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禅僧 山口博永師
「気・太極拳・禅」その真髄を語る
対立する二気の世界を超え
太極の一気に安住するとき
宿命は、立命に変わる!
これこそが、真の気功
真の禅なのだ
【出版社:光祥社】 氣マガジン86 1992-11/12 より |
たった1つの本当のものに間違いなく至るために---。
「本当のものは1つしかない。だから色々な「気」があったらおかしいですね」と、太極拳の達人であり、禅僧でもある山口博永師は語った。優しさと厳しさが同居した、不思議な笑顔の持ち主だ。
〜〜中略〜〜
「宇宙は絶対的なバランスの上に成り立っています。人間も宇宙と共に微動だにしない。しかも100パーセント活き活きとした姿が、本来の姿なのです。気の姿なんですね。修行とは、本来の姿に帰ろうとするものです。禅も気功もね」
山口師は静かに、だが力強く語った。
「どんなことが起こっても絶対に大丈夫な世界が欲しい」16歳から探し続け、行き着いたのが”宗教”だった。18歳のとき、120歳を過ぎて尚真実の法を伝えるために弟子を持って坐禅し続けたという達磨大師の話を知る。「これこそ禅だ!」そして高校を卒業した翌日、寺に駆け込み頭を剃った。能忍寺住職の山口博永師は気とは何か、どうして人は魔境に陥ってしまうのかを禅や太極拳の原理も交え、実に明確に語ってくれた。
変化する二気は一気によって在る。
気とは何か。一般にいう気とは陰陽の二気であり、陰と陽の性質は全く違う反作用的な力関係にあるんです。例えば熱いに対しては冷たい。高いに対しては低い、明るいに対しては暗いなど。この陰陽の二気を似て”気”と言います。
性質はそうであるけれども、じゃあ本質は何か。性質と本質は違うんです。その本質とは、陰陽の二気は矛盾であり、矛盾を統一された姿を太極といいます。性質は陰陽であり本質は太極であるけれども、ではその関係はどうあるのか。
〜〜中略〜〜
簡単に言えば、春が来れば必ず次に夏が来る。夏の次は秋で、秋の次には夏は来ないんです。秋の次は必ず冬が来る。というふうに、必然を統計的に捉えていったのが易学ですね。
ところが仮に太極を置く。ここに非常に大切な意味がある。私たちは陰陽の変化に捕らわれていると、目先のところに走ってしまいがちです。故に目先のことはやめて本来的な世界に目覚めようとするとき、太極というものが問題になってきます。
〜〜中略〜〜
ところが陰と陽というのは、性質は2つであるが、本質は1つの働きをする。それが太極。呼吸にしても吸う息と吐く息、吸って吐いて始めて命という世界が保たれる。
それを吐くのは好きだけど吸うのはいやだと言ったら死んでしまうわけだし。大体人間というのは欲があるから何でも欲しがってね。そういうふうに片方に捕らわれるから1の命の世界が分からない。
だから禅の教えでは「道に至ることは易しい。ただ条件として好き嫌いの念を持ってはいけない」すなわち好きだ嫌いだという感情で日常生活をすると、必ずそこにはアンバランスが生じてくる。
陰陽という二気は、陰と陽を似て1の働きをする。その働きを易では中するといいます。この中というのが素晴らしくもあり、また非常に恐ろしくも感じる。
この中の世界は、陰陽のバランスが調和体であったとき、人間の意識感覚はこれを喜びとするんです。ところが陰と陽の二気が不調和であった時、人間の感覚は苦しみと捉える。
ところが中の気というのは宇宙的大生命の働きであり、限りなく矛盾を統一しようとする力なんです。だから、矛盾を統一しようとする宇宙の気において、実際は統一されているんだけれども、人間は物事を自己中心的に捉えるがゆえに、えり好みする。
〜〜中略〜〜
一切世界は陰陽の矛盾の統一ということにおいて白いものがあったら、必ず黒いものがあるんです。表があったら必ず裏があるんですよね。山がどこまでも高いということは、どこまでも谷は深いということでしょう。山が1メートル盛り上がると同時に谷は1メートル深くなる。
こういう力の作用にありますから、自分が欲するところをエゴ的に求めていったら、反作用は必ず起こる。これは陰陽の道理です。
間違いは、天の中気が教えてくれる。
では一般の方に気功法の心構えをどのように説けばよいか。これは説く人の師としての力量にかかってきますけどね。このへんのところ、指導する人は太極の気を正しくしらなければなりません。
太極の気を知るために、指導する人には必ず1つの条件があるんです。禅の言葉で言うと「無功徳精進」功徳は何もないというところを常に精進するということです。
