essay 17

決断のための小さな指針

身体状況という世界のひとつの断面がある。
この断面はある特殊な性質を有していると考えられている。それは、身体状況がこの世界の他のどんな断面よりも個人的な状況である、という性質だ。身体状況はあまりに個人的であるがゆえに、通常、個人が世界について言及する際、最も後で思い出される状況のひとつとなっている。時には世界にとって身体状況はほとんど無視されることさえあるほどだ。いや、時にはでなく、一部の哲学者やプロのアスリートなどを除くと、ほとんどの人の場合、通常は無視されているのではないか。思い出されるのは、身体状況が不調を示し始めたときだけかもしれない。

この事情を飲み込むために、例えば歯痛という身体状況の不調を考えてみよう。歯痛に苦しんでいる当人が、たとえ数時間に渡ってその痛みについて語ったところで、それを気の毒にも数時間に渡って聞かされた他人にとって、それを聞いて、そうか、歯というものがこの俺にもあったっけな、と思い出すことはあっても、その人の歯が痛むわけでは決してない。その痛みはどうやっても他人には分からないだろう。そして、聞かされた方としても、せいぜいが自分の歯痛経験からその当人の痛みを推測し、想像し、同情することができるだけだ。しかしその際でさえ、自分の歯が実際に痛み始めることはない。(この事実を逆手に取った記憶に残る挿話として、アーサー・C・クラークの『地球幼年期の終わり』の中の闘牛の話がある。)

だがそんな身体状況にもその道のプロがいて、不調の折りなどには貴重な助言を与えてくれたりする。身体状況のプロとは、言うまでもなくお医者さんのことだ。お医者さんは身体状況のプロであるべく、古今東西から様々な身体状況の不調例を集め、分類し、生物学的知識に還元し、さらに再総合して医学という理論を営々と築いている。

しかし今日まで、そうして集積されてきた医学知識は、あくまで本来的には個人的状況であるはずの身体状況の抽象でしかあり得ず、身体状況の不調で苦しんでいる目の前の当人のその苦しみの理解を可能にするものではないことは、少し考えれば誰にも明らかなことだ。また、だからこそ、医師は患者を治療できるのだ。

つまり、例えばあなたが身体状況の不調で苦しんでいる折り、その側にお医者さんがいたとしても、その身体状況の不調はやはり依然としてあなたの個人的状況であり続けるのだ。もちろんお医者さんはあなたに何かをしようと提案してくれるかもしれない。誰だって、あなたが苦しんでいるのを見ていれば、自分にできるだけのことをしたいと思うだろう。しかし、その提案を受け入れるかどうかの決断はあなた自身がせねばならず、決断した後の結果についての責任もあなた自身が負わねばならないし、実際負うことになることは明白だろう。身体状況の不調はあなたの個人的状況だ、というのはそういうことなのだ。

だとすると、 お医者さんからの提案を受けるべきか、断るべきなのか、この決断が問題となってくる。

さて、ここで僕自身がある身体状況の不調下にあり、その道のプロ、つまりお医者さんから、その不調を回復するための提案を受けたと仮定しよう。提案とは、治療という行為の提案であることは言うまでもない。だがその治療にはある確率で失敗する可能性があるとしよう。

その時、僕はその提案に対してどう決断すべきだろう?その提案を受け入れて治療してもらうべきか、それとも断るべきか?それを考えてみたい。

考えるといっても、僕が考えるわけではない。僕の代わりに、数式に考えてもらおうと思う。

 

いくつか記号を導入する。

p:その治療が失敗する確率
A:その治療が失敗することによって負わねばならない不利益
B:治療を断ったことによって負わねばならない不利益

すると、治療を受けて負うべき不利益はpAであり、治療を受けないために負うべき不利益はBだということになる。提案を受け入れるかどうかの決断はこれらの不利益の大きさで決めるのが分かりやすい。すると、

pA<B

ならば治療を受けるべきだということになる。

このままではこれ以上話が進まないので、もう一つ記号を導入する。

k:A/Bのこと。(1≦k)

つまり、kとは、治療を受けずに負うべき不利益に対し、治療が失敗したとき負うべき不利益がどのぐらい(何倍ぐらい)大きいのか、その比率のことだ。歯痛を例にすると、治療を受けずに負うべき不利益とは歯痛そのものであり、治療が失敗したときに負うべき不利益とは例えば抜かなくても治るはずなのに誤って歯を抜かれてしまったことだとすると、ふ〜む、何の根拠もないけど、k=1.5ぐらいかなあ。

このkを使うと、先ほどの不等式は

p<1/k

となる。

pの方はその道のプロであるお医者さんに聞いてみれば、ある程度客観的数値として算定できるのではないかと思う。しかし、このkの算出は歯痛の例でもわかるように、おそらくほとんど不可能だろう。例のように無理矢理算出したとしてもほとんど無意味な数値に近い。

ではこんな不等式は何の意味もない?

まあ、そう言われればそうなのだが、そう言わなきゃそうでもないのだ。
kの値が決まらないのだから、kとして取りうる極端な数値を代入してみればいい。

k=∞の場合。
これは、治療を受けずに負うべき不利益に対し、治療が失敗したとき負うべき不利益が比べようもないほど大きい場合に相当する。この場合不等式の右辺は0だから、失敗確率が0未満であらねばならず、そんなことはありえないので、この不等式は成り立たない。つまり、現状に対し、失敗したときのツケがあまりに大きいと思うなら、その治療はするべきではないということになる。

k=1の場合。
これは、治療を受けずに負うべき不利益と、治療が失敗したとき負うべき不利益が等しい場合だが、そう解釈するよりも、治療を受けずに負うべき不利益、つまり現状が、耐え難いものである場合、と考えた方が応用が利く。この場合、右辺は1で、失敗確率が1未満ならこの不等式は成り立つ。つまり、現状が耐え難いと感じている場合、ほんの少しでも成功するチャンすがあるのなら、治療を受けるべきだ、ということになる。

 

結論としてもう一度繰り返すなら、

このままでは死にそうなら、あるいは死にそうに辛いなら、どんな治療でも受けるべきだ。
そうでないなら致命的な危険を伴う可能性のある治療は受けるべきではない。

となるだろう。

結論は至極常識的なものになったが、数式による根拠が少しだけどあると思うと、そんな結論も受け入れやすく思えるのは僕だけでしょうか。

2003.11.20

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