essay 3

構造主義存在論の例示

NHK・BSで時々放送される番組に「バラエティ大逆転将棋」というのがある。最近ではアシスタント司会として華原朋美が出ていたりして、将棋好き、芸能好きの僕には見逃せないもののひとつだ。

これはその名の通り将棋を題材にしたバラエティ番組で、将棋好きと称する芸能人達が、アマ有利となるように様々に工夫されたルールの下、芸能好きかどうかは怪しい錚々たるプロ棋士の面々と将棋で対戦してゆくというもの。

誰が言ったか江戸の巾着切り浦野真彦七段が出演した時には握り詰めといって、ゲストが駒袋から任意に選択した駒と王将だけを使って詰め将棋を創って見せてくれた。それが煙り詰めにもなっていて、詰みの時点で盤上には必要最低限の3枚の駒しか残っていなかったのだ。驚くべき見物だったなあ。

平成15年2月23日放送分には、芸能人として、脚本家のジェームズ三木、元プロ野球選手の石井浩郎、テノール歌手の錦織健らが、対するプロ棋士として、ホントニ国の王子様佐藤康光棋聖、浪速の光速貴公子谷川浩司王位、美貌の青空高橋和女流二段(段位、タイトルは放送当時、以下略)らが出演していた。
メイン・コーナーはいつものように、過去の棋戦で現れた投了図をプロが投了した側、アマが勝利した側を持ってそこから指し始める、という趣向のゲームで、これが番組の「大逆転」という名前の由来となるものだ。

プロ同士では決着のついた場面から指すのだから棋理から言えばアマが勝って当然、というかもう既に勝っているのだが、そこから詰みの図までもっていくのがアマにとっては至難の業。たいがいプロに逆転を許すことになる。
番組としてはあこがれの棋士たちをTVで見ることができるだけで喜ぶべきだけど、対するアマがあんまり情けないのもどうかと思うな。芸能人のキャスティングをもっともっと工夫してよと言いたい。

 

ところで。
このメインの「逆転将棋」というゲームについて考えてみるとこれが面白い。
なぜ面白いかというと、前回も少し似たようなことを言ったけど、僕はかねてから構造主義存在論というものを唱えており、このゲーム・および将棋というゲームそのものがそのわかりやすい例になっているからだ。

構造主義存在論というのは煎じ詰めると

「全ての存在はその布置を除いて相等しい」

ということを主張するものだ。

だが言っておくと、構造主義存在論はいまだ構築中の建物であって、建築士の仕事が遅いのでその設計図すら出来上がっていない。目標だけがお題目としてあるにすぎない。つまりその名の画数に比べたいしたものじゃないのです。あるのは看板と応接間に掛ける額だけかな。だから誰でも参加できますよ。

 

さて。
「逆転将棋」が構造主義存在論のいい例になっているといったけど、それを説明しよう。「逆転将棋」を発案したのは番組的には司会の世界一派手な将棋差し神吉宏充六段だと思われるが、同じようなことは将棋を指したことのある人ならば誰でも思ったことがあるだろうし、やったことのある人もいるだろう。途中に将棋盤を持ち上げてくるっと半回転させて指し始めればいい。

この場合メインとして存在するのは対戦する二人であり、半回転した将棋盤上の駒の配置が構造主義存在論でいう布置に相当する、と思っていた。だが、布置が異なることでそれから展開される将棋が異なってくる、と考えてみると、将棋の指し手の連なりつまり棋譜そのものを構造主義存在論でいう「存在」に対応させ、布置を将棋駒の配置ではなく対戦する人間の組とおくことで「逆転将棋」や、将棋そのものが構造主義存在論の格好の例になっていると思い直した。

「逆転将棋」では、ひとつの存在・この場合将棋の棋譜・が、途中で布置・この場合対戦する二人・を変えることにより、全く違った存在に変わる。通常の将棋にこれを当てはめると、将棋という存在はいつも変わらずあるのだが、その布置である将棋を指していく二人が異なることで、指される将棋は全く異なったものになっている、ということになる。ただしここで言う将棋を指していく二人とは時間やその他の状況も含めたものだ。つまり同じ二人が指せばいつも同じ棋譜になる、と言っているわけではない。

 

どうでしょう?
構造主義存在論の言わんとすることわかっていただけました・・・よね。

2003.6.16

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