今 東光「毒舌<仏教入門>」。徳間文庫。
江戸時代、その六方があまりにも豪快だったので、「あれを見ると風邪が治る」と言われた歌舞伎役者がいた。
だよねー。活字離れで本が売れないだの、電子出版で街の本屋さんは淘汰されちゃうだのと言いながら、売ってるものはここ十年、相変わらずゲーム攻略本に赤川次郎に西村京太郎なの。インターネットでのファイル・ダウンロード時の課金システムが世間一般に受け入れられるまで、あと十年くらいだと思うけど、そうなったら、一番最初に売れなくなるのがゲーム攻略本だって判ってるだろうに。
すこし下って明治時代、西郷隆盛の腹心の部下として陸軍大将にまで昇進した桐野利秋は、講談並みの国際関係論を誰彼かまわず開陳し、「頭が痛いときは桐野の話を聞け」と言われた。
さらにこちらに来て、二十世紀後半の高度経済成長期に大衆の人気をさらったのが、プロ野球の長島「いわゆるひとつの」茂雄であり、文学の今「毒舌和尚」東光であった。
もうちょっとこっちに来ると、中山「Gon Goal!」雅史ががんばっているが、時代が悪いというか、努力の割りにいまいち小粒であることは否めない。がんばれ中山、ぼくのために。
話がずれた。えーと、実は、今 東光の小説って読んだことないのね。司馬遼太郎が「街道を行く」シリーズに、今 東光とのエピソードをいくつか書いていて、それで読んでみようかってなったんだけど、今 東光の文庫本って本屋さんに置いてないんだわさ。
出版ていう業界も、変わってるってーか、変
また、ずれた。
ちょっと前に、古本屋で暇つぶし用に買った「毒舌<日本史>」があまりにオモシロかったので、そういう期待を込めて買ったんだけど、やっぱなー、坊主に仏教を語らせたってあんまり面白くないんだよなー。「毒舌<日本史>」に較べると、鯛の活造りプラス馬刺しプラス猪鍋連合軍 対 一日禅寺体験の精進料理 ってーくらい濃淡の差がつくなー。
ジョン・ホーガン「科学の終焉<おわり>」。竹内 薫訳。徳間文庫。
たまーに、こういう変な意味でコストパフォーマンスの高い本を買ってしまうんだな。あとがきまで数えて625ページ。本体が \838 だから、税込み \880。会社帰りの電車や休日の電車での外出時に読んで、いちおうの読了まで約四週間。我々ぱんぴーが知らないことばっかり書いてあるけど、飲み屋での会話や会社の休み時間の雑談にはまったく使えない。疲れきって、憂鬱症になってるときの睡眠薬としては使える。そうか、時間つぶし専用本か。
ざっくり内容をまとめれば、「万有引力も、相対性理論も、遺伝も、進化論も発見・発明してしまった科学には、収穫逓減の法則により、もう偉大なテーマは残されていないのではないか」というテーマで数十人の有名な科学者・哲学者にインタビューした本。ただし、インタビューの対象はアメリカ人とヨーロッパ人(イギリス人とイギリス在住者が圧倒的多数)で、地球のそれ以外の地域からは、ホルヘ・ルイス・ボルヘス(アルゼンチン代表。過去、ノーベル文学賞をゲット)が二回ばかり引用されているだけ。作中、著者はニューエイジ嫌いをはっきり表明しているし(それはそれで立派)、サブ・テーマになっている「大統一理論発見の可能性」なんてのは、ヨーロッパ文明の文脈から出てきてるもんだしね。
でも、これだけ対象が偏っていると、どうしてもアジアのことを考えたくなって、結局、オレはアジアのことばっかり考えながら読んでいた。べつにナンにも結論めいたことは思いつかなかったけどさ。
まあ、いくつか学んだことはあったよ。「超ひも理論」の「超」と「ひも」はまるっきり別な物であるとか。「超ひも」っていうからきっとデカくてナガいひものことだろうと思ってたもんな。それと、「車椅子の天才科学者」スティーブン・ホーキングと一緒に「ブラックホールの特異点理論」を立てたロジャー・ペンローズは、その後、脳の研究に移ったとか。
インタビューされた学者の中で気に入ったのは、ノーム・チョムスキーと、ポール・ファイヤアーベント。どシロートにも読めるような本があれば、読んでみたいね。
ジャック・ヒギンズ「大統領の娘」。黒原敏行訳。角川文庫。
ジャック・ヒギンズを知らない? 死んでほしいと思う。
内藤陳 コメディアン、日本冒険小説協会会長
