森田照史インタビュー

森田照史のプロフィール


2002年6月
「森田照史インタビュー in
森田三味線教室(東京都新宿区)」

うがみんしょうら(拝み候)。
撮影:屋宮秀美

森田三味線教室(花染会)会主の森田照史に、芸歴五十周年という節目にあたって「美島の唄遊び」を東京で開催することへの想いや、シマ唄について日頃考えていることなどを、東京・新宿の森田三味線教室においてお尋ねしました。今まで幻の唄者と呼ばれてベールに包まれていた森田照史の、シマ唄への熱い想いがほとばしる情熱のインタビュ−です!





 ウチジャシベの家に生まれて

 −先生の唄者になられた経緯を教えてください。
 森田 唄の経緯はね、家が代々、唄を歌い継いで行く、集落の八月踊りでもウチジャシベ(打ち出し部)をやる家だった。ウチジャシベというのは、その人につけて皆が唄を唄う。奄美民謡の基本は、サンシン唄になる前はもともと八月踊りのための唄だったのね。それが400年位前にサンシンが入ってきて、八月踊りの唄がだんだん座敷唄に変形してきたけれども、その八月踊りのウチジャシベの口承伝承でつながってきた家だった。
 僕の母の頃はもうサンシンが入っていたけど、いろいろな人が家に唄を習いに来ていて、南政五郎もその一人だった。もともと山田フデのお父さんの山田金太郎(かねたろう)という人は笠利でサンシン弾きだった。笠利の唄を大きく分けると、「佐仁」が男唄いで、「喜瀬」という所が女唄い。うちの田舎が喜瀬なんだけど細やかにこぶしをまわして唄う。元々、山田金太郎は山田フデと親子で唄っていたのね。でももう年配だからということで、佐仁の南政五郎に娘のフデと一緒に唄わせた。細かい所にサンシンを合わせないと唄にならないので、習いに来ていたということ。それは僕がまだ生まれてない頃ね。

 −その人たちは有名な唄者だったんですか?
 森田 そりゃもう非常に有名。大島郡でもあちこちに呼ばれる唄者だった。その当時の人が認める唄者というのは、今のコンクールで優勝したというようなランクではなくて、いわゆる唄をちゃんと人に指導できるという立場の唄者だった。今のコンクールで優勝しても、唄の数もまだそれほど覚えていないし、人に指導できるほどでもないわけだから。時代的に言えば今のコンクールの世代とは全然違う世代で、僕がその最後ぐらいじゃないかな。

 −それはカミウタ系ですか?
 森田 そう、カミウタ系。琉球の時代のアジ(按司)の家で祭事を勤めていたから、そういったものが伝わっていた。要は僕は門前の小僧だったわけね。家が稽古場でもあったのね。
 唄にはカミの流れ、いろは流れといろんな流れがあるんだけど、座敷唄の遊び唄として成立したのが明治時代だった。サンシンが普及したからね。八月踊り唄は八月踊り唄でスピードが全然違うので、座敷唄はゆったりとした唄に変形してきたということ。

 −サンシンが入る前は楽器の伴奏はあったんですか?
 森田 チヂンはあった。今みたいに上等なものじゃないけど。

 −祭祀をするような家だったのがだんだん唄者の家になったということですね。
 森田 喜瀬の踊りでは今でもそうだけど、うちの一族が立たないと踊りにならない。


 昔は唄ごとにスピード感が違った

 −奄美のシマ唄の特徴を教えてください。
 森田 一番の特徴は西洋音楽的に言うとファルセットが入るところ。それも女も男も同じ高さで唄ったファルセットの入り方。モンゴルのオルティンドゥーというのに似ている。これは本当に裏声だけで持続性もあって、シマ唄に似ていると思った。特に今の若い人たちの唄い方じゃなくて、年取っている人が八月踊りの時に裏声だけで歌うクグイ(小声)によく似ている。地声だと力を入れなくてはいけなくて唄えないところを小さい声で裏声だけで唄っているのね。それにすごく似ている。

