essay 15

感想文『ヒカルの碁』〜人物構成の面白さ

『ヒカ碁』の人物構成を見てみると、そこかしこに奇妙な対称性を見出すことができる。

まず顕著なのは主人公進藤ヒカルとそのライバル塔矢アキラをめぐる人物構成がほぼ同型であることだろう。

進藤ヒカル塔矢アキラ
藤原佐為塔矢行洋
ヒカルの母塔矢明子
藤崎あかり市川晴美
森下九段緒方精次

アキラにとって、塔矢行洋は父でありながら、2歳の時から碁を習った師匠でもあるが、父としての行洋はほとんど描かれていない。それはヒカルに父がありながら、その父は全巻を通してまったく姿を現していないことと対応する。
唯一ヒカルの父の存在が描かれるのは、祖父の倉に泥棒が入ったときだが、それでさえ足首が一コマ描かれるにすぎない(第15巻 p.25)。
ヒカルの父のこの隠匿ぶりは徹底している。したがって、両者に共通するこの父性の不在は、物語的にはっきりと意図されたものだと考えるべきだ。
そういえば、院生だった越智がプロとなったアキラに指導を仰ぐ場面でも、世話を焼くのは越智の祖父であり、越智の父ではなかったことを思い出す。その点で北斗杯編から登場する社清春の父がはっきりと登場するのは例外的だが、その父は息子が囲碁のプロになることに反対しているゆえに登場を許されたのかもしれない。
ともあれ、『ヒカ碁』におけるこの父性の積極的な不在は機会があれば別項で考えることとして、ここで指摘しておきたいのは、塔矢行洋はアキラの父ではなく、師であると考えるべきだということだ。

上で指摘した父性の不在に比べ、両者の母はよく登場する。
ただヒカルの母とアキラの母(塔矢明子)では付与された性格が異なっている。ヒカルの母は息子の成長に戸惑いを隠せず、おろおろするばかりで、どこか自信がなく、頼りないイメージで描かれている。そのおかげで読者としてはヒカルに対する佐為の母性を抵抗なく受け止められるのだが、彼女、実は名前さえ設定されていない。
対してアキラの母は、アキラの母親というより、塔矢行洋の妻として描かれている。これはアキラがこの頃すでに独り立ち可能なほどに完成した子なのだという面を強調する。

藤崎あかりはヒカルの幼なじみの同級生だ。ヒカルの後ばかりついて歩いているイメージがあり、ヒカルを無意識に慕っているようだ。そんなあかりだが、ヒカルを葉瀬中の創立祭に誘い、それを切っ掛けにヒカルは碁に覚醒することになるのだから、重要な役割をこなしているのだ。対して市川晴美は塔矢行洋が経営する碁会所の受付嬢だが、これははっきりとアキラを崇拝しており、雨降りの日にアキラを学校まで迎えにいったりする(第2巻 p.185)。

森下九段は院生になったヒカルが院生仲間の和谷に誘われて参加した研究会の主宰者で、和谷の師匠でもある。佐為以外に師匠を持たないヒカルはそこで初めて佐為以外の人から教えを受けることになる。そしてプロになり、佐為のかつてのこの世での名、本因坊秀策を冠した第58期本因坊戦予選で森下九段と初対局するが、一瞬の気後れから敗北を喫する。同日、第57期本因坊リーグ戦でアキラは塔矢行洋以外で最も教えを受けた人といっていい緒方精次十段・碁聖と対局するが、これまた実力が少し及ばず敗戦。ヒカルとアキラはそれぞれに恩のある両先輩からプロの洗礼を受けたわけだが、その差は著しくわずかなものであることも明白となった。

ざっと見ただけだが、以上のように、ヒカルとアキラは同型の人物構成の中にある。そして、それらの諸人物が平行して、時に交錯して描かれる様はカノンのように美しい。そこで奏でられた音のひとつひとつがこだまを呼び、同型構造の中で心地よい和音を形成する。ヒカルとアキラは、この同型的な人物構成の中で、結びつけられた二つの鈴のごとく共鳴しあい、予定された調和へと螺旋状の上昇軌道を描く。

だが、ある日この構図の一部が失われることになる。それを切っ掛けに構造が変化する。

もちろんそれは佐為の消失を指す。
この佐為の消失という出来事は、この物語自体の消滅さえもたらしかねない重大な意味を孕んでいる。これまで物語を推進してきた同型構造が崩壊してしまうからだ。だが同時にこれほどの激動は、物語の進化論的な飛躍を可能にする絶好の契機となる可能性も秘めている。そして進化はなされた。

では、どのように進化したのか?

