essay 22

豊穣なる未遂 〜あるいは、表情としての密室〜

彼女をはじめて見たのは、今年1月に放映されたテレビドラマだった。

そのドラマで主人公の女子高生役だった彼女は、とびきりの美貌の持ち主というわけでもなかったが、なぜか私の目を奪うものがあった。毎日見るうちに、彼女はなかなか魅力的だと思うようになり、ドラマが終わる頃にはそんな思いは確かな存在として私の胸の内に住まうようになった。

だが、そんな彼女の魅力を他人に説明しようとすると、それがひどく難しいことであることに気づいた。他人に説明するよりも、まず自分に説明してやりたかったが、それすらが数論のちょっとした難問並みに困難を伴うものであると判断せざるを得なかった。

それはなぜなのか?

緩やかな微笑とともに許されることを期待して、彼女の映画的履歴からその理由を探ってみたい。

大林宣彦という、あらゆる二分割的分類をたゆまなくすり抜けていく作品を発表している監督によって撮られた映画『あの、夏の日~とんでろ じいちゃん~』(1999)もその例に漏れず、面白いのか面白くないのかまったく判別できないのだが、この作品によって彼女が映画界に登場したことは確かの部類に入る。

新人オーディションをくぐり抜けたのでも縁故関係によったのでもないとすれば、彼女がどこでこの監督の目にとまったのかは想像するよりないのだが、今となってはそんなことよりも、彼女を出演させた大林宣彦監督こそが以下の三つの点で賞賛されるのではないかと思う。

ひとつは単に彼女をデビューさせたという点で。
そしてもうひとつは彼女を制度的映画に収めることに失敗した事態をはじめてフィルムに定着させたという点で。
そして最後はその失敗を最小限に食い止める術を発見していたという点で。

ここに彼女を語る困難さの秘密がある。
彼女は普通の制度的映画にそぐわない。10かそこらの子供時分から彼女はすでに制度をはみ出し、逸脱し、観る者をどうにも途方に暮れさせるという類い希な才能を発揮していた!

この作品では、行儀よく制度的な子供の物語(この映画は“尾道市制百周年記念映画”と銘打っている)が展開されているのだが、竹格子のはめられた丸窓越しに彼女の蒼ざめた顔が登場すると、その瞬間を待っていたようにスクリーンはおびただしく戦略的薫りを放ちはじめる。

 


『あの、夏の日~とんでろ じいちゃん~』(1999)

 

これこそ映画を観るという体験なのだと言いながら、それは制度的映像体験を期待していた観客に、何かいけないものを目撃してしまったかのような居心地の震えを感じさせることになる。

大林監督が『あの、夏の日』で彼女に用意した役柄は、その回想の夏の終わりには肺病で死んでしまう11歳の女の子の役であったが、彼女が放つこの一瞬の戦略的魅力は、その女の子が現在ではすでに死んでいる存在であるという物語設定によってかろうじて制度内に留めることができる。

夢がどんなにリアルで快美なもの/恐ろしいものであっても、それが夢である以上現実の中には漏れ出てこれない事態と同じで、彼女の物語上での設定を異質なものにしておくことで、物語はかろうじて制度的枠内に収めることができる。どんなに夢にうなされても、目が覚めてしばらくすればすっかり忘れてしまうように、彼女の存在を“夢”にして“現実”としての物語は進行してゆくわけだ。

大林監督がおそらく巧まずして編み出したこの手法は、彼女のその後のフィルモグラフィーにおいて、彼女を起用して制度的映画を撮ろうとした監督によって怠ることなく継承されていくことになる。

 


『sWinGmaN』(2000)

 

『sWinGmaN』(2000)でメガホンを取った前田哲が彼女に振ったのは、人がその死を直前にして無意識的に放つ「助けて」という叫び声を聞いてしまうという超常的な能力を持つ少女の役だったし、同じく前田哲が撮った、彼女の初主演作『パコダテ人』(2002)では、彼女のお尻にある日しっぽが生えてしまう、という奇天烈な事態が彼女を襲う。