 −クグイというのは今はやる人はいないんですか?
 森田 今はいない。僕はたまに仕事している時に小さく裏声だけで唄っていることがある。自分で唄の抑揚をしっかりつけようと思う時にクグイで格好をつけてから、地声とファルセットを組み合わせて練習することがある。他の人たちはそんなことはしないのかもしれないけれども、「ああ、ここをこんなふうに唄ったらもっとこぶしがきれいに回るかな」といった練習。
 今の人たちは皆ありきたりの同じ唄い方で唄っているでしょ。今のコンクールの唄のありかたが昔と違っていて、長く唄えばいいという感じで、唄のスピードがみんな同じに聞こえる。ところが昔はそうじゃなくて、唄ごとにスピード感がそれぞれ違った。1つは日本民謡大賞の大和唄の流れというのもあって、2分30秒のなかで唄わないといけないから、奄美の唄では唄えないものもいっぱい出てくる。そのあたりの違いもある。
 奄美の唄は、誰でもすぐ裏声を出せないというところに難しさがある。逆に沖縄は男と女が1オクターブ上下で唄っている。奄美の唄い方を「逃げ」と思っている人がいるけど、歴史的にカミ的なものがあって、音楽的には非常に珍しい。日本の唄でも他には青森にホーハイ節という裏声を使う唄が1つだけあるけれども、あとは皆地声だけで唄う。
 唄は覚えようと思えば覚えられるけど、のどの関係もあるし、その人に備わった素養がある。それがクイシャ(声者)とウタシャの違いになる。クイシャは声はあるけどもちゃんとこぶしが回せないとか、きれいに歌えない人。逆に実際には唄えないけど、いろんな唄を知っていて、ここではこう唄うとか指示できる人をネンゴシャというのね。
 最近は唄のことよく知らない人が増えてきたけれど、そういう人はクイシャって言う。唄遊びをしたら、一節出たらその歌詞は唄わないのが本当なのよ。コンクールとかで他の人が唄っても、同じ節を唄っているけど、そういうのは昔は恥ずかしいことだったのね。唄に、クが入っていないと言う。
 今の歌の形式で言うと、囃しを5回するのを、ヤマガリ(八曲がり)の唄というのね。全部唄うと8つにわかれるからヤマガリって言うんだけど、朝花みたいに、上の句と下の句があって囃しが1回だけ入っているのは、はやり節でハナウタと言う。ヤマガリは相当訓練しないと唄えない。俊良主節でも、長俊良主は囃しが5回入るのね。これは北大島にしか残っていない。そんなふうに昔から伝承されている唄が今は唄えなくなってきている。

 −奄美のサンシンの特徴や、先生がどのようにテクニックを磨いてきたかを聞かせてください
 森田  奄美のサンシンの、沖縄と違うのはまず胴を叩くということ。バチが違う。弦が違う。音階が違う。そしてこれは一番言いたいことなんだけど、奄美のサンシンの弾き方は、内地の三味線のように薬指を使って手打ちをしているけど、沖縄は中指を使っている。どっちが正しいとは言わないけども、(奄美では)中指を使っているのは僕だけしかいない。技巧的に人間の利き指としては中指のほうが連弾きする時はいい。だから沖縄の早弾きはあれだけ上手いのよ。そういう意味では手打ちは奄美は沖縄に習うべきと思う。小バチが入りやすいのね。ハジキが、手打ちがしやすい。
 僕はサンシンの技術的には奄美の誰にも負けていない自信があるよ。奄美の場合は沖縄からサンシンが伝わってきたわけじゃなくて、内地から伝わったからみんなそういう弾き方になっているのだとは思うけど。それから奄美と同じような弾き方をするのは、津軽と、それから新内も一緒。新内にいたっては唄い方もファルセットが入っている。


