西荻の神社

井草八幡宮 TEL03−3399−8133

徳川家光の御朱印状を頂いた大社に相応しい広大な神域を持ち、境内は巨木が多く森厳。、鎌倉将軍家によって創建されただけあって関東鎌倉武士の質朴・シンプルな精神が伺われる。

例大祭
9月30日宵宮祭
10月1日例大祭斉行(毎年曜日にかかわらず)
10月2日神輿渡御(雨天中止)
各流献華、野点席(10/1)、文華殿公開、神楽奉奏(10/1)、奉納井草囃(9/30−10/2)、奉納北辰一刀流(10/1)、伝統井草の大太鼓(9/30−10/1)、奉納狂言(10/2)

@東参道の朱塗りの大鳥居
C楼門
D神門回廊がある社殿
I斉館
J大灯籠
K銅葺きの看板建築

上・下井草村(善福寺1.2.3、西荻北3.4.5、桃井1.2.3、今川1.2.3、上井草1.2.3、下井草1.2.3、清水1.2.3丁目)の鎮守。1193年鎌倉将軍家の創建といわれ「遅ノ井八幡宮」と云われていた。1649年3代将軍家光より御朱印状を賜り、地頭今川氏(今川町の観泉寺に墓のある今川義元の子孫)の庇護を受ける。応神天皇を祭神。神社本庁から「別表神社」扱いされ都内でも明治神宮、靖国神社、大宮八幡宮(杉並区)につぐ4番目の広大な神域を持つ。

見どころは
@東参道の朱塗りの大鳥居は昭和32年(1967年)にたてられたもの。鎌倉将軍家による本社の創建は源頼朝が鎌倉に幕府を開いたとほぼ同時期の1193年とされている。元々は鎌倉の方向すなわち南方を向いていたが(「今もその付近に旧大門道の形跡があり、善福寺川の水底にも橋脚が残存すると...」大正6年発行「豊玉郡神社誌」)、徳川家光に御朱印状(慶安二年(1649年)社殿を造営させ朱印領六石を寄進)を賜るに至って江戸の方角のこの東門が出来たという。両側の樹木もこの時植えられたものという。

流鏑馬

東参道は一直線で幅9メートル長さ216メートル。5年ごとに催される「流鏑馬」(今度は平成18年)神事(やぶさめ−騎馬で的を射る)はこの参道で行われる。正式名:井草八幡宮例大祭 古式流鏑馬神事。
流鏑馬は疾走する馬の上から弓で鏑矢(かぶらや)を放って地上に置かれた三つの的に次々に矢を当てるという競技です。鎌倉・板東・関東武士の得意技であり、馬術と弓術の組み合わさった武芸で、昔は武士の鍛錬の目的で盛んに行われていましたが、今では井草八幡宮始め、鎌倉の鶴岡八幡宮など多くの神社で神事として行われています。
A流鏑馬の「的」は参道の左側にあり、一の的から三の的まである。

A流鏑馬の的
B常夜灯


B参道の突き当たりの手前右側に高さ3メートルの「常夜灯」が一対あり「正八幡宮 富士浅間宮」と彫ってあります。1820年頃に建立されたもので、上下井草村、上下石神井村を中心に、東は内藤新宿、西は田無村までの12ヶ町村、99名の寄進者氏名が刻んであり、当時の浅間信仰(富士講−富士山を信仰の対象とした民間信仰)の盛大さが忍ばれます。
C常夜灯より20メートルほど進むと、参道は左に折れ、その正面に朱塗りの美しい2階建ての楼門が見えます。鎌倉時代の建築様式を模して、昭和46年に建てられたもので、鉄筋コンクリート造りです。
D楼門通路の左右に奉安してある古式な随神像を拝しながら内庭に入りますと、右手の一段高いところに神々しい神門回廊がある社殿が、南向きに建っています。
E重厚な拝殿の奧にはコンクリート耐火造りの覆屋に、本堂(1628年に徳川譜代大名井上正利によって再建された杉並区最古の木造建築物)。社殿の前に、天然記念物に指定されていた「頼朝手植えの松」(樹齢7000年と推定される)がありましたが、近年枯れてしまい、代わりに小松が植えられています。












