essay 6

なされなかった会話

僕が学生だった頃、校舎裏手にある居酒屋に夜な夜な通っていたことがあった。そこの豆腐ステーキは絶品だったが、それが目的ではなかったと思う。

店内は暗く、テーブル席もあったが、入って右手に大きめのカウンターがあり、いつもそこが繁盛していた。カウンターの中にはTシャツにジーンズながら頭には手拭いで鉢巻をした中年のマスターが一人いて、客の注文を聞くと背後のアルコール類の棚から酒瓶をとって飲み物を作ってくれた。
一人の客がほとんどで、学生たちがグループでやってきてどんちゃん騒ぐような店ではなかった。学生たちよりもむしろ教員や職員たちがよく利用していた。僕もここを知ったのはバイト先の職員の人に連れて来てもらったのが最初だった。
そういった客層だからか、店内はわいわいとした和やかさがありながらも決して猥雑にならず、どこかサロンのような雰囲気があった。

僕もたいがいカウンターで飲んでいた。友人と二人で来ることが多かったが、並んで座ってもそれぞれが隣の見知らぬ人と会話をすることを楽しみにしていた。

その居酒屋で、ある夜ある男と隣合わせに座った。その男は濃いえび茶色をしたツイードの上着を着ていて、口の上下に髭を蓄え黒いサングラスを掛けていた。年は僕よりも15はたっぷり上に見えた。その男はしばらく一人で手持ちぶさたそうに飲んでいたが、カウンターに肘をついた右手に持ったグラスを少し揺すりながら、不意に振り向くと、いきなり話しかけてきた。

「おい、この問題の答え、わかるか?」

僕は待ってましたとばかりににこりと笑って応えた。

「なんですか」

男は少し黙ってじっとしていたが、やがて口を開いた。

「こうだ。ここに電池があって、電池からは銅線が延びており、その先には二つの電球が取り付けてある。銅線は一周して電池に戻ってくる。そしてここにスイッチがある」

男はカウンターにグラスを置くと、そう言いながら胸からペンシルを取り出し、手元の紙ナプキンに図を書き始めた。まず電池記号を描き、その左から黒い線を円状に引いていって電池に戻す。カウンターの木目のせいで凸凹になった黒い輪の上に、電球を示す丸を二つ書き加える。最後に右方の丸と手元側の電池記号の間にスイッチを示す記号を書き入れた。

「電池と二つの電球それとスイッチが直列に繋がってるんですね」

「そうだ。ただし銅線の長さは2光年ほどある」

そう言うと男はペンシルを胸にしまい、図の描かれた紙ナプキンを僕の方に押しやった。

「この状況でスイッチを入れるとどっちのの電球が先に点くのか。それが問題だ」

僕は一瞬でも答えるのが遅れることは恥だと言わんばかりに即答した。

「同時です」

「なぜだ」

「ニュートン力学によれば、場の変化は無限大の速度で伝わるからです」

「そう習ったのか?」

「そうです」

男は確かめるようにしばらく僕の顔を見つめていたが、やがて

「つまらん。おまえの答えはつまらん」

そう言うと男はそれっきりもう僕の方を振り向くことはなかった。

 

何が悪かったのか。
その時は認めたくなかったが、今ではそれがよく分かる気がする。

男は酒の席で会話を楽しもうと思って話しかける気になったのだと思う。そして相手が学生と見てこんな問題を出すことにしたのだろう。それに対して教科書を棒読みするような答えをしてしまったこと。それが面白くも何ともない。
男の意を汲むだけの度量もなく、ただ自分の面子を保とうというさもしい根性だけで男に対していること。それが情けない。

それに答え自体が嘘である。
自分でも薄々そう知っていながら面子のためにそれに目を瞑ってしまった。それは不誠実この上ない態度だ。

 

では今ならなんと答えるだろう。
時々、このなされなかった会話に思いを巡らすことがある。

「2光年というのがミソですねえ。スイッチを入れると銅線の中に電位差ができるわけで、その電位差によって電流が流れる、と。でも電位差ができたということがどう銅線を伝わっていくか。決して瞬時に伝わったりはしないですよね。電位差が生じたという情報が光速を越えて伝わることは決してないのだから、問題はその情報がどこから発するかという点にあるんでしょうねえ。電池の両端からか、それともスイッチの両端からか。う〜ん、どっちだろう」

「だが、その前にスイッチが入って銅線が閉じたという情報はどうなるんだ?」

「あ、そうか。でも銅線が閉じたっていう情報ってなんなんだ〜?」

「順序立てて考えてみることだ」

「なるほど、そうですね。スイッチが入れられる前のことを考えてみましょう。お、この時点で電池のこっちとスイッチのこっちは同じ電位なわけですねえ。そして電池のこっちとスイッチのこっちが同じ電位だということで、とすると電位差があるのはスイッチの両端なんですね。これでスイッチが入ると、そうか、電位差が生じたという情報はスイッチの両端から出ることになりますね」

「そうなるだろうな」

「となると分かりました。このスイッチに近い右の電球が先に点くことになります」

「その通り、と言いたいが、そうだろうか。もう少し考えてみよう」

「え、違いますか。う〜ん」

・・・

ということになるだろうか。

これなら会話が紡がれ、男の気持ちも報われたにちがいない。

 

続きをもう少し考えてみる。
この解答には嘘はないが、それでもやはり「つまらん」と言われてもしようがないだろう。なぜならこの解答には“観察者の視点”という視点が全く欠けているからだ。これだけ大きな仕掛けになると光が伝わる時間も考える必要がある。どっちの電球が先に点ったのかということは、その電球の光を目にすることで知るほかない。だから、どこでこの仕掛けを見ているのか、その場所によってこの問題の答えは異なったものになるはずだ。“観察者の視点”を考慮した解答、それこそこの問題の正解なのだと思う。
正確な解答はみなさんに任せることにする。興味がおありなら考えてみても面白いだろう。

さて、こう答えたとしてみよう。男はなんと言うだろう。なされなかった会話をもう少し続けてみよう。

「そうなんだ。それでいい」

男はそう言ってグラスに残った酒をすくい取るように喉に流し込むと、トンと音をさせて空になったグラスをカウンターへ置いた。そして顔を前に向けたまま言った。

「君に欠けていたのはその点だ。まあ君に限らないが、自分のことを考慮に入れない奴は多い。僕も含めてね。この問題の教訓は、自分のことを棚に上げた論議は往々にして嘘を生み出すことになる、ということだろう。そしてそのことに無自覚でいると、そうやって生み出された嘘を真実と思いこむようになり、やがて世界がゆがんで見えてくる。すると今度は真実が分からなくなる。目の前にある真実に気づかなくなってしまう。真実を嘘と見なすことさえあるだろう。それは恐ろしいことだ」

男はそこで押し黙ると、僕の方に顔を向け、じっと僕の目を見た。サングラス越しなので男の目は見えないが、たぶんそうなのだろう。だがやがて

「じゃあな、学生」

男はそう言いながら僕の肩を軽く叩いて立ち上がり、マスターに勘定を頼むと、ふらふらと出て行った。男が言ったことは一般論のようではあったが、果たしてそうだったのだろうか。今となっては確かめようもない。

 

考えてみると今の僕の歳はあのときのあの男の年齢に近くなっている。
どこかの居酒屋であの男のようにあの時の僕のような学生を捜して・・・問題だそうかな。

2003.7.8

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