私の生い立ち

 私は九州のある田舎で生まれたときから10才まで自宅の部屋の片隅にいた。
誰かが来ると言えば寝かされほかの部屋にまるで隠されるような扱いもされた。
家族にすればべつに隠すつもりはなかったかもしれない。ただ、体が不自由な私の ため、田舎という堅苦しい世間の目から私にいやな思いをさせたくなかったのだろう。

 ものごころついた頃は、父はいなく母と祖父祖母、姉二人に兄一人の大家族だったが、 すぐに祖父祖母は亡くなり、母が一家の大黒柱になる。 だから私はいつも一人で るすばんをするようになった。
 家の二階から見えた海。ポーポー行く船と戻る船を見ては、「いつかここから出て行く。」 子供心に思い願い続けた。

 11才の時初めて家を出て国立の別府病院に入ることになった。ある日、母から 「ヒロと同じような人がいるところがあるから行ってみないか?」と言われた。母が どんな思いで私に言ったのか、そんな母の迷いも何も知らない私だった。とにかくこ の家から出られる、その一心で迷いもせず「行ってみる。」と答えた。
病院に入る事がきまりその準備に母も下の姉もおおあわて。それが、嬉しくもあり 「自分はもうこの家に帰れないか」と少し不安になる。でも、自分のために新しい服 やらを買ってくれたり、作ったりしてくれた。
「みんなで畑に遠足へ行こう」と母が行った。兄と姉 母そして私、一緒に青空の下 でお弁当を食べる。それが唯一の家族との思い出。
病院に入って初めは同じ仲間がいる「わ」の中に自分も入っていけるだろうか不安 だったが、見るもの聞くもの生まれてはじめての世界!不思議の国に行ったような気 がした。
 入院して2,3日たった頃、ふと夜中に目が覚めた。部屋の中をみわたせばひと り々々ベッドの上に寝かされている。その時子供ごころに「ここで泣いてもわめいて も頑張らなきゃ。」と覚悟を決める。 けれど、母と姉がはじめて面会に来てくれた 時は緊張の糸が切れたようで思わず泣いてしまった。
 12才になる年に養護学校の3年生に編入した。学校というものがどんなところか 全く知らない私だから、母は喜んだが自分では「それなーに?」としか感じられな かった。なにしろ、家にいるころは自分の歳さえ知らなかっのですから。
学校は病棟の中で、空いている部屋を借り、そこに私達3人の生徒と2人の養護の先 生だけの授業だった。授業は楽しかった。7年間学校に行ったがいろいろな先生と出 会った。年頃になると若い男の先生にあこがれたりもした。

 入院してまもなく同じ病室で仲の 良い友達が出来た。4歳年下のみすずちゃん。私 はみすずちゃんから「自分で声をかけなければ誰も取り合ってもらえない」ことを教 えられたのです。自分より歳下なのに、まわりの中にとけ込む方法を知っていた。 私は、「そうか」「そうなんだ」と、相手の中へ自分から入って行く事なんだと感じ た。一番大切な事に気づく。
 そのみすずちゃんが突然死んでしまった。9月1日、2学期の始まりの日の朝だっ た。それは私にとって大きなショックだった。その友を忘れないために私は作文を生 まれて初めて作るようになる。詩もその頃から作り始めた。「生きている何かを残し ておきたい。」そんな気持ちが出てきた。

 16才の時、ある学生のボランティアによって、高校の文化祭に手作りの詩集を作っ てくれるという話があった。自分も指導員の先生に連れて行ってもらって、1日同じ 世代の人達と一緒に過ごすことができた。そこに行くのには母も姉も反対した。そん な所に行っても高校生の人は忙しいし私の相手をしてもらえるのか、母達はそんなこ とが不安だったのだと思う。だが、指導員の先生の説得により、現実になった。 その文化祭で私の詩集を読んだ男子高生達から手紙がきて、文通を始めた。私は初め て、手紙の中で普通の女子高校生になった。ある時、彼たちが「会いたい」と手紙に 書いてきたから私は戸惑った。その時、彼たちは私の本当の事を知っていたと思う。 その時、母親的存在の病院の保母さんがこう言った。
『考えることはないよ。勉強では確かに少し遅れてると思う。でも、それを除けば、 彼たちと同じだよ。胸を張って会いなさい。』なんだか、背中をポンっと押された気 持ち だった。たしかに初めは互いにぎこちなかったが、みんな明るく私を受け入れ てくれた。おそらく、あの保母さんの一言がなければ彼たちに会うことはなかったで あろう。
 18才の時、養護学校の先生のサポートもあり、初めて詩集の自費出版をする。 その後も詩集は25才28才そして32才で出版した。
19才の時、学校を卒業して病院から施設へ移った。でもあまり毎日の生活に変わり はない。

 まもなく、20才の成人式をむかえる。
「何をきて行こう」本当はワンピースや振り袖がきたかった。
でも、着物は苦しいから、私は母にツーピースを買って欲しいと言うが、母からは何 も言って来なかったので自分の小遣いでジャンバーとセーター、ズボンを買った。
当日、母は下の姉の振り袖を持ってきてくれたが、私は自分の小遣いから買った洋服を きていた。
その朝、担当の職員からこんな言葉を贈られた。「式場で上着を脱いでもおかしくな いようになってるからね。成人式は格好じゃないよ。中身が大事なんだよ。」と。次 の日が園の成人式だから、母が持って来た振り袖はその日に職員の人から着付けをし てもらった。初めてだったので、とても嬉しかった。しかし、苦しかった・・・

