essay 23

走れ!タカハシ

その昔、バブルがはじけて経営状態がにっちもさっちも立ちゆかなくなっていた時期、ある自動車メーカーの開発部長は、 「何でもいいから売れるクルマをつくれ!」と、ゲキやツバキを飛ばしまくり、自分は部下からひんしゅくを買っていたそうだ。

「売れたクルマ」はあるから、それからの言葉上の類推で「売れるクルマ」と言ったり考えたりしてしまうのだろうか、部長がそう叫ぶ気持ちはわからないでもないのだが、そんな叱咤を受けた開発部員のぼやきに共感を抱きたくなるのは私だけではないだろう。

「売れるクルマ」?
そんなものがあるのならとっくにつくってるさ!

ここでの「売れる」というのは、「買い手がつく」という意味だが、そのためにはそのクルマが人の購買欲をそそるものでなくてはならない。しかし、どんなクルマが人の購買欲をそそるのかはわかるはずもないから、その意味で「売れるクルマ」なんてものは存在しないことになる。

そこでメーカーはマーケティングリサーチなどを実施して人々の購買欲の方を知ろうとする。一般大衆がどんなクルマを欲しがっているのかを知って、それを満足させるクルマをつくろうというわけだ。しかし自動車メーカーも一社だけではないから、他の会社も同じようにマーケティングリサーチを行うとすれば、母集団は一緒なのだから当然その結果も同じようなものになるだろう。するとよく似たクルマが各社から発売されることになる。その結果、もはやこの手法で特定のクルマだけが「売れる」わけにはいかないことになる。
つまり、この意味でも「売れるクルマ」は存在しない。

単に「売れる」ことだけが目的なら、そのクルマの値段を下げればいい。そうすればどんなクルマだって飛ぶように「売れる」だろう。その時にはあらゆるクルマが「売れるクルマ」であることになる。
その場合「売れるクルマ」とはすべてのクルマがそれに該当するゆえに、何ものも特定しないことになる。

 

こんなことを思い出したのは、つい先日、これによく似た言葉を聞いたからだ。

2004年に行われるアテネオリンピック男女マラソンの選手代表選考に際し、日本陸上競技連盟の示した選考基準は次の2点からなっていた。

 

 

このうち、条項2にある「メダル獲得または入賞が期待される競技者」という言葉が、某自動車会社開発部長の言う「売れるクルマ」と同じ意味合いに聞こえたのだ。

「メダル獲得または入賞が期待される競技者」?
日本陸連は、そんな人間がこの世界に現実にいると本当に思っているのだろうか?あるいはいないとでも?

期待ができるだけでいいのなら、当日スタート地点に立ちうるすべての選手に「メダル獲得または入賞が期待される」はずだ。その意味ではこの条項は選考基準たり得ない。すべての選手がこの基準を最初から満たしているからだ。

だから日本陸連の言わんとするのは「メダル獲得または入賞が大いに期待される競技者」だろう。

期待するとは、「よい結果や状態を予期して、その実現を待ち望むこと」だ。
このままの意味であるなら予期するのも待ち望むのもその主体としての行為であるから、この場合の主体である日本陸連が大いに期待することに概念的な疑問はないことになるが、その場合、日本陸連の選考行為は競馬や競輪などの予想屋のそれと何の変わりもないことになり、日本陸連が選考の主体である理由もほぼ消失する。選考に対する概念的構造は、あなたや私が選考してもまったく同じだということになる。

すると「大いに期待される」というときの期待にはもう少し客観的で確率論的な意味合いがあってもらわねばならない。その場合、日本陸連は何らかの専門的な方法で各選考候補選手の「メダル獲得または入賞」確率を算出していることになるが、その確率が有意味だとしても、ただ1回の試行にそれらの計算結果を適用するのは確率論的にはこれまたほぼ意味がない。

つまり「大いに期待する」を主観的なそれと解釈しようが客観的なそれと解釈しようが、どっちみち選考結果を意味づけることはできない。その意味で実効的な「メダル獲得または入賞が大いに期待される競技者」など存在しないのだ。

 

にもかかわらず、 「売れるクルマ」とか「メダル獲得または入賞が期待される競技者」といった「絵に描いた餅」のような言葉がまじめに発言されるのはなぜだろう(それとも冗談なの)?

ひとつは、これらの言葉の発言者やそれらの発言の受け取り手である私たちが、こうすればこうなるという、原因と結果が明快に関係する決定論的世界観のもとに立っている・立ちたがっているからだろう。結果は原因から操作できる・できてほしいというわけだ。ゴーマンかましてると言ってもいい。

もうひとつは、そんな発言があまりおかしいと受け取られないできたという点にもあるだろう。
その背景には、儲かることはいいことだ、勝つことはいいことだとする一元的価値観が私たちを覆っているという状況がありそうだ。少し考えれば論理的にはおかしい発言も、そういった一元的な価値がまぶしてあると、そうとは見破りにくいものだ。

 

今回の代表選考で高橋尚子選手が選ばれなかったことは、日本陸連の選考基準のもはや伝統と言っていいこうしたおかしさを再び露呈させ、私に、昔耳にした某自動車会社の開発部長の言葉を思い出させることになった。

その後、彼女はこれからも走り続けることを明らかにしたが、私はそれを聞いて、オリンピック一辺倒の一元的価値観に覆われたスポーツ界になんだか破れ目ができたように感じた。そしてそこから新しい風景が立ち現れるのではないかと期待している。

否定されることで、それまでになかった何かがポンと生まれる。

新しい世界の創造はそういう形でしかなされないのだ。
だから、

 

走れ!タカハシ

 

 

本稿は、『走れ!タカハシ』(村上龍著、講談社、1986年)とは題名が同じという以外、まったく関係はありません。
しかし、この11話のオムニバスからホログラムのように浮かび上がるタカハシヨシヒコはなんてリアルで素晴らしいんだ!
現役時代の高橋慶彦選手をご存じならなおさらです。
未読の方がいらしたら、ぜひ読んでみてください!

2004.4.20

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