塩田明彦監督による主演2作目『害虫』(2002)は、母親は男を連れ込み、自殺未遂を繰り返し、自身も小学校時代に教師との恋愛関係歴がある中学生という、女の“性”に振り回される役柄だし、『富江 最終章 ~禁断の果実~』(2002)では不死の美少女富江に魅入られ、とうとう首だけになった富江を甲斐甲斐しく世話する少女という役だった。

どの役柄も、作品の拠って立つ物語という制度からこぼれ落ちたような設定を与えることで、彼女自身のもつ制度的映画からの逸脱性を補おうとしていることは明かだろう。

しかしそれらのどの作戦も作品としてうまくいっているとは言い難い。

そんな中で、非制度的であるが故に、彼女を肯定的な形でフィルムに収め得た、ひょっとすると唯一の作品かもしれない、『EUREKA 』(2001)をみておこう。

 


『EUREKA 』(2001)

 

青山真治監督作『EUREKA 』は、その217分という上映時間だけで十分非制度的と言えるのだが、それにもまして宮崎将と彼女扮する兄妹(実の兄妹でもある)に沈黙を設定したことが、この映画を戦略に満ちたものにした。

実は彼女の声はかなりいい。
彼女の声の表層はわら半紙を指で擦ったようなほんの少しかすれた音をしているが、そのすぐ下には十分に水分を含んだチューリップの茎のようにみずみずしい緑色の和音があり、そうした二部混声的な発音で一語一語がパキパキと理知的に区切られ、投げかけられる。その余韻はくっきりと球面を描き、いつまでもどこまでも届こうとする。まるで夢の中で聞く声のようだ。

それはありがちな感情の乗りにくい声なので、練られていない脚本だと棒読みに聞こえてしまう。おそらく彼女自身、その声で何を言うべきなのか、いまだに把握できていないのだろう。
その意味でその声を封殺してしまうという戦術は高度に戦略的なのだ。

それに呼吸を合わせるように役所広司のセリフもぼそぼそと聞き取りにくい。兄に怒られるとぷっつりと押し黙る。その他の共演者にしても、大声で叫ぶようなとき以外は誰も彼も何を言っているのかよく聞こえない。ここでは音声が極力節約されている。

そしてその戦術の最大の効果は、観客が彼女たちの表情や行動に注目し始めることにある。
演技者が言葉を発さないことが観客に伝わると、観客は表情とか身振りとか、その演技者の表層に注意を向けるようになる。

その他にも盛りだくさんの戦略を見せてツッコミどころ満載の『EUREKA 』だが、それはまたの機会のこととして、彼女に戻ろう。

冒頭、彼女の後頭部から表情のアップ、そして独白に始まり、ラストもその繰り返しのような、彼女の後頭部から表情のアップ、役所広司のバストショットと続き、それからそれまで単色で描かれていた画面が突如色づき、空撮が始まる。そこで画面中央にEUREKAの文字。

つまり始めから終わりまで、映画『EUREKA 』は彼女のものだったのであり、ひょっとするとこの題名は青山真治監督が彼女を発見した!ということへのモニュメントであるのかもしれない。

だが、いったいわれわれは彼女の何を発見したのだろう?

 

私は呼びかける。

未だ観ぬ、彼女の美をもっと豊かに、もっと新しく提示してくれる作品に。
映画が囚われてしまった制度を解体し、観ることの消費から、観ることの創造へ私たちを再度誘う映像体験に。

未だなされぬ、そうした豊穣なる事件の中でこそ、彼女の表情という密室はその真実の輝きを解き放つのではないか、と。

その時までどうか彼女よ、私たちを導いてくれ。
あなたの美を世界に顕現させるその日まで、私たちのそばにいてほしい。

お〜い!宮崎あお〜い!
聞こえるかぁ〜〜!
きみのことだぞ〜〜〜!!

 

 

<宮崎あおい関連サイト>

crayon ・・・宮崎あおいオフィシャルサイト
あおいそら・しろいくも ・・・宮崎あおいファンサイト
やっぱりあおいがなくちゃね ・・・宮崎あおいファンサイト
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あおいちゃんのページ、見つけたよ! ・・・宮崎あおいlink集

<『EUREKA 』関連サイト>

corpus.journalistic ・・・『EUREKA 』に関する青山真治監督インタビュー
crisscross内『EUREKA 』 ・・・大場正明による『EUREKA 』レビュー

2004.3.28

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