 入り江の湾のなかに入り込んだところは、唄に抑揚がある

撮影:屋宮秀美

 −唄遊びとはどういうものでしょうか?
 森田 ただ今日唄いましょうかと言って始まるものじゃなくて、シマ(集落)の行事と必ず関係がある。祭事があって打ち上げがあると、ただ飲むだけでなく、誰かがサンシンを弾き出す。サンシンと八月踊りに使う太鼓は魔除けの意味もあるから、各家庭に必ずあった。北大島では女が太鼓を叩く、南では男が太鼓を打つ。本当はね、女が太鼓を叩くのは魔除けの意味があるから、女性の楽器だった。そして昔はサンシンは男以外使ってはならなかった。今はコンクールの時代になって女もサンシンを弾くようになった。

 −とすると宗教的なものなんですか?
 森田 と言うよりも、集落は集合体だから、そのなかで何でも相談して決める。勝手にできることじゃないから。お金でもモアイ(模合)というのがあって持ち寄って何でもするし、集落の決めごとに準じて、それに従って共同作業をする。そのなかで唄遊びは必然的に和を持たせるというか和ませる役割を果たす。酒の席ではあるんだけど、本当は喧嘩腰になって相手を罵る唄を唄っていても、相手も唄で返す。それがウタガキ(歌垣)ということなのね。

 −そういう唄遊びはいつ頃まであったんですか?
 森田 山田ミツの頃かな。山田フデ(明治32年生)のおばあちゃん。青年団が喜瀬のミツの墓の前を通る時は、ミツの唄が聞こえたという人が何人もいたらしい。そんな人がいたくらいで、山田フデが及びもつかないほどの唄者だったらしいよ。僕からすれば5代か6代くらい前の人。僕の親の代には誰も唄者はいない。山田フデのいとこの山田スマはいたし、山下聖子は家の血のつながりがあるけれど。

 −家系として唄者が誰かいればいいということなんですか?
 森田 そんな決まりはないけど、みんな一目置いて、唄わないわけ。喜瀬にはツケ唄がないのよ。人が唄うとそれに乗じて一緒に唄って唄を覚えていくツケ唄とか、ボレ唄(群唄)と言うのがあって、笠利の佐仁だとか、北大島の当原ミツヨがいるあたりの人はそういったボレ唄を唄遊びのなかで楽しんでするんだけど、それは喜瀬ではやらない。
 奄美の唄で一番肝心なことは、入り江の湾のなかに入り込んだところは、唄にすごく抑揚があるの。僕が唄っているみたいに小さいこぶしをたくさん入れる。でも大きい外洋(湾の外)に出て行ったら唄もおおざっぱになる。言葉も荒っぽくなる。ソト(外)場とウチ(内)場では違う。
 奄美では入り組んだところでは、ボレ唄はないの。喜瀬の唄は個人差がすごくでてくるから、真似ができなくて、ボレ唄にならないのよ。真似ができないからただ聞くほうに回ってしまって、それでだんだん唄者が少なくなってくる。その家系だけになってくる。不思議と同じ家系だと同じような唄い方になるけれど、それは毎日身体で体感しているからかもしれない。

 −声帯とか肉体的にもそうなってくるんでしょうか?
 森田 身体のことはどうかわからないけど、喜瀬に帰って唄うと、やっぱりフデ節だねえ、と言われる。自分では意識していないんだけれど、昔のSP盤を聴いたりすると、唄のマガリと言うんだけど、自分でも似ていると思う。自分では自分なりの工夫をして唄っているつもりだけど似てくる。
 シマ唄というのは尺が決まっている。全体的に伸ばして唄っているならまだかまわないけど、最近は勝手に伸ばしたり、短くして足らなくしたり、もう1回こぶしをつけなきゃいけないのに終わってしまったりしている。
 民謡はもともと楽譜がなかったわけだし、シマ唄は生き物とは言うものの、日本の民謡が頭打ちになったのは、もう唄がなくなるからと言って、楽譜などが統一されて、誰が唄っても同じような唄になってしまった。だから寸評・評価できるのね。でも奄美のシマ唄は百人百様で唄い方が全部違うから、本当は評価できないのよ。「お国訛りは民謡」という言葉があるけど、まさにその通り。奄美の民謡をいろんな所で評価しているけど、我々からすればおこがましいことをしているんじゃないの、と言いたくなる。自分の唄が固まらないのに、いろんなことをするのはタブーなのよ。僕もヒギャ節を正確には唄えない。方言は難しい。アクセントとイントーネーションの置き方が全然違うから、全く同じようには唄えない。そこが民謡の不思議な所。形になってはいるが、どっか違うかなという感じがある。

