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10月 今日の菜根譚

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アイコン 十月三十一日  後集―79  欲心
   節義の高いりっぱな人は、与えようとされた千乗の大国でさえも辞退し、欲ばり者はわずかの銭についてもこれを得ようと争う。これはこの二人の人がらが、天と地ほどの隔たりがあるからである。しかし、前者が名誉を好むことも、後者が利を好むことも、共に何かを好むという欲心のある点ではちっとも違いはない。また、天子は国家を治めるのに心を労し、乞食は朝夕食べ物を得るために叫んで乞い求めている。これもこの二人の身分や地位が異なって、天と地ほどの隔たりがあるからである。しかしながら、天子が多くの人民のために苦労するのも、乞食が自分ひとりのために苦労するのも、同じように苦労するということではどうして違いがあろうか。共に苦しみ悩む点に於いては、少しも異なるものではない。
  • 名を重んずるのも欲心
  • 欲心は同じ
  • 欲心あるところに悩みあり
  • 悩みあるところに問題あり
  • 問題あるところに、
  • 「今どう動く」
  • 2003年10月31日 金曜日 午前 4:36:59
  • 欲心の違いはあれ、苦の根源である。
  • 2004年10月31日 日曜日 午前 6:29:36
  • 無欲の欲
  • 足るを知る
  • 2005年10月5日 水曜日 午前 4:29:54
  • 欲があるからこそ動く。そにに悩み・問題が出てくる。
  • 2005年10月31日 月曜日 午前 6:41:57
  • 欲心、今をどう動く。
  • 2006年10月31日 5:42:52

アイコン 十月三十日  後集―78 楽しむ
   見性の本体である真空は、相対的な単なる空でもなく無でもない。ほんとうの空であると固定的にとらえてしまうと、それは空ではなくなってしまう。形相すなわち現象・すがたかたちにとらわれてこれを実在とみなすことも真実ではなく、また、形相・すがたかたちを空無しと否定し虚妄してしまっても、やはり真実ではない。問う、「釈尊は、この点をどのようにおっしゃられたか。」釈尊は、「在家の身でも出家の身でも、欲望にしたがうのは苦であり、欲望を断ち切るのもまた苦である。私たちがよく身心の修養につとめる以外に真実はない」とおっしゃられよう。
  • 空も執すれば空にあらず
  • 真空とは有空・有無の相対を絶した言慮不及の絶対的な諸法の実相、万有の実体で、
  • これを法性とも真如とも般若ともいい、慧能禅師のいう自性でもある。
  • 浮世を超越する
  • 「道の道とすべきは常の道にあらず」老子
  • 従うべき本当の道は、通常「道」といわれているものではない。
  • 真実は捕まえたと思ったとき、実は別物になってしまう。
  • 生きた過程の中でこそ、真実は真実たり得る。
  • 今ここを修養する中に真実がある。
  • 「悟りの干物」にならぬよう。
  • 2003年10月30日 木曜日 午前 5:39:07
  • 今ここを生きる。
  • 今に尽くせ。
  • 2004年10月30日 土曜日 午前 5:44:16
  • 今だ、ここだ、と言い過ぎる。口先だといくらでも言える。たまには熱中没頭してみろ。
  • 2005年10月30日 日曜日 午前 3:37:53

アイコン 十月二十九日  後集―77   今日が最高
   樹木は、秋になって落葉してしまって、幹や根だけになってしまうと、今までに咲き誇った花や繁茂した枝や葉などが、いたずらに一時栄えていただけのものであったということがわかる。これと同様に、人間の場合も、死んで棺のふたをする時になってしまうと、かわいい子供や多くの財産があろうとも、その人にとってはなんの役にも立たないものであることがわかる。
  • 妻子珍宝も身を助けず
  • 人間の求める功名や富貴などは、浮世だけの見栄であって、永久の価値のあるものでなく、実につまらないもの。
  • 死ねば何の役にも立たぬ
  • 生きているとき、人は自分の子孫・財産を大事なものと思っているが、実に空しいことである。
  • 「棺を蓋いて事定まる」*『晋書』
  • 2003年10月29日 水曜日 午前 3:52:55
  • 「死ねばその人にとっとはなんの役に立たない」との言は、自己中心のわが身大切さからか・・・
  • 妻子は自分にとっとの宝である。
  • 妻子は自分が死んだ後も、人の宝となる。
  • 妻子は永遠に宝である。
  • 2004年10月29日 金曜日 午前 4:56:08
  • その人にとって今大切なもの
  • 妻子珍宝は身を助けるものではない。
  • 今日が最高、今が最高。
  • 2005年10月29日 土曜日 午前 6:41:54
  • 祖先の「血」は即今この吾において生きつつある。――この理が真に分かった時、人は初めて人生の意義もわかりかけ、同時にその時天地の実相の一端にも触れむ。
  • 2006年10月29日 日曜日 午前 6:27:32

アイコン 十月二十八日  後集―76  耐えて待つ
   鳥の中で、長く巣の中に伏して力を蓄えたものは、一たび飛び立つと、必ずほかの鳥よりも空高く飛び上がることができる。これに反して、花の中でも、早く咲き開いてしまうものは、必ずその花だけがほかの花よりも早く散ってしまう。花や鳥だけでなく人間も万事その通りであるから、この道理をよくわきまえていれば、人生の途中で疲れて勢いを失ってしまう心配からまぬがれることもできるし、また成功をあせる心も消すことができる。
  • 力を蓄積する
  • 精力を蓄積すること多ければ、その力も強く持続することも久しい。
  • 精力の蓄積が修養や処世には肝要である。
  • 期して待つ
  • 人生の道のりにおいて、途中でよろけて倒れてはいけない。
  • じっくり構えて踏み切ることだ。
  • 成功をあせってはいけない。
  • あまり早くスパートすると、後半がもたないのだから。
  • じっくり忍耐し精力を蓄え、それからジャンプだ。
  • 2003年10月28日 火曜日 午前 6:02:00
  • 忍耐・堪忍・我慢・耐える。耐え忍ぶ。
  • 2004年10月28日 木曜日 午前 5:18:53
  • 倹約と云う事、世に多く誤り吝(しわ)き事と心得たる人あり。左にはあらず。倹約は財宝を節(ほどよ)く用い、我分限に応じ、過不及なく、物の費(つい)(すつ)る事をいとひ、時にあたり法にかなふやうに用ゆる事成るべし。
    *石田梅岩 『倹約斉家論』
  • エネルギーを貯める。
  • 2005年10月28日 金曜日 午前 7:28:18
  • 人生の道のりにおいて、
    途中でよろけて倒れてはいけない。
  • 2006年10月28日 土曜日 午前 10:16:35

