井荻村成立
明治22年上井草、下井草、上荻窪、下荻窪の4ヶ村が合併し、井荻村成立.。村役場は青梅街道の桃井第一小学校前、以後村の中心となる。
明治24年荻窪駅が開業。
明治40年内田秀五郎村長に就任。以後井荻村の急速な改革が始まる。
大正10年東京電灯株式会社と交渉の末付近の村に先駆け、全村に電灯がつく。
西荻窪駅開業
大正11年7月15日西荻窪駅の開業。村長、新駅誘致の運動を起こし、市川、小俣氏等の協力のもと、駅敷地430坪を寄付。改札口は北口だけで南側は雑木林。東京新聞に連載された「沿線物語」には砂場(北口の蕎麦やさん)の開業エピソードを「下町では資金が足りなくて店を出せず西荻窪駅が開業した年の暮れ、北口駅前に店を出した」
関東大震災
大正12年関東大震災、これ以降都心からの移転相次ぐ。
大正13年中島飛行機製作所(現在日産自動車工場)宿町(現青梅街道荻窪郵便局裏手)で開業
区画整理始まる
大正14年井荻村区画整理始まる。全国最大規模の区画整理昭和10年に完了。上荻窪地区だけ遅れる。
大正15年西荻駅乗降客数266人/1日平均
昭和3年桃井第三小学校開校(この頃より急速に都心よりの流入が進み「建て貸し住宅」(当時は地主が土地を手放さなかった)も増える。
昭和4年遅れていた上荻窪地区の区画整理始まり、7年に完了
町営水道敷設
昭和5年井荻町営水道敷設。善福寺池畔に揚水塔出来る。
杉並区編成
昭和7年大東京市が誕生。杉並区が編成。
昭和13年駅南口開設。神明通りの南側は高井戸村であったので発展が遅れる。
これらの資料から西荻駅開業の昭和11年以前は青梅街道沿いに荻窪駅から井荻町役場(現在の荻窪郵便局辺り)までが商店街の中心であったようだ。西荻窪の駅周辺は駅開業後から商店が出来だしたようだ。
江戸時代から続く伝統的な商家の建築の代表的なモノを「出桁造」(だしげたづくり−柱の上に載せた太い桁を店の前面に何本も突きだし其処に軒や屋根を乗せた)といい、それに土をかぶせたのを「倉造り」という。昭和に入ってからはほとんど建築されていない。昭和5年あたりが限界だったと思われる。西荻に現存する古い商家のほとんどが「看板建築」でそれより古い「出桁造」は少ない。「倉造り(塗や造り)」は存在しない。
「看板建築」とは大震災の後に作られたモトモトは俄造り(直後のは)の建築で、前面が垂直かつ装飾の施された商店を言う。従来の重い瓦を銅葺きにすることによって、瓦の落下による被害を防ぎ、防火性を高め、瓦の重量の軽減によって建物の耐震性を向上させた。深い出し桁を廃することによって得られた店舗の前面の平面を看板として利用した。関東に特有の建築様式で終戦後昭和40年くらいまででがピークであったが、コンクリ高層建築の普及と店舗と住居の分離によって(看板建築は2階建てで、2階を住居とした)急速に廃れた。西荻で現存するものは約30軒。ほとんどがモルタルやタイル張りの後期看板建築。初期の銅板張りの耐震・防火性ものは井荻町役場近辺の青梅街道に見ることが出来る。(この稿は藤森照信著「看板建築」によっています)
保久屋押し出しの出桁造 |
典型的な出桁造の商家。見事な出し桁と梁、屋根瓦。
素晴らしい江戸時代からの伝統的な日本建築の逸品。
現在は新聞専売所のようであるが何百年たってもびくともしない作りである。
女子大通りの青梅街道にでる手前にある。
女子大通りのこのあたりは、現在「アンティーク通り」といわれアーバン・アンティークス等がアンティークやさんが林立している。
ちょうどこのあたり、かって「保久屋押出し」(ぼくやおんだし)といわれ昭和40年頃まではこの地名が使われていた。
「押出し」(おんだし)とは坂道での荷車の後押し業をいい、善福寺川の寺分橋から青梅街道迄の上り坂で荷車の後押しをした「保久屋」という押出し屋さんがあったのだ。
現在「女子大通り」と呼ばれるこの道は、青梅街道から人見街道に抜ける道であるが律令時代、奈良時代末期から存在したのではないかと言われるほどの古道である。かって「八王子道
と呼ばれ近くは吉祥寺方面、遠くは八王子方面から野菜などを都心に運ぶ荷車で賑わったが、その終端青梅街道に出る最後の上り坂が「保久屋押出し」。(西荻北5−22。女子大通り善福寺郵便局斜め前) この「押出し」の地名は旧上下荻窪村の各所に見られ、荻窪の白山通り−環八の光明院からタウンセブンの青梅街道に出るまでを「観音押出し」(かんのんおんだし)といっていた。12.6.1
青梅街道の杉並区と練馬区との境。ショッピングセンター「タントム」のそばにある(上井草4−6)。
地元の名士野田家の広大な屋敷の中に残っている。
