essay 24

アフォーダンス日和 ~Shall we affordance ?~

H氏は教室を暗くすると、映画『市民ケーン』(1941)の最初のほうにある10分ほどの部分を上映してみせた後、学生たちに何が見えたかと問うた。挙手がなかったので何人かを指差して答えさせた。当てられた学生は誰もが臆するでもなく各自の記憶をたどってみせたが、H氏はふむ、ふむとうなずいた後で、今見たものを再度上映してみせた。

すると私は自分の記憶力が驚くほどに貧弱なものであったことを知ることになるのだが、それを嘆く間もなく、二度目の上映が終わるとH氏が今度は、今のシークエンスは全部で何カットで構成されていたかと問うた。誰も答えることができないでいると、H氏はため息をついているともあきれているともとれる表情をたたえて言った。あなたたちは不自由だ、誰か一人でもいい、このシークエンスが何カットでできているのか見てやろうという人がどうしていないのか、と。

このとき私は自分のアタマの不自由さにそっと涙した。

 

しかし今、アゴのみならず顔全体に広がりつつある女除けの無精ヒゲをさすりながら再考してみれば、次の疑問が浮かぶ。

理想のアタマの持ち主ならば、視覚を通してやって来たすべてのデータをアタマにストックし、それをアタマで再構成することでH氏が何を問いかけようと即答できたのだろうか?

そして知覚にまつわる真の不自由さがこの疑問文に内包されていることに気づくのだった。

“今日では,知覚は受容器でとらえた感覚信号の空間的・時間的パターンから, 中枢神経系で何段階かの情報処理を経て読み取られた, あるまとまった意味のある情報であると理解されている。”

(“知覚”の項より  世界大百科事典 所収 )

この知覚に対する認識が正しいならば、上の疑問には肯定の答えが用意されていることになる。

映画を観て、そこに何が映っているかとか、何カットで構成されているのかなどを認識するのは視覚的な知覚であり、そのための映像的刺激=感覚信号は受容しているはずだから、それが認識できないとすれば、その情報処理の過程に、ひいてはそれを担う中枢神経系に問題があることになる、というわけだ。

しかしこれが正しくないなら、先の疑問文は不当であり、私の中枢神経系に問題があるとは言えない。つまり私の涙は不要だったことになる!

そしてうまいことに、知覚に関するこの基本的常識に異論を唱える学説があるのだ。
ジェームス・J・ギブソン(James J. Gibson,1904~1979)の「生態実在論」がそれである。

 

彼はまず光に注目する

視覚を可能にしているのは光であるが、ギブソン以前、光とは直線的にわれわれの眼球に飛び込んできて、その奥にある網膜を点として刺激するものであり、その刺激をわれわれの中枢神経系が情報として処理することで視覚が可能になっている、と考えられてきた。

しかしギブソンはそうではないと考えた。太陽からやって来た光は地球大気に触れ、散乱しているではないか。この散乱した光が大気を満たしている。だからこの大気内にある物質やそこにいるわれわれはこうした散乱した光に包まれている。彼はこうした光のあり方を「包囲光」と呼んだ。

包囲光はわれわれを包んでいるが、われわれが移動すればその時の包囲光も異なったものになるはずだ。また、われわれ自身が移動しなくとも、時間が経つとまわりのものが移動するのでやはり包囲光は異なったものになるだろう。その意味で包囲光は空間的・時間的にユニークな構造を有している。包囲光のもつこのユニークさこそがわれわれに視覚を可能にさせている、と彼は考えた。

移動による包囲光の変位とその中にあって不変なものの存在が視覚を可能にする。われわれ人類が、いや動物がこの地球に誕生する以前から包囲光は大気に満ち、自ら移動する動物がそこに生まれ、移動することで視覚を得、その視覚によって移動が可能になる。だからわれわれを含む動物にとって移動することと知覚することは同等の意味を持つ。そう考えると包囲光という考えの射程は思ったよりも長い。

 

そして彼はアフォーダンスと名づけた

英語の動詞アフォード(afford:与える、産する)からギブソンがつくった造語がアフォーダンス(affordance)である。包囲光が視覚を可能にしているということの拡張概念であり、「環境が動物に提供するもの、環境が動物にその行為を可能たらしめるもの」という意味で使われる。

例えば、大地はわれわれにその上に立つことをアフォードしているのであり、われわれが大地の上に立つことができるのは大地がそのアフォーダンスをもっているからだ。対して水はそのアフォーダンスをもっていないので、われわれは水の上に立つことはできない。

アフォーダンスは環境が実在的に有する性質であり、潜在的にもつ意味である。それは動物によって発見されて初めて顕在する意味となる。
しかし同じアフォーダンスでも動物によってはそれを発見したりしなかったりする。その原因は動物の側にあるのではなく、環境の側にあるのであり、その環境のもつアフォーダンスの発見の有無を生む差異をギブソンは「生態学的情報」と呼んだ。

ギブソンによれば先に挙げた“知覚”のとらえ方は間違いである。
「意味」は感覚信号を材料にわれわれの中枢神経系で加工してつくり出すものではなく、環境にあらかじめ在るものであり、“知覚”とはその環境に在る「意味」を探す行為なのである。つまり、環境のもつアフォーダンスを発見し、その意味を顕在化させる行為のこと、それが“知覚”なのだ。

アフォーダンスはわれわれが環境に探るものであるから、それは行為つまり経験に大いに関係する。そして知覚は情動や知識や判断のもとになる基本的な情報だから、このことを応用すれば人間にとっての具体的で有用な指針を得ることができるかもしれない。

このアフォーダンス理論を知ると次のようなイメージが浮かんでくる。

われわれはわれわれを取り巻く環境と同等でほとんど不可分なかたちで在る。
ただわれわれと環境の間には厚さ3ナノメートルの境界があって、われわれは行為によってのみその境界を通して環境から情報を入手できる。
そしてその境界にその名を尋ねてみれば、きっと、「リアルといいます。よろしく」と答えてくれるのじゃないかしら。

 

最初の話をこの学説で言い直してみる

映画とはその監督が発見した何かのアフォーダンスの集合であり、映画を観るとは、監督の発見したアフォーダンスの集合やそれ以上のアフォーダンスをその映画に発見しようとする行為のことだ。
その映画を題材にした授業はその映画を観て教師の発見したアフォーダンスの集合である。
何が映っていたのかという問いかけや、いくつのカットからなっていたのかという問いかけは教師がその映画に発見したアフォーダンスを発見するためのヒントなのであり、その問いかけに答えられなかったとしても、それはその授業を聴講していた学生の中枢神経系の不具合を指摘するものではない。ただ行為の怠慢を、経験の未熟を露呈している。
しかしその授業に出席するという行為によって、学生たちはその映画のアフォーダンスのいくつかを発見したのだ。

それでいい。

 

<参考図書>

「アフォーダンス---新しい認知の理論」 佐々木正人著 岩波書店 1994
「知性はどこに生まれるか」 佐々木正人著 講談社現代新書 1996
「アフォーダンス」 佐々木正人、松野孝一郎、三嶋博之著 青土社 1997
「レイアウトの法則」 佐々木正人著 春秋社 2003

2004.6.8

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