 −そこは普通の人はわからないのでは?
 森田 最近は笠利節のなかにヒギャが入っていたり、ヒギャのなかに笠利節が入っていたり、めちゃくちゃまぜこぜなのよ。


 唄遊びはシマ(集落)の行事と結びついていた

 −歌い出しの曲決めごとは?
 森田 決め事はあるよ。「唄を三献(サンゴン)たれる」と言って、うちの田舎では朝花、諸鈍長浜、しゅんかねを唄ったらあとは何を唄ってもよい。集落の受け継がれた伝統的なもの。そして最後に長雲を唄って、天草・六調。昔は天草・六調の他に3曲琉歌調の唄があって、終わりの唄は5つあった。だからどれからでも唄うということはないわけ。
 座遊びで唄う時はまずは朝花ね。でも婚礼とか祭事で唄うときは全然別なのよ。決め唄があるのよ。新築祝いなら長朝花だけど、歌詞が決まっている。その家をほめるとか、できあがった見栄えをほめるとか、綾天井とか。綾なす天井という最上の誉め言葉だけど。
 また上がれ陽ぬ春加那はもともとカミ唄で、太陽の美しさくらいのすごい人、天女のような格のある人だというふうに唄っている。カミサマにつながる歌詞をつないでいるんだけど、これは決め歌でいろんな歌詞では唄わない。カミ唄だからそんなには唄わないけれど、めでたい唄なのよ。ノロやユタの家で祭事する時は必ず唄う。

 −すると唄遊びというのはいろいろな行事にはつきものだったということですか?
 森田 酒が入ってきたらまあつきものだよね。今日、ゆらおう(集まろう)と言ったら唄遊びはつきものだろうし、ただ茶ゆらいやと言ったら、お茶飲んで帰るだけだし。唄遊びはこうだというような公式的なものはない。
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 −各地で労働のあとに行っていたという感じではなかったのですか?
 森田 時代によって違うと思うよ。労働のあとに疲れているのにどこでもいつもやっていたとは思えない。ウリセク(「折々の節句」のこと)と言って季節的なものはあるけど、いつもやっていたとは思えない。流れをくんで、何かある時しかなかったと思う。今では全然ないわけだしね。それにいつも集まってやっていたら、大変だよ。
 寄り合いでやる作業は、酒が入るから、唄遊びになるかもしれないけど。普通の田植えなんかではやっていない。大きな田畑があるわけじゃないから。うちみたいに唄を唄う家だったら、誰か来たら自然に唄うけど、この家でもあの家でも唄遊びがあったというわけではないよ。ヤマトからお客さんが来ても、唄者がいなければ普通に料理を出して終わっただろうし。

 −そういう唄遊びがなくなってきたから唄がすたれてきた?
 森田 シマ唄というのはもともとそんなに普及していたわけでもないし、どこでも唄遊びをしていたということもないのよ。唄は「唄半学」とも言われていたけど、遊び人がやるという印象もあったわけだから、唄はいいふうに思われていなかった。


