essay 8

意識を捨てる 透明になる

たまたまだけど先日、NHKで放送した「ただ一撃にかける」というドキュメンタリー番組を観ることができた。

3年ごとに世界各地で開かれる世界剣道選手権大会という大会があるそうで、今年はその開催年にあたり、この7月6日に 第12回大会がスコットランドはグラスゴーにて開催された。
これまで当然といえば当然なのかもしれないが、日本チームは団体戦11連覇を成し遂げている。しかし今年は出場国も42カ国にのぼり、中でもこのところの韓国チームの猛追が懸念されているという。そんな状況の中、今年にかける日本チームに取材した番組だった。

番組では日本チームの大将を務める栄花直輝さんを焦点に、剣道において勝利することの本質は何なのか、を問うている。

剣道に限らず、柔道や相撲など、日本の武道はよく、「礼に始まり礼に終わる」と言われるが、剣道においてはこの言葉がただのお題目ではなく、勝利に直結する具体的な神託として存在しているように思える。というのは、そこで問題になるのは極めて精神的な方法論だからだ。

それは何かというと、「勝つという意識を捨てなければ勝つことはできない」という勝利理論だ。これはもはや技術の問題ではない。

この言明は剣道に限らず、あちこちで喧伝されている。
美空ひばりは「柔」の中で、「勝つと思うな、思えば負けよ」と歌っていたし、テニスマンガの別格、「エースをねらえ」でも、究極のショットは抜いてやろうと思って放った素晴らしいショットではなく、打った本人さえ意識することなく放たれる無意識的なショットだ、ということになっていたし、「あしたのジョー」の最終戦で、世界チャンピオンのホセ・メンドーサの頭髪を白くさせたのは、脳機能が破壊されていき、ぶれたパンチしか打てなくなってからのジョーの放ったスクリュー・パンチだった。

つまり日本人なら誰でも知っているこの言葉を、真面目に追求しているのが剣道なのだ。

それはなぜだろう。

剣道で勝つためには、竹刀を相手に打ち下ろし、それが有効打として認められればいい。だが相手だって木偶の坊ではないのだから、竹刀を打ち下ろされれば、それを避ける。 避けられても再度打ち下ろす。その繰り返しの中から有効打を放つことに成功すれば勝利を得ることができる。

その一連の流れを言葉で捉えると、次のようになるだろう。

打たれる→それを認知する→どうして避けるかを判断する→避ける行動を起こす

つまり相手は、認知、判断、動作という行為を素早く為すことで、放たれた一打を避けることができる。だから逆に言えば、これらの行為のどれかを阻害することでその一打は有効打となるわけだ。

そして剣道ではこのうちの“認知”を阻害する方法が最も上級の勝利だとされる。
「スキあり!」というあれである。

これが可能なら、魔法のようなもので、非常に楽だ。相手の認知能力を阻害することは、自分が透明人間になるのと同じだからだ。

自分を透明にし、相手の隙をつく。これが剣道の目指す究極の勝利だ。

ではどうすればそれは可能なのか。
どうすれば自分を透明にできるのか。

ステルス迷彩服を着る?それはマンガです。ダメ、ダメ。

それには「勝つという意識を捨て」ればいい。
言い換えると、勝負の場における「自分」とは、「勝ちたいと意識する自分」に他ならないのだ。

番組でそのあたりは詳しく描かれないが、栄花さんは、初心に戻ることで勝とうという意識を捨てようとする。勝つとか負けるとかは論外であった最初の自分に戻るのだ。そのために、道場を雑巾掛けし、竹刀を無心で振る。

だが、そうして「勝つという意識」を捨てることに成功したとしたら、相手に一打を放つのは、いったいどういう意識になるのだろう。その辺の仕組みはどうなっているのだろう。

