私と西荻(西荻での幼い日々)(作成中)

第1回 私が生まれた昭和20年

私が生まれたのは昭和20年の1月に大雪の新潟市内、学校町という官庁街にある官舎で生まれました。父33歳、母28歳4人兄弟の末っ子でした。
新潟は逓信省(後に郵政省と運輸省に分割)勤務の父の転勤先でした。
8月6日に広島に原爆、8日にソ連参戦、9日に長崎にも原爆。新潟も次の原爆の投下予定地に入っている(実際本当に米側は予定地に入れていた)・・・と云うことと、ソ連が新潟に上陸するということを、役人の父が何処からか情報を得てきて、一家6人は急遽、母の実家、愛知県の天竜川の上流、三河大野という山奥の町に逃げることにしました。
父は新潟郵便局長という信越・北陸5県の郵便局員の長という要職にあったので、本来なら新潟に踏みとどまって職務を全うしなければならなかった筈ですが、終戦時の国家は「瓦解」し統治能力を失っていたそうです。逃げるのに表日本を通っては空襲や、艦砲射撃で危ないというので裏日本伝いに大回りをし(新潟ー長岡ー富山ー直江津ー長野ー塩尻ー辰野ー飯田ー三河大野)3−4日も掛かってたどり着きました。勿論、難民で満員の列車です。
8月15日の「終戦の玉音放送」は直江津駅で聞いたそうです。一家は飯田線の三河大野の母の実家に疎開していましたが、父だけは、9月には復興の仕事で東京の本省に呼び出され単身赴任という形でした。

第2回 昭和20年の西荻

中島航空機製造跡 桃井4丁目
中島航空機製造
中島航空機製造守衛室
高射砲があった西荻図書館
城山跡 西荻北2−34
砂利道 宮前慈宏寺付近
柘植の生け垣 西荻北2−20
大谷石の塀に見越しの松
末次邸 西荻北2−31
有馬邸上荻4−14
北口マーケット跡
保谷風呂桶店、現「保谷」
桃井第3小学校

新潟に赴任する前に住んでいた西荻の自宅は、現在の西荻図書館から歩いて三分くらいの真南にありました。自宅から真北に歩いて15分ほど、青梅街道に面した、今川町に零式戦闘機をつくる広大な軍需工場・中島航空機製造(プリンス自動車工場から、日産自動車へ、現在は工場は取り壊してある)がありました。当然B29(太平洋戦争末期に出てきた、米軍の主力爆撃機。高空を飛べたので、日本軍の高射砲が届かず、また米軍は残酷なことに無差別爆撃をし、密集した民家に焼夷弾を雨あられのごとく投下し、ジェノサイドを行った)が来襲する可能性は高かったのですが、幸いにも西荻に空襲は無く、自宅も無傷でした。
10月には、一家6人が西荻北2丁目(西荻窪3丁目といっていた)の自宅で暮らすことが出来たわけです。
小さい頃今の西荻図書館のあたり一帯、善福寺川の南岸は、川まで何も無く「城山」と連なって広大な原っぱでした。その広大な原っぱの真中に高射砲のコンクリの台座が1基あったのを覚えています。
善福寺川の北岸は南斜面で、大邸宅が密集し、広大な有馬伯爵邸と荻窪八幡に繋がっていましたいました。
井荻村(明治22年に上下荻窪村と上下井草村が合併して出来、大正15年に、井荻町、昭和7年10月杉並区に編成)の村役場は今の青梅街道の、荻窪八幡、荻窪消防署、荻窪警察、荻窪郵便局の中心にある、現在の桃井第一小学校の道路沿いにあったのです。したがって西荻の官公庁は今でも青梅街道に集中しているのです。今の環八にある四面道は上下荻窪村と上下井草村の接点、すなはち、井荻村(井草と荻窪の頭文字を取った)だったのです。

