essay 5

美しい夕焼け雲を見た時は

二、三日降り続いていた雨が上がった。

空を見上げると海面のような雲が空の二分の一に広がり、その網模様の薄い部分からは光が透けている。濃い部分のエッジは鋭く、それが砕ける飛沫のように見える。
空に海。
残りの二分の一はグレーの背景に筆で描いたような白い雲が浮かんでいる。いや、浮かんでいるというより灰色の空に張り付いているように見える。

その雨上がりの空が夕方になって徐々に発光していく。
その頃には雲の様相もだいぶ変わってきた。
所々で雲が切れ、その間から仄かに青い空の色が見えてくる。
動いているようには思われないのに気がつくと先ほどの雲が先ほどの雲ではなく違う雲になっている。
陽は沈んでいるのかいないのかわからない。
まるで雲自体が光っているようだ。
その光が強くなっているとは思えないのに強くなってくる。
その光の色が変わっているとは思えないのに変わっていく。
いつの間にか雲は切れ切れになっている。
空の部分は大きくなり、濃青色に見えてきた。あっちは少し赤い。
背景左に大きく広がる雲、目の前正面に浮かんでいる雲、影の濃い雲、薄い雲。やがて全ての雲が黄金色に輝き始めた。
あちらもこちらも、次第にどこもかしこも黄金の色になっていく。もっとも明るいところはほとんど白色に近い。

何という光の群れ。
眼を奪われる。
何という鮮やかさ。

現象とは変わっていくものだ。変わっていくことはわからないとしても、変わったことはわかる。そんな現象を心の中でどう説明すればいいのか。今見ている雲も気がつけば形を変えている。色を変えている。だからその瞬間瞬間の雲を名指してもきりがない。きりがないというより、名指す効果がない。名指してもその名指されたものは既に名指されたものではなくなっているのだから。テレビを見ていて、「あれ、好きな俳優が出てる」と隣で本に目を落としていた友人に言っても、友人が目を上げてテレビを見た時にはもうその俳優は映っていないのだ。

すると名指すという行為は変わっていく可能性という時間概念を含んでいないことになる。にもかかわらず、雲の素晴らしさを感じるためには雲と言わざるを得ない。僕の好きな俳優がテレビに出ていることを伝えるためにはその俳優の名を口にせざるを得ない。変わっていくものを変わらないもので指し示さざるを得ない。その時心の中では何が起きているのだろう。

 

理論生物学者の池田清彦は次のように言う。

「名」とは時間を生み出す形式なのである。わかってしまえばあたりまえのような話なのであるが、このことに気づいた人はあまりいなかったのではないかと私は思う。プラトンは「名」とは何かという問題の重要性を知っていた。アリストテレスはこの問題にほとんど考慮を払わなかった。

アリストテレスを含めて、多くの人の考えはおそらく次のようなものであると思われる。すなわち、名は個物の性質である。個物自体は時を含むが、個物の性質である名は時を含まなくても別に矛盾ではない、というわけだ。私見によれば、このような思考は、個物の性質を列挙しても、それらはすべて時を含まないものである故に、結局時を含む個物をいいあてることができない、という不可知論を導くことになる。

「名は時間を生み出す形式である」

これが私の答えである。名は形式であるが故に時を含まない。一方、個物は名によって生み出された固有時間を内包する現象なのである。換言すれば、名はその下にある個物を生み出す形式なのである。

さて、このように考えると、この世界を流れる時間は、すべて単一で均一・一様なものであると考える時間の絶対論は、ただちに懐疑の的となる。

『構造主義と進化論』海鳴社

この説に従うとこういうことになる。
夕焼けを迎える雲を見てその美しさに言葉を忘れるとしよう。するとその間僕の心の中の雲には時間は流れていない。だからその間雲の形や色が変わっていくのに気づかない。何かの拍子に「美しい雲」という言葉が心に浮かんだら、その瞬間時間が流れ始める。雲の形や色が変わっていることに気づくのはこのときだ。テレビに好きな俳優が出てきたらその名を思い浮かべる前に隣の友人をこづかなければならない。そうしないと時間が流れてしまってその俳優はテレビから消えてしまう。本当かなあ。

この説の真偽のほどはともかく、名もないものに名付けるとその瞬間それは個物となり時間が流れ始める、というのは何ともロマンティックで魅力的な言辞だと思う。それはまるで中世の神話のように美しく妖しい。

このことを現代でもっとも現実的に感じられるのは美しい夕焼け雲を見た時と、親となり生まれたきた我が子にその名を付ける時かもしれない。

あなたも経験あるでしょう。
それともやったことがあるのはダビスタ・・・だけ?

2003.6.30

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