青嶋(チンタオ)陥落と西伯利亜(シベリア)出征 凱旋記念

青嶋(チンタオ)陥落と西伯利亜(シベリア)出征 凱旋記念

@青嶋陥落 A西伯利亜出征

春日神社の拝殿(本殿の手前の建物で、ここで拝む)の天井や欄干は献額が所狭しと並んでいて見事です、この間9月15日の秋祭りに拝殿にあがってのぞいてみていろいろある中で「奉納 青嶋(チンタオ)陥落 凱旋記念 勲八等 本橋錠之助 大正五年五月吉日」と「奉納 西伯利亜(シベリア)出征 凱旋記念 当村 小俣伊三郎 大正8年10月吉日」と言う檜の立派な献額に西荻の歴史を感じました。
「青嶋陥落」(チンタオカンラク)
大正3年7月28日(1914年)ヨーロッパで第一次世界大戦が始まり
、日本は8月23日「日英同盟」のイギリスの要請で連合国側に付き、ドイツに宣戦布告。10月19日ドイツ領南洋諸島を占領。11月7日ドイツの租借地、中国山東省の青嶋を陥落(写真@)。日清戦争・日露戦争を勝ち抜いた極東の小国、大日本帝国はほとんど戦わずしてドイツの権益を獲得するのです。
「西伯利亜出兵」(シベリアシュッペイ)
ここまでは良かったのですが、同じ連合国側の帝政ロシアに革命が起こり大正六年(1917年)にはボルシェビキ政権率いるソビエト連邦が誕生してしまうのです。日本の陸軍と外務省は「ソビエト革命の波及を防ぐとともに、東シベリアに日本の勢力下にある国家を樹立」しょうと画策していたところ、タイミングよく、南ロシアの反ソビエト政権を支援する方針を決めたイギリスとフランスが日本とアメリカにシベリア出兵を要請してきたのです。大正7年(1918年)寺内正毅内閣がシベリア出兵を断行(写真A)日本軍は1万2000人出兵。ハバロフスクやチタを占領して10月末には7万2000人にふくれあがりました。
「日本の敗退」
イギリス、アメリカ撤退後も日本のみが通算7年にわたって約20万人の軍隊を派遣しましたが、帝政ロシアの農奴から解放された、ボルシェヴィキ政権を支持する、現地住民のレジスタンスに苦しんだ末、結果的に日清・日露戦争以来不敗を誇った大日本帝国陸軍は敗退。結果的に3000名もの戦死者を出してしまうのです。このレーニン率いるソ連国家の揺籃期・国家存立の危機に行った帝国日本の卑劣とも言える行為が後の「ノモンハン事件」(ソ連・満州国境でソ連の機械化部隊に徹底的に蹂躙され惨敗した)につながり、終戦時の突如のソ連参戦と、未だもっての北方領土未返還につながるのでしょう。
「乃木希典の記念碑」
この神社には、 境内の街道寄りに「明治三七・八年役記念碑 希典」と彫った高さ3メートル程の石碑があり、これは日露戦役の記念碑で、表面の字は陸軍大将乃木希典(のぎまれすけ)の書です。第一師団(=東京)は乃木大将の配下だったようです。裏面に大宮前、久我山、中高井戸、松庵の従軍者一三名と戦病死者二名の氏名(姓別に分けると尾崎3名、栗原3名、宇田川2名、松本3名、河原・並木・小俣・本橋各1名)が刻してあります。当時の僅かな戸数の村々から13名もの働き手を戦争に採られ、2名もの死者を出しているわけです。この出征者と戦病死者の割合は、日露戦争の全体の割合(なんと15%の死亡率)とほぼ近い様です。特に乃木大将は全く無能の将軍で旅順の203高地で多くの兵を無駄死にさせた事で有名ですが(司馬遼太郎「坂の上の雲」)我々の父祖は、親子・兄弟姉妹を守らんと、まさに命がけで戦ったのです。ただ、今思えば傷つき死んだのは殆どが日露両国の、この記念碑に刻まれたようなフツーの村民だったのですね。しかも、それらの戦争は「国を守る」というよりも「領土を獲得する・権益を守る」というようないわゆる「帝国主義侵略戦争」とl言われても仕方のない戦争が多かったようです。権力者・政治家や財閥や貴族の権益の争いですね。特に帝政ロシアは農奴や属国のポーランドやロシア以外の国民を戦場に引きずり出したようです(シベリア鉄道で次から次へと農奴を送り続けた)。その点、極東の小国・島国、日本はこの戦いに敗れればロシアの属国になるという危機感・悲壮感が上下を問わず日本人全員にあったようです。
戦争はお互いに全く利害関係のない、憎しみも恨みもないもの同士が殺し合うのですから、恐ろしいことです。
片方は極貧の農奴・片方は明治初期の重い地租にあえぐ農民。どちらが勝とうと、どちらが属国になろうと関係ないですね。
でも、時代はかわり、21世紀になろうとする今日この頃、パレスチナではいまだもって、日々弱肉強食が行われている・・・という事なのでしょうね。12,10,27 13.12.29

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