E拝殿
F文華殿

F社殿の左前方にある文華殿は多くの社宝があり、国の重要文化財に指定された境内付近出土の縄文土器「顔面把手付土器」は見事です。善福寺池を見下ろす高台と云う絶好の住環境ですからこの近所に縄文人が住んでいたのもうなずける話です。他に当社の本地仏である鎌倉時代初期作の「立像阿弥陀仏」、区内最大の元応2年(1320年)銘の板碑など見応えのある貴重な数々が見られます。公開日は1月1日、2日、9月30日、10月1日です。G内庭の南に立派な神楽殿があり、お祭りの時には恒例の神楽以外に「狂言」なども行われますが、郷土色豊かな「井草囃」「井草の大太鼓」などは見物です。
H内庭の南隅に大正時代の若者が力競べに担いだ17個の担ぎ石が並べてあります。当時は石担ぎが大変流行し、青梅街道筋の人が集まる場所や、大宮前の春日神社、大宮八幡宮、当社の境内などで、若者たちが仕事の合間や、お祭りの時に腕比べをし、優勝記念や大会の記念に、自分が担いだ最大の石に名前を刻んで神社へ奉納しました。もっとも重い石は225Kgだそうです。






G神楽殿
H担ぎ石

I文華殿の背後に「斉館」という建物があり、どういう役目なのかは判りませんが、大正昭和初期のこの辺りの住宅建築で、高床の縁側にガラス戸(昔の泡入りの波を打ったものを使っている)というノスタルジックな建築物で必見。
J北参道の南側には桜の木が多く桜の名所になっています。入り口にそびえ立っている一対の朱塗りの大灯籠は、昭和42年に別格神社に昇格した記念に建てられたもので、壮麗雄大なことは、全国にその例を見ないと云われます。
K大灯籠の青梅街道の反対側にある雑貨屋さんは銅板をふんだんに使った見事な「看板建築」です。(この稿杉並風土記森泰樹先生による)12.9.29









荻窪八幡神社

いかにも歴史ある村「上荻窪村」にふさわしい古社で、清浄で静寂・荘厳な神域です。村人の心の故郷・産土神・鎮守と呼ぶにふさわしく、今なおよく手入れされ村人の拠り所になっています。なお西荻の商店街のほとんどが荻窪八幡の氏子なのでお祭りは盛大です。

@東側参道の大鳥居

例大祭 
9月13日宵ノ宮 祭囃子 
 14日午後1時ー6時神社神與(おみこし)渡御   15日午前10時神事式 午後1時半町内神與神社参拝 午後少年剣道奉納試合 終日神楽 14・15両日盆栽展
神社神輿順路 八幡神社→関根文化公園→(北銀座通り)→西荻駅周辺→(神明通り)→西荻南児童公園→南荻窪天祖神社→本町通り→四面道→八丁→八幡神社

上荻窪村(南荻窪2.3.4、西荻南2.3.4,西荻北1.2.3,上荻2.3.4丁目)の鎮守。890年頃の創建というからかなり古い。以後、源頼義、太田道灌、伊賀忍者?の庇護を受ける。「八幡」と云う呼び名のごとく応神天皇を祭神とする。

道順は西荻駅北口のさくら銀行を荻窪方向に入って線路の北側を歩くこと5分左手の市川家の稲荷を左折直進、桃井第三小学校の裏手に通じる古道を横断すると遙かに神社の森。この坂道も江戸時代からの古道で「豆腐や坂」と云っていた。坂の上ではサイの神の薪を燃やしていたという。(江戸時代からの古道で「豆腐や坂」と云っていた。坂の上ではサイの神の薪を燃やしていた)(江戸時代からの古道で「豆腐や坂」と云っていた。坂の上ではサイの神の薪を燃やしていた)(江戸時代からの古道で「豆腐や坂」と云っていた。坂の上ではサイの神の薪を燃やしていた)さらに下って西荻図書館の手前左側の工事現場は「城山」と言い源頼義が奥州下向の1051年に陣を置いた処。又凱旋し(1062年)神社を修め部将を置いたとされている。後の江戸初期にも服部半蔵の配下伊賀忍者鵜飼氏等が居を構え上荻窪村を支配した処でもある。善福寺川に掛かる「社橋」(やしろはし)を渡ると上り坂で神社の裏手に到着。裏手と言っても元々の大門は源頼義の庇護を受けた鎌倉将軍家のおわす南方を向いていたであろうと推測。裏手に到着したら神社に入らず左に曲がると左側に「有馬」の表札がある。ここら辺一帯は大正元年に買い求めた有馬頼寧伯爵の所有地だった。西荻が高級住宅地として発展したきっかけを作った。

見どころは@東側参道の花崗岩の大鳥居は自然石の造りのものとしては区内最大、都内でも靖国神社についで大きい。高さ6.7メートル幅10.6メートルの村民?自慢の大鳥居。