 奄美の文化を知ってほしい

 −東京の人にどういうところを聴いてもらいたいか?
 森田 奄美をアピールしようというのが一番の狙いなんだけど、奄美の文化を知ってもらいたいということだね。いきなり文化といっても難しいから、「美島の唄遊び」を聴いて、文化を知る前に奄美に行ってみたいなーという風になってくれたら嬉しい。とにかく奄美をよく知ってもらいたい。
 奄美はすごい辺地で、琉球の音もヤマトの音も、どっちも入ってこなかった。琉球音階とは違う奄美のミとシがない音階が確立し、江戸から明治にかけて七五調の「おはら節」が入ってきて、「六調」「天草」ができあがった。言葉も平家の落人伝説があるくらいで、昔島に流されてきた人たちの流れで古いヤマト言葉も残っている。
 島の人間は、沖縄県でもなく鹿児島県でもなく奄美県だと思っているわけだから。美しい自然とか人情味だとかの都会的でないものに趣きを求めている人が増えてきているし、観光的な目的もあるのよ。シマンチュとしての想いがこういうことをさせている。

 −三味線教室も同じような想いですか?
 森田 僕にしてみれば、じつは民謡教室はあんまり好きじゃないのよ。人にものを教えるというのは非常に難しいことなの。いろんな人のそれぞれの想いも入ってくるし。だから昔から生徒をとってない。きっかけになったのは、たまたま八月踊りを教える人がいないからと、八月踊りの会に呼ばれて、ついでにシマ唄もやってくれということになったのが、うちのいとこがインターネットに書いて、それを見て長井幸司君から電話がきて始まった。(大島紬の)仕事が忙しくなってきていたから、いやもうそんなに沢山はできないよというのが僕の頭のなかにあったし、実際にあまり面倒を見てあげられなくてみんなには気の毒だなぁと思っているけど、だけどこうやってシマッチュ以外の人がみんなが頑張ってくれているでしょ。だからいい加減にはできない。


 唄遊びのなかのシマ唄を唄う場にしたい

うがみんしょうら(拝み候)。
撮影:屋宮秀美

 −今回の聴き所はどんなところですか?
 森田 唄に関しては、今どこもマンネリ化したプログラムが多くて、たいがいその人の得意な唄を唄ってもらうけど、今回はそうじゃない唄も唄ってもらおうと思う。ヒギャの人に正月ぎんを唄ってもらう。笠利の人に花染めを唄ってもらう。奄美の場合百人百様で、サンシンの弾き方も全部違うから、そのあたりを聴いてもらいたい。そのなかでその人のアピールもする必要があるから、得意な唄も唄ってもらうという感じね。
 今回はプログラム通りで、決め唄になって、そこらあたりは残念だけど、本当は昔からの考え方から言えば、掛け合いなのよ。コンクールでも昔は掛け唄、歌垣だった。でも今は決め唄で一節しか唄わない。カセットやCDの吹き込みも今は一人でやるから、声も八とか九の高さでやってるけど、昔はそんなことはなかった。調子笛を奄美に持ち込んだのが福島幸義さんだけど、それはあの人たちは尺八で詩吟をするから。詩吟は高さの世界だけど、奄美の民謡はそうじゃない。地から唄って、低いから上げようか、といった唄い方。
 昔は女の歌手はそんなにいなかった。男が弾き唄いで、主に唄っていた。女の人はもともとは囃し方だった。

 −決め唄いだとあまり面白くないということですか?
 森田 最近の唄会はみんなそうなっているから、お客さんはそうは感じないと思う。あとは唄う人がどれだけ感情移入して唄えるかどうかの話。そのあたりはナレーションも入れて盛り上げていく。

 −では即興ではやらないんですか?
 森田 時間がないからできないと思う。非常に大変なのよ。昔は音の高さも下げて、男中心に唄っていたから掛け唄になったけど、今は一人唄いになっているからそんなこともできないしね。また時期が来れば、そういうこともやろうと思えばやれるかもしれないけれど。