 その頃、タイプを口で打つ練習をした。なれるまで自分の名前をうつのに一時間か かった。

 21才の時から、自分で車椅子をこぐようになった。、足でこぐから、床が冷た い。しかし、好きなところに自分で行かれるという嬉しさが生まれた。その時から靴 を履くようになった。
23才の時、口でタイプを打ち手紙などを書くようになっていたが、その頃から自 分自身の老いということまで考えるようになった。(自分はこのままここで一生終わ るのか)そんな事まで考える。
正直に言って施設を出たかったけれど、どこに行くあてもないま悩み、死を考えたこ ともあった。
自分の身の周りの人は機能的に自分より軽い、いつかはここから出て行ける人だ。 私は気持ちのどこかで施設生活は自分自身こりつしていた。でも、私が詩を作ること によって外部の、友達からそのまた友達へと自分の世界を広げていった。
しかし、すぐにタイプはこわれ、また誰かの手をかり代筆してもらう。
29才でワープロを買い、人の手をかりる事なく、自分で自由に文を思うままに書け るようになる。
25才から、40才までは出会いを求めて「ひまわり号を走らせる会」という、障害 者と健常者の日帰りの旅行で仲間を増やし始めた。28歳の時に、一度詩を書くのを 止めた。詩があまり上手くならないし職員の人からタイトルを決めて「こういう風な の書いてみて」と言われるようになったからだ。だが自分のノートには日記代わりに 書き続けていた。
 30才の時、『廊下に詩を掲示してみないか』と誘いを受けた。ある時、施設見学 で来ていた人が、私の詩を見て声を掛けてくれたのだ。その出会いは私が再び詩を作 っていくことの意味を教えてくれた。その人も詩を書いていたらしく「もし良かった ら詩を書いているノート貸して』と言われた時、わたしは日記代わりにしていたノー トを貸した。次の日、彼はノートの間に手紙を挟んで返してくれた。
 その手紙には、【誰の為に書くのではなく、自分のために書いて下さい。それはあな たが詩と出会った宿命かも知れません。】と書いていた。23歳の男性からそんな風に 言われたことも初めてだった。彼とはその夏休み、実家に遊びに来てくれた時二人っ きりで海へ出かけた。屈託のない素直な気持ちで私は彼に甘えられた。彼と出会った 事で、生まれて初めて心の中に結婚もひそかに思うようになるが、それは100%の うちの1%だった。でも私にとっておおきな事だ。かなうはずもない夢。
 その1年後やって来た実習生達と友達になり、彼女達と自由に外に出ることができ るようになった。気楽に外へいけること、それは長い間私が願っていたことだ。それ までは家族同伴でないと外出できなかったが、それからは自分でボランティアを探し て外出できるようになった。

 35才の時、久しぶりに彼に電話をする。話が終わりかけた時、彼から「実は結婚 するんです。あした。」と言われ、頭の中がまっしろになった。でもいつの間にか 「おめでとう。」と言っていた私・・・。こころの中で「やっぱりな。」と思った。

 その年の秋はじめてひまわり号の一泊旅行へ参加し、その旅行で大変な事が起き た。
夕方になって尿がでなくなったのだ。同じ部屋になってくれたボランティアの人が医 師だったので、ホテルのちかくの病院へ連れて行ってもらい、そこで導尿してもらい ホッと一安心。訳(わけ)を言って導尿の管を病院に借りてホテルに帰ることになった。 私はだいたいトイレは遠い。だから今までの日帰り旅行のときはほとんどトイレに行か ずにすんでいた。
(こんなはずじゃなかったのに・・・・)私はとっても情けなく、落ち込んでいたら 付き添っていたボランティアの人が「こんな事もあるよ。旅行に来ているんだから、 一緒に楽しもうよ。」と、さりげなく声をかけてくれた。そのときはとっても嬉し く、ついポロッと涙がこぼれ落ちた。
そんなことがあったから(もう泊まりの旅行には行けないかな。)と思っていた。でもひまわり号の実行委員の方も、「また行こうねっ」と快く受け入れてくれた。

何度か参加しボランティアの人に介助受けるのにも慣れてきた。
外に出るということで私自身、世の中に存在しているという満足感をえられるように なった。これからも私を受け入れて欲しいという願いもある。それには私自身をさら け出さなくてはいけない。勇気もいるし、すべての面で手を借りるということは一か ら十まで相手に分かりやすく伝えなければいけない。それは、かなりシンドイ。
だがそれをしなければ私も世の中には出ていかれないし、わかってもらえないと思 う。
 今はパソコンで絵を描くという楽しみを知るようになった。3年前までは絵を描 くなんて考えてもみなかったのに、文明のチカラは大きいと痛感している。 これか ら先、どのくらいこの楽しみが続けられるか分からないが、今まで出来なかった事が 出来る。それをコツコツとやって行くことが、私の生きる宿命だと思う。


 一人暮らしの夢はひそかに考えているが現実はなかなかきびしい。
でも まったく諦めてはいない。あくまでも夢はいつまでも持ち続けて生きて行きた い。

 いつかこの世を去るとき、「自分の人生はいい人生だった」といいながら私の生き た全ての幕をおろしたい。