結局、自分の心の中にちょっとでも欲がでると、二気は大いなる矛盾の世界を呈するんですね。天地の気は矛盾を統一しようとして働きますから、自分が苦しくなる。
でも苦しいということは、自分が間違っているんだと天から教えられた1つの証ですから、自分がどこが悪かったのか謙虚に反省しないといけない。
正しいことを本当にやり抜けば、どんな困難も楽しいんです。痛快な喜びがある。少しでも心が濁るようであれば、それは間違っているよ。と天の中気が教えてくれる。
志が立派でも、名利を得て変わってしまう人もいます。何故おかしくなるのか話しましょう。1つには型がないんです。かたり。
例えばお茶を学ぶにしてもお華にしても、もちろん太極拳や武道など何にしても、すべて最初に型があるんです。そしてその型は、必ず何百年という歴史のもとに、それこそ何万何十万、あるいは何千万という人たちが実際にそれを実行し、実体験のもとに伝承されたものですから、非常に厳格なものです。まずその型に当てはまらなければ、いざというときにおかしくなってしまう。
それを太極拳では有形と言いますね。かたちが有る。それが第1番めの世界です。形のある世界から修練が進むと第2番めの形のない世界に行きます。それを無形と言いますよね。
ところが有形から無形に至ったところで、自己流の人は必ずおかしくなってしまう。だから一代で何かを発見してその道を説くとしたら、非常に危険なところがそこにあるんです。人間の本能というのは素直になればなるほど深くなりますから、深い潜在意識の中に「気マガジン」79号で蘇雷氏が言うところの”魔境”があって、その魔境の作用で自分は天才になったような気になる。イエス・キリストか釈尊になったような気分になる。そしてその自信から、法を説くんです。
ところがその人が厳格な型とか修練を通らないで、ポコッとそういうふうになってしまったとすると、その人は修練すればするほど必ず廃人になっていく。これは謙虚に懺悔せねばならない。では正しい修練を導くにはどうしたら良いか。
太極拳は非常に厳格な形の中から無形の段階に至るというでしょう。じゃあ無形というのはどういう世界かというと、形は自我の形を壊すためにある。それを無形とも無我とも言うんです。
また、有形のかたちを壊したと言っても、その世界は元のかたちをを越えていない。自由自在。それを無形と言うんです。そして無形の次の段階を、太極拳では「心、機に入る」と言うんです。心の要に入るんです。
陳[金金金]という方が説いた「太極拳図解」という本の中に「有形に始まり無形に至り、無形は心機に入る。その妙界からついに無心にかえる。かえって初めて拳だ」と。
私はこの言葉に非常に注目しました。何故注目したかというと、禅の修業というものを、道元禅師さまがこう言われたのです。「道をならうというのは自己をならうなり」それは有形に始まり、2番めは自己を忘るるなんです。これは無形の段階です。
〜〜中略〜〜
昔から平和のために、と争いが起こってきました。あれは本当に本末転倒です。湾岸戦争のとき、ある方から言われたんです。「私たちはこの戦争に対して、何の影響も与えていない。協力もしていない。それは良くないことだ」
平和運動を繰り返して、結局争い合うんですが、でも平和に貢献する方法がある。それは日常生活の中に自分自身を調えていくことなんですね。
例えば石油にしたってそうです。あなたはトイレットペーパーを何メートル使いますか?そういう自分の日常の行ないの中から調えていかなければならない。
正しい修練、それが”気”なんです。その気になるものは、自己の心身、他己の心身をして、一切を救済する力に変わるんですね。
だから1人ここで坐禅している。自分1人さえよければいいのかと言う人がいますけれども、そうじゃないんです。本当に無我無心の境にいって、一気、ずーっと坐禅を続けていったときに自分の中から光がこの全宇宙を照らすんです。決して1人じゃない。
もし私の力が本当に強ければ、この地域社会、あるいはこの日本から世界にその光が届いているでしょう。そして、何だかしらないけれどもその光を受けた人たちは、”私も何かしなければいけない”もっと端的に言えば”私も坐禅したいなあ”という自然な気持ちを起こさせるんです。それを感応道交といいます。
自分の一気は他に向かって感応道交し、共に調和体に帰ろうとする力を化していくわけですね。これが救済の意味です。
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