十月三十一日 後集―79 欲心 | |
節義の高いりっぱな人は、与えようとされた千乗の大国でさえも辞退し、欲ばり者はわずかの銭についてもこれを得ようと争う。これはこの二人の人がらが、天と地ほどの隔たりがあるからである。しかし、前者が名誉を好むことも、後者が利を好むことも、共に何かを好むという欲心のある点ではちっとも違いはない。また、天子は国家を治めるのに心を労し、乞食は朝夕食べ物を得るために叫んで乞い求めている。これもこの二人の身分や地位が異なって、天と地ほどの隔たりがあるからである。しかしながら、天子が多くの人民のために苦労するのも、乞食が自分ひとりのために苦労するのも、同じように苦労するということではどうして違いがあろうか。共に苦しみ悩む点に於いては、少しも異なるものではない。
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十月三十日 後集―78 楽しむ | |
見性の本体である真空は、相対的な単なる空でもなく無でもない。ほんとうの空であると固定的にとらえてしまうと、それは空ではなくなってしまう。形相すなわち現象・すがたかたちにとらわれてこれを実在とみなすことも真実ではなく、また、形相・すがたかたちを空無しと否定し虚妄してしまっても、やはり真実ではない。問う、「釈尊は、この点をどのようにおっしゃられたか。」釈尊は、「在家の身でも出家の身でも、欲望にしたがうのは苦であり、欲望を断ち切るのもまた苦である。私たちがよく身心の修養につとめる以外に真実はない」とおっしゃられよう。
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十月二十九日 後集―77 今日が最高 | |
樹木は、秋になって落葉してしまって、幹や根だけになってしまうと、今までに咲き誇った花や繁茂した枝や葉などが、いたずらに一時栄えていただけのものであったということがわかる。これと同様に、人間の場合も、死んで棺のふたをする時になってしまうと、かわいい子供や多くの財産があろうとも、その人にとってはなんの役にも立たないものであることがわかる。
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十月二十八日 後集―76 耐えて待つ | |
鳥の中で、長く巣の中に伏して力を蓄えたものは、一たび飛び立つと、必ずほかの鳥よりも空高く飛び上がることができる。これに反して、花の中でも、早く咲き開いてしまうものは、必ずその花だけがほかの花よりも早く散ってしまう。花や鳥だけでなく人間も万事その通りであるから、この道理をよくわきまえていれば、人生の途中で疲れて勢いを失ってしまう心配からまぬがれることもできるし、また成功をあせる心も消すことができる。
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十月二十七日 後集―75 自然を親しむ | |
詩を作ろうと思うのは、人と別れをする長安の東にある漢の武帝を葬むった橋のあたりのような、田舎めいた淋しい自然の風景の間に湧くもので、こんなところが絶好の場所である。そんな場所でかすかに小声で詩を口ずさんでいると、あたりの林や谷もそのまま広々として心にあい和するようである。また、世俗を離れ自然にし親しもうとする風雅な楽しみというものは、鏡湖曲にあるような水清く静かな湖のほとりのような所が絶好の場所で、そのような所へ出かけてゆき、ぶらぶら独り歩きすると、山や川や草木は自然に美しく映え合っていて、なんともいえない眺望がある。
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十月二十六日 後集―74 本来の姿を見る | |
自分の心の中に、すでに少しの欲望もなくなってしまったら、それはあたかも雪が囲炉裏の火に溶けて消され、氷が太陽の光に消えて無くなるように、いかなる執着も消え去り、何ものにもとらわれたり誘惑されなくなってしまう。また、心眼が開けて胸中が明鏡の如く、少しの邪念・妄想がなく、清く明るい境地にあったならば、それはあたかも月が天上に輝き、その月影が波に映っているように、眼前に偽りのないありのままの真実の姿、すべてのものの本来の姿がはっきりと現れ見えてくる。
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十月二十五日 後集―73 世俗的な執着・欲望 | |
物質的欲望のために束縛されていると、思うようにならなくなって、自分のこの人生がつまらなく悲しむべきものに思われる。これに反して、自然の本性に従って悠々自適し安んじていると、自分の人生が有意義で楽しむべきものであることが分かる。その人生がどうして悲しいものであるかをよく理解し悟ったならば、世俗的な執着・欲望の心はすぐに消えうせなくなってしまい、その人生がどうして楽しいものばかりであるかを理解し悟れば、すぐれた聖人の境地が自然に開けてくる。