具体的には、佐為とともに塔矢行洋も消失することで、人物構成の同型構造を保持するとともに、物語の時間的対称性をも暗示することが可能になったのだ。このことは佐為という存在が新たな意味を持ち始めたことを教えてくれる。

塔矢行洋の消失とは、ネット上でのsaiとの対局に敗れた行洋が、ヒカルに約束したとおり、囲碁界から引退したことを指す。その時保持していた4つのタイトルを返上したのだから、囲碁界は激変の様相を呈することになる。だが行洋自身は、プロとしての面倒なルールに縛られなくなったことで、その強さだけをよりどころに、より自由に碁を打てる立場になった。韓国に行っては十代で第一人者となった高永夏(コ・ヨンハ)と対局し、中国では中国リーグに出場したりする。物語の最後では、北斗杯を見学にやってきながらも、健闘したアキラに声を掛けることもなく、台湾にいるという非常に才能のある子のもとへ向かおうとする。それはまさに新天地と呼ぶべき境地だった。その目的はただひとつ、神の一手を極めること。

こうしてアキラの師としての塔矢行洋は消失した。行洋はまるで生きた佐為になったかのようだ。
そうなってみると、佐為という存在が新しい光を放ち始めたように思えてくる。その光の向こうに、バプテスマのヨハネのように、神の一手に近づきうる才能の予言者としての在り方がほの見えてくる。つまりタレント・ピックアッパーとしての役割だ。自身は決して神にはなれないが、神に近づきうる才能を見つけ、育てることができるという役割。この認識は、物語の最後に登場する、

「遠い過去と、遠い未来をつなげるために、そのためにいるんだ。オレは。オレたちは。誰もが」

というセリフによって確かなものとなる。
こうして迎える大団円は、未来という光の中で、誰もが同等の存在として照らされ、眩いばかりだ。

少し急ぎすぎたようだ。元に戻って、佐為の消失によって引き起こされた進化は、新たな構図を前に、もう一つの危機を乗り越えなければならなかった。主人公である進藤ヒカルの離脱という危機だ。そしてその復活の物語は『ヒカ碁』の中の白眉ともいえる。
ヒカルは佐為が再び現れることを願い、そのために自身の碁を封印してしまう。だが自分の打つ碁の中に佐為を見つけ、佐為が自分に同化したことを知る。そのことをアキラもまた、実質的には最初といっていいヒカルとの対局で悟る。その意味でアキラはヒカルと完璧に同等であることが示唆される。

こうして『ヒカ碁』は、ヒカルとアキラという同型構造を保持したままダイナミックな物語的変貌を遂げ、佐為編を終える。次いで始まる北斗杯編は日中韓3国による、3名ずつの団体戦という、より明確な3つの同型構造を基軸に織りなされていくが、塔矢行洋と中国団長・楊海(ヤンハイ)によるsaiをめぐる会話を経てのち、先のセリフが見開き全体に描かれる中、物語は円環状に収束を迎える。

霊的な存在の意識化をモチーフにしたマンガというと、実は結構あったりするのだろうが、僕としては萩尾望都による佳品『マリーン』が真っ先に思い浮かぶ。『ヒカ碁』はそれに比べると、長編ということもあるだろうが、霊の描かれ方がずいぶん散文的だと言えるだろう。それでいながら作り事めいた不自然さをほとんど感じることがないのは、上記同型構造が韻文的余韻を醸し出しているからだと思う。

少年マンガかくあるべし。

『ヒカ碁』の魅力を複数回にわたって長々と記してきたが、その本当の魅力はここで述べなかったところにこそあるのかもしれない。だとすれば、僕にはそれをうまく捉えることができなかったようだ。

ともあれ、原作のほったゆみさん、漫画の小畑健さん、監修の梅沢由香里さんに感謝します。こんな面白い作品を読ませてくれて、ありがとうございました。次回作を期待して待ってます。

 

『ヒカルの碁』
原作/ほったゆみ、漫画/小畑健、監修/梅沢由香里(集英社 平成11年5月5日〜平成15年9月9日発行)
テレビ東京・「ヒカルの碁」公式サイト

2003.10.20

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