A四面燈 B法華講中石塔 C小俣金治先生銅像
D支那事変出征帰還記念碑 E菊の台座の狛犬 F太田道灌の高野槇
G末次海軍大将の拝殿扁額

A東側参道を進むと右手の木立の中に四面道(荻窪青梅街道環八交差点の地名)から1969年に移された秋葉神社と四面燈(高さ二メートル、嘉永七年(1854年)銘の常夜灯)が並んでいます。四面道の地点は東は天沼村西は上荻窪村南は下荻窪村北は下井草村の4ヶ村の接点だったところで、この四つ辻を良く通った人たちが講中(組合)を作り資金を」出し合って常夜灯を維持し通行人の便を図ったのでしょう。
B4面燈の左隣には宝永6年(1709年)の銘の傘付きの四角柱の石塔があります。「武州多摩郡上萩久保村願主」「奉納法華六十六部衆万人講衆二世安楽処」とあり法華講中の石塔であり庶民の間では神仏混交が当たり前であったと云うことでしょう。「上荻窪」でなく「上萩久保」となっているのも興味深い処です。
C同じ並びに前宮司小俣金治先生の銅像があります。小俣家の祖先は小田原の山伏であったというが代々荻窪八幡の宮司をつとめる家柄。また同家の墓地より1294年の板碑が出土している。
D青梅街道に面した参道の入り口右手の石柱の正面には「荻窪八幡神社」右脇には「皇紀二千六百年陸軍大将山田乙三」左脇には「支那事変出征帰還記念昭和十五年建立」とあり裏面には九十一名の奉納者名が刻まれています。村の歴史を物語る一こまです
Eさらに鳥居をくぐると左右にある一対の狛犬の台座に菊の紋が彫ってあります。1855年に赤坂の袋物商が奉納したもので菊が栄え葵が枯れる時代の流れを先取りにしたものです
F拝殿の左前にある高野槇は1477年太田道灌が北方の石神井城主豊島氏を攻撃する前日に社前で軍旗祭を行って戦勝を祈願し植樹したものとして有名。時は室町時代江戸城主太田道灌の最盛期であり苛烈でリアルな歴史ドラマを想起させてくれます。
G拝殿の扁額は末次海軍大将の揮毫でご近所のよしみでしょうか。山田陸軍大将など新興住宅地西荻は軍人さんが多かったようです。
あと土蔵があいていれば勝海舟直筆の長さ九メートルの大幟一対「奉献八幡神社、明治16年9月吉祥日、上荻窪村氏子中、海舟勝安芳拝書」が見られ、上荻窪村の住人だった事が確認できます。12.9.12

西高井戸・松庵稲荷神社

松庵稲荷神社は明治初年に廃寺になった円光寺の一隅にある小祠だったようです。江戸時代の松庵村は戸数十戸の小村でしたが村人の崇敬あつく、昭和九年には中高井戸稲荷を合祀して立派な本殿を新築しました。こじんまりして明るく雰囲気のいい小社です。なお西荻窪の南口商店街は松庵神社の氏子です。