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十月二十四日 後集―72 大局的に見れば | |
勢力があり位が高い人々は、龍がのぼり躍り上がるように互いに権勢を争い、英雄豪傑たちは、互いに虎が打ち合うように戦いを交える。これを第三者の側から冷静な目で見たなら、それはあたかも蟻が生臭いものに群がり集まったり、ハエが生きものの血を吸いにたかったりするようなことと少しも変わりがないことで、誠に醜いものである。 また、良し悪しの議論が蜂のように群がり起こり、利害得失の打算の競り合いがハリネズミの毛のように一せいに起こる。これを第三者の側から冷静な心で直視し対処したなら、それはあたかも鋳型に金属を溶かしたり、熱湯が雪を消すようなことと少しも変わらないもので、それはいずれも何の造作もなく解決することが出来ることで、大した問題ではない。
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十月二十三日 後集―71 筏 | |
いかだに乗るやただちにいかだを降りることを考える人であってこそ、十分に悟った道人である。もし、自分自身がロバに乗っていながら、その上さらにロバを探し求めるようでは、結局はいつまでも悟ることのできない禅僧となってしまう。
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十月二十二日 後集―70 我欲 | |
よく晴れ渡って明るい月が出ているこの広大無辺の大空は、どこでも自由自在に飛び回ることができないことはないのに、それなのに何を好んで飛び回る蛾だけは、ことさらに自分から燈火の中に身を投じて焼け死んでしまうのであろうか。また、清らかな泉の流れや、緑の草は、どれでも飲んだりついばんだりすることができないものはないのに、それなのに何を好んでふくろうという鳥だけはわざわざ、腐ったねずみの肉だけを好んで食べようとするのであろうか。世間の人々が名利を貪っているいるのは、あたかも蛾やふくろうと同じである。ああ、それにしても、世間には名利を超越してこの蛾やふくろうのようにならないものが、いったい幾人いるであろうか。
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十月二十一日 後集―69 執着 | |
名誉名声を得ようが恥かしめを受けようが、ともにそのようなことに決して心を驚かすこともなく、あたかも、庭先の花が開いたり花が落ちたりするのと同じように考えて心静かに平然としてそれを眺めている。また、官位を去ることになっても留まることになっても、ともにそのようなことは決して意にかけないで、さながら大空の雲が風に吹かれて巻いたりのびたりするのにまかせているのと同じように考えて、総て運命のなすがままに任せて、なんということもなくそれにしたがって少しの執着もしない。
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十月二十日 後集―68 無常 | |
狐はこわれた石畳の上で眠り、兎は荒れ果てた宮殿の跡の高台の中を走り回っていて、誠に荒涼とした光景であるが、このあたりこそ、その昔、官女達がはなやかに歌い舞った場所である。また、露が冷やかに菊の花に宿り、霧が枯れ草の上を立ちさまよっていて、誠に物淋しい光景であるが、このあたりこそ、その昔、英雄達がはけんを争った古戦場である。してみると、人の世の栄枯盛衰というものは、どうして変わらなく長く続くことがあろうか。その昔の強者も弱者も、皆総て亡びてしまって、今はどこにいるというのか。誠にはかない一場の夢である。このことを思い浮かべると、人の心をして冷えきった灰のようにさせてしまい誠に味気ない。
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十月十九日 後集―67 無心 | |
魚は水を得てそこで自由に泳ぎまわり、水の中にいることをすっかり忘れており、鳥は風に乗ってそこで自由に飛びまわり、風のあるということもすっかり忘れてしまっている。人もこの道理を悟ったならば、この世におりながら、この世の中のことを総て忘れるようになれば、外物に動かされるわずらわしさを超越することもできるし、自然の妙なるはたらきを楽しむこともできる。
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十月十八日 後集―66 本性に適った生活 | |