アイコン 十月二十七日  後集―75 自然を親しむ
   詩を作ろうと思うのは、人と別れをする長安の東にある漢の武帝を葬むった橋のあたりのような、田舎めいた淋しい自然の風景の間に湧くもので、こんなところが絶好の場所である。そんな場所でかすかに小声で詩を口ずさんでいると、あたりの林や谷もそのまま広々として心にあい和するようである。また、世俗を離れ自然にし親しもうとする風雅な楽しみというものは、鏡湖曲にあるような水清く静かな湖のほとりのような所が絶好の場所で、そのような所へ出かけてゆき、ぶらぶら独り歩きすると、山や川や草木は自然に美しく映え合っていて、なんともいえない眺望がある。
  • 詩興野趣の催す場所
  • 詩思・野興は脱俗的なものであるから、華やかで賑やかな所に起こらず、かえって寂しい素朴な所に起こるもののようだ。
  • 自然こそ絶好の場所
  • 2003年10月27日 月曜日 午前 5:46:24
  • 自然がわれを呼んでいる。
  • 2004年10月27日 水曜日 午前 5:21:05
  • 自然を親しむ
  • 2005年10月27日 木曜日 午前 4:52:58
  • 己の自然を写し出し、自然と一体となる。
  • 2006年10月27日 金曜日 午前 6:40:34

アイコン 十月二十六日  後集―74 本来の姿を見る
   自分の心の中に、すでに少しの欲望もなくなってしまったら、それはあたかも雪が囲炉裏の火に溶けて消され、氷が太陽の光に消えて無くなるように、いかなる執着も消え去り、何ものにもとらわれたり誘惑されなくなってしまう。また、心眼が開けて胸中が明鏡の如く、少しの邪念・妄想がなく、清く明るい境地にあったならば、それはあたかも月が天上に輝き、その月影が波に映っているように、眼前に偽りのないありのままの真実の姿、すべてのものの本来の姿がはっきりと現れ見えてくる。
  • 物欲を去り、清浄心を得て
  • 「紅炉上一点の雪」『碧巌録』
    炉や太陽を仏心・仏性に、雪や氷を煩悩・妄想にそれぞれ喩え、人々具足の仏心・仏性が光り輝いていれば、煩悩・妄想が現れても、忽ち消え去って跡形を残さない。
  • 「柳は緑、花は紅」 
    偽らない本来ありのままの真実相が現れてくる。
    心月が晴渡って清明であれば、真実相は隠すところなく偽ることなく、はっきりと、しかも堂々と現れる。
  • 心が清明なれば
  • 明鏡止水の境地にあれば、月影は波に砕かれても、天上の月にはなんの障碍もないと同じように、本性・仏性は煩悩・妄想のために少しも損なわれることはない。
  • 2003年10月26日 日曜日 午前 4:37:14
  • 観自在菩薩
  • 2004年10月26日 火曜日 午前 1:53:31
  • 無欲の欲
  • 2005年10月26日 水曜日 午前 4:45:20

アイコン 十月二十五日  後集―73  世俗的な執着・欲望
   物質的欲望のために束縛されていると、思うようにならなくなって、自分のこの人生がつまらなく悲しむべきものに思われる。これに反して、自然の本性に従って悠々自適し安んじていると、自分の人生が有意義で楽しむべきものであることが分かる。その人生がどうして悲しいものであるかをよく理解し悟ったならば、世俗的な執着・欲望の心はすぐに消えうせなくなってしまい、その人生がどうして楽しいものばかりであるかを理解し悟れば、すぐれた聖人の境地が自然に開けてくる。
  • 人生の楽しみと苦しみ
  • 物欲に縛られていれば、自分の人生が哀しく感じられるだけだ。
  • がんじがらめに物質的欲望につながれているだけの人生は哀しい。
  • その由来を察してそれを去れば、
  • 欲望は消えて、自然の本性にもとづく穏やかな境地が開けるようだ。
  • 人生の悲哀と歓楽
  • 人生がどうして哀しいのか
  • 人生がどうして楽しいのか
  • 2003年10月25日 土曜日 午前 6:18:23
  • 2004年10月25日 月曜日 午前 6:07:45
  • 世俗的な執着・欲望
  • 2005年10月25日 火曜日 午前 5:54:38

アイコン 十月二十四日  後集―72 大局的に見れば
   勢力があり位が高い人々は、龍がのぼり躍り上がるように互いに権勢を争い、英雄豪傑たちは、互いに虎が打ち合うように戦いを交える。これを第三者の側から冷静な目で見たなら、それはあたかも蟻が生臭いものに群がり集まったり、ハエが生きものの血を吸いにたかったりするようなことと少しも変わりがないことで、誠に醜いものである。
 また、良し悪しの議論が蜂のように群がり起こり、利害得失の打算の競り合いがハリネズミの毛のように一せいに起こる。これを第三者の側から冷静な心で直視し対処したなら、それはあたかも鋳型に金属を溶かしたり、熱湯が雪を消すようなことと少しも変わらないもので、それはいずれも何の造作もなく解決することが出来ることで、大した問題ではない。
  • 冷静な判断
  • 権力争いは規模の大小はあれ、どこの世界にも渦巻いている。
  • 蟻や蝿に例えればよく分かる。何とも浅ましい姿だ。
  • 本能的な執らわれから脱却して、自由になりたいものだ。
  • 冷静な眼、冷静な心
  • 2003年10月24日 金曜日 午前 6:47:11
  • 第三者の側から見た冷静な目。
  • 2004年10月24日 日曜日 午前 7:38:12
  • 大局的見地
  • 2005年10月24日 月曜日 午前 4:30:52

