新編武蔵風土記稿

西荻は多摩郡に入っていた・・・編集は地元の人である原胤敦が請け負った。

文化7年(1810)にスタートした「新編武蔵風土記稿」は昌平坂学問所の「地誌調所」スタッフによって編纂されましたが、西荻の含まれる多摩郡は外注に出し、地元の人原胤敦(はらたねあつ)に編纂させ文政5年(1822)に完成しました。多摩郡は89巻からはじまり128巻まであります。
西荻に近い「上井草村」「上荻窪村」「大宮前新田」「吉祥寺村」「松菴村」「中高井戸村」は125巻目に入っています。

上荻窪村・・・古き村で裕福な村であったが昔の記録はない。

「上荻窪村は、郡の東北にあり、郷庄の唱失ふ、村名の起こりを詳にせず、正保の頃のものには上下の分ちなし[元禄郷帳]には上下二村を出せり、されば此の間に分かれしこと知らる。、この辺より中野村のあたりまでは古き村にて、古検地ゆえ村高よりは町歩もひろしと云」

上荻窪村は現在の南荻窪2・3・4丁目、西荻南3・4丁目、西荻北1・2・3丁目、上荻2・3・4丁目
郡の東北にあり多摩郡の中心は府中であったので上荻窪村は東北に当たる。
郷庄の唱失ふ律令時代に制定された「郷里の制」、あるいは中世の荘園制で唱えられていた地域の名前は分からなくなった。
村名の起こりを詳にせず
村の名前の由来は明らかでないと言っているが、上荻窪村と下荻窪村の中心にある、光明院(荻窪駅の線路上西荻よりの寺)は別名「荻寺」と云ってこれが地名の起こり。(杉並風土記森泰樹著、以下「杉風」)
正保の頃のものには上下の分ちなし正保(1644-47)年間の資料には上荻窪村と下荻窪村は一つであったが、その後京都に近い方を「上」、遠い方を「下」とした。
元禄郷帳は江戸時代中期、五代将軍綱吉の元に実施された検地帳。幕府が行った最後の大規模な検地。
この辺より中野村のあたりまでは古き村にて中野村には綱吉(犬を可愛がり、生類憐みの令を出した)の犬小屋があったり、天沼が律令国家の「駅」(公式のステーション)であったとの説もある。
古検地ゆえ村高よりは町歩もひろしと云100年も前の、元禄時代(1680-1709)の検地なので、公式の石高よりも、実際の取れ高の方が多いと云われていて、そのためか上荻窪村は裕福であったという。13.11.25

西荻大全