典型的な蚕室構造の立派な3階家(本格的な3階建は珍しく、中2階がふつうだった)で「蚕室付き母屋」とでもいった方が正確なのだろう。。
屋根の軒にある空気抜きの小屋根?と天窓がついているのが蚕室の特徴。さなぎになる前の「おカイコ」の活動は活発で、吐き出す炭酸ガスとその湿度・温度調節に天窓は不可欠だった。現在同じ青梅街道の和田にある「蚕糸の森公園」は明治44年に設立された農林省の蚕糸試験場の跡地であり、戦前の日本の重要な輸出産業であった。天保初年(1830年頃)から関東を中心に広まった養蚕業は安政6年(1859年)の横浜開港を機に、従来水の引けない高燥な台地が桑畑に利用でき、生産した繭は高値で外国に飛ぶように売れたので関東と中部地方にまたがる国境の山沿いの地帯の農家は争って養蚕を行いました。武蔵野も典型的な高燥台地地形で、明治13年の「東京府武蔵国東多摩郡上下井草村近傍村落」図には水田はわずか荻窪八幡の南斜面、善福寺川の川辺のみ。後は全て「畑」と「楢」。和田堀の方まで行かないと広い水田はなかったようです。(養蚕業については森泰樹著「杉並歴史探訪」に依っています)12.5.16
看板建築の基本形は平面な正面を銅板で覆ったものである。関東大震災の後だけに防火と耐震には従来の「出し桁造り」から重い屋根瓦を取り除き平面にし、防火と装飾・看板をかねて高価な銅板を張ったのであろう。関東近辺と東日本のみで見られる建築様式である。西荻周辺では青梅街道に多数見られ、それもかって町の中心だった井荻町役場(今の荻窪郵便局周辺)辺りに軒並み頻出している。現在の「マルコシ鉄工所」(上荻3−27)は○越のマークも賑々しい、銅をふんだんに使った初期の看板建築の代表例である。
西荻駅周辺では後期看板建築のモルタルやタイル仕上げが多い。南口駅前の「洋品菊屋」がモルタル仕上げの逸品である。力強い縦の3本の太い柱と洋風の小窓。○×のマークは屋号か家紋であろう。洋品とはヨーロッパの品であり、建築当時のモダンさは如何ばかりであっただろうか。12.6.5
南口富士銀行を入ったところにある長崎亭、北口の三典は一般的・標準的な後期モルタル仕上げの看板建築。青梅街道の元井荻村役場近辺(荻窪郵便局や桃一小学校)は初期看板建築のメッカ。銅葺きのりっぱなものが軒並み。中でも立花家の銅葺き看板建築は見事。いわゆる「マンサール屋根」といい、フランスのルイ14世時代に活躍した宮廷建築家のマンサールがパリで工夫した屋根の造り。将棋の駒のように腰折れにすると屋根裏の天井が広くなるのだ。狭い敷地で面積を稼ぐには大変上手いやり方であり、三階建てを禁じられていたこともあって過密な都心の看板建築このマンサール屋根の例が多い。12.7.4
マルコシ鉄工所 | 洋品菊屋 |
西荻の街を歩いているとわずかながら江戸時代から続く建築様式「出し桁造り」と「町屋造り」が散見される。関東大震災以降の「看板建築」に至っては多種多様。詳細は「西荻の商家」を見て下さい。
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出し桁造(だしげたづくり)昭和4年 | 看板建築(初期) | 町屋造り |
江戸時代からの典型的な商家建築。一番上の写真は南口銀座通りを降りていった五日市街道との交差点沿いにあります。ガラス戸にかすれた金文字で「・・・・製函所」と読みとれます。「荘重」なと云いたくなる見事な出し桁です。
上から2番目の写真は青梅街道沿い、八丁交差点のあたりです。関東大震災の後の初期看板建築特有の銅板葺き。このマンサール屋根(将棋の駒の様な形)は伝来のパリ風というよりも、ウィーンのセセッション風(分離派といわれた芸術運動)です。
上から三番目は五日市街道の春日神社交差点の魚屋さん。素晴らしいたたずまいです。江戸時代からの住居用建築である町屋造り。「しもたや風商家」とでも云った方がいいのでしょうか、親しみやすい出し桁のような威圧感のないのが特徴。「魚鐘」の看板の文字のバランスの良さにも注目。以上三店とも西荻駅からは遠隔の地です。駅前に商店街が形成されるのは昭和10年以降のようです。
マルコシ鉄工所(青梅街道・上荻3−27) | 洋品菊屋(南口駅前) | 南口長崎亭の看板建築(南3−8) | |
マンサール屋根(青梅街道・立花家・桃井1-5) |
北口三典ストアの看板建築 | 戸袋飾り(伏見通り・や乃家・北3−16) |
「出し桁建築」で、横山通り(本橋通り)の五日市街道手前、本橋家のおいなりさん、石碑(本橋通り開通の碑)の隣にあります。2005.10.07.15:39