アイコン 十月二十三日  後集―71  
   いかだに乗るやただちにいかだを降りることを考える人であってこそ、十分に悟った道人である。もし、自分自身がロバに乗っていながら、その上さらにロバを探し求めるようでは、結局はいつまでも悟ることのできない禅僧となってしまう。
  • 悟る人、悟れぬ人
  • 筏は河を渡るための乗り物であるから、
  • 筏に乗ったら直ぐに筏を降りることを考える。
  • 方便的な筏を目的と誤解して、いつまでもそれに執着しない人であってこそ、悟道の人といえる。
  • 仏祖の経論などは転迷開悟するための方便である。
  • 目的を忘れて経論の字句に執着するようでは、開悟することができない。
  • 経典はただ心の注釈に過ぎない。
  • 「無事是れ貴人」 「無事」とは、外に向かって求める心が無くなったことで、静寂の境地における無事静安な状態。
  • 無事道人は、何ものにも執らわれない自由無碍な境地を得た真の解脱者のこと。
  • 「即心即仏」 心に内在する仏性、すなわち主人公、本来の自己、真実の自己をするもので、
  • 「即心是仏」を忘れて外に仏性・主人公を求めるのではない。
  • 昔、インドの演若達多(えんにゃだった)という人が、
  • 鏡の裏を見て顔が映らないので、自分の頭を探し求めたという故事がある。
  • 目的と手段を混同せず
  • 人が河の向こう岸に渡す交通手段が筏であれば、渡ってしまえば、筏にこだわることはない。
  • 筏は手段であって目的ではない。
  • 向こう岸に着いてからも、筏から出ようとしないのでは話にならない。何のために筏に乗ったのか。
  • 2003年10月23日 木曜日 午前 4:08:35
  • こだわらない心、とらわれない心、かたよらない心。
  • 2004年10月23日 土曜日 午前 6:06:48
  • ゴルフはクラブではなく、平静な心のプレーなのだ。
  • 2005年10月23日 日曜日 午前 5:42:00
  • 議論は何のため?議論への拘り、執着。よりよく過ごすためへのきっかけ。議論と結論とは違う。議論は互いに意見が違って当たり前。議論にこだわって議論から抜け出れないのでは愚の骨頂。各人の意見が違うのは当たり前。同じ見解しか持たない人、自分の意見を言わない人なんて議論する資格無し。議論は筏なり。
  • 会議は議論して結論を出す。議論好きな人も・・・
  • 2006年10月23日 月曜日 午前 5:28:44

アイコン 十月二十二日  後集―70  我欲
   よく晴れ渡って明るい月が出ているこの広大無辺の大空は、どこでも自由自在に飛び回ることができないことはないのに、それなのに何を好んで飛び回る蛾だけは、ことさらに自分から燈火の中に身を投じて焼け死んでしまうのであろうか。また、清らかな泉の流れや、緑の草は、どれでも飲んだりついばんだりすることができないものはないのに、それなのに何を好んでふくろうという鳥だけはわざわざ、腐ったねずみの肉だけを好んで食べようとするのであろうか。世間の人々が名利を貪っているいるのは、あたかも蛾やふくろうと同じである。ああ、それにしても、世間には名利を超越してこの蛾やふくろうのようにならないものが、いったい幾人いるであろうか。
  • 蛾やふくろうをまねる
  • 何をすき好んでと思うが、当事者には分からない。
  • それが一番と思っているのである。
  • 蛾やふくろうを笑うことはできない。
  • 人間だって、いったいどれほどの人が、蛾やフクロウと違うといえるだろうか。
  • 飛んで火にいる夏の虫
  • 2003年10月22日 水曜日 午前 6:54:21
  • 我欲に溺れる。
  • 2004年10月22日 金曜日 午前 5:15:53
  • 人と云うものは、とかく私なる欲心によりて、災いが出でくるぞ。
    *林羅山 『春鑑抄』 
    ・私利私欲を求めることから災いが生まれる、の意。私欲に走る人間の
    あり方を批判する。
  • こころに望みおこらば困窮したる時を思ひ出すべし。
    *徳川家康 『東照公遺訓』
  • 好色は人の其の淫を笑ふを顧みず、好貨は衆の其の貪(どん)を咎むるを患(うれ)へず。
    *吉田松陰 『書簡』
    ・「淫」は、みだらなこと。「貧」は、貪欲であること。「好貨」は、守銭奴のこと。
  • 2005年10月22日 土曜日 午前 4:28:24
  • 人と云うものは、とかく私なる欲心によりて、災いが出でくるぞ。
  • 2006年10月22日 日曜日 午前 5:05:49

アイコン 十月二十一日  後集―69  執着
   名誉名声を得ようが恥かしめを受けようが、ともにそのようなことに決して心を驚かすこともなく、あたかも、庭先の花が開いたり花が落ちたりするのと同じように考えて心静かに平然としてそれを眺めている。また、官位を去ることになっても留まることになっても、ともにそのようなことは決して意にかけないで、さながら大空の雲が風に吹かれて巻いたりのびたりするのにまかせているのと同じように考えて、総て運命のなすがままに任せて、なんということもなくそれにしたがって少しの執着もしない。
  • 去るも留まるも自由自在
  • 外からの評価に動かされることはない、
  • 自分を確立した心境。
  • 地位を去るか留まるかを気にすることなく、
  • 雲の姿に無心に従っている。
  • 運命のままに
  • 虚心の境地。
  • 2003年10月21日 火曜日 午前 3:16:01
  • 雲の如く、水の如く。
  • 2004年10月21日 木曜日 9:29:37
  • 何方(いずかた)も捨てじと心にとり持ちては、一事も成るべからず。
    *吉田兼好 『徒然草』 
    ・やりたい事のどれをも放り出すまいと執着していたら、何一つ完成するはずがない。他のすべてをうち捨てても、一つの事に集中すべきである。
  • 一切ノトガハ、只執心ナリ。
    *無住 『沙石集』 
    ・一切の過ちは、ただ、物事に深く執着するこころそのものである。
  • 2005年10月21日 金曜日 午前 5:58:48

