essay 25

わたし ~『新世紀エヴァンゲリオン』より~

わたしって何だろう? 
わたしを説明できるんだろうか? 
わたしを語ることはできるのかな?

「わたし」とわたしが言えるっていうことは、この世界にはわたし以外の存在があるっていうことなんだ。
わたしはわたし以外の存在を認識できるっていうことなんだ。
そのうえでわたしは自分のことを「わたし」と言う。
わたしはわたしについて語ることができる。

その時、わたしは世界に存在するものとしてわたしに認識されている。
世界の中にいるわたしをわたしは名指すことができる。
わたしはこうやってわたしを指さすことができる。

その時、わたしは名指されるものであり、名指すものでもある。
その意味で、名指すという行為が可能な世界の中で、わたしはとっても変わってる。
名指すという行為をされるものであると同時にするものでもある。
そのような存在はわたし以外にはない。

 

逃げちゃダメだ!逃げちゃダメだ!

わたしがわたしにそう言うとき、わたしは逃げるなと意見するものであり、
同時に逃げたいと思うものでもある。
足を踏み出そうとしながら足を踏み出すまいとするものでもある。
なんだか、苦しい。

苦しさから逃れるために、わたしはわたしを分割する。
逃げたいわたしと、逃げたくないわたしと。
もっと簡単に、過去のわたしと今のわたしと。
逃げたかったのは過去のわたし。逃げたくないのは今のわたし。

その瞬間、今のわたしは過去のわたしになり、逃げたいわたしになる。
成り立ての今のわたしは再び逃げたくないわたしになる。

過去のわたし。今のわたし。過去のわたし。今のわたし。

わたしの中はいろいろなわたしで満たされる。
いろいろなわたしがいるから、わたしは苦しくない。
悪いのは今のこのわたしではなく、さっきまでの過去のわたし。
今の、今の、今の、今のわたしは悪くない。

わたしはどんどん良くなる。
わたしはますます楽になる。

でもそうするとなんだかわたしがスカスカになっていく気がする。
わたしを分けて分けて、嫌なわたしといいわたしををつくったとき、
わたしが細くなっていく気がする。
わたしがいなくなっていく気がする。
不安になる。

 

さっきから聞いてりゃ、あんた、バカ?
そんなのあったりまえじゃない!

じゃあどうすればいい?
どうすればいい!

そうやってすぐ人に頼る。あんたほんとにバカねぇ。 
まあいいわ。わたしが教えてあげる。
いい、あなたを分けたから細くなっていくんでしょ?
分けたからあなたがいなくなっていく気がするんでしょ?
だから不安なんでしょ?

でも、苦しいんだ。わたしを分けないと、苦しいんだ。

だから、誰が分けるなって言ってるのよ。しっかり聞きなさいよ。
分けてもいいの。
でもそのままじゃそのうちあなたがいなくなる。
だから分けたあなたを綴じていくのよ。
分けっぱなしじゃなく、分けたあなたをその都度その都度、綴じていけばいいのよ。
どう?
これであなたはいなくならないワ!

 

どうやって綴じるの?

何よ、横から。
聞き耳立ててたの?
嫌らしいったらないわね、この優等生!

どうやって綴じるの?
それに、わたし優等生じゃない。

そうだよ、分けたわたしをどうやって綴じるんだよ!

それぐらい自分で考えなさいよ!
あんたも、あんたもほんっとにバカね!

 

綴じる。
分けられたわたしを綴じる。
嫌なわたし。過去のわたし。いいわたし。今のわたし。
みんなつながっていく。
そうか、そうすればわたしはなくならない。
不安じゃなくなる。

でもどうやって?
どうやって綴じればいい?
わからない
・・・

 

言動だ。

言動で綴じてやればいい。
そのために言動はある。

父さん!

自我を記号論的に構築せざるをえなかったヒトは、
そのため必然的に発生した他者とのコミュニケーション・ギャップを埋めるため、
記号=言葉を発明した。
だが皮肉にも、言葉は自己さえも分裂させてしまう。
そうして分裂してしまった自己内他者を綴じるためにさえ、
ヒトは再び言葉に頼らざるを得ないということか。

ほころび始めた自己を綴じてゆく。
心をキルティングし続けることでヒトはヒトでいられるのかもしれません。

でも、でも、そうやって綴じるのもわたし自身なんだ。

そうよ。
それこそがあなた自身、あなたそのものなのよ。
分けられたわたし。それを繋ぎとめるわたし。
それら全部があなたなのよ。

 

それを綴じるためには、ある「ひとつのもの」が、それ全体をキルティングして、
その同一性を実現しなければならない。

その「ひとつのもの」をシニフィアンとすることで初めて、
わたしもわれわれヒトも、シニフィエとして機能するのかもしれんな。

でも、そうして機能し始めたシニフィエとしてのわたしたちを、
いったい誰が解釈するのか、という疑問が残りますわね。

それがわれわれ自身だとしても、
あるいは、その「ひとつのもの」が主としての
シニフィエなきシニフィアンだとしても、
どちらにしろ、問題ない。

 

待ってよ、父さん! 
ぼくにはわからないよ。
そんなこと言われても、
ぼくにはどうすればいいか・・・わからないんだ

ほんっとに手間がかかるわね、このグズ!
いい?
昨日のくだらないあなたと、相変わらずくだらない今のあなたと、
この二つのあなたを綴じたけりゃ、
今のあなたが昨日のあなたのことを
今と同じあなたなんだって認めさえすればいいのよ。

どっちにしろ、くだらないってこと?

そうよ!
バカなあんたにしては理解早いじゃーん。

 

いいえ、くだらなくなんてないわ。
どちらのあなたも、あなた自身そのものなのよ。

昨日死んだわたしも、今日生まれたわたしも、みんなわたし。
最初のわたしも、2番目のわたしも、このわたしも、みんなわたし。
・・・

そう。
わたしを分割するのじゃなく、
様々な可能性の具現としてのわたしを、ひとつのわたしとして同一視する。
その反転過程の中で剰余として生み出されるものこそ、
わたしという存在なんだ。
君という存在なんだよ。

そしてその過程はわたしだけじゃなく、
わたしたちみんなを同一視することでわたしたちがひとつになれる可能性すらもっているのよ。

そんなことがあるんですか

人類補完計画。
ま、呼び方はどうでもいいんだけど、
要するに、みんなで幸せになろうということなのさ。

みんなで、みんなで幸せになる!
そんなことができるんですね!?

わたしが、幸せになれる・・・
みんなで、幸せになれる・・・
・・・

 

おぇっ!
気持ち悪い

2004.7.24

back

Copyright (C) taka All Rights Reserved.