いかめしいいかに高い冠に幅広い帯を着けた高位高官の人も、ふと、ひとたび軽いみのに小さな笠を着けた漁夫や農夫が、いかにも身軽でのどかに暮らしている人を見たならば、気苦労の多い自分の身と比べて、その気軽な生活がうらやましくて嘆息しないものはいない。また、豪華な敷き物の上で暮らしている金持ちの人も、ひとたび粗末なすだれの下で、こざっぱりした机に向かって読書している人が、いかにも悠々として心静かに暮らしているのを見て、わが身の何かと忙しく気苦労の多いことを嘆いて、そのような生活をうらやましく慕わしいと思わないものはいない。それにもかかわらず、世の人はどうして、尻尾に火のついた牛が駆り立てられたり、さかりのついた馬が追い求め誘ったりするように、功名や富貴ばかりを追い求めて、その本性に適った悠々自適の生活をしようと思わないのか。
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十月十七日 後集―65 煩悩妄想 | |
本来人にそなわっている真心に、波風が立たなかったならば、どこに行っても青々とした山、緑の木々であるような静かな境地の中にいることができる。また、天から受けた本性の中に、天地自然が万物を生じ育てる造化のような慈愛のはたらきがそなわっていたならば、どこででも、魚はおどり、鳶は飛ぶように生き生きとした自由自在なはたらきのある境地のすがたを見出すことができる。
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十月十六日 後集―64 心 | |
世の人々は、目では西晋が亡んでその都の跡には雑草が生い茂っているのを見ながらも、なお武力を誇ってこれに頼り自国を守ることができるとうぬぼれており、また、その身はいずれ北ぼうの墓地に葬られて、きつねやうさぎの餌になるのを知りながらも、なおまだ死際まで黄金に執着し惜しんでいる。古い言葉にも、「猛獣を馴らして降伏させることはやさしいが、人の心を降伏させることはむずかしい。深い谷を埋めることはやさしいが、人の心を満足させることはむずかしい」といっているが、まったくその通りである。
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十月十五日 後集―63 自然に遊ぶ | |
林の中から聞こえてくる松風の響きや、岩間のほとりを流れる谷川の水の音は、それを心静かな中で聴いていると、そのままで、天地自然がかなでる妙なる音楽であることがわかる。また、草原の果てにたなびく霞や、澄んだ水の上に映る雲の影は、それを心のどかにゆったりした中で見ていると、そのままで、天地自然が描く最上の絵であることがわかる。
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十月十四日 後集―62 なりきる | |
昔の名僧が、「風に吹かれて揺れる竹の影が階段に映り、そこを掃き払うようにしているけれども、影であるから階段の塵は少しも動かない。また、月の光が澄んだ池の水を突き破って深い底にその影を宿しているように映っているが、水面には月の痕跡を残してはいない」と言っている。また、わが儒学者は、「水の流れは激しく音をたてて流れているが、その激しい水の流れにまかせきっていれば、その辺り一帯は騒がしさもなくいつも静かであ。また、花はしきりに咲き乱れ散り落ち、万物は絶え間なく変化して止まないけれども、その自然の様子を見ている心は、おのずとゆったと落ちついて静かで少しも乱れたところがない」と言っている。人はいつも、このような気持を持って、あらゆる物事に当たったり人に接したりしていれば、何ものにもわずらわされることがなく、なんと身も心ものびのびして自由自在な境地であることか。
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十月十三日 後集―61 無常 | |
一度形作られ成功したら、必ずいつかは毀れ失敗するものであるということを知ったならば、形作られ成功することを求める気持も、必ずしも余り強く堅く持ち続けるほどのことにはならないであろう。また、一度生を受け生きているものは、必ずいつかは死ぬものであるということを知ったならば、できるだけ長生きしようとする方法についても、必ずしもそれほど憂え悩み苦労するほどの必要もないであろう。
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十月十二日 後集―60 自然に浸かる | |
見晴らしのすばらしい高楼のすだれを巻き上げ格子窓を開ければ高く広く、そこから青い山々や緑の水が、朝に夕に雲や霞を出没させているのを眺めていると、天地の自由自在な造化のはたらきのあることに気がつく。また、竹や樹木が枝や葉を青々と茂らせ、その中で春になると燕はひなを育て、秋になると鳩が鳴いてつれあいを呼び寄せたりして、四季の自然の移り変わりにまかせて見ていると、心は自然ととけ合って一つになり、外界世界とか我とかの相対的な区別を両方とも忘れ去ってしまう境地になるのを感ずる。
