essay 16

ぼくのライヴる

先日久しぶりにアメリカン・フォークの ライヴ を聴きに行く機会を持てた。

演っていたのはNeal Casal。背は6フィート弱ぐらいで、濃い紺色の長袖シャツにジーンズという出で立ち。そのシャツの胸の部分にはバラの刺繍があしらわれている。アゴまで届きそうな葡萄色の長髪は頭頂部できっちり左右に分けられているが、額あたりからはもつれるように細かいカーブを柔らかそうに描いている。その影には頬まで伸びたもみあげがあり、それが繊細な中に逞しさを感じさせている。
声は甘く、力強い。ピアニッシモからフォルティッシモまで、その揺るぎない安定感が心地よく響く。
彼はギター一本を様々に変調させながら次々と演奏してくれた。

20世紀以来、テクノロジーの進歩は音楽享受のスタイルを次々と変えていった。それまでは演奏会に足を運ぶしか音楽に接する機会はなかったが、まずレコードが発明され、ラジオがそれに録音された音楽を広め、音楽は大衆のものとなる。次いでカセットテープ、CDと、新しい音楽メディアが登場しては多くの個人に受け入れられていった。
これらのメディアの流布はそれまでの音楽行為がもつ一回性を否定し、いつでも・どこでもその<音楽>を享受できることを可能にした。だがその<音楽>は当然ながらそれまでの音楽行為そのものではない。それは<複製された>という新しい性格を貼付された音楽だった。

Nealは曲と曲の合間、弦を変調させながら何やら囁くように喋ったり、あるいは優しく微笑んでみせてくれたりした。初めての来日で少しはにかんでいるのだろうか、やや俯きながらそれらの行為を終えるとアンプを再びオンにし、顔を上げ、次の歌を歌う。そんな様子のひとつひとつを目の前にしていると、Nealのauraがホール全体に広がって、僕たちのそれと触れ合っているような感じを覚える。そんな感じを覚えるために僕たちは今・ここにいるのかもしれなかった。

<複製された>音楽に積極的意味を認め、レコーディングに専念した演奏家に、ピアニストのグレン・グールドがいる。彼の芸術観を端的に表した言葉に次のようなものがある。

演奏会場においてのみ、つまりアーチストが聴き手と直接の交流をもってこそ、人間と人間のコミュニケーションという高貴なドラマを経験することができる、そう忠告する人たちも当然あるだろう。だがこの忠告には次のように返答できると思う。芸術がそのもっとも高貴な使命を果たしているとき、それはほとんど人間レベルのものでなくなっているのだ、と。

“拍手喝采おことわり!”「グレン・グールド著作集2」野水瑞穂訳 みすず書房

「ほとんど人間レベルのものでなくなっている」音楽は、演奏後の決まり事のように送られる拍手喝采などは必要としないのだろう。さらに言えば、「ほとんど人間レベルのものでなくなっている」音楽は、聴衆といったものさえ実は必要としていないのではないか。であるなら、コンサートではなく、レコーディングで自分の演奏を表現していけばそれで十分、という彼の結論も納得がいく。

Nealは歌い終わり、僕はどこか幸せな気分で会場を後にしたのだが、その幸せの理由がどこにあるのか、実はよく分からなかった。Nealの音楽を体験したからなのか、Nealのauraを体験したからなのか。
しかし自分のせっかくの幸せな気分を陳腐な分析によって台無しにしてしまうほど野暮な行為もそうはあるまいと思い直し、さらに幸せになるべく、一緒にいた友人たちと飲みに行くことにしたのだった。

現代音楽界にグールドが提出して見せたのは、“芸術たる音楽にとって聴衆は必要ない”というテーゼであり、その方法論としての“編集"と“テクノロジー"の重要性であった。
対して指揮者のアルトゥール・ルービンシュタインは、グールドとの対話の中で次のように言っている。

聴衆が発する、あのきわめて特殊な気といったものを感じたことはほんの瞬間でもなかったのかしら。自分があの人たちの魂を捉えているという感じはしなかったのかね。

どうか笑わないでくださいよ。(中略)あのね、われわれのなかには一種の力が宿っているという感じがするんだ。(中略)私がこのことを話すのは、(中略)きみはある意味で、説得したり、支配したり、捉えたりしなければならない群衆との、(中略)あの接触を体験しただろうと思うからだよ。(中略)こちらの気分がよければ、かれら全員の注意を自分のものにする。ひとつの音を弾いて一分間もそれを持続させることもできる。(中略)レコードではこのような一種の放射作用はありえない。ここのところが、私の言いたいところだよ。よろしいですか、レコードではけっしてないことなんだ。

“ルービンシュタイン”「グレン・グールド著作集2」野水瑞穂訳 みすず書房

この発言は演奏者の視点から発せられているのだが、コンサートやライヴの本質を言い当てているのではないだろうか。聴衆の側も優れた演奏者の発する「一種の放射作用」に包まれ、その場の皆と一体になりたいのだ。一体となって、何事かの創造に一役買っているという体験をしてみたいのだ。それが人々をコンサートやライヴに駆り立てる大きな理由だろうと思う。

グールドとルービンシュタインがこれらの対話を残して以来数十年が経ったわけだが、今でもなお、音楽を巡る現状は両者の視線の有効射程内にあるようだ。むしろそれぞれの立場がより鋭角的に認識されているのではないかとすら思われる。それは大衆音楽のレベルにおいてますます際立ってそう見える。

Nealのライヴに幸せを感じたしばらく後に、主催者さんのご厚意により、そのライヴの模様を収録したCDを手にすることができたのだが、それは今ではMP3となって僕のパソコンに取り入れられ、いつでも僕を楽しませてくれる。

彷徨ってみたい様々な疑問を内包したまま、音楽を取り巻く状況は急流のごとく移ろいゆくのだが、視点を変えてみれば、急流と見えた波の動きも静かに揺蕩う白い帯に過ぎないことがわかるだろう。その奥深くに横たわっている音楽の本質にとって、そんな水面上の変化は、降り注ぐ眩い光をアダージョのように奏でる心地よいだけのものなのかもしれない。

そうであるなら、結論などという形而下的事態に待避するのではなく、Snakeman Showを見習って、 空虚なトートロジーの中で悠然とふんぞり返るのもひとつの手だろう。

「今の複製音楽はさあ、なんて言うの、いいものもある。だけど、悪いものもあるんだよね」
「僕はちょっと違うんだなあ。よく聴くとライヴは、いいものもある。悪いものもある」
「ちょっといい?僕はねえ、やっぱりYMOが一番・・・」
「ちょっと待ってよ。はっきり言わせてもらって、複製音楽はさあ、いいものもあるけど、悪いものもあるんだよ」
「違う!僕はきみとちょっと違うんだけどさあ、ライヴは、いいものもある。悪いものもある!」
「いいですか?僕は絶対YMOが一番・・・」
・・・

“Snakeman Show(改)”『X~MULTIPLIES』YMO

2003.11.11

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