西荻の石仏・石碑

橋供養

善福寺上池と下池をつなぐ横断歩道の下池側、交通信号の脇の方にあります(善福寺2−31)。「橋供養佛」とは珍しいので調べてみたら、260年前の浄土宗と民間信仰の混淆(ミックス)したものでした。

正面には、仏像が一番上に浮き彫りになっています。
その像の真下に「千日念佛橋供養佛」とあり
正面右脇に「願主 浄誉善入
正面左脇に「 同  本多源内
右脇には「延享二年
左脇には「乙丑 四月八日」 
裏面には「武列 多摩郡 遅野井村 石屋 五兵衛作

今でもお供え物があります。
阿弥陀如来であると見るのは?念佛信仰であり阿弥陀如来の儀規(仏像の決まり)であるから。
千日念佛とは?念佛信仰の願掛けで千日間の願掛けが流行っていたようです。すなわち、千日間「南無阿弥陀仏」と唱えるのではないでしょうか?「難行」とありますが、詳細は不明です。
橋供養佛とは?橋を境界線(賽)と見なし、悪いもの(疫病・不幸等)が入ってこないように祈った信仰。?
浄誉善入?他の石碑から善福寺(昔は浄土宗)の僧侶のようです。浄土宗の僧侶に多い僧名です。
本多源内?武士と思われるが、全く同じ年月日に地蔵坂に「橋供養佛」の石碑を作っています。今川家の家臣だったようですが、今川家の知行地である、上・下井草村に7ヶ所の橋供養佛を建立しておえり、現存するのは、前述の2ヶ所だけです。
江戸時代の「小名・宿」後の「宿町」(現在の善福寺一丁目近辺)の由来について、某古老は、「江戸初期に、本多忠勝(家康の大名)が一時ここに屋敷を構えた。山林の中に四、五軒の家がかたまって出来たから、宿場のように見えたので、土地の人が宿と呼んだという伝説があり、本多氏の後裔が現存している」と話されましたが・・・・また、・・・・井草村をはじめ、杉並区内各村の旧家の多くは、江戸時代の墓石に苗字が彫ってあり、祖先が苗字を持った武士だったことを物語っています。
関ヶ原のあと、主家が滅亡して禄を失った浪人達は、仕官の道を求めて江戸へ集まってきましたが、平和になったので召し抱える大名もなく、仕方ないから百姓でもしようかと、土地を見に来たら、名主から半ば強制的に帰農を勧められ、ついに土着したのでしょう。新しく土着した人々の労働力で、各村は開発され、村としての形が出来上がったのです・・・・(杉並風土記)。
本多忠勝の父忠高は今川家の家臣です。江戸時代の遅の井村の領主は今川家でした・・・そんな関係もあるのでしょうか?
延享二年?「えんきょう」江戸時代1745年で将軍徳川吉宗
乙丑 四月八日?干支で1745年「かのと・うし」又は「おつ・ちゅう」と読む
武列 ?「武蔵」を「武列」と書いた例が結構あります。
多摩郡?現在の多摩地区と中野・杉並・世田谷の一部。武蔵国の国府が府中にあった。多磨郡や多麻郡とも記す。 
遅野井村?公式には上井草村と言っていました。善福寺池を遅野井という。
石屋 五兵衛作?石屋が自分の名前を彫っているのは珍しく、同じ石屋五兵衛作のものが、今川町の観泉寺にありました。
今のところ、遅野井村の百姓、本多源内氏が、領地に厄災が入ってこないよう、千日念佛の行をするという誓願をし(願いを成就させるという誓いを立てること)、その誓願の碑を近所の善福寺の僧侶、浄譽善入にお願いして石屋の五兵衛に作らせたのでしょう。素人の推測ですから、諸賢のご指摘をお待ちしています。051020撮影

阿弥陀如来 千日念佛橋供養佛 武列多摩郡遅野井村・・・ 遅野井村

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