JR高架線南側の「松庵窪」
西高井戸・松庵稲荷神社
@お狐様のミイラの納めてある祠
A庚申塔
B円光寺の住職墓地

例大祭 9月14日(宵ノ宮)夜町内有志の奉納演芸  15日午前11時式典執行 
  夜は前夜同様の演芸があります

松庵村と中高井戸村(松庵1・2・3丁目)の鎮守。元々松庵村のみの鎮守であったが昭和9年に五日市街道を挟んで荻窪よりの筋向かいにあった中高井戸村(西高井戸村)の鎮守「中高井戸稲荷」を合祀したので現在町内では「西高井戸・松庵稲荷神社」と呼んでいる。
松庵稲荷神社の創建は1660年頃の開村時と思われる。松庵村の開村は「新編武蔵風土記稿」によれば「松庵村は多摩郡の東北にあり、開発の年代は伝へざれど万治年中のことなるにや、松庵と云う医師新たに開きしにより、村の名とせり...」とあります。
中高井戸村の開村は「当村も新田の内にて。多摩川上水堀割ノ時。高井戸村へ掛かりて堀通しければ、代地として新田を開き賜りしにより、彼地の農民ここへ移り住まいける故、新たに中高井戸村と名付けたりと云...」とあり、高井戸村の農民の代替地であった訳です。
多摩川上水が掘削されたのは承応年間(1650年頃)なので中高井戸村の開村と中高井戸稲荷神社の創建はそれ以降と云う事で松庵村とほぼ同時期だったと思われます。
道順はJR中央線の線路の南側を線路に沿って吉祥寺方向に行くと左手の窪地が駐車場になっていてその角を左折して南進すれば五日市街道にでます。この南北の一直線の道の西側が松庵村、東側が中高井戸村で両村とも五日市街道の両側にトンボの羽のように伸びた短冊状の非常に細長い村で久我山の「南街道」まで続いていました。新田なので道路は一直線、所有者の区割りのままです。
ちなみに松庵村の西の村境は線路の南側を線路に沿って吉祥寺方向に行くと左手に「松屋」と云う蕎麦屋があります、その蕎麦屋と北は高架線を越えて吉祥女学園を左に見て神明通りまで。南は五日市街道を越え井の頭通りに紀ノ国屋を左に見て立教女学院の正門前の南街道迄。道路の西側は吉祥寺村です。中高井戸村の東境は神明通りの松寿司の脇の道を五日市街道迄行き左折して本橋通り(神明通りのもんじゃ焼きの華家から来る道)の交差点を右折して久我山の南街道と交差する地点、ちょうど蕎麦家の「松月」までです。道の東側は「大宮前新田」です。
曲がり角の窪地の駐車場は「松庵窪」と云い明治22年(1889年)に開通した甲武鉄道(現在の中央線)の土採場の跡で線路の北側にもありました。
見どころは@五日市街道に面した鳥居をくぐるとすぐ左手に小さなお狐さんが一杯並べてある祠の中に「お狐様のミイラ」が納められていて由来も書いてあります。お祭りの準備をしているお年寄りに伺ったところ「昔は毛がいっぱいあったのに今はとれてしまった」とのことです。
A狐の祠の裏側には二基の庚申塔(江戸時代から昭和の初年まで農村で行われていた民間信仰)があり「元禄三年(1690年)武州野方領松庵新田」などの文字から開村して間もない頃であることが判ります
B神社の裏手の小さな墓地は明治初年に廃仏毀釈で廃寺になった天台宗・円光寺の住職墓地です。
1710年頃松庵の豪農岸野仙蔵が京都の知積院の僧侶「円光」の指導のもと紫草の栽培に成功し、屋号を「江戸紫元祖・杉田屋仙蔵」と名乗りました。青みの強い派手な紫であったので、派手好みの歌舞伎役者が好んで用いたため、誰言うとなく「江戸紫」と呼ぶようになり、爆発的に流行し江戸染め物業界を風靡したました。巨万の富を得た仙蔵は「杉仙山円光寺」を現在の松庵3丁目10番と村境の道を挟んだ11番の地(松庵村と中高井戸村またがって)に創建したそうです。
円光寺はその後明治初年の廃仏毀釈で廃寺になり本堂はご本尊の馬頭観音とともに大宮前の慈光寺(春日神社の隣で日蓮宗)へ移築されました。宗派は天台宗と日蓮宗と違っても日蓮は比叡山延暦寺の天台智ギを崇敬していたからでしょうか。
慈光寺に移築された円光寺の本堂はその後、高井戸村で最初の小学校「郊西学校」の校舎になります。
C五日市街道、江戸時代は「砂川道」「長新田道」「江戸みち」「青梅街道脇道」「五日市みち」等と呼ばれてきました。新田開拓の時に直線道路になったようです。松庵稲荷の荻窪よりのはす向かいに素晴らしい伝統的な「出し桁建築」があります。
Dうなぎの名店「田川」もすぐそばです。
(荻窪八幡と松庵稲荷の稿は森泰樹著の杉並風土記に依っています)12.9.12

C五日市街道の出し桁建築 Dうなぎの「田川」

春日神社 TEL03−3332−0520

例大祭 
9月14日 10時より祭囃子随時 午後7時から9時迄地元有志奉納演芸会
   15日 午前7時より朝囃子 午後2時式典 午後4時から6時里神楽 
       7時から9時迄地元有志奉納演芸会 午後9時福銭撒き

