essay 12

セナをめぐる仮説

モータリゼーションの頂点に君臨するF1は、世界選手権として1950年に始まった。
その歴史上これまで数多くの英雄的ドライバーが登場しているのだが、中でも1984年にF1にデビューした アイルトン・セナ はその無垢で真摯な容貌と、それに相反するような天才的ともいえるドライビング・スピリッツとで多くのモータースポーツ・ファンの心を魅了してきた。祖国ブラジルはもとより、特に日本でその人気は高いようだ。

だが、神に愛でられしものは夭折する。

1994年5月1日第3戦サンマリノGP、血の赤で染まるイモラ・サーキット。その6周目、タンブレロ・コーナーでマシン・コントロールを失ったセナはコンクリートの壁に 激突 、そして死亡。F1GPレースでの事故による死亡者はセナを含めて24名にのぼるが、セナ以後現在まで死亡者は0である。

セナはなぜタンブレロ・コーナーでマシン・コントロールを失ったのか。
セッティングを含めての技術的な原因をいろいろとあげることも可能かもしれないが、要するに物理的必然としてセナはコース外へと離脱していったことは間違いない。

力学によれば、物体が円運動を行うと、遠心力が生まれる。
例えば、地球は太陽の回りを楕円運動しているから遠心力が生じている。にもかかわらず地球は宇宙の果てに向けて飛び出すことなく、太陽を焦点とする楕円軌道上を律儀に運行している。なぜなら、楕円運動によって生じる遠心力と太陽と地球の間の万有引力が釣り合っているからだ。
それと同じ理屈で、コーナーをまわるマシンには外に向けて遠心力が生じる。その時、そのマシンをコース上にとどめておくのは、その遠心力と釣り合うだけの、タイヤとその接地面との間に生じる摩擦力だ。しかし摩擦力には限界がある。その限界はマシンの質量に比例するが、速度には関係しない。一方、遠心力はマシンの質量に比例し、速度の自乗にも比例する。だから遠心力はその速度を上げるだけで簡単に摩擦限界を超えてしまう。
その限界を超えた場合、ドライバーの技術は何の意味もない。その時マシンの運動を支配するのは慣性という物理法則だけだからだ。

ドライバーは、タイヤとアスファルトの接触面に生じる摩擦力を通じてマシンを自由に動かすことができる。だが外部からその摩擦力を超える力を受けた場合、ドライバーはマシンの支配権をその外力に譲るしかない。
速く走ろうとすると遠心力という外力が大きくなる。その意味では、F1レースはマシンを巡るドライバーと遠心力のせめぎ合いだと言える。逆に言えば、闘うべき遠心力をいかに大きくできるかがレーサーの腕なのだ。とはいえ、そこには最大摩擦力という限界があり、その限界はどのレーサーも熟知している。そしてその限界を超えればどうなるのかということも。
つまり、速く走るには、ドライビング・テクニックより何より、マシンに働く遠心力をどのぐらいまで摩擦力の限界に近づけることができるかという勇気が最も重要な要素なのだ。

だから、セナは勇者でありすぎたのかもしれない。

だがさらに問うてみたい。
セナはなぜそれほど勇者であったのか。勇者であらねばならなかったのか。

 

そこで、ある仮説を導入しよう。

「セナは資本主義の象徴としてのF1ドライバーであった」

という仮説だ。

20世紀が資本主義の世紀であったとすれば、それとピッタリと同じ意味で20世紀は石油の世紀であり、自動車の世紀であった。そう考えれば、セナと資本主義はそれほど遠いところに位置するわけでもないはずだ。

ところで、資本主義とは何だろうか。
(以下次を参考。『史的システムとしての資本主義』I.ウォーラーステイン著、岩波現代選書)

その理念的側面から見てみると、
「資本主義とは、資本の自己増殖を第一義にする社会システム」
であり、その構造的側面から見れば、
「資本主義は、万物を商品化することで稼働する」
ことを特徴とする。
「商品化」とは、
「市場を通して取引ができるようにすること」
である。そして「市場」とは、
「需要・供給間に存在する交換関係」[広辞苑 第四版]
をいう。このような交換関係が成立するためには、需要側・供給側ともに認める価値体系としての「通貨」が存在していなければならない。供給側は提供するものを通貨で表現し、需要側はそれに対する欲望を通貨で表現する。そうして初めて市場が成立する。

ここで注目したいのは、「通貨」のスカラーとしての性質だ。
通貨は一意に決まる順序関係を付与されていなければならない。つまり、物差しで測れる性質を持っている必要があるのだ。

であるから、資本主義はその必然として、何にでもベタベタと物差しを貼り付けていくことになる。それは通貨の抽象としての物差しであり、貼り付けるという半ば無意識的な行為は商品化の抽象でもある。それゆえ例えば、具体的なものには「値段」という物差しを貼り付け、抽象的なことには「順位」という物差しを貼り付ける。

20世紀を通じて、資本主義=資本の自己増殖に最も寄与してきたであろう自動車は、その欧州市場の頂点に世界選手権として一連のレース群を置くことで、そのことを象徴している。それがF1に他ならない。
であるならば、F1というレースが、「勝利」という絶対的な物差しに最大の価値を置いていることは当然だし、それを誰よりも目指した者にこそ最高の栄誉が送られるという図式をアピールしていくのも納得がいくだろう。

セナがあれほどにレースでの勝利にこだわり、自分に対する報酬にこだわるのも、そう考えればうなずけるのではないか。

多くのF1レーサーたちの中でも、とりわけ、資本主義などという現実的な概念とは無縁に見えるセナこそが、じつは誰よりも本質として資本主義的であり、それだからこそF1の世界であれだけ活躍できたのではないか。

あはは、少し強引だった・・・かな。

2003.9.6

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