essay 18

三位一体説、提出 〜国家ら始める 1〜

どういうわけだか、国について何かを整理してみたくなった。
国といっても、♪故郷は遠い〜、というあの国ではなく、国という組織、つまり国家のことだ。ぼくが国家などというのは、どうも口幅ったくて、どこかがムズムズするのだけれど、我慢することにしよう。とにかくとりあえず整頓してみたいのだ。

このムズムズを「国家ら始める」と題することにした。

とはいえ、ここから何が始まるのか何の思惑を持っているわけでもないし、落としどころもあるのかないのかさっぱりと見当さえついていないのだが、だからこそ「無定量宣言」にふさわしいのかもしれない。ともかく、不定期にぽつぽつと続けていこうと思っている。
今回はその第一回目ということになる。

 

三位一体説

ローマではその昔、アナスタシウスが、「父なる神」・「子なるキリスト」・「聖霊」の三位一体説を確立し、この日本では今、小泉純一郎が「国から地方への補助金の減額」・「国から地方への税源委譲」・「地方交付税の縮小」の三位一体説を提案しているのだから、僕が「国家」・「個人」・「ウイルス」の三位一体説を提出しても、どこからも文句は出ないだろう。

ただし、アナスタシウスと小泉純一郎の定立した三位一体説は、当該三要素の相等性・不可分性を唱えるものだが、僕の提出する三位一体説は、三要素の相同性を訴えている点で少し異なる。
そもそも、「国家」と「個人」は、古来より多くの人々によってその相同性が認識され、応用されてきた。

たとえば、

「ぼくの見るところでは、われわれがしようとする探求は容易なものではなく、よほど慧眼の人でもないかぎり成就できないことのようだ。ところでわれわれはそうすぐれた者ではないのだから、こんな方法でそれを探求してみてはどうだろう」とわたしは言った、
「つまり、そう遠目の利くほうではない人たちが小さな文字を遠くから見分けるよう命じられた場合、それと同じ文字がどこか別のところに大きく、また大きく書かれていると気づいたときにするようなやり方だ。そんなときはもっけの幸いと、大きい方を先に見分けたうえで、小さい文字のほうも同じものかどうか調べてみるだろう」

「それはおっしゃるとおりです」とアデイマントスが言った、

「しかしソクラテス、この《正義》についての探求では、何がそれにあたるとお考えなのですか?」

「君に言ってあげよう」とわたしは言った、

「正義は一個人についてもあるし、また国家全体についてもあるとわれわれは言うのだね?」

「そのとおりです」とかれは言った。

「ところで国家のほうが一個人より大きいのではないかね?」

「それは大きいです」

「するとたぶん、より大きいもののなかにはよりたくさんの正義があり、いっそう容易に認められるというわけだ。そこでもし君たちが望むなら、まず国家において正義がどんなものであるか調べてみよう。それから各個人においても、そんなふうに大きなものに似た点を小さなものの姿のなかに探しながら調べるとしよう」

「それはよいご提案だと思います」とかれが言った。

『国家』プラトン、第二巻368D〜369

 

本能とは行動規範であるが、本能が壊れた人間は本能に代わる行動規範を持たねばならない。それが自我であり、人間は自我にもとづいて、たとえば自分は男であるとか、社長であるとか、日本人であるとかの自己規定にもとづいて行動を決定する。ここに、人間が過去を気にする第二の理由がある。

自我というものを構築した以上、人間は自我の起源を説明し、自我の存在を価値づけ正当化する物語を必要とするが、この物語をつくるためには過去を気にせざるを得ない。

ところで、人間はいろいろ罪深い、不安な、恥ずかしい、あるいは屈辱的な経験をせざるを得ないが、そうした経験は自我の物語にとって好ましくなく、できれば、そのようなことは起こらなかったと思いたい種類のものである。

そこで人間は現実の経験を隠蔽し、偽りの自我の物語をつくることになる。この偽りの物語でうまくやってゆければ好都合であるが、そうは問屋が卸さない。偽りの物語にもとづいて行動すれば、それが偽りであることを知っている人たちとの関係、それが偽りであることを知っている自分の別の面との関係、現実との関係が障害され、当人は精神的に病むことになる。

このメカニズムは、個人の場合も、民族や国家などの集団の場合も同じである。個人も集団も何らかの不都合な経験を隠蔽しているから、多かれ少なかれ病んでいる。狂い方はそれぞれ異なるが、日本もアメリカもフランスもロシアもみんな狂っている。


『二十世紀を精神分析する』岸田秀、文藝春秋

といった具合だ。

上に挙げた例では、最初のものは、「国家」に関する“正義”という概念を「個人」にあてはめることで、正しく生きることとはどういうことなのかを探ろうとしているし、後のものでは、「個人」に関するものとして発明されたはずの“精神分析”という手法を、「国家」にまで拡大解釈・適用することで、「国家」に関する新しい知見を得たりしているのだが、それらが有意味であるためには、国家と個人の間に構造上の対応があることが示されねばならない。

ここではさらにウイルスまでも巻き込んで、これで三位一体だっ、などとほざこうというのだが、国家と個人とウイルスと、これらの間に構造上の対応があると、どう示すべきか?

まじめに取り組むと幾夜が明けそうなので、ふまじめに取り組むことにして、簡単に言うと、

もし国家と個人の間に構造上の対応があるならば、その構造の大きさ・複雑さに外挿を施すことで、その構造上の対応はより完璧になるのではないかと考えられる、ということだ。

このことをもう少しわかりやすく言うために、数に喩えて、個人を1としよう。すると、国家は個人を包含する大きさ・複雑さをもっているから、1より大きく、しかも国家を包含するような、さらに大きく、複雑で有機的な組織体はないので、国家は無限大に近い大きさの数に喩えられることになる。

すると自然に、もう一つ、0に近い数に喩えられるべき有機的な組織体があった方がいいんじゃないか、いや、あるべきだ、と想像してしまう。となるとそれにはウイルスほどふさわしいものはないだろう。

この三位一体説のねらいは、ウイルスという極微の生物を通して、国家について考察してみることにある(大丈夫?)。

 

予告

国家・個人・ウイルスの三位一体説が提出され、国家の考察に際しウイルスをモデルにするなどという、 戯けたアイデアがまかり通ることになった。

ではウイルスとは何か?ウイルスから国家を見通すことができるのか?
単なるとんちんかんな破局に至るのか、それとも人類を救う希望の星となれるのか?
緊張の次回、「ウイルスの正義」。

さあて次回も奉仕、奉仕!

2003.12.13

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