アイコン 十月二十日  後集―68  無常
   狐はこわれた石畳の上で眠り、兎は荒れ果てた宮殿の跡の高台の中を走り回っていて、誠に荒涼とした光景であるが、このあたりこそ、その昔、官女達がはなやかに歌い舞った場所である。また、露が冷やかに菊の花に宿り、霧が枯れ草の上を立ちさまよっていて、誠に物淋しい光景であるが、このあたりこそ、その昔、英雄達がはけんを争った古戦場である。してみると、人の世の栄枯盛衰というものは、どうして変わらなく長く続くことがあろうか。その昔の強者も弱者も、皆総て亡びてしまって、今はどこにいるというのか。誠にはかない一場の夢である。このことを思い浮かべると、人の心をして冷えきった灰のようにさせてしまい誠に味気ない。
  • 人生は一場の夢
    現世の虚しさを知れ。
  • 2003年10月20日 月曜日 午前 5:30:33
  • 人の世は幻だ。
  • 人の世に左右される事無く、真実の道を捜し求め歩け。
  • 2004年10月20日 水曜日 午前 6:16:42
  • 人はみな、煙の種。
    *井原西鶴『本朝二十不孝』
  • 生きるとは変化することである。
    *上田敏『学問と流行』
  • ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
    *鴨長明『方丈記』
    ・世のはかなさを川の流れる水にたとえた冒頭の一節。
  • 2005年10月20日 木曜日 午前 5:35:45
  • 無常であるからこそ、この一瞬一瞬の今を生きるのだ。
  • 無常とは冷え切った灰のようなものではない。
  • 無常とは一瞬一瞬であり、前後裁断、隔壁なのである。
  • 正法眼蔵・現成公按より
  • 生は生、死は死、前後裁断せり
    『たき木ははひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり、前後ありといへども、前後裁断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり、かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生(しょう)とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは仏法のさだまれるならひなり、このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり、このゆゑに不滅といふ。生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば冬と春とのごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり』
  • 2006年10月20日 金曜日 午前 5:18:28

アイコン 十月十九日  後集―67  無心
   魚は水を得てそこで自由に泳ぎまわり、水の中にいることをすっかり忘れており、鳥は風に乗ってそこで自由に飛びまわり、風のあるということもすっかり忘れてしまっている。人もこの道理を悟ったならば、この世におりながら、この世の中のことを総て忘れるようになれば、外物に動かされるわずらわしさを超越することもできるし、自然の妙なるはたらきを楽しむこともできる。
  • 魚は水を忘れ、鳥は風を知らず
  • 世にいて世を忘れる
  • 人間という生物は、意識が多すぎる。
  • もっと魚や鳥に学ぶべきだ。
  • あの自由に遊ぶ境地を学んで、煩わしさを超越すべきだ。
  • 2003年10月19日 日曜日 午前 4:42:38
  • 生きていることを楽しめ。
  • 2004年10月19日 火曜日 午前 5:19:48
  • 生きていることを忘れるな。
  • 没頭する、今を・ここを生きる。
  • 2005年10月19日 水曜日 午前 7:25:07

アイコン 十月十八日  後集―66  本性に適った生活
   いかめしいいかに高い冠に幅広い帯を着けた高位高官の人も、ふと、ひとたび軽いみのに小さな笠を着けた漁夫や農夫が、いかにも身軽でのどかに暮らしている人を見たならば、気苦労の多い自分の身と比べて、その気軽な生活がうらやましくて嘆息しないものはいない。また、豪華な敷き物の上で暮らしている金持ちの人も、ひとたび粗末なすだれの下で、こざっぱりした机に向かって読書している人が、いかにも悠々として心静かに暮らしているのを見て、わが身の何かと忙しく気苦労の多いことを嘆いて、そのような生活をうらやましく慕わしいと思わないものはいない。それにもかかわらず、世の人はどうして、尻尾に火のついた牛が駆り立てられたり、さかりのついた馬が追い求め誘ったりするように、功名や富貴ばかりを追い求めて、その本性に適った悠々自適の生活をしようと思わないのか。
  • 悠々自適の生活
  • 人はどうして、しっぽに火のついた牛のように駆り立てられ、さかりのついた馬が誘うように追い求めては、せわしい暮らしを送ってばかりいて、本性に適った悠々自適の暮らしを送ろうとしないのだろうか。
  • 人は誰でも自適の生活のよさを知ってはいるが、
    容易に功名富貴を捨て切れないのは、
    浮世に未練があるからで、誠にあわれむべきである。
  • 「火牛」や「風馬」のような生活はするな。
  • 身軽でゆったりとした生活が理想
  • 2003年10月18日 土曜日 午前 5:58:10
  • 悠々自適の生活
  • 2004年10月18日 月曜日 午前 6:19:58
  • 誰だって、底をわれば、なアに軽薄なものがあるさ。口に出して言わないだけなんだ。*佐多稲子『くれない』二年間の獄中生活の後の広介が言った言葉。「人生なんてそんな簡単なものじゃあないんだ。人の心というものは。今度こそ俺ははっきり解ったんだ」と続く。
  • 人は己に克つと謂ふ、されど性を矯(た)むるは天を傷くる也。*高山?牛『地獄の火印を烙けられたるもの』自らを克服すると称して生まれながらの性質を矯めるのは、天を傷つけるものだ、の意。「吾等をして自然の児の如く語らしめよ」と言う。
  • 2005年10月18日 火曜日 午前 4:46:51

