坂の町・佐倉   おもな「坂」

●昔の雰囲気を伝える佐倉の路地や坂道には、300年の時を超える錯覚をおこさせる神秘的な雰囲気があります。そこは過去と現在が交錯する、現代の「魔所」と呼べるのではないでしょうか。
「総州佐倉御城府内之図」は市役所市制資料室・武家屋敷で複製を販売しています。
また『古今佐倉真佐子』は市内図書館にて閲覧できます。
愛宕坂
「的場十郎左衛門屋敷一軒あり。此前より、あたこ坂也。長二丁余。左右より大松大榎の類にて並木の如し。坂の右あたこ山木立也」
現在は、国立歴史民俗博物館への進入路になっています。坂上に愛宕神社があったことにより、この名が付きました。以前は明治時代初期に連隊が置かれ、坂の中ほどに営門があったので「営門の坂」と呼ばれていました。
へび坂
「此堀ばた行きあたり、 へび坂と言坂にて、坂かぎの手に曲がりてある。坂の長二丁余、此下根曲輪へ出る。」
整備された馬出しの南西角から、鹿島橋方面へ続く坂です。連隊から出る下肥を角来方面へ運ぶ経路にあたり、「こやし坂」の異名があったとされます。
杉坂
「此行留まり杉坂也。長三丁斗。左右より大松大杉桜杯有之故空不見、昼にてもをくらし」かつて武家屋敷が並んだ小路の突き当たり、現在の国立歴史博物館東側の駐車場から台地下へ続いていたと思われます。
●以上の坂は「魔所」として、さまざまな怪異談があります。
七曲がり坂
「和田屋敷前より大阪有る。一丁あがりて又左の方へ一丁ほとあがる也。へなち故雨天の節はすべる也。下の方は急也。此坂の上天神曲輪へ出る。(中略)
七曲の坂上左の方へ少曲がりて行と天神の社有」七曲の名ですが実際には中腹で切り返す坂でした。現在は冬の時期だけ、姥が池の菖蒲田から登り口が確認でき、佐倉中学校に続いています。
浅間坂
「城のちんしゅにてせんけんの社也。此山中に有る二間四方斗のくずやの宮也。……此社の前の坂を右の方へ行けは此山のすそを凡二丁斗の坂ををりると、右の方鷹べや也。此下たかてう町と言」文中に坂の名はありませんが、絵図に「センケン坂」と記されています。ここにあった浅間神社は、廃城後に鏑木町の浅間神社に合祀されたと言うことです。
●麻賀多神社の御神輿が渡御する経路中に「うるし坂」「薬師坂」「猿が脇の坂」が続けて出てきます。
うるし坂
「摩加多の社前奉行屋敷の脇より南の方へ行、左右士屋敷。一丁斗行て左の方へまがりて行、又左右士屋敷也。一丁半斗行留りうるし坂にて大坂也。下は鏑木村」
佐倉保健所跡地から東に向かい、県道の下をくぐる道は根郷方面への本道でした。鉄道開通後は連隊への物資が、この坂を経て運ばれました。
薬師坂
「残る一筋の道を南の方へ行と右の方薬師堂有。左の方百姓や。裏大だけやぶ也。是より大坂にてふせぎなし。まがりて下へをるる也」
かつて坂上にあった薬師堂は昭和4年に焼失しましたが、坂に名が残りました。現在、薬師像は坂下の周徳院に安置されています。「ふせぎ」は階段、土留めとして坂道に設けた平面部分が長い階段と思われます。
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猿が脇の坂
「此間道先左の方一軒斉院文蔵屋敷ある。此門前少先より細くまがりたる坂ある」
佐倉市立美術館裏から南に下りる坂です。絵図には「サカル坂又井戸坂トモ言」と記され、坂下には確かに井戸が描かれています。樹陰が濃い急な坂は、今も当時の雰囲気を伝えます。
 
海隣寺の坂
「紀太宗左衛門屋敷前より左の方へ一丁斗行と、海隣寺の坂の上伊沢源太左衛門屋敷脇へ出る。(中略)伊沢屋敷前よりそろそろと坂故ふせぎ木ある。左の方町中程に寺有」
現在の市役所の下にあり、成田街道が台地上の町へと登る坂です。街道筋の要地として、当時は木戸があり土手、竹矢来で守られていました。
●宮小路町の佐倉武家屋敷周辺にあり、今も通称で呼ばれ、親しまれている坂について「真佐子」の記載を拾ってみました。
ひよどり坂
「右寺門前より左の方へ行て、右の方士屋敷左の方寺の林也。一丁余行と大坂ある。ふせきなし。此坂中よりまかりて左の方へ行と坂下野にて鏑木村なり」
武家屋敷通りの奥、大聖院脇の竹林の小道です。
くらやみ坂
「此両屋敷の間大坂也。二丁余の坂、下左右に通あり、袋路地」武家屋敷の間を袋路地へ下る切り通しの坂です。
やかん坂
「又、一筋の道一丁半斗行と坂也下、鏑木村也。此坂下右の方山ばた三間四方斗の清水有之。村中の給水にくむ也。池のごとし。鮒の類沢山にすむ」
薬師坂の東方から台地下へ続く「やかん坂」は細道で、下ったところにはかつて池がありました。
県道の造成で地形が変わっていますが、絵図には池が描かれ、今もすぐ近くに「くもの井戸」と呼ばれる湧水があります。
みそべやの坂
「此下谷にて鉄砲やばある。向山にして山上大松の並木也。鉄砲矢場の脇を右の方へ又坂を十間斗あかりて行留り、山のはらに藤田雲格屋敷有り。四方へ道なし、行留り也。此辺鍛冶の内也」
絵図の坂下に「ミソベや(味噌部屋)」とあるように、味噌等を貯えておく藩の備蓄小屋があったものと思われます。
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