――旭川ゆかりの短歌人―― シリーズその1
齋藤 瀏(りゅう) と 長女・史(ふみ)<1>


齋藤 瀏(さいとう りゅう)










長女・史(ふみ)
大正15年10月、17歳


 明治12年長野県東筑摩郡明科町七貴(現安曇野市明科)で生まれた瀏は、松本藩士三宅家の7人兄姉の末っ子として育ち、齋藤家の養子として小中学から幼年学校を経て陸軍士官学校を卒業する。
 近衛第一聯隊の将校として東京に住み、明治37年の日露戦争に中尉として従軍。戦役中短歌を学ぶ気になって佐佐木信綱に手紙を書き教えを乞うた。翌年負傷し帰還の折、佐佐木に入門。この戦役で金鵄勲章を授かった。(26歳)
 陸軍大学を出て後、士官候補生の在隊教育を担当。出張で仙台を訪れた時に詠じた
「残月や五十四郡かためたる城あとにしてきくほととぎす」の作品が、明治天皇の目にとまり栄に浴し、歌への意欲を強くする。
 大正3年(35歳)、旭川第七師団の大隊長として来旭。大正9年に三重県津に転勤するまでの間、参謀少佐となり北満へ赴いた戦地で書き留めた歌の数々や、近文台の演習林の情景などをまとめて、大正10年に第一歌集「曠野」を刊行。11年、津から九州小倉に転任するも13年には再び旭川第七師団に参謀長(大佐)として来任する(45歳)。
 長女(ふみ)は、明治42年東京四谷で生まれた。小学1年生の夏休みの終わりと共に旭川北鎮小学校に転校、同じ官舎にすむ栗原安秀(のち中尉、二・二六事件で処刑)とは幼馴染みの同級生で齋藤家によく出入りしていた。1級下に坂井直(のち中尉、二・二六事件で処刑)もいた。6年生の2学期に父の転勤で、三重の津小学校に転校、のち小倉に移る。再び旭川に来たのは小倉女学校を卒業した大正13年、15歳の年であった。
 旭川師団に五月会なる歌会があり、酒井広治らと交流もあって大正14年に北原白秋吉植庄亮の来遊の折、齋藤瀏は旭川新聞社会部長の小林昴(幸太郎)、深川の鬼川俊蔵(歌人)と共に歓迎接待をしている。(酒井広治は札幌入院中のためこの3人に接待を頼む)

 翌15年の10月、齋藤瀏を頼って、若山牧水喜志子夫人と共に来訪。牧水が「詩歌時代」出版の負債解消の為の資金稼ぎとして揮毫頒布を旭川の富豪たちへの斡旋を依頼しての来旭であった。
 10月2日、酒井広治ほか50名からで歓迎歌会を開き、大いに盛り上がった。この「牧水歓迎詠草」に初秋雑詠としては二首、小熊秀雄も出詠10月6日の旭川新聞に掲載されている。
牧水は、この滞在でに強く短歌を勧めた。その言葉が歌を志す大いなる動機となったと、史が後になって語っている。牧水は、北海道で80日ほど、翌年は70日間をかけて朝鮮に揮毫行脚。昭和3年 9月初より病臥、9月17日朝永眠。

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