アイコン 十月十七日  後集―65  煩悩妄想
   本来人にそなわっている真心に、波風が立たなかったならば、どこに行っても青々とした山、緑の木々であるような静かな境地の中にいることができる。また、天から受けた本性の中に、天地自然が万物を生じ育てる造化のような慈愛のはたらきがそなわっていたならば、どこででも、魚はおどり、鳶は飛ぶように生き生きとした自由自在なはたらきのある境地のすがたを見出すことができる。
  • どこにいても自由な心境
    煩悩妄想の障碍が無ければ、常に純真清明な心境になれる。
  • これこそ無心の境地。
  • 人間の心と言う大地、それは凡てを生み出す元である。
  • 心の大地が平静を保っていれば、人間は安定する。
  • 『人生到る処青山あり』 (僧月性)
  • 本心そのままに生きる
  • 2003年10月17日 金曜日 午前 2:54:54
  • 煩悩・妄想の害
  • 2005年10月17日 月曜日 午前 6:10:18

アイコン 十月十六日  後集―64  
   世の人々は、目では西晋が亡んでその都の跡には雑草が生い茂っているのを見ながらも、なお武力を誇ってこれに頼り自国を守ることができるとうぬぼれており、また、その身はいずれ北ぼうの墓地に葬られて、きつねやうさぎの餌になるのを知りながらも、なおまだ死際まで黄金に執着し惜しんでいる。古い言葉にも、「猛獣を馴らして降伏させることはやさしいが、人の心を降伏させることはむずかしい。深い谷を埋めることはやさしいが、人の心を満足させることはむずかしい」といっているが、まったくその通りである。
  • 心を満たすはむずかしく、御し難い
  • 2003年10月16日 木曜日 午前 5:06:44
  • 人を鎖でつなぐことはできるが、心まで縛ることはできない。
  • 2004年10月16日 土曜日 午前 6:22:14
  • ▼心は第一の怨(あだ)なり。人を縛(ばく)して閻羅(えんら)の所に至らしむ。*一遍『一遍上人語録』 「怨」は、自分に害をなすもの、かたき、の意。「縛す」は、縄でしばる。「閻羅」は、閻魔王。
  • ▼人の心が刀で斬れるか、力で取れるか。*岡鬼太郎『今様薩摩歌』
  • ▼人のよし悪しは、みづからの心にあり。*御伽草子『二十四孝』 人の善悪は、その人の心のあり方によって決まる、の意。
  • 2005年10月16日 日曜日 午前 6:08:27

アイコン 十月十五日  後集―63 自然に遊ぶ
   林の中から聞こえてくる松風の響きや、岩間のほとりを流れる谷川の水の音は、それを心静かな中で聴いていると、そのままで、天地自然がかなでる妙なる音楽であることがわかる。また、草原の果てにたなびく霞や、澄んだ水の上に映る雲の影は、それを心のどかにゆったりした中で見ていると、そのままで、天地自然が描く最上の絵であることがわかる。
  • 天然の音楽、自然の絵画自然は最高の芸術
  • 人為ではとても企て及ばない、天然の音楽や自然の絵巻をよく味得して、豊かな情操を養うべきである。
  • 2003年10月15日 水曜日 午前 4:56:26
  • 自然の味を味わう。
  • 心を落ち着けて自然に戻る。
  • 2004年10月15日 金曜日 午前 5:49:03
  • 自然に遊ぶ。
  • 2005年10月15日 土曜日 午前 5:29:43
  • 自然の中に浸る。
  • 2006年10月15日 日曜日 午前 5:45:20

アイコン 十月十四日  後集―62 なりきる
   昔の名僧が、「風に吹かれて揺れる竹の影が階段に映り、そこを掃き払うようにしているけれども、影であるから階段の塵は少しも動かない。また、月の光が澄んだ池の水を突き破って深い底にその影を宿しているように映っているが、水面には月の痕跡を残してはいない」と言っている。また、わが儒学者は、「水の流れは激しく音をたてて流れているが、その激しい水の流れにまかせきっていれば、その辺り一帯は騒がしさもなくいつも静かであ。また、花はしきりに咲き乱れ散り落ち、万物は絶え間なく変化して止まないけれども、その自然の様子を見ている心は、おのずとゆったと落ちついて静かで少しも乱れたところがない」と言っている。人はいつも、このような気持を持って、あらゆる物事に当たったり人に接したりしていれば、何ものにもわずらわされることがなく、なんと身も心ものびのびして自由自在な境地であることか。
  • 身も心も自由自在
  • 少しも思慮分別を加えず自然のままに事に応じものに接して、そこになんらの痕跡を留めない任運無作。
  • 物事に執着することなく、あるがままに自由無碍に処していく、行雲流水の境地。
  • 動中に在って、動に堕することなき『動中静』の境地。
  • 動中静、静中動の功夫。
  • 静的功夫よりも、むしろ動的功夫をせよ。
  • ものに当たってものに触れず
  • 2003年10月14日 火曜日 午前 5:15:10
  • 動中静、静中動
  • 2004年10月14日 木曜日 午前 5:36:07
  • なりきる。
  • 2005年10月14日 金曜日 午前 4:12:39
  • 一体となる。
  • 2006年10月14日 土曜日 午前 6:08:59

