essay 9

光横溢して、日暮れる

このところ毎日のように散歩をしている。

家の近くの川沿いを12、3分歩いて北上し、左手に北大橋を見る頃から少しずつ緩やかに走り始める。未舗装の地面を走り、新こうへい橋を渡り、きちんと舗装された川土手をさらに北上、それから大芝橋を渡って西に折れ、続いて川土手を南下、甲子園の常連校を右に見ながら北大橋を東に渡る。それで中の島のある川の回りを一周することになる。距離にしておよそ3kmぐらいだろうか。時間にしてたぶん22、3分の道程だと思う。それから再び12、3分かけて来た道を歩いて帰っていく。

最初こそ身体がなかなか受け付けなかったが、一度習慣のようになってしまうと、これが結構続くものなのだ。

多くは星の瞬く頃の散歩になってしまうのだが、時には太陽が山の端に隠れる前に歩くことがある。そんな時、曇りの日なら別にどうということもないのだが、よく晴れた日の夕暮れ前というと、これは大変なものだ。

何が大変かって?

天気のいい日のこの時間帯に川土手を歩いたことのある人ならすぐにわかると思う。

光だ。

何もかも、どこもかしこも、あちらもこちらも、光、光、光。

むせかえるほど、光に溢れている。太陽がもっと高かった頃、この光たちはいったいどこに隠れていたのかと、なんども首をかしげてしまう。すると、カンカンと光と光がぶつかる音さえ、聞こえてくる。

その光たちは一様に長波長側に偏移しているように見える。つまり、振動数の高い、比較的高エネルギーな光はここにはいないようなのだ。そのせいだろう、照らされる側に似て、光たちはどこかもの憂げだ。

だがしかし、この光の量はどうしたことか。

光は世界を包囲し、充満するので、物の影が失われる。影という情報が失われる。
すると、すべての物は表面に浮き出してきて、奥行きを失う。
すべては表層として処理され、深層は隠され、叡知も閉ざされる。

 

などとうそうそしているうちに、太陽が山の向こうに沈んでゆく。見る見る沈んでゆく。空はまだ明るみを帯びているが、もう少しであの光さえ失われるだろう。
川の方を見やれば、希薄になった光が、ひとつ、ふたつと、川面で交わったかと思うと消えてゆく。


空では、光はその色調をさらに赤方に偏移させ、世界は一様の様相を呈する。

この時、光は、最後の一党独裁国家のように、世界を一色に塗り込めてしまう。
真摯な、しかし狂おしげな光によって、世界のすべてを彩っていく。

それにつれ、昼間はあったはずの、物の色が失われる。色という情報が失われる。
さらに、物の輪郭が危うくなっていき、その固体としての誇りがそぎ落とされる。
そんな隙を見透かしたように、世界に何か妖しげなものたちが、立ちのぼっていくようだ。

だがしかし、この瞬間の、この世界の美しさはどうしたことか。

 

そうして、あっけにとられているうちに、今日が終わろうとしている。
そのあとには、光を失った水の流れが、ものでもなく、ことでもない様子を湛えながら、音もなく続いていた。

2003.8.1

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