何の理由もなくこの世界に生まれ落ち、何の保証もないこの現実の中を生きぬいて、それでもやがては、再び何の理由もなく死んでいく。
生命体の一生を要約すれば、これ以上でもこれ以下でもないだろう。
人間だって同じはずだ。
実にシンプル。
でも、いつからか知ってしまう。
有限であるはずの人生が、無限に分割可能であることを。
要約しきることのできない困難さで、“生きている”時間は満ちていることを。
無限に分割された人生の、ひとかけらひとかけらを紡ぎ合わせて、僕らは生きていくのだが、注意深く眺めると、そうしたひとかけらでさえが、要約不能な困難さを稠密に内蔵していることに気づく。
だから、僕らは知らないふりをする。
僕らの時間の、僕らの空間の、どこかしら、いつかしらには、存在するに違いない、異な時間、異な空間を。
そんなものを知りたいとは思わない。僕らは生きるのに忙しいから。
だから、僕らは忘れたふりをする。
僕らの日常の、僕らの意識の、背中合わせに存在しているに違いない、非な日常、非な意識を。
そんなものいらない。何の役にも立たないもの。
そんな具合に、知らんぷりをされ、忘れられようとされるもの。
それをどう呼ぼう、どう名付けよう。
裂け目と言おうか、ノイズと言おうか、穴ぼこと言おうか。
数学者が数を、方程式で捉えるように、僕らは概念を、言葉で捉える。僕らは日常を、常識で捉える。だが、ほとんどの数が方程式では捉えられない数であるように、いや、むしろ、方程式で捉えることのできない数こそが数の本質的存在であるように、言葉で捉えることのできない概念こそが、常識で捉えることのできない日常こそが、僕らの意識とその世界を構成する、本質的な存在であるのじゃないか。
それをどう呼ぼう、どう名付けよう。
つまり、桐野夏生はそれを「グロテスク」と呼ぶことにしたのだ。
grotesqueの語源、grottaは、ほら穴という意味だ。
僕らのこの世界は、だから、穴ぼこだらけなのだ。
裂け目やノイズに満ちているのだ。
グロテスクで溢れているのだ。
この小説は、そんな、世界に溢れるグロテスクに、その身も心も捉えられてしまった人間たちの顛末の物語だ。
生を受けた瞬間から、「完璧な美貌」というグロテスクを具現することになる、ユリコ。そんなユリコと一緒に生活するうちに、いつしか、「コンプレックス」というグロテスクに捉えられてしまった、ユリコの姉。父の影響・支配を受け、「頑張ればなんとかなる」というグロテスクを心の糧に生きていく、ユリコの姉の同級生、佐藤和恵。Q学園でいじめられそうになったときから、「頭脳で世間を渡る」というグロテスクに捉えられた、ユリコの姉の同級生、ミツル。物心ついたときから、「貧困」というグロテスクに心身を蝕まれてしまった、チャン。
物語は、これらの登場人物の手記というかたちで展開する。
彼・彼女らの複数の視点は複数のグロテスクを代表し、それらの視点から放たれた複数の視線は、幾層にも絡み合いながらも、決して交わることはない。むしろ、決して交わるまいという意志すら感じられる。ひとつのグロテスクが、もう一つのグロテスクを包摂し、その結果、そのグロテスクが、他のグロテスクを説明してしまう、などという、いわば安易な、一種の安堵・安定を、それはきっぱりと否定しているかのようだ。彼・彼女らが引き受けることになるグロテスクは、彼・彼女に特有なグロテスクなのだ。
そうであるのに、読後、特に和恵の日記など、それはまるで僕自身に起きていることのように感じられる。僕は、和恵であり、ユリコの姉であり、ミツルであり、チャンでさえある。普段は気にしないようにしているのだが、これを読むと、なんだ、これは僕じゃないかと思う。
僕にも、「僕」というグロテスクがあり、僕はそのグロテスクに捉えられている!
僕は卒倒しそうになりながら、そう自覚する。
だがしかし、読後、洗礼のように訪れるこの絶望感が身に沁みたその後には、どこか健やかな心持ち、淡い覚悟といった心境を迎えることができるのはどういうわけだろう。
その理由は、この絶望感は、僕だけのものではなく、誰のものでもある、ということに気づいたからだと思う。
僕らのこの世界は、グロテスクで溢れているのだ。
『グロテスク』桐野夏生著(文藝春秋社 平成15年6月30日発行)
2003.8.11