アイコン 十月十三日  後集―61  無常
   一度形作られ成功したら、必ずいつかは毀れ失敗するものであるということを知ったならば、形作られ成功することを求める気持も、必ずしも余り強く堅く持ち続けるほどのことにはならないであろう。また、一度生を受け生きているものは、必ずいつかは死ぬものであるということを知ったならば、できるだけ長生きしようとする方法についても、必ずしもそれほど憂え悩み苦労するほどの必要もないであろう。
  • 生者必滅の道理
  • 「生者必滅」である以上、永久不滅ということはないから、総て自然にしたがって天命に甘んずることが最上の道である。
  • 「完成させたものは、いつかはきっと壊れるという道理がわかっていれば、
    完成させようと思う気持もこれまでほど強固ではなくなるだろう」
  • 成功や完成は世の中では良いこととされ、皆がこれに向かって努力を重ねている。
  • しかし、これはとらわれの心だという。
  • 完成も成功も仮の姿でしかないのだから、このことが分かった上で努力することだ。
  • 成功・繁栄・生存などが永遠に続くと思い込んで、
  • ひたすら努力し働くとしたら、
    そこに待っているのは大きな幻滅の幕だ。
  • 生者必滅
  • 2003年10月13日 月曜日 午前 5:14:07
  • 諸行無常
  • 2004年10月13日 水曜日 午前 5:21:38
  • 人はみな、煙の種*井原西鶴
  • 行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし*鴨長明『方丈記』
  • 2005年10月13日 木曜日 午前 3:21:50

アイコン 十月十二日  後集―60  自然に浸かる
   見晴らしのすばらしい高楼のすだれを巻き上げ格子窓を開ければ高く広く、そこから青い山々や緑の水が、朝に夕に雲や霞を出没させているのを眺めていると、天地の自由自在な造化のはたらきのあることに気がつく。また、竹や樹木が枝や葉を青々と茂らせ、その中で春になると燕はひなを育て、秋になると鳩が鳴いてつれあいを呼び寄せたりして、四季の自然の移り変わりにまかせて見ていると、心は自然ととけ合って一つになり、外界世界とか我とかの相対的な区別を両方とも忘れ去ってしまう境地になるのを感ずる。
  • 物我両忘
  • 【両忘】とは、自と他、物と我、生と死、善と悪、苦と楽、前と後、などの両者の対立観念を忘れること。
  • 「両頭共に截断」 両忘と同じ意味の禅語。
  • 両者の対立をただ単に忘れ去るというのでなく、
  • これを徹底的に空じ尽くし断ち切ってしまって、
  • 高い次元の絶対境地―絶対無―を禅家では志向するという。
  • この絶対境において、自己と天地万物とが一体一会となる。
  • 「天地と我と同根、万物と我と一体」 『碧巌録』
  • 造化の妙を知り、物我両忘を感ず
  • 2003年10月12日 日曜日 午前 4:33:38
  • 自己と天地万物とが一体一会となる。
  • 2004年10月12日 火曜日 午前 12:20:54
  • この自然の中にゆったり浸かってみる。
  • 2005年10月12日 水曜日 午前 5:55:15

アイコン 十月十一日  後集―59  苦楽
   一つの楽しいことがあると、それに対して一つの楽しくないことがあって、苦と楽は互いに向かい合ってあい対立しているものである。また、一つの羽振りのよい時の境遇があると、それに対して一つのよくない時の境遇があって、好と不好は差し引きされてなんでもないことになってしまうものである。ただ、平生のごく普通の食事を食べながら、無位無官の境遇にいれば、大した楽しみも苦しみもないが、これこそはじめてそれが一つの安楽な住み家というものである。
  • 楽あれば、苦あり
  • 苦あれば、楽あり
  • 良いことあれば、悪いことあり。
  • 悪いことあれば、良いことあり。
  • 苦楽はあざなえる縄なり
  • 2003年10月11日 土曜日 午前 4:47:02
  • プラスマイナスゼロ。
  • 中庸
  • 2004年10月11日 月曜日 午前 1:55:36
  • ◎人間の苦しみなんて大したものじゃあないよ。十日も気持ちがやられていることはめったにあるまい。どんなに大きな打撃でも十五日さ。半月で峠を越す。*井上靖
  • ◎苦悩、それは死ぬまでつきまとって来るでしょう。でも誰かが言ったではありませんか、苦しむためには才能が要るって。苦しみ得ないものもあるのです。*北条民雄『いのちの初夜』
  • 2005年10月11日 火曜日 午前 3:57:58

アイコン 十月十日  後集―58 のぼせと落ち込み
   事が煩雑で多事多忙な時には、のぼせ上がるから、それに流されないで心を落ちつけ一つの冷静な眼をもって対処すれば、いろいろな苦しい思いをしなくてすむ。また、景気がよくなく落ちぶれた時に、気が沈み易いから、力を落とさないでつとめて情熱を持って積極的に事に対処すれば、多くのほんとうの心の味わいを得ることができる。
  • 忙時に冷静、閑時に熱情
  • 多忙な時には冷静な目を失わないこと。
  • 不景気な時には熱情を失わないようにすること。、
  • これが処世の活訓である。
  • 時には冷静に、時には熱情的に
  • 2003年10月10日 金曜日 午前 5:50:53
  • 忙しい時・煩雑な時には、心を落ち着けて、気が沈む時は、努めて明るく積極的に情熱を込めて。
  • 2004年10月10日 日曜日 午前 7:26:22
  • のぼせと落ち込み。
  • 感情は得て眼鏡を曇らすものだ。*徳富蘆花『黒潮』
  • 軽薄
  • ◎世の浅薄なる楽天家は多し、些(ちと)の虚名を売り、些の栄華を得、些の善事をなして、自ら安んずることを傲(ほこ){おごる・あなどる}るものは多し。*北村透谷『真─対─失意』
  • 失敗は成功よりも美しく、又更に成功よりも教訓と力に富めり。*石川啄木『古酒新酒』 実生活上、「失敗」を繰り返した啄木の言葉。
  • 2005年10月10日 月曜日 午前 6:40:24

アイコン 十月九日  後集―57  生々流転
   人の心や世の中のありさまというものは、たちまちに移り変わり、また様々な様相を呈するものである。だから、ある一点だけを取り上げてそれだけが真実であるとしてはいけない。宗の邵康節も、「昔、自分の物と考えていた物が、現在ではそれは他人の物となる位だから、現在自分の物と考えている物も、また将来は誰の物になるかわかるものではない」と言っている。人はいつでもこのような見方をしたならば、そうすれば胸の中につかえているわだかまりも解けて気楽に過ごすことができる。
  • 生々流転は世のならい
  • 自分だけは一番確かだと思っていても、
  • かっての自分がはたして現在の自分とまったく同じであろうか。
  • 自分でさえも変化するという見方を持っていれば、あらゆる事態に対応できるのではないか。
  • 一事に固執するな
  • 2003年10月9日 木曜日 午前 4:39:35
  • 2004年10月9日 土曜日 午前 6:15:02
  • 生々流転
  • 2005年10月9日 日曜日 午前 2:55:46