ところで西荻は、昭和十年頃から西荻窪駅を中心に宅地化が始まりました。井荻村村長内田秀五郎氏は稀に見る先見の明と、卓越した指導力のある名村長でした。全国に先駆け、日本一の大規模な区画整理を行いました。そのおかげで、現在、まるで新開地のような、整然とした道路網が出来あがっているわけです。内田村長は明治40年、たしか全国最年少の29歳で村長になったと聞いています。
今も西荻の水は美味しいといわれている(旧井荻村のみ)善福寺の汲上井戸も、井荻町営水道だったのです(現在は東京都水道局に吸収)。村長は青梅街道に立派な建物がある井荻信用購買組合東邦信用金庫から現平成信用金庫と変遷)を作りました。また井荻村の農民のため、井草八幡(青梅街道沿いのバス停「青物市場」)と新宿(JRが東中野を出ると大久保の手前左側に見える)に青物市場(現「(株)新宿青果」)を作りました。
区画整理がなされているといっても、道路は総て砂利道が当たり前でした。舗装されているのは、唯一、西荻窪駅を通り五日市街道と青梅街道に繋がる南北の商店街の道路だけでした。小さい頃の履き物は大人も子供も下駄でしたから、砂利道ではすぐすり減るし、鼻緒は切れるし、雨の日はぬかるみで泥だらけになり大変でした。舗装が進むのは昭和35年過ぎからです。

家々の塀はほとんどが生け垣で柘植、ひいらぎモクセイ、さわら等が植えてありましたが、子供達は生け垣の穴を通り抜け「けものみち」ならぬ「子供道」を通って家々の庭を自由に出入りしていました。現在はほとんどの家が殺風景なコンクリやブロックですが、その当時は、あっても大谷石か板塀で、住宅は緑の生け垣で囲まれていました。
西荻の自宅は戦前の昭和14年頃に入居した新築の賃貸一戸建てでした。山林地主で豪商であった母の父が金はいくらでも出すから売ってくれと言っても取り合ってくれなかったそうです。畑といっても、長年耕してきた、先祖伝来の農地であり、お百姓さんたちは、区画整理で農地を宅地にしてもどうしても手放してはくれず、借家という形が多かったそうです。ただ借家と言っても新築で100坪以上の敷地、豪壮な門構えの邸宅でした。当時の邸宅は大谷石の塀と大谷石の門柱に掛かる「見越しの松」が定番で、何処の邸宅も大きな木製の門扉を通って中にはいると、路地が玄関まで続いていました。訪問客は広い玄関から洋風の「応接室」に通されました。家人が玄関から入ると云うことはありません。玄関から入れるのは一家の主人か、お客様だけです。家人(主婦・子供・使用人)は裏の「勝手口」から入りました。

西荻は軍人さん、お役人が多かったようです。父の同僚の役人も何人か住んでいました。すぐ近所には末次海軍大将、荻窪八幡の南には有馬頼寧伯爵の邸宅がありました。西荻に戻ってきたものの、留守中他人に貸してあったので、食糧難の折り、芝生が植わっていた広い庭は家庭菜園になっていました。私の一番小さいときの記憶は家庭菜園のトマトが赤くて美味しそうだったことです。おそらく3歳位だったのでしょう。

第4回

小学校に上がる前の記憶は、日曜日になると、父が「こけし屋」に連れていって、珈琲とエクレヤを食べさせてくれた事です。こけし屋で珈琲を出すようになる前は(こけしやが西荻で最初に珈琲を出した)父は新宿まで連れていって、高野(今のタカノフルーツパーラー)か紀伊国屋書店付属の喫茶部でご馳走してくれました。
もう一つの記憶は、お米が配給制だったので、外でお米を食べるには「外食券」を持っていかないと食べれなかったようで、今の北口、東海銀行の辺りに「外食券食堂」と言うのがあったのを覚えています。とにかく外で食べるという習慣がなかった当時、外食券食堂以外は、喫茶のこけしやとラーメンの坂本屋、位しかありませんでした。そば屋は砂場くらいでしょうか。