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十月十一日 後集―59 苦楽 | |
一つの楽しいことがあると、それに対して一つの楽しくないことがあって、苦と楽は互いに向かい合ってあい対立しているものである。また、一つの羽振りのよい時の境遇があると、それに対して一つのよくない時の境遇があって、好と不好は差し引きされてなんでもないことになってしまうものである。ただ、平生のごく普通の食事を食べながら、無位無官の境遇にいれば、大した楽しみも苦しみもないが、これこそはじめてそれが一つの安楽な住み家というものである。
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十月十日 後集―58 のぼせと落ち込み | |
事が煩雑で多事多忙な時には、のぼせ上がるから、それに流されないで心を落ちつけ一つの冷静な眼をもって対処すれば、いろいろな苦しい思いをしなくてすむ。また、景気がよくなく落ちぶれた時に、気が沈み易いから、力を落とさないでつとめて情熱を持って積極的に事に対処すれば、多くのほんとうの心の味わいを得ることができる。
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十月九日 後集―57 生々流転 | |
人の心や世の中のありさまというものは、たちまちに移り変わり、また様々な様相を呈するものである。だから、ある一点だけを取り上げてそれだけが真実であるとしてはいけない。宗の邵康節も、「昔、自分の物と考えていた物が、現在ではそれは他人の物となる位だから、現在自分の物と考えている物も、また将来は誰の物になるかわかるものではない」と言っている。人はいつでもこのような見方をしたならば、そうすれば胸の中につかえているわだかまりも解けて気楽に過ごすことができる。
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十月四日 後集―52 無 | |
財産をたくさん持っている人は、損をする時にも莫大な損をする。だから、金持ちは、財産のない貧乏な人が財産を失う心配がないのにはとても及ばないことがわかる。また、威張って歩く地位の高い人は、つまずいて倒れ易く失脚することもはやい。だから、身分の貴い人は、低い地位の人がいつも安心していられるのにはとても及ばないことがわかる。
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十月三日 後集―51 妄念妄想 | |
心の中で欲がいっぱいになっている人は、欲のためにいつも心が落ち着かず、まるで、寒々として澄んだ深い淵でも波が沸き立つようであり、たとえ静かな山林に住んでいても、心が動揺しているから、その静寂さが少しもわからない。それに対して、その心の中に欲がまったくない人は、欲念を捨てて心を空虚にしているから、心はいつも平静で、真夏の非常に暑い時でも涼しい風が生じているようなもので、たとえ騒々しい町の中の雑踏の中でも、心が平静であるから、そのやかましさを少しも感じない。
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十月二日 後集―50 真実相 | |
人間というものは年をとるにしたがって、頭の髪は白くなって抜け落ち薄くなり、歯も抜けてまばらになって、見る影もない容貌になってゆくが、それは本来、老衰しやがては消え失せてしまう運命の幻のような肉体であるから、これを到底免れることはできないし、しぼみ変わるに任せるよりほかに道はない。またそうなるのは当然であり悲しんでもしょうがないし、自然に衰えるのにまかせておくより道がない。また、小鳥が楽しげに歌い、花は美しく咲くのを見ていると、宇宙から見て万物悉く常住不変という絶対的真理の現れであり、そこに自性の真如が存在していることを深く認識することができる。
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十月一日 後集―49 表面と内面 | |
人の心は、うぐいすが美しい声で鳴くのを聞くと喜び、かえるが騒がしく鳴くのを聞くといやに思う。また、美しい花を見るとそれを栽培しようと思い、雑草が目にはいると、それを抜き取りたく思う。このように思うのは、いずれもものごとの表面的なものだけを見て、よいか悪いか好きか嫌か美しいか醜いかを判断しただけである。もし、それらのものの万物の本性である内面的なものを見たなら、どれも自らそれ自身、天性の妙なるはたらきからして出た声を鳴らさないものがあろうか。また、どれもそれ自身、天地自然の理によって生育していないものはないのである。
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