essay 20

ウイルスの正義 〜国家ら始める 2〜

正義とは何か?

「正義」について、とりあえず手元にある『新明解国語辞典』(三省堂・第三版)をひもといてみると、“道理にかなっていて、正しいこと”とある。ふむ。

Web上で提供されている 『大辞林』 によれば、もう少し詳しい解説を知ることができる。

 

“他者や人々の権利を尊重することで、各人に権利義務・報奨・制裁などを正当に割り当てること。アリストテレスによると、名誉や財貨を各人の価値に比例して分配する配分的正義と、相互交渉において損害額と賠償額などを等しくする矯正的(整調的)正義とに分かれる。また、国家の内で実現されるべき正義には自然的正義と人為的正義とがあり、前者が自然法、後者が実定法につながる。国家権力の確立した社会では、実定法的正義は国家により定められるが、これは形式化・固定化されやすい。そこで、各人がその価値に応じた配分を受け、基本的人権を中心とした諸権利を保障されるべしという社会的正義の要求が、社会主義思想などによって掲げられることになる。公正。公平。”

『大辞林』“正義”(2)

ごちゃごちゃしていてよく飲み込めないが、アリストテレスの言っていることが基本的なようだ。

 

「正義」とは「正しいこと」を行いうる人間の魂の状態であり、「正しいこと」は「合法的なこと」と「公正なこと」からなる故に、「正義」は「他者との関係における」完全な徳である。

ここで「公正なこと」に制限して「正義」を考えてみると、「正義」は、「配分」する正義と「是正」する正義に分けられることがわかる。

「配分」する正義は、配分される事物間の関係と配分を受ける当事者相互に見られる関係とが同じであらねばならない、と主張する。
例えば、10の富を二人で分けるとき、その二人の価値が6対4であるならば、富も6対4に配分されることが「配分」の正義である。

「是正」する正義は、当事者間に生じた何らかの不平等を裁判官の判断により公平に是正することをいう。
例えば、AがBに殴られたならば、Aだけが一方的に不利益を被ったことになる。これを裁判官の裁量により、Aの受けた不利益に相当するだけの不利益をBに与えることが「是正」の正義である。

『ニコマコス倫理学』“第5巻”朴一功訳、京都大学学術出版会 より改

 

これらを、ザバザバッとまとめてみると、

“「正義」とは、何らかの基準に照らし、その基準通りに、事物を当事者たちに分配しようという考え方である”

と言えるのではないだろうか。いや、 言ってしまおう
一番古いはずなのに、「正義」とは事物の「分配」に関する処方だ、というのが斬新に聞こえると思うのは私だけか。
これはかなり使える定義だと思う。

 

ウイルスとは何か?

ウイルスは増殖する。その意味では生物なのだが、宿主に寄生しないと増殖できず、宿主のいないところでは結晶になったりもして、まるっきり無生物のようだ。ウイルスは生物と無生物の境界に位置する。

ウイルスは、ウイルスの遺伝子(DNAもしくはRNA)と、それを守っているタンパクの殻(サブユニットという)の連なりから成り、なかにはさらにその全体を包む膜構造(エンベロープという)をまとっているものもあるが、その大きさはおよそ 20〜300ナノメートル (10の-9乗メートル)ほど。

サブユニットは対称的に配置されているので、電子顕微鏡から見る ウイルスの姿 は幾何学的(球状ウイルスはすべて正20面体)で、なかには 信じられない姿 をしているものもある。

ウイルスは宿主を選り好みする性質(これをトロピズムという)をもっており、トロピズムにより大まかには、動物ウイルス、細菌ウイルス、植物ウイルスに分類される。

ウイルスが増殖するためにはまず細胞に感染せねばならない。
この感染は、ウイルスが細胞にくっつき(吸着という)、細胞の中に入り(侵入という)、遺伝子を包む殻を脱ぎ捨てる(脱殻という)という過程からなる。
次いで、裸になったウイルスゲノム(遺伝子)は各ウイルス特有の増殖部位へ移動し、そこでウイルスの素材を合成する。首尾良くゲノムの複製とタンパクの殻を合成し終えたなら、それらを組み立て(集合という)、組み立てられたウイルスは細胞から出て行く。これでウイルス増殖の1サイクルが終わる。

ほとんどのウイルスでは、ウイルスの増殖が起こると、その細胞は死ぬ。その死因には様々なものがあるが、それらをひっくるめて細胞変性効果という。しかし、ウイルスの増殖により、どうやってそれらの細胞変性効果が引き起こされるのかはまだよくわかっていない場合もある。だがともかくウイルスが増殖すると、細胞破壊が起き、それが発病として表面に出てくることになる。