春日神社
@拝殿
E神楽殿

大宮前新田(宮前1ー5丁目 西荻窪1・2丁目)の鎮守。1660年頃大宮前新田を開発した名主の井口家が奈良の春日大社を勧請して創建。

A拝殿の向背
B鹿の石像
C力石

道順は簡単で五日市街道を荻窪方向へ行けば道路の左側。駅から徒歩15分。
@正面の拝殿は明治10年の建築で杉と欅材が使用された立派な建築です。
A拝殿の向背に精緻な彫刻が施されています
B春日神社の神様のお使いは鹿という事で、狛犬の代わりに鹿の石像が何体か見られます。
C社頭の左脇に、一五個の力石が保存してあります(内一個紛失)。明治、大正時代の若者たちが仕事の合間やお祭りの時に、石担ぎの腕比べをし、優勝記念や大会の記念に、石の目方と氏名を刻んで神社へ奉納しました。最大の石には「七拾参貫目安田藤三郎持之」と刻んであり、杉並区内でもっとも重い担ぎ石です。最小は「参拾貫 当間龍蔵」です

D境内の街道よりにある「明治三七・八年役記念碑 希典」と彫った高さ3メートル程の石碑は日露戦役の記念碑で、表面の字は陸軍大将乃木希典の書です。裏面に大宮前、久我山、中高井戸、松庵の従軍者一三名と戦病死者二名の氏名が刻してあります。当時の僅かな戸数の村々から13名もの働き手を戦争に採られ、2名の死者を出しているわけです。

D日露戦争記念碑

E参道の右側に神楽殿があり、笛、太鼓、鉦のおはやしの音が聞こえます。これは大宮前郷土芸能保存会の方々が練習しているのです。大宮前ばやしは、戦時中一時中断していたものを昭和21年に復活し、里神楽は大正6年頃絶えたものを53年正月に復興させたもので、指導者の熱意と猛烈な練習によって、素晴らしい技術を会得し、都のふるさと祭り、杉並郷土芸能大会を始め、区の各種行事に招待出演して、華麗荘重な里神楽の演技を披露し、大変好評を博しています。(この稿は森泰樹著「杉並風土記」に依ります)12.9.13

井口山 慈宏寺

春日神社に接して西隣にある日蓮宗のお寺です。1673年に大宮前新田を開発した名主の井口杢右衛門が、練馬区南大泉、妙福寺の慈光院日賢上人を招いて開いたお寺です。
1841年に改築した本堂に、明治8年学制が発布され寺子屋にかわって小学校が開校します。これが後の高井戸小学校の前身で「郊西学校」と言ってました。」が開校しましたが、同十一年に貰い火で全焼したため、松庵村にあった廃寺、円光寺の建物を移築して本堂にしました。現在は鉄筋コンクリートに改築されています。

@入り口の左手に「荒布の祖師の由緒書」があり、当寺の本堂に安置してあるご本尊は高さ60センチの日蓮上人立像で、木綿の僧衣をまとった旅姿なので、正式には「光明木旅立ちの御姿」といい、一般には「荒布の祖師」と呼ばれています。
A左手は旧墓地で、その井口正一家墓域の大きな墓碑の左脇に、小さな傘付きの杉並区文化財指定の「当村開起慈光寺大檀那の供養碑」があります。
Bその背後には開祖日賢上人を始めとする代々の住職の墓「卵塔」があります。

@由緒書」 A当村開起供養碑
B住職の卵塔 C庚申の手水鉢

C参道を進むと右手にポンプの井戸があり、その手前に高さ60センチほどの円筒形手水鉢に、三匹の猿の浮き彫りと「享和甲子春(1804年)無樹応需 八十七不白」の銘が彫ってあります。庚申信仰の手水鉢は大変珍しいものです。
五日市街道をもう少し荻窪方向に行くと右側に二基の庚申様を祀った小さな祠があり、背後からお堂を守るように藤棚が作ってあります。向かって左側の庚申様は1678年のもので13人の施主の名前が刻んであり、おそらく上高井戸村の人々が建立したものでしょう。右側の庚申様は1696年のもので「武州多摩郡大宮前新田村 白井七兵衛 杉田九左衛門 ・・・」と全員で31名の氏名が彫ってあります。全員が苗字を持っていることから、大宮前新田の開墾者のほとんどは、武士(浪人)たちであったことが判ります。また現在この地にある旧家の姓氏は、この中のわずか四軒に過ぎませんから、殆どの人たちは農業に失敗して他所へ移っていったものと想像され、新田村の生活が如何に大変であったかが推測されます。背後の藤の古木は、庚申様が建立された時に植えられたとの言い伝えがあり、樹齢は300年を超えると言われますがが現在は樹勢が衰えてしまったのは残念です。

春日神社の隣にある魚屋さんの「魚鐘」

この辺りの五日市街道沿いには旧家の屋敷森と大きな欅の並木が林立し、春日神社の隣にある魚屋さんの「魚鐘」のたたずまいの趣は評判です。

白山神社 TEL03−3398−0517

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