上井草村

地名の由来は善福寺池や妙正寺池周辺に藺草(畳表の草)や葦草(イグサ−池の草)が生えていた。
歴史−井草八幡の縁起に1187に源頼朝が奥州征伐の途中この地に宿陣したとある。中世の井草村は武州多摩郡井草村と呼ばれ荻窪村同様豊島氏の領地でした。豊島氏は江戸氏と共に秩父平氏の一族で1100年頃(平安末期)から石神井川流域に住居した豪族です。その後の経過も荻窪村と同じでしたが江戸時代の初めには老中井上正就の領地でした。その正就は1628年江戸城中で目付役豊島明重(中世の井草村の領主豊島氏の末裔)に殺害されると言う因縁めいた話が起きます。1644年には三代将軍家光が善福寺周辺で猪狩りを行って十六匹も捕らえたという記録もあります。翌1645年(正保年間)以降今川家の領地となり開拓に力を入れた結果石高も増え1695年頃に上下二ヶ村に分けられます。地元民は上井草村を遅野井村(遅野井−善福寺池の別称)、下井草を井草村と呼んでいました。
範囲井草村は北と東は練馬区との境。南西は神明通り(武蔵野市との境)。南は上荻窪村(荻窪村の記述参照)と青梅街道。西は中野区との境と、天沼村との境。天沼村との境がややこしく下井草一丁目の東原中学。沓掛小学校。そこから清水二丁目と本天沼三丁目、清水一丁目と天沼三丁目の境を通って四面道の辺りへ出る道。
上井草村と下井草村の境は青梅街道の八丁交差点の一つ荻窪よりの道を北へ。JTアパート。井荻中学。四宮小学校。西武新宿線を渡って妙正寺川の手前の矢頭橋を渡らず左へ、井草五丁目二番地のT字路で右折れ区の境まで。

三谷町の沿革(旧遅の井村)

妙正寺川の源流に当たる「切通し公園」善福寺池とは青梅街道を挟んですぐです。050903

武州多摩郡井草村は、正保年間以後(1645年頃)二ヶ村に分けられ、京都に近い西側を方を「上」、遠い東側を「下」とし、それぞれ、上井草村、下井草村と名付けられました。地元民は上井草村を「遅野井村」、下井草村をもと通り「井草村」と呼んでいました。「三家」は上井草村の小名です。明治22年の町村制施行で三家はなくなり「中通り北」の一部となります。昭和7年杉並区の発足で「三谷町」として復活します。現在の今川1〜4丁目の範囲です。小名「三家」(さんや、後の三谷町)は、三戸の草分け百姓(最初に土着した農家)があったので、「三軒家」と呼ばれ、略されて三家になったそうです。里唄に「三谷三軒、宿四軒」の一節があります。(以上「杉並風土記」上巻森泰樹著)。
地図を見る限り三谷小学校、三谷公園、三谷農場は上井草3丁目にあり、上記「今川1〜4丁目」は誤記でないかと思います。
昭和三十年代の地図によれば、バス停として、早稲田通りの上井草保育園の交差点、今川4と3の交差点(デニーズあり)の二ヶ所が「三谷町」となっています。
「新編武蔵風土記稿巻之百廿三多摩郡之三十五野方領○上井草村」には「三家 青梅街道の北の方にあり」のみあり、前後の関連から、西が「新町」、東と南が「宿」、北が「井草」、の位置関係にあるようです。2005.10.1
No.274 (2005/10/16 09:07)title:三谷町
Name:西荻住人 数年前、法務局で今川のある土地の登記簿謄本を見ていた時、杉並区「三谷町XXX番地」は「今川X丁目YY番・・・」に昭和30年代に地名改正で修正された記載を見ました(当時の手書き登記簿で、今は電子化で過去の修正は無記載のシステム)。今川3丁目には「三谷南公園」も現存しています。推測ですが、旧三谷町は現早稲田通りを挟んで、上井草3丁目、今川3丁目を中心とした地域では・・・と思うのですが。

早稲田通りに面しています 三谷小学校の西門 道灌橋の碑 妙正寺川の暗渠

西荻の歴史