開鉱明治23(1890)年、閉山昭和52(1977)年です。
石狩炭田の中心的な炭鉱で、全国的に知られた炭鉱でした。
主な炭鉱遺産は、「石炭の歴史村」の展示施設となり、選炭場は
大駐車場となっています。
石炭層の露頭
メロン城へ向かう途中にあり、露出した石炭層が良く見えます。
夕張には石炭を見ることができる露頭が数多くありますが、
ここは特に大規模な露頭です。
夕張は「石炭の上に街がある」といった感じがします。
「石炭の歴史村」北口駐車場に隣接する坑口
(千歳坑/北上坑)
道道38号線、「石炭の歴史村」北口駐車場に面した坑口で3坑並んでいます。
また、下記の坑口も隣接した場所にあります。
石炭の大露頭(夕張二十四尺層)
大露頭は明治22(1889)年、坂市太郎により
発見されました。
地表に6尺層(約1.8m)、8尺層(約2.4m)、
10尺層(約3.3m)の3つの炭層が露出しています。
その昔、ここに視察に来た要人は、必ずこの露頭の前で
記念写真を撮ったそうです。
天竜坑と人車斜坑
明治33(1900)年に第3斜坑として開坑
大正7(1917)年に天竜坑と命名されました。
ここは、大正7年、15年、昭和5年とガス爆発を起こし
昭和13年、161名の死者を出すガス爆発事故により
石炭の採掘は中止となりました。
右は人車斜坑で、天竜坑の右にあります。
模擬坑道
模擬坑道(左)は二十四尺層を開削したものです。
昭和14年に皇族が夕張を訪問した際、見学用として整備し、
その後は救護隊の訓練、一般への坑内見学等に使用されました。
現在は炭鉱内の見学コースの最終地点で、ここから出てきます。
採炭救国坑夫像
昭和19(1944)年完成
石炭産業に従事する人々の士気を高めるため造られました。
完成当時は「進発の像」と呼ばれましたが、戦後は石炭増産が
戦後日本復興の最重要課題と位置づけ「採炭救国坑夫像」と
呼ばれるようになりました。
(右は当時の写真)
北炭夕張炭鉱鉄道高松跨線橋
北炭夕張炭鉱専用鉄道にかかるアーチ型の跨線橋
昭和11(1936)年、高松地区の住宅地と炭鉱浴場を
結ぶ橋として建設されました。
石狩坑坑口
「バリバリ夕張」のジェットコースターの下にある坑口です。
道道からよく見えます。
高松ズリ捨て線
以前から気になっていた遺構でした。
秋になり、緑が無くなると白い橋梁がくっきりと浮かんできました。
橋梁からトンネルを抜けズリ山に向かっています。
石炭分析所
道道38号線から急な道路を登った、鹿の谷の高台にあります。
個人所有の倉庫になっているのか、漬物作り(H15.11.2訪問)で忙しそうでした。
夕張新炭鉱通洞口(清水沢)
清水沢清陵町にある通洞口
昭和56(1981)年、ガス突出事故により93名の命が奪われました。
そして翌年閉山・・・。この通洞口も閉鎖されました。
傍らには事故で亡くなった方の名前が刻まれた慰霊碑があります。
北炭鹿の谷倶楽部(夕張鹿鳴館)
大正9(1919)年、役員クラスの交歓、来賓の接待等に使用するため
北炭が建築した施設で、本道最大で最高級の炭鉱クラブです。
昭和29(1954)年の昭和天皇来夕の際には、ここに宿泊されました。
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