アイコン 十月八日  後集―56  上から見る
   老人になって若い人達を見ると、駆けまわり追い争って功名心を競い争うことは、いかにもつまらなく思えて、自然と競争心が消えてなくなってしまう。また、落ちぶれてから、はなやかだった全盛時代のことを考えて見ると、徒にはなやかな生活に耽ることは、いかにもつまらなく思えて、自然とそのうわべだけのにぎやかではでな生活を求める気持を断ち切ることができる。
  • 観点を変える
  • 若い人の目と、老人の目
  • 健康な人の目と、病人の目
  • 豊かな人の目と、貧しい人の目
  • 立場を変えてものを見る
  • 全く逆の立場に身をおくことで、初めてわかることもある。
  • 2003年10月8日 水曜日 午前 5:55:58
  • 全体を見る、上から見る。
  • 2005年10月8日 土曜日 午前 2:57:33

アイコン 十月七日  後集―55  無我無心
   世間の人は、ただ我・自我というものが余りにもほんとうにあると考え、それにこだわり過ぎて大そう大事にして自己を主としている。だから、自我の対象となるいろいろな嗜好の欲望や煩悩の苦悩が多くなってくるのである。古人の詩にも、「我というものがどういうものであるかということを知らなければ、どうして物が貴いなどということを知ることができようか、知らない」と言っている。また、「この肉身も本来我ではないということがわかれば、煩悩妄想が起こっても、どうしてこの身を侵し苦しめることができようか」と言っている。これはほんとうに真実を看破し道理にかなった名言である。
  • 我は我にあらず
  • 人間は我、すなわち自我というものを肯定し、それに執着するから欲望や煩悩が生じて我を苦しめるという。
  • だから、我の執著から離れて、これを否定し捨て去って、無我無心の境地になれば、彼我・善悪の相対的区別が無くなって、何ものにも束縛されない執着しない自由無碍の境地になれるのだという。
  • ここで言っている我は、仏教でいう大我、すなわち、絶対的自我ではなくて、小我、すななわち、差別的相対的な自我。
  • この小我、これに止まる限り差別的相対的な考えから脱出することはできないと言う。
  • 仏教でいう我執(人執)は、我の存在を認め、これに固執する我見・妄見を言うのであって、
  • 一般的には我意を張り通すことである。
  • ここでいう我は、この我執をいう。
  • 自我を捨て去る
  • 『放下著』 
    我執を捨てきって我を空じ尽くした無我無心になれ。
    我執妄念を断じ尽くせ。
  • 2003年10月7日 火曜日 午前 5:54:42
  • 仏教では我法二空ということをいっているが、これは我空(人空)と法空で、前者を人無我、後者を法無我といい、我も物も共に空無であるとするのである。
  • 禅家では「放下著」といって、我執を捨て切って我を空じ尽くした無我無心になることを説き、この我執妄念を断じ尽くすことを解脱(悟り)への前提条件としているという。
  • 2005年10月7日 金曜日 午前 5:32:42

アイコン 十月六日  後集―54  今ここを生きる
  美しい花も植木鉢に植えられていると、結局は生気を失って枯れてしまい、また、小鳥も鳥かごの中で飼われていると、だんだん自然のおもむきがなくなって遂には死んでしまうことになる。それは、山間の花が自然のままに入り雑じり集まって咲いて美しい様相をなし、鳥は思いのままに飛び回り自由にして楽しく鳴いているのを見ると、おのずとのびのびとして心に楽しさを覚えるのには及ばないものである。
  • 自由な境界
  • 花や鳥を自然の本性のままにしておくほうがいい。
  • 『荘子』応帝王篇に渾沌(こんとん。渾は混と同じ)の寓話がある。
  • 渾沌には眼耳鼻口などが具わっていないので、これに人間と同じように七つの穴をあけてやったら、七日目に死んだという話。
  • これは人為を加えない自然のままの姿を現わしたもので、人為を拒否したもの。
  • 人間が自然に逆らって作為を加えれば、その物の本質が失われてしまうことを比喩的に述べたもの。
  • 渾沌の如くならないように、鳥や花だけでなく、何物でもその本質を損なわずに、自然のままにして、楽しむのでなければならない。
  • 自然のものは自然にもどそう
  • 2003年10月6日 月曜日 午前 6:00:32
  • ものの見方─花も鳥も寿命がある。自然だから全て生気があるとは限らない。要は「今ここを生きる」だ。
  • 2005年10月6日 木曜日 午前 5:51:44
  • 「今を生きる」を「今日一日を過ごす」といえ。
  • 2006年10月6日 金曜日 午前 6:15:12

アイコン 十月五日  後集―53 悠々自適
  明け方窓の下で易経を読みながら、松の葉末に宿った露を硯に受けて朱墨をすり、それで朱点をつけていく。また、昼間には仏典を机の上に開いて、雅客と教理を話し合いながら、宝磬(ほうけい)を打って竹林をわたる風に響かせるという、閑清な生活を送っている。
  • 【雅客】がかく 風流を解する人。
  • 宝磬(ほうけい) 石で作った楽器。禅宗の寺などで用いる。と書かれているがどんな物かよく分かりません。誰か教えてください。
  • 風雅な境地
  • 塵俗の世界を離れた清閑な雰囲気を感じさせ、禅者のそこらあたりとよく似ている。
  • 終日俗事に没頭し名利に汲々としている者は、時にはこのような境地に入って、悠々自適の心境を味わうこともよい。
  • 2003年10月5日 日曜日 午前 4:01:00
  • 悠々自適の生活、遊び、・・・
  • 2005年10月5日 水曜日 午前 4:36:24
  • 心の静けさ。
  • 2006年10月5日 木曜日 午前 6:34:24