北口にはマーケットがありました。当時の役人の給料は安く(裁判官が飢え死にしたくらいですから)、30代半ばという若さながら高級官僚として、近所に先んじて電話がつき(当時の西荻の局番は32番だけだった)、また毎日専用の送迎の車が来るという待遇ながら、父の給料だけでは食べていけませんでした。母は最初のうちは、着物や、貴金属とお米を交換していましたが。それも尽きると、八王子から反物を仕入れてきて売ったり、米の「かつぎや」みたいなことまでやったようです。
終戦後昭和30年くらいまで、西荻の北口のサンジェルマンからコスモ証券辺りまでの一角がマッチ箱の寄せ集めみたいなマーケットになっていました。母は台湾人から間口・奥行き1間の店をかり、そこで「小間物屋」(裁縫用品を売る店)を1年ほどやっていました。3歳くらいの頃でしたが、その時のことは良く覚えていて現在私が商売をしているのも、その時の記憶が刻み込まれているからかもしれません。

マーケットの脇には「保谷」さんという桶やさんがありました。軒先で職人さんが桶を作っているのを、いつまでも飽きずに見ていました。当時、お風呂はヒノキやさわらの木製で、大きなたがの嵌った、木製の樽の「風呂桶」が主流でした。また、風呂は薪で焚くのが当たり前でしたが、終戦後は薪がなかったようで、母は中島飛行機(現・日産自動車)の方まで、石炭屑や、コークス(石炭からガスを取った跡の残り)を買いに行っていたようです。
風呂の燃料は昭和30年代後半にガス風呂になりましたが、桶は相変わらず「木樽」。現在のようなプラスチック製になったのは昭和40年代からです。桶屋の「保谷」さんも「保谷風呂桶店」といっていたのが今は「エネスタ」の「保谷」と言っているようです。

昭和26年桃井第三小学校に6歳になって入学しましたが、家から5分くらいの学校に通うのがとっても怖かったのを覚えています。、相変わらず役人の家庭は貧しく、幼稚園に行ってなかったので友人が出来ず、毎日学校から帰ると一人で家の庭で遊んでいました。敗戦後とはいえ、昭和25年には朝鮮動乱の特需景気が始まったせいもあるのでしょう。西荻の親たちは幼稚園や子供塾に通わせる余裕があり、なかなか教育熱心な親が多かったようです。

小学校1年の遠足は善福寺公園、楽しいと言うより母から離れ(ほとんどのお母さんが遠足に付き添ってきたが私の母は来なかった)学校からも離れ心細い限りでした。その後小学校の4年生くらいになってやっと善福寺公園までは一人でいけるようになりました。善福寺池では子供は泳いだり、メダカやはやを網ですくったり、ざりがにをイカの足でつったり、遠い(子供の足で1時間)ので心細いけど時間を忘れて遊びました。善福寺川も幅3メートル位の細さ、岸から水面までの高低差が1メートルくらいしかなく、ちょっとした雨で氾濫していました。

城山は西荻図書館の道路を挟んで反対側。家から1−2分の至近距離。鬱蒼としたクヌギや楢と熊笹の下生えの小高い森でした。赤土の防空壕がいくつも掘られ、昔からの水路の縦穴もあり、子供の冒険心をあおる”秘境”でした。夏はクワガタやカブトムシを捕ったり思い出は尽きません。勿論当時から忍者屋敷の話(「西荻故事」参照)はありました。

「紙芝居屋」さんと、「べっこう飴」と「玄米パン」屋さん、夏は「アイスキャンデー」やさんが自転車で入れ替わりでほぼ毎日来ました。4人の子供を日々食べさせるだけで精一杯の私の親はお金なんか渡してくれるわけでなく、買ったり、食べたりした記憶はありません。