心理学者の下條信輔によれば、意識というものは、多様で、広がりがあり、しかもその所在は脳内に限られないという。

脳内の記憶装置と脳の外、環境の中の記憶装置との間には、本質的なちがいは何もない気がしてきます。

表現を変えるなら、「脳内」に限定されているはずの記憶が、身体や環境にまで「滲みだす」例がたくさんある。あるいは、はじめからそこらじゅうに(身体に世界に)充満していて、脳内のある場所に析出しただけ、という方がより正確かも知れません。

ここまで検討してきた記憶の例は、ほかの認知機能、たとえば一見正反対に見える独創性や創造性の機能にもあてはまります。科学者や探偵が、頭の中で難問に苦慮しているとき、外界で目にした偶然の出来事やモノから解決のヒントを得る、というのはよくある話です。またエンジニアやアーティストの場合、頭で考えてから素材に挑むというよりは、手の動くに任せて、その一見ランダムな動きの中から創造性の芽を引き出す、というやり方をすることの方が、むしろ多いようです。

脳内の記憶や認知スキルは「暗黙知」として世界のすみずみに大量に蓄えられており、エンジニアやアーティストは手足を動かすことを通じて、それを自然に読み出そうとするのです。

下條信輔著『<意識>とは何だろうか』(講談社現代新書)

だとすると、剣道における意識は、次のように言えるのではないだろうか。

有効打を放つ、という意識の志向性を薄めることができれば、自分を透明にし、その結果、相手に認知されにくくなる。それでいながら、それと同時に、有効打を放つという具体的な行為の担い手は、自分の意識ではなく、世界のすみずみに蓄えられている「暗黙知」に、いわば移譲されることになる。

また、同じく下條によれば、どんなときに意識が生じ、どんなときに自由な意志をもって行為したと感じるかというと、次のようなときであると言う。

行為の前後に、その行為についての意識、あるいは気づきが生じるのは、どのような場合でしょうか。

第一に、行動の流れが強制的にストップされたとき。
第二に、一連の行動の成果を評価する場面。・・・行為のまっただ中にいて、文字通り没頭しているとき、しかもその行為に邪魔がはいらず、一気に完遂されるときには、「意識」はあまり生じる余地がないのです。
第三に、別の視点から自分を客観的に見ることを強要されたとき。

わたしたちはどんなときに「自由だ」と感じるのでしょう。

「自由な意志」の印象がもっとも妨げられるのは、行動が意識され、その原因が外の世界に、誰にも観察できる形で見つかったときだ、ということが言えます。
裏を返せば、「自由な行為」は、もっとも意識にのぼりにくいときに実現します。没頭し、我を忘れているときに。

<同上>


これを言い換えると、有効打を放つという意識を潜在させることは、有効打を放つという行為に没頭し、我を忘れる、ということでもある。そしてそのことは、有効打を放つという「自由な意志」を解放することでもある。

つまり、勝とうという意識を捨てることで、実はより自由な意志を持って勝ちにいける、という一見パラドキシカルな関係が成り立つことが分かる。

今回、日本チームは決勝戦で韓国チームと対戦し、1対1の引き分けの後の、代表者による無制限1本勝負に勝利し、なんとか12連覇を成し遂げることができた。

そのときの日本チームの代表者はもちろん栄花さん。相手のキムさんはこれまで一度も日本選手に負けたことのないという韓国のエースで、団体の大将戦では栄花さんと引き分けていた。栄花さんはそのキムさんから、試合開始10分、見事に突きを決める。そのとき、キムさんはまるで無防備に突かれたように見えた。会心の一突きだった。

番組の最後、栄花さんが独白する。

「正しく生きることは、厳しく、難しいことだと思います」

正しく生きるとは、理論生物学者の池田清彦に言わせると、
「自分の欲望と他人の欲望を調停すること」(『正しく生きるとはどういうことか』新潮社)
だが、 栄花さんはこの大会で、まさに「勝とうとする自分の欲望と、勝とうとするキムさんの欲望」を調停したのだ。

 

あんまり関係ないんだけど、ついでに言っておく。
「おれは鉄平」は少年マンガの傑作だ・・・よ。

2003.7.24

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