Semaphore

おれもんじゃ頭ん中ァ走り夜
三角ゥひかれ酢醤油ゥ群れ

 

 ●

 

熊太郎は他人とも自分とも折り合いがつかない。ついたためしがない。
その理由はたぶん、自分の思っていることをことばにして表せないからだ、と彼は考えてきた。

熊太郎は自分がしたいことはせず、自分のしたくないことのみをやってきた。
どうしてこんなことになるのだろう。
それがとんとわからない。

いや、ただひとつ村でも話題の美女であった縫と一緒になれたことだけは熊太郎の望みと結果とがかみ合ったできごとだったかしらん。しかし彼自身予感していたように、それがゆえそれが彼の命取りとなる。

 

自分のしたいことが自分でわからず、たまさかこれが自分のしたいことだと定めてやってみたことがどうしてそうではなく、それをしたいと思った自分を一皮むいてみればそこにまた違う自分がいて、その違った自分がそれをした後になってそれをしてしまった自分を苛むことになる。

「自分」とはリゾームで、ひょっとするとリゾームとは「自分」を構成するためのなにかなのかもしれない。

他者のことばという薄いティッシュペーパーが、幾千重、幾万重、折り重なるようにしてできあがっているのが自分だとするなら、一枚一枚その薄紙をめくってためしすがめつ吟味したとて、そのどこにも自分を見いだすことはかなうまい。ぼくたちに許されている唯一のことは、自分というティッシュの箱から自分を織りなすティッシュを破らぬようていねいに取り出してそれで思いきし鼻をかみ、適当なゴミ箱へ捨てることだけだ。

 

熊太郎は鼻をかんだ。かみたくもない鼻をかんだ。
ほぼ破れかぶれな気持ちで、狂いそうになりながら、べとべとな指で、
せつなくてふるえるような鼻をかんだ。おとろしくてちびりそな鼻をかんだ。

三角形をした数千の光を見た。
頭の中を酢醤油の瓶が走った。

熊太郎がかみ捨てた鼻紙は、弟分弥五郎の頭上を舞い、河内水分の村を舞い、楠木正成ゆかりの地、大阪の最高峰、金剛山の峰を舞った。

 

「おい。俺がこいつらやってる間に早よ、銭とってまえ」
言われた少年はここを先途と銭を浚う、正味の節ちゃんが気圧されて手を出せぬまま言った。
「おどれらやっぱ、正味、端(はな)から共謀(ぐる)やったんか」
「そういうことを言わんといてくれへんかなあ。すぐそういう共謀とか、一円がどうの五十銭がどうのとかぼさっとした口で言うのんやめといてや。それが俺の一番、気ィに障(さわ)んね。頭に酢醤油の瓶が走りょんね。それが森の木ィに当たって粉々や。ほいで手ェが血ィでべとべととなってよけ気色悪なりよるわ」
自分でもこれでは伝わらぬだろうと思いながら暴力と同じく、始めた以上、途中でやめられなくなって話した熊太郎に向かって合羽の清やんが、「なに訳の分からんことぬかしとんね、こら」と怒鳴りつつ、殴りかかろうとしたのを正味の節ちゃんが止めた。
「清やん。正味、やめといた方がええかも知れんど」
「なんでやね、賭場(やま)荒らし黙ってかやすんかいな」
「いや。こいつ正味、なにしよるかわからんど。正味、わいらみな殺しよるかもしれんわ」
「なんでそう思うね」
「目ェ見てみい」
言われてつくづく熊太郎の顔をのぞき込んだ清やんは背筋がぞうと寒くなるのを感じた。
「ほんまや。正気の目ェやあらいん」
清やんが呟くのを聞いた熊太郎は、おっかしいなあ、自分は正気なんやけどなあ、と思いつつも、そうすれば相手は引き下がるのかと思うから知って目を剥いて口を半開きにし、兇悪な気ちがいみたいな顔をした。
「三人ぐらい殺(や)ってきたみたいや」

(p.160、l.14〜p.161、l.10)

 

『告白』(町田康著 中央公論新社 2005年3月25日)より

2007.1.7

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