DNAに比べRNAは複製の際に桁違いに間違いを起こしやすい。したがって遺伝子としてRNAを採用しているウイルス(RNAウイルスという)は凄まじいスピードで突然変異する。その変異の速さは人間の遺伝子に比べ100万倍ともいわれる。そのなかには、エイズを引き起こすHIVや、インフルエンザウイルス、C型肝炎ウイルスなどがある。

ウイルスの本質をひとことで言えば、「増殖」だろう。しかも目を見張るばかりに純粋な「増殖」。

ウイルスは何かを目指したり何かのために増殖するのではない。ただ増殖する。コンピュータウイルスとはその点で本質的に異なっている。むしろ肥大した資本主義とどこか相通ずるものがある。
“過ぎたるは及ばざるがごとし”とはひょっとするとウイルスと資本主義のことを詠んだ予言だったりして。

 

ウイルスの正義とは何か?

ウイルスに正義があるとすれば、自分たちが感染を果たした宿主の細胞をどの程度破壊し自分を増殖させるのか、その割合にあるだろう。エボラのように宿主の命を短期間に奪っていては安定した増殖は望めない。かといって遠慮していては増殖するのはむずかしい。そのギリギリの線で正義を貫いて生存しているのが現存のウイルスたちだ。

そしてもうひとつ。
宿主もただ黙ってウイルスの増殖を許しているのではない。私たちは免疫という巧妙な仕組みで日々身体に侵入してくる目に見えない異物たちを除去している。この免疫作用をかいくぐらなければウイルスは感染すらできない。

そのためには抗体が受け付けないよう自らを突然変異させる作戦をとる必要があるのだが、あまりに大きな変異をしていては、ウイルスのアイデンティティーが失われてしまうし、変異のスピードが速すぎると、もはやその宿主には感染できなくなる突破点を通過して自滅の道に入ってしまうかもしれない。だから突然変異のスピードは速からず遅からず中庸の速さであらねばならない。

といっても、細胞破壊の割合にしろ、突然変異するスピードにしろ、ウイルスたちがうまく調整して決めたのではなく、ただ偶然にその割合、そのスピードであったウイルスたちが生き残っているにすぎない。

 

ウイルスの正義をわれわれの正義に敷衍するとどうなるか?

われわれの正義の基本的な弱点は、分配の基準が恣意的である点だ。だから数にまかせてあるいは力にものをいわせて自分たちに都合のいい基準をもってきては正義だと称し、あれやこれやを取り込んでおいてまるで分捕り合戦に勝利した盗賊のように喜ぶ国家の主導者や個人の登場を阻止することができない。

それを不正義だと感じるとしたら、その理由の多くは彼らの正義の基準と私たちのそれとが異なっているからだ。彼らが間違っていて私たちが正しいからでは決してない。

だがいいのだ。

誰しも恣意的に自分だけの正義を心に抱いていていいし、その中には、たまたま力があって自分の正義を他者に押しつけるという無礼を平気で働く輩がいるだろうが、それもいい。

そうした輩たちにせよ、そんな気はないよ、と弱者を装う私たちにせよ、まったく同じ関係性の中でおそらく淘汰されるだろう。そのことをウイルスたちが教えてくれる。ただ彼らと違ってわれわれの変異スピードはかなり遅いからそれだけ時間がかかる。しかし間違いなく淘汰は起こる。ただそのとき淘汰されるのは無礼な輩たちかもしれないが、同じだけの可能性で弱い私たちであるかもしれない。

 

抗体になろう!

もし日常のいろんな場面で不正義を感じたとしたら、彼らを淘汰すべく(あるいは私たちが淘汰されるべく)私たちは抗体のように彼らを阻止せねばならない。もちろんそのとき私たちにとっては彼らが抗体になるわけで、逆に私たちが阻止されるかもしれない。

阻止し、阻止される。

これがこの世界に存在するものたちのもっともあたりまえの関係だ。

 

予告

ウイルスの正義を経ることで私たち人間や国家のどんな正義も、より広く長い視点からみればやがては淘汰されるという歴史的視点に私たちは立つことになった。

だがそんなことですましていていいのか?
あまりに深謀遠慮な結論に辛抱できずに戸惑う庶民たち。
抗体になれ?なんじゃそりゃ!
鋭い糾弾が飛び交う中、彼らをなだめることができるのか?
さらなる緊張の次回、「手にすること」。

さあて次回も奉仕、奉仕!

2004.1.27

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