essay 19

あたりまえのこと、あたりまえでないこと、そして夢


新年明けましておめでとうございます

2004年をこうして迎えることが出来たのも、ひとえにここを訪ねてくださった方たちのおかげです。
その具体的な行為を思うと、ただもう「うれしいなあ〜」という気持ちがこう、じわっ〜と、胸のあたりのどこかから湧いてくるのです。
ふきこぼれそうな涙を拭うこともせず感謝いたします。
ありがとうございました。

「あたりまえだのクラッカー」 と言えばかなり昔のCMの文句だが、私と同じ年代の人なら知らない人はいないだろう、と思っていたが、ネットで検索してみると、このCMはどうやら 関東方面では放送していなかった ようだ。

ま、そんなことはどうでもいいのだが、“あたりまえのこと”と言葉にする時、あれから数十年後の今日でさえ、多くの人たちに共有されつつごくあたりまえにこのCMの文句が思い浮かぶのだからテレビは怖いものだ。

そういえば、小津の『お早よう』(1959)の一場面に、主人公家族の父親(笠智衆)が近所に住む男(田中春男)や客(菅原通済)と一杯飲み屋で交わす次のような会話のシークエンスがある。

 

田中「そうですなあ、なるほど。そうかなあ。まっ、一杯いきましょう」

笠「あっ、もうもう」

田中「ご迷惑だっか?」

笠「いやあ、そんなこと」

田中「まあ、よろしいがな。そりゃまあ、無駄っちゅうたら、酒飲むのも煙草吸うのも無駄だす。でもええやないですか」

笠「ええ。そりゃあいいです」

田中「ねえ。うちの子が、買うてくれ、買うてくれ、いう気持ちもわかりまっせ。そりゃようわかる。わしかて見たいんですもん。けど、買えまへんわ」

笠「やあ。買える買えないはともかく、私は欲しくありませんねえ。誰だったか、テレビなんてものは、 一億総白痴化 の元だなんて言ってますしねえ」

田中「ほう〜、そうでっか。けどそりゃ、何のこってす?」

笠「いやあ、日本人がみんなバカになるって言うんですよ」

田中「ほう〜、そりゃえらいこと言いよるな。なるほど、なるほど。けど、そりゃどういうこっちゃろ?だんな、 あんたどう見てはる?」

菅原「なんです?」

田中「テレビだすがな」

菅原「ああ、テレビねえ。一億総白痴化かあ」

田中「あんた、知ってはんのか」

菅原「ええ。困ったもんですねえ」

田中「やっぱりお困りだっか。そういうもんでっかなあ〜。あんまり世の中便利になると、かえってあきまへんなあ」

笠「そうですねえ・・・」

 

ここまでのシークエンスで、笠の長男がテレビを買ってくれと駄々をこねるので、笠が「うるさい。少しは黙っていろ。下らんことを言うな」と叱ると、子供は、「なんだい。大人たちだってあいさつなんて無駄なことをしているじゃないか」と言い返す、というストーリーが描かれているのだが、それらを受けての会話だ。

これによると、世間ではこの頃からテレビの影響が懸念されていた事情がうかがえる。
今日でさえ同じ趣旨のテレビ反対論がいくらでもある。

こうしたテレビ論に限らず、現に起こっていることに対する不平や批判を言い募りたくなることは誰でもあるはずだ。いや、むしろそういうことばかりかもしれない。
しかしひとりぶつぶつとつぶやいても事態に変化は起こらない。

これはどうしたことだろうか?

テレビ番組は低俗だからこれを見るとみんなバカになる、という批判論者はひょっとすると、自分のその意見をあたりまえのことだと考えているのではないか。
対してテレビを見たいという擁護論者も自分のその欲望の表明を同じようにあたりまえのことだと主張しているのではないか。

ある事態に対して相反する意見を有する双方が、互いに自分の意見をあたりまえのこと・正しいこととしてどこまでも主張しあうならば、それらを調停する場を必要とするだろう。確かに現代社会はそういう場合を想定して構成されている。

 

しかし私はそうした構図に一つ提案をしたい。

テレビ番組は低俗だからこれを見るとみんなバカになる、という意見はどこから見ても“あたりまえのこと”ではないし、面白いんだからテレビを見たい、という意見もどこから見ても“あたりまえのこと”ではない。

ある事態があったとして、それに対する意見はすべて、“あたりまえのこと”ではない。
ゆえにどのような意見にしろ、“オレこそ正しいのだ”とする主張は、実は間違っている。

それらの意見はすべて、“あたりまえでないこと”なのだ。
ゆえにどのような意見にしろ、“オレは正しくはない”という前提のもとでのみ主張しうる、と。

じゃあ、“あたりまえのこと”って何なのか?
“あたりまえのこと”はどこにもないことになるんじゃないか?

“あたりまえのこと”とは“あたりまえでないこと”を主張しあうための大前提だと解釈すればいい。
テレビ論で言えば、テレビ受像器が発売され、テレビ番組が放送されている、ということが“あたりまえのこと”になるだろうか。

そしてもうひとつ。
各人がその“あたりまえでないこと”を主張する、その駆動力を“夢”と名付けること。
つまり人は自分の主張をその“正しさ”ゆえに主張するのではなく、その“夢”ゆえに主張するのだ。

あらゆる意見構造はこれらによって成り立っているのではないだろうか。
“あたりまえのこと”、“あたりまえでないこと”そして“夢”で。

ついでにこれらのことを標語にしておこう。

“あたりまえのこと”→ A (A matter of course)
“あたりまえでないこと”→ notA
そして“夢”→ and D

すると、今回の標語は次のようになる。

“A,notA and D”

さあ、うわごとでつぶやくようになるまで繰り返すがいい!

“A,notA and D”
“A,notA and D”
“A,notA and D”
・・・

 

今年もどうぞよろしくお願いいたします

2004.1.10

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