当時は様々な行商の人が訪れました。今でもある「包丁研ぎ」、「竹や竿竹やさん」、「鋳掛けや」さんと言って、アルミ鍋の穴をふさぐ人。「下駄やさん」は下駄の歯がすり減ったのを継いだり、鼻緒の切れたのを繋いだり。当時(昭和28年頃まで)の日常の履き物は下駄が主流で、小学生も学校から帰ってくると運動靴を下駄に履き替えて遊んだモノです。「担ぎ屋さん」といって野菜や干物等を主に千葉方面から背中に背負ってくるオバサン、その他様々な行商の人達が来ました。いまでも鋳掛けの仕方、刃物の研ぎ方、魚の卸し方等は忘れようもなく、魚を3枚に卸す事、包丁を研ぐことなど今でも得意です。

「おわいやさん」すなわち便所の「くみ取りやさん」が月に1度は必ず来て、家の裏口の便所のマンホールを空けて長い柄の柄杓でくみ取っていってくれました。馬車に積んだ幾つもの肥樽を満杯にして帰って行きました。おそらく西荻よりもうちょっと田舎の練馬や田無の辺りから肥料を取りに来ていたのでしょう。おわいやさんの来た後は辺り一面に臭いが立ちこめ2−3日はその臭いは消えませんでした。昭和35年くらいからは、バキュウームカーと言って長いホースの付いたタンク車が来るようになりました。バキュームのブブブーという吸い込む音と、吸い込みエンジンの混合排気臭は今でも忘れません。
各家庭が水洗になるのは昭和40年頃からです。それまでは「落とし」といって便壺の真上にしゃがむという恐ろしいスタイル。お尻を拭くのは新聞紙。水洗になっても最初はしゃがみ込む「和式水洗」。今の座るスタイル((洋式水洗便器)は昭和48年頃からはやりだしました。

当時の子供の遊びはなんと言っても「チャンバラごっこ」でした。東映時代劇の全盛期で中村錦之助や東千代介、美空ひばりが大活躍。TVの無い時代、当時西荻には南口に3軒、北口に3軒の映画館がありました。お風呂屋さん、玉ノ湯の近所の「西荻館」は西荻の一番館でした。子供たちは棒きれを振り回し日が暮れるまで野原で活劇の主人公を演じていました。小学校1年の頃、ラジオでは「笛吹童子」、4年生の頃は「赤胴鈴之介」を放送。子役で吉永小百合が、千葉周作の娘さゆり役に選ばれ、これが芸能界入りの第1歩となったとは、後で知ったことでした。(ちなみに吉永小百合も私と同じ昭和20年の3月生まれ)
何にもなかったし、何も買ってもらえなかった時代、「めんこ」や「ビー玉」は裕福な家庭の子供に限られていました。女の子の遊びは何だったのでしょう。お手玉とか、縄跳だったのでしょうか。

西荻の北口の商店街で今でも続いているのは、食料品の喜久屋、和菓子の三原堂、蕎麦の砂場、マーケットの三典、岡本時計店、化粧品のわかばや、和菓子の杉森、食べ物屋の坂本屋、和菓子の喜多屋、西島肉店、大川薬局等です。北口に住んでいたので南口のことは判りません。勿論こけしやはありました。駅前北口の真ん前に「月賦の丸井」が有りました。いまのドラッグストアのところです。ミシンや毛糸編み機が人気商品で、私の母もそうでしたが、子供の衣料品はほとんどが手作りの時代でした。洗濯機、冷蔵庫、電気釜などの家電製品は何処にも売っていませんでした。丸井の右隣は「佃権」という蒲鉾やさん、店先はいつも魚の臭いが漂っていました。