 −津軽三味線の人を呼んだというのはどういうお考えでしょうか?
 森田 同じ三味線・サンシンのなかで、津軽と奄美は、胴を叩いてピッキングする弾き方。沖縄は胴を叩かない弾き方なのね。プログラムでは、「津軽に芽吹く奄美のシマ唄」ということで、アドリブでやる。津軽の人に奄美の唄を弾かすというわけではないけど、津軽三味線は津軽のものをやりながら、そのなかに奄美のを混ぜていく、よいすら節を一回一節入れる。ある程度の打ち合わせはするけど、その練習はあまりしたくない。
 そのあとにネリヤ★カナヤとあたり孝介のYOISURAで現代の楽器やアフリカのパーカッションを組み合わせてやってもらう。それと奄美琴というのを聴いたことないだろうから、阿世知幸雄が弾いて僕がサンシンをつける。里国隆ウジには負けるかもしれないけれども、今あれが弾けるのは阿世知幸雄しかいない。唄う人の高さに合わせておかなきゃいけないし、既製品じゃないから箱を作るのも大変なのよ。荷物になる。

 −五十周年の抱負・感想は何かありますか?
 森田 五十周年記念ライブは本当はやるつもりではなかったのよ。僕一人が「五十周年だからライブをやりたい」と言ったって、できないしね。でもさっきも言ったけど、奄美を知らせたいというのもあるし、またスタッフがこれだけ揃ったということもある。それとヤマトの人が頑張っているのに奄美の人間がもっと頑張らないでどうするというのもある (それでやることにした)。
 五十周年の価値観としては、これまで僕は、いろんな人とタイアップしてシマ唄を唄ってきたので、みんなは誰々とは唄いたくないというのがあるようだけど、僕は誰でも声をかけられるし、みんなを出してあげたいなぁという気持ちがある。でも木戸を打つ(お金をもらう)のは、そんな並大抵のことではないので、来てもらう人には心して唄ってほしい。それだけの価値がある人が集まるわけだし。こういう形の大会はもうしないと思う。『島じゅうりを食べながらシマ唄を楽しむ会』は半分遊びで、みんなで楽しんでいくものだけど、これからはそういう形が大事になって行くと思う。
 最後に、これからの人たちには、歌謡曲というか芸謡化されたコンクールのための唄ではなく、本来のシマ唄を唄っていってほしいというのが僕の願い。今度の「美島の唄遊び」は、本格的な、唄遊びのなかのシマ唄を唄う場にしたい。そのあたりは特に東京にいるシマッチュたちのほうが、昔のシマ唄を知っているわけ。「昔はあんなふうに唄わんかったよね」って言う。そのあたりがどこまでアピールできるか、というシマ唄の会にしたい。コンクールじゃないしね。そういうのを沖縄は大事にしているよ。確かに八重山とかでも変わってきているという話は聞くけど、奄美ほどじゃあないよ。

 −それが「美島の唄遊び」というタイトルの意味だということですね。本日はどうもありがとうございました。



[インタビューを終えて]
■森田照史さんは、運命に導かれて、奄美の音楽を躍動させている民族的な精神の深みへ入っていかれたように思います。そして、様式や伝統を踏まえながら、音楽の本質へ至ろうと謙虚に学ぶ芸術家の魂を、日々磨き続けておられます。森田さんの語る言葉のはしばしに、そのまことの志を感じました。(U)
■2時間近くにわたるインタビューを終えて、改めて思ったことは、森田照史さんの記憶力は凄いということです。本当はここに掲載できなかった細かい話がたくさんつまっていたのですが、あまり個人名などを出しても意味がないので、割愛させていただいたことをご了承いただきたいと思います。また、森田照史さんはけっして新しい試みを否定しているのではなく、昔の本格的なシマ唄をしっかりと踏まえて欲しいということを繰り返し主張していらっしゃるのだと思いました。(O)



*2002年6月 新宿区「森田三味線教室」にて収録。
*インタビュー/内田・浅田・辻田・大橋 テキスト作成/渡辺(十) 構成/内田・大橋