命となった。武田領となった中野地方は大変貌を来したが、武田氏の滅亡により織田氏の将森長可の一時的な支配も束の間、天昇10年(1582)六月より上杉影虎となって、政頼の子頼親は安源寺地方を宛行われて還住がない、やがて、一時的にせよ待望の中野小館入もできたが、慶長三年(1598)春、影勝の会津移封に伴い、高梨氏はじめ、給人と名のつくものはことごとくこの地を去った。
中野の歴史を調べているとふと「南宮(なんぐう)」という文字を目にした。僕の出身中学は「中野市立南宮中学校」だ。今はもうほこらくらいしかないが「南宮神社」というものも中学の敷地内にある。だいぶ自分との関係もあるし、調べる理由も動機も十分なので、僕は「南宮」について調べることにした。
南宮。(現、中野市大字中野)中野村の字名。市河文書になかに平安時代末期より「中野西条」がしきりに出る。「中野東条」は天正六年(1578)の上諏訪大宮同前宮造宮帳に「端籠七間、中野之内西条・東条」と初めてみえる。現在西条と東条と推定される中間に字「五箇」があり、村落宅地があって西条村字東屋敷添・字クネ下と境している。字南宮は五箇の北に接し村落宅地と南宮神社がある(長野県町村誌)。この五箇は空閑地を意味し、郷の中条にあたり、北に南宮(諏訪神社の古称)社地が存在する。中野郷が嘉暦年間(1326-29)、天正年間(1573-92)ともに諏訪社上社へ七間の玉垣造宮を務めていたいのはこの南宮神社である。字「南宮」はこの神社にちなんだ地名である。
今まで調べたことから「南宮神社」と「高梨氏」とが関係ありそうである。そこですこし整理してみたいと思う。
高梨氏は16c.はじめ、中野に入る前に周辺の吉田・夜交・安田・江部・新保など次々に領有して、最後に中野小館に日野城を築いたという。それは現在も高梨城址跡として中野市にある。この高梨氏城館は字小館にあり、近くに字小館廻り・字諏訪町がある。字諏訪町を祀る大日神社がある。
高梨氏がこの地に日野城(小館)を経営するに当り、南宮に上諏訪大神をまつり、日野社(諏訪町)つまり大日神社に下諏訪大神をまつり、両社共日野城鎮護の神社としたと伝えられている。
僕はまず中野の歴史を調べ、中野の地名の由来を見つけられた。――中野郷の地名の由来は古代日野郷が当地に移り、野の中心であったため中野と呼ぶようになった――ということと、南宮の地名の由来も調べられた。――「南宮」は南宮神社にちなんだ地名である――ということ。さらに、南宮神社と高梨氏の関係を調べると、高梨氏と諏訪の神社との交流があったこともわかり、その高梨氏が諏訪の神社を好んで祀っていたことも分かった。さらに、今現在も中野市には「諏訪町」というのが存在している。これは調べたわけではないが、おそらく、高梨氏の諏訪の神社との交流からその地名が由来したのではないかと予想できた。
今回の日本史のレポートを通して、戦国時代は地方でも戦火があり、激しい戦乱だったと改めて実感できた。僕は中野は昔は田んぼや畑ばかりかと思っていたから、自分の住んでいる所で5~6C前には何々氏と何々氏が戦っていたかと思うと、今までの考えが覆され、とても興味を持てた。教科書では織田信長やら豊臣秀吉ばかり目にしていた気がするが、今回を気に地方ではそれぞれ激しい戦いがあり、誰が誰を倒してもおかしくない状態で、少しでも歴史が変わっていたら、織田信長は教科書にも載っていなかったかもしれないんだと分かった。