西荻窪駅北口は表紙のオレンジカードの絵の様に(この絵は西荻窪駅の緑の窓口の入口に掲げてある)向かって左側が交番その先が踏み切り。右側は日通の貨物・小荷物の預かり所・受取所があった。駅は木造で柱はレールの廃品利用。改札口を入って階段を上がると上りのプラットホーム。左に行くと階段があり、それを上って線路を渡り、又階段を下ると下りのプラットホーム・南口に行けるようになっていました。

電車は「国電」と言っていました。全体が茶色に塗られていて、床も壁も天井も木造であったが、床には油がタップリ染み込ましてあった。。中の座席はグリーンのカバーのイス、吊革は本革で出来ていた。線路は複線ですべて各駅停車。複々線・高架線化は昭和35年頃からだったと思います。

踏切は最初はテコ式?の様な長い竹竿を踏切係のおじさんが竹竿の端の重りの方に体重を掛けて揚げていました。後には(昭和30年頃か?)踏切の幅を倍くらいに広げ、回転式の巻き上げ機でワイヤーを揚げるような仕掛けへと進歩しました。高架線になる直前は電車が近づくと警報が鳴って自動的にワイヤーが下がるようになりましたが、それまでは人力であげていました。

西荻北口の古いお店

北口大通りの古いお店です。記憶が不確かなので、ご存じの方、追加・誤りを教えてください。

喜久屋ー北口駅前左側ー昭和20年開店? 砂場ー右側で三典の斜め前ー大正11年開店 三典の跡
わかばやー右側 八百泰ー左側 坂本屋ー左側角
喜田屋ー左側 杉森ー左側 西荻館跡ー左側
西島肉店ー左側 新生堂書店跡ー右角 魚庄ー右側
武蔵屋豆腐店ー右側 スター理髪店ー右側 田中畳店ー左側ー昭和11年の地図に記載
高橋ストアー跡ー左側 高橋ストアー昭和元年開店 博華ー右側 昭和35年頃?

映画館は西荻館という東映の封切館が今の北口のお風呂やさん「玉ノ湯」の大通り沿いにありました。小学校四年の時に、ディズニーの「砂漠は生きている」というカラー記録映画と、木下恵介監督の「二十四の瞳」(壺井栄原作)の二本立てを小学校で連れていってくれました。それが私が映画を見た初めてだと思います。映画館は北口はサンジェルマンやコスモ証券ところに二軒あったようですが、なんと言っても東映時代劇華やかなりし頃、西荻館が一番館でした。南口は郵便局を入った路地に「西荻キネマ」。柳小路の南側神明通り沿いに並んで2軒、南北併せて6軒あったわけです。
「西荻キネマ」は前身が芝居小屋で「横山座」といっていました。映画館としての営業は戦後で、元々芝居小屋として作られたせいか営業は短命でした。
最後まで残ったのは柳小路の2軒でした。



駄菓子やさん
玉の湯

西荻館のすぐ裏には「駄菓子や」さんがありました。小学校から近のと、映画館とお風呂やさんに挟まれた立地ということで、いつも子供が入り浸っていました。この間現地に行ったら駄菓子やさんは現在も営業していて「田丸屋」と言う屋号があるのを始めて知りました。私自身は、お小遣いを貰える訳で無く中がどんな風になっているか位は知っていましたが、入った事はありませんでした。
お風呂やさんは「玉の湯」と言って現在も営業中ですが、小学校のころは、自分の家にお風呂があるのが自慢であるような時代でしたから、大繁盛。私も、小学校の6年生くらいになって友達と、お風呂やさんなるものに、始めて入って見ました。お風呂はとても込んでいて、体を洗う場所を探すのに苦労したほどだったのを覚えています。なんにも娯楽の無い時代ですから、子供にとってワクワクした気持ちだったのを覚えています。















