essay 1

恋愛という装置

僕が“恋愛”なんて言うと、クスッと笑う御仁もいると思うけど、その気持ち、分かります。誰よりも僕自身可笑しかったりするんだから。でも言いますよ。あなたを笑わせるためじゃなく、自分を納得させたいから。

でも僕の場合、恋愛なんて言えないなあ。単なる恋心と言うべき。あくまで一方的。あくまで個人的。誰にも何も言わない恋。それでもそんな自分を許せないぐらい戸惑ってしまう。

帰宅して、顔を洗って、うがいをして、顔をていねいに拭いている、
そんな何気ないある瞬間。
気分がどうもいつもと違う気がして、
何かを忘れてしまったような、
何かを失くしてしまったような感覚に襲われる。
でもそれが何なのかはさっぱりわからず、
やがて胸の奥底からなんだかわからない気持ちが募ってきて、
何かを見ようとするのに、視線をどこへ向ければいいのかわからず、
誰かに何かを話したいのに、誰に向けて何を話せばいいのか、思いつかない。
誰でもいい、そばにいる人の腕をとって
思いっきり叫びたいような、
力一杯抱擁したいような、
いつもと違う、そんな自分がいる。

自分なりに整理しないとどうしようもないでしょ、これじゃ。
何でこんなことになるのか。恋愛って何なのか。

 

「恋愛は人生の秘鑰なり」(北村透谷)

そう言われて藤村なんか度肝を震わせたらしいけど、それも時代かな。透谷は、

恋愛=秘鑰=人生を解き明かすための秘密の鍵、

として恋愛を定式化したが、今やその鍵は“秘密の”鍵とはいえないだろう。じゃあ、恋愛=人生を解き明かすための鍵、という等式は成り立つのだろうか。でもこういう言い方は少し大時代的に思えるなあ。結局、透谷のこの言葉は、

恋愛=とってもとってもいいこと、

と捉えておくのが適当なのではないか。してみると、シャブ中が「堪んねえんだよなあ。あんないいものは、この世にはないよなああ。シャブ命」(森巣博著『非国民』)と言うのとほとんど変わらないことになる。シャブの良さはともかく、恋愛は何故そんなにいいものなのか?

 

その著作『恋愛論』の中で竹田青嗣は、

「恋愛は死と同じように、人間の生にとってある根本感情をなす」

と、まず恋愛の特殊であること、格別であることを主張する。ではどのように特殊であり、格別であるのか。

「夢から覚めると夢の中にあったリアルさをたちどころに失っていくごとく、恋愛もそれから覚めてみると恋愛中のことがまるで夢見ていたように感じてしまう」

と言い、恋愛はちょうど夢のごとく特殊であるという。ついで

「わたしたちの内には二つの生が存在する。しかも背反的に」

と言い、人生を次のように定式化してみせる。

人生=恋愛+日常生活

恋愛は日常生活と背反的かつ相補的に存在する、というわけだ。それゆえ恋愛をしていると人生そのものがリアル(このリアルさは立体視で写真などを見る時のリアルさに似ている)に感じられる。リアルであることは生きているという実感を加速する(心理的なものだが、この加速に耐えることのできる体力が無くては恋愛はできないわけで、この説は、恋愛=若者という連想を支持する)。

この説は私の戸惑いをある程度説明してくれる。恋心を抱く、という心理行為でさえ、十分に非日常であり、その行為の日常との関係が背反的であるが故、戸惑いを覚えざるを得ないのだ、と。
でもこの説明では今ひとつ合点がいかんような気がする。恋愛が何故そんな特殊で格別で非日常なものであるのかを根本的に説いていないからだ。

 

そこで岸田秀の出番だ。
『性的唯幻論序説』によると、歴史的に見て、恋愛の概念はそもそも西欧からの輸入品であり、その西欧での起源は、13世紀にローマ・カトリック教会に異端として弾圧されたカタリ派の伝統が貴婦人への思慕を歌った南仏の吟遊詩人に受け継がれたあたりにある、という。キリスト教が恋愛のもとを弾圧していたのだ。貴婦人へのプラトニックな愛と、キリスト教の説く、神への信仰、神への愛がオーバーラップするから、弾圧しなきゃしょうがなかったのだろう。愛の宗教を標榜するキリスト教としては、愛は神の専売特許にしておきたかったのだ。
ところが近代になり、キリスト教は衰退する。神も衰える。すると西欧の人々は戸惑った。神がいないと男と女は結びつくことができなくなる(岸田秀の持論、「人間は本能が壊れている」から)。このままでは人類滅亡だ。そこで西欧人は奇天烈なアクロバットをやってみせる。過去に否定し、弾圧していた恋愛を今度は神の代替物として中央に据えたのだ。

「恋愛の原形はキリスト教における全知全能の神への愛と崇拝であって、対象が神から人間に代わっただけであるから、その感情内容はほとんど変わらない」

こうして恋愛とは、

「男の場合で言えば、相手の女をかけがえのない唯一無二の存在として理想化し聖化し、純粋な思慕を捧げる」

ものになる。かくして、恋愛してるんだから、という理由で男と女は結びつくことができるようになった。 本当かどうかはともかく、面白い説だ。何より根本的だし。

 

そうだったのかあ、恋愛ってひとつの装置だったのか。ふ〜む。

ということで僕は何とも簡単に、恋心という甘美な非日常を相対化し、つまらない日常に復帰したのでした。

よかった、よかった・・・かな?

2003.6.4

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