アイコン 十月四日  後集―52  
  財産をたくさん持っている人は、損をする時にも莫大な損をする。だから、金持ちは、財産のない貧乏な人が財産を失う心配がないのにはとても及ばないことがわかる。また、威張って歩く地位の高い人は、つまずいて倒れ易く失脚することもはやい。だから、身分の貴い人は、低い地位の人がいつも安心していられるのにはとても及ばないことがわかる。
  • 富貴の憂い
  • 貧乏が安心、平民が無難
  • 2003年10月4日 土曜日 午前 6:18:19
  • 実るほど頭を垂れよ。
  • 高低差に気をつけよ。足首の捻挫。
  • 2004年10月4日 月曜日 午前 6:49:53
  • 今生きている、生かされている。
  • 今日が最高、今が最高。
  • 何も無いから、失うものは何も無い。
  • 2005年10月4日 火曜日 午前 4:54:38
  • 低き所に身を置け!
  • 真からの謙虚さ。
  • 分相応
  • 2006年10月4日 水曜日 午前 7:03:50

アイコン 十月三日  後集―51 妄念妄想
  心の中で欲がいっぱいになっている人は、欲のためにいつも心が落ち着かず、まるで、寒々として澄んだ深い淵でも波が沸き立つようであり、たとえ静かな山林に住んでいても、心が動揺しているから、その静寂さが少しもわからない。それに対して、その心の中に欲がまったくない人は、欲念を捨てて心を空虚にしているから、心はいつも平静で、真夏の非常に暑い時でも涼しい風が生じているようなもので、たとえ騒々しい町の中の雑踏の中でも、心が平静であるから、そのやかましさを少しも感じない。
  • 欲心のあるなし
  • 「心頭を滅却すれば火もまた涼し」
  • 邪念妄想を断ち切り寒暑を超越して無我無心になれば、
  • 炎暑でも清涼を覚える心境に至ることができるという。
  • 欲望多き者と無欲の者
  • 心の「虚」と「欲」の差が自分の環境を変える。
  • Friday, 03 October, 2003 09:27:44 AM
  • 2004年10月3日 日曜日 午前 7:37:51
  • 無欲の欲
  • 2005年10月3日 月曜日 午前 6:46:05
  • 欲望多き者だ。心の平静が全くない。ただ無感覚に流されているというだけ。無欲の欲は、欲心の無欲ともいえるのではないか。結局どの道を歩くか、何をしたいかだ・・・人生においては。
  • ふらふらと人生放浪の旅か・・・。
  • 2006年10月3日 火曜日 午前 5:03:58

アイコン 十月二日  後集―50  真実相
  人間というものは年をとるにしたがって、頭の髪は白くなって抜け落ち薄くなり、歯も抜けてまばらになって、見る影もない容貌になってゆくが、それは本来、老衰しやがては消え失せてしまう運命の幻のような肉体であるから、これを到底免れることはできないし、しぼみ変わるに任せるよりほかに道はない。またそうなるのは当然であり悲しんでもしょうがないし、自然に衰えるのにまかせておくより道がない。また、小鳥が楽しげに歌い、花は美しく咲くのを見ていると、宇宙から見て万物悉く常住不変という絶対的真理の現れであり、そこに自性の真如が存在していることを深く認識することができる。
  • 真理は万物に宿る
  • 真如も自性も仏教用語。
  • 真如とは、万物における常住不変の根源的な存在をいう。
  • これを実相あるいは法性といい、真如実相ともいう。
  • 自性とは、煩悩妄想を払いのけた心の本性をいう。
  • 自性は本来純真清浄であるからこれを自性清浄心といい、心性・仏性と同義語であるという。
  • 自性は仏教一般では、心や物の先天固有の本性で、変わらない本質の意味に用いる。
  • 自性と真如の関係は、心の本性としての自性は、そのまま常住不変の実体である真如の当体をなすもので、どちらも異名同体の関係にある。
  • この自性(本然性)の真如が、普遍的に万人に等しく心の中に宿在していることを認識して、超然として生滅変化の諸現象を達観すべきだといっている。
  • 諸行無常の真実相を知ること
  • 2003年10月2日 木曜日 午前 5:43:22
  • 2004年10月2日 土曜日 午前 6:51:46
  • 真如─真実如常の義。常に変わらない根源的な実体。
  • 自性─本然の性。本来具有の真性。真如・仏性を指す。
  • 2005年10月2日 日曜日 午前 5:01:29

アイコン 十月一日  後集―49  表面と内面
  人の心は、うぐいすが美しい声で鳴くのを聞くと喜び、かえるが騒がしく鳴くのを聞くといやに思う。また、美しい花を見るとそれを栽培しようと思い、雑草が目にはいると、それを抜き取りたく思う。このように思うのは、いずれもものごとの表面的なものだけを見て、よいか悪いか好きか嫌か美しいか醜いかを判断しただけである。もし、それらのものの万物の本性である内面的なものを見たなら、どれも自らそれ自身、天性の妙なるはたらきからして出た声を鳴らさないものがあろうか。また、どれもそれ自身、天地自然の理によって生育していないものはないのである。
  • 天然の妙機
  • 何気なく見たり聞いたり触ったりしているが、
  • よく見れば不思議というか、感動ばかりの天然自然である。
  • 天然の妙機にに眼を開く
  • 人間の私情によって、善悪好悪美醜の差別をして価値判断をしているに過ぎない。
  • 2003年10月1日 水曜日 午前 5:58:32
  • 2004年10月1日 金曜日 午前 5:08:04
  • 表と裏、外と内、好きと嫌い、善いと悪い、美しいと醜い。
  • 2005年10月1日 土曜日 午前 3:54:13
  • 外面と真理
  • 2006年10月1日 日曜日 午前 6:25:49

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