関根文化公園プール

関根文化公園は通称関根プールと言って関根文化公園プールは、最初に公園が出来、その後昭和30年頃、私が小学校4年生の頃プールが建設されたと記憶しています。戦後西荻に公園はなく、おそらく西荻で最初の公園でしょう。公園は戦後文化の象徴だったのでしょう、「文化勲章」「文化住宅」「文化鍋」「「文化包丁」等々「文化」という言葉が流行って、そう言えば桃井第三小学校の校歌も出だしが「文化の華と武蔵野の・・・」でした。
もっとも公園が出来ても子供たちは、空き地や森や竹藪などの遊び慣れた場所がいくらでもあったので、公園では遊びませんでした。でも夏休みは関根プールに通うのが嬉しくて幼ごころに夢にまで出てきた事を記憶しています。プールから上がった後、脇の公園で屋台のおでんを食べるのが楽しみでした、プールで冷え切った体に暖かいおでんの、ちくわやジャガイモの美味しかったこと、今でもおでんやのオジさんの顔は忘れられません。現在のプールは同じ場所に同じ規模で、30年くらい前に建て直したものです、昔は1階建てで塀は無く、アイスキャンデーやおでんなどをプールに入っている人に渡せました。

同級生は「西荻銀座通り」(北口)と「伏見通り」の商店街の子が多く、傘や、豆腐や、酒屋、パンや、すしや、風呂や、肉店、ガラス屋、桶や、大工、等々。私のようなサラリーマンの親は少なかったように覚えています。また、私の家庭は4人兄弟で私は末っ子。4人兄弟というと当時では珍しく多い方でほとんどの家庭が決まったように2人でした。末っ子に対しては親も関心がなかったのでしょう、勿論塾なども行かせてもらえず、毎日出る宿題などもやったことがなかったので成績はビリに近かったようです。放課後はいつも3−4人教室に残されて、やってこなかった宿題をやらさせられました。一クラスは40人くらいで男女半々。我々の学年はベビーブームの前で3クラスしかなく、我々のすぐ2〜3年後は6クラスと言うのがふつうでした。今、50年近く経っても西荻にいる同級生は40人中私を含め4人だけです。

当時の小学校教育は戦後民主主義のスタート、完全な男女平等でした。小学校4年の家庭科では男女とも「運針用布」を縫わされました。今でも針仕事や台所仕事に不自由を感じないのはそのおかげでしょう。先生方も小学校教育を「天職」として使命感に燃えて一生を終えられた方が多かったようです。休み時間にシラミを取ってやったり、髪を切ってやったり、ほころびを縫ってやったり、給食代を払えない子供の給食費を払ってやったり(後でわかったことですが)・・・まるで我が子のように教え育ててくれました・・・まさに、木下恵介監督の映画「二十四の瞳」の世界です。戦後のみんなが貧しい時代、でも良い時代だったと思います。幼少時に人間の有り様を教えてくれた訳です。本当に良い教育を受けたと思います。

私立中学受験と言うことで、6年生の10月に近所のお茶の水女子大を出たというおばさんに急遽受験指導をしてもらいました。劣等生に受験指導しても基礎が判っていないのでチンプンカンプン。翌年忘れもしない2月10日に受験。どういう訳か国語の出来が良くて合格。国語が出来たのは、幼稚園に行かなかったので友達も全く出来ず、みんなと遊ぶということもなく、学校の宿題もしなかった少年は、学校から帰ってくると、父の書斎に忍び込んでは、父の蔵書を読み漁るのが唯一の楽しみだったのです。勿論ルビが振ってありますから大変良い勉強になったのでしょう。40名ほどのクラスから私立中学に5人も進学しましたが全員が御三家と言われるレベルの中学に合格しました。ただ、当時は都立高校のレベルが高く、あえて私立中学に進学させるという家庭は少なかったようです。
桃井第三小学校の同級生のほとんどが荻窪中学、線路の南側の子が神明中学に行きました。中学時代、高校時代は電車通学でもあり勉学に明け暮れる毎日でもあり、私にとっては西荻窪と縁の薄かった時代でもあります。
(作成中・・・誤り等がありましたらご指摘ください)

表紙