essay 7

誰に救われたの?

救われた思いをしたことがあるだろうか。
救われて、ああ良かったと、胸を撫で下ろしたことがあるだろうか。

救うという言葉を辞書で引いてみると、

すく・う【救う】スクフ [他五]

危険・(困窮)状態や悪い環境、貧しい境遇などにある人に力を貸したり励ましたりして、のがれられるようにしてやる。

[新明解国語辞典第三版]

とある。

つまり、自分が陥っている悪い状態から何者かの力添えによって脱出できた時、「救われた」と感じる。この「何者か」とは「自分ではない他者」を指す。

この「自分ではない他者」が具体的な人間ではない場合を考えてみよう。
例えばそれが組織であったり、決まりであったり、偶然であったりした場合だ。
その時、救われた私はどう感じるか。

苦境を脱したことはそれ自体とても嬉しい。だから救ってくれた「他者」に感謝したくなる。だがいったい誰に感謝すべきなのか?それがわからない。そこでこの苦境から救ってくれた「自分ではない他者」を、運や、天や、神として対象化し、それに感謝する。

「俺ってなんてラッキーなんだ!」
「天は我を見放さなかったあ〜!」
「おお、神よ、感謝します!」

という具合に。

その場合、救われたという思いは言いしれぬ歓喜をもたらさないだろうか。
何物にも喩えがたい純粋と言っていい喜びを感じないだろうか。
イエスであるなら、それはなぜだろうか。

 

黄金数と呼ばれる数がある。

古代ギリシア人はそれはもう数え切れないくらいいろいろと面白い問題を考え出したが、その中のひとつに

「もっとも美しい長方形とはどのようなものか?」

というものがある。

そんなの人それぞれなんだから決められないんじゃないの、と思ってしまうが、そうではないらしい。

「長辺と短辺の比が黄金数になるような長方形である」

がその答だという。

具体的には、

「線分AB上にAB:AC=AC:CBとなるように点Cをとる。その時の線分の比AC/ABを黄金数、あるいは黄金比という」

と定義される数のことだ。

AB=1,AC=xとすると、

1:x=x:(1-x)

だから、

x^2=1-x
x^2+x-1=0

この2次方程式を解いて、正の解をとると、

x=(√5ー1)/2≒0.618

であることがわかる。

記号を使わないで表現すると、

「線分を長い方と短い方に分割する時、全体と長い方の比が、長い方と短い方の比に等しくなるような分割比を、黄金数、あるいは黄金比という」

となる。

パルテノン神殿なんかもこの比で構成されているという。

 

さて。
新宮一成は『ラカンの精神分析』の中で次のように述べている。

ここで、「どう見えるか」という観念を、「割合(ラシオー)」で、つまり「理性(ラシオー)」で表すことにしよう。たとえば、2にとって、5は5/2、つまり2.5であるということになる。同様に私xにとって他人yはy/xである、と考えることにする。

さて、私自身がどういうものであるかということを、どう考えればいいだろうか。同じく私といっても、私の肉親にとっての私と、日本人全体にとっての私は、全く意味が異なるに違いない。そこで、私はどういうものであるか、ということは、まず、私自身が今、一定の条件のもとに属している全体から見て、どういうものであるか、という形で問われるべきものである。

私にとって問題なのは、私と他の人たちを加えた全体(というものがあるとして)の中で、私はどういうものであるか、ということである。私xにも他人たちyにも共通な普遍の視線を、x+yと書き表すことにすると、私というものは、

x/(x+y)

と書き表されることになるだろう。これが求めるべき私の姿である。ただし、それは全体の目から見た私の姿であって、私自身には本来、永遠に入手不可能な私の像である。

しかし、全体にとっての私の像を、私自身が手に入れることは元来不可能であるとはいえ、もし、私が他者を見ているその見え方の中に、その私の像が現れるとしたらどうだろう。すなわち、全体にとって私が何であるかを知りたいとき、その私の姿が、私の見ている他者の中に映し出されるとしたら、何と好都合なことだろう。いわば、私は私のままでありながら、しかも私の背後からの私への視線を、手に入れることができるのだから。

この時の状態は、

x/(x+y)=y/x

と書き表すことができる。これをaとすると、

x/(x+y)=y/x=a

であり、これより、y=axとなるから、これをもう一つの式に代入すると、

a=1/(1+a)

が得られる。これを解き、正の解を採ると、

a=(√5ー1)/2

という値が得られる。この値は、黄金数(黄金分割)である。

こうして、「私が他者をどう見ているかということ」が「私が全体の中で何であるかということ」に等しくなる時、他者は私にとって、黄金数だということになる。

新宮一成『ラカンの精神分析』講談社新書

 

これによれば、具体的でない他者によって救われた時の言いようのない喜びを説明できる。

救われた私は、救ってくれた他者に感謝する。だが救ってくれた他者が何者なのか定かでない。私はそれが何なのかを知ろうとそれを凝視するだろう。そのときその視線の先に救われた自分を見ないわけに行かない。視線を受け止める対象が定かでないので、その視線は再び私自身に回帰するからだ。その新たに現れた、私自身に回帰してきた視線の先にあるものはすなわち、救われた私と私を救った他者から見た私である。

こうして、定かならぬ私を救ってくれた他者とは私にとって黄金数であることになる。その他者と私自身から見た私もまた黄金数だ。

うわあ〜、ものすごく気持ちよさそうだ。
そう思いません・・・か?

2003.7.17

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