知ってる人は、とっくに読んでいるだろう。主な登場人物に「偉大な」リーアム・デブリンの名があるのだ。もうそれだけでレジに向かって駆け出す意味がある。おっと、本を忘れるなよ。
ストーリー? 気にすんなよ。「ゼンダ城の虜」を読んだことがあれば、あれと一緒だと思えばいい。でなきゃ「スター・ウォーズ」だ。いくらか枝葉が着いちゃいるが、飾りに過ぎない。
ジャック・ヒギンズは、「鷲は舞い降りた」で冒険小説におけるストーリーを極めちゃったんだ。あれで足りなかった僅かの部分は「脱出航路」その他で終わらせた。あとは、彼が創り出したなん人かのキャラクターに好きなように行動させればいい。それでストーリーは進んでいく。吉本新喜劇と通底してんな。
そうしたキャラクターの中でも最大のひとりがリーアム・デブリンだ。
この作品の主人公、ショーン・ディロンなんてのは、あからさまに言ってしまえばリーアム・デブリンがお歳を召して(1943年に35歳だった)、アクションに適さなくなったから出してきたDH(指名打者)みたいなもんだし。経歴なんかアカデミックな部分を除けばそっくりそのまんま(リーアム・デブリンは、ダブリンのトリニティ・カレッジの助教授。ショーン・ディロンはロンドン王立演劇アカデミー出身)。
リーアム・デブリンについては、そのうち、あらためてどうにかしたい。せねばなるまい。
あ、作品については、これでいいと思います。ジャック・ヒギンズ、最後の黄金時代が近づいている感じです。無理は言いませんから、もう一花咲かせてもらいたいと思っています。って、無理言ってるかな。
船戸与一「国家と犯罪」徳間文庫。
なんて人だったか名前を忘れちゃったんだけど、今年(2000年)の夏、話題になった書評によれば、 船戸与一は「読んでいることが恥ずかしい作家」らしい。部分的には、納得できる。だって、船戸与一の作品は、船戸与一という名前を抜きに読んだら、
「凄く面白いけど、文章がどーもね。精進あるのみだね。小説家よりも劇画の原作者なんか、いいんじゃないの」
とか言いたくなってしまうのだ。実際に「ゴルゴ13」の原作をいくつも書いていたらしいし。
でも、船戸与一が描く世界というのは、対象を描き出すのに文章の技術の貢献度が低くならざるを得ない世界なのだ。剥き出しの本質以外は、欺瞞と韜晦がデカい面で闊歩するのを目の当たりにする世界なのだ。船戸与一を「読んでいることが恥ずかしい作家」呼ばわりするのは、「私は、文学における本質の描写に反対する」と宣言することだ。
この「国家と犯罪」は、ノン・フィクションだから、船戸与一という作家の最大の強みである魅力的な人物造形が「描写される人物の魅力」に置き換わらざるをえない。だから、主対象への接近を文書資料に頼らざるを得なかった「オチョア将軍の処刑」は重苦しく、目当ての人物でなかったとはいえ直接のインタビューに成功した「幾たびもサパタ」は活力に溢れ、ダライ・ラマ十四世との邂逅は、「民族と宗教の責任者」と「あくまでも個人である」作家との資質の違いを際立たせ、個に徹しきれないオレに焦燥感に似たなにかを感じさせる。
読前、読中、読後、執拗に感じつづけるのは「なんで豊浦志郎じゃないの」。「豊浦志郎」は封印されたのか。経済原則は「船戸与一」に「豊浦志郎」を名乗らせたのか。
「読んでいることが恥ずかしい作家」呼ばわりされた直後の直木賞受賞。これで大丈夫だろう。「船戸与一」だろうが「豊浦志郎」だろうが面白いもんを書いてくれりゃあ良いんだ。
事実と伝説。どちらを選ぶかと聞かれたら、陳メはためらうことなく「面白い方!」と答える。
ジョン・ミルトン「失楽園」<上><下>。平井正穂訳。現代語版。
古書「ハートランド」にて購入。
「イギリス文学の最高峰に位置する大長編叙事詩」だって。おれの見たところ、「南総里見八犬伝」だね、これは。作者が執筆前から失明してたか、執筆中に失明したかの違いだけって、そりゃ無茶だ。
現代語版のおかげかどうかは判らないが、サタンが出ている部分はダイナミックで、このままハリウッド映画になるんじゃないかってくらい。サタンが出てこない部分は、ひとりのセリフが恐ろしく長い会話で、正直、タルい。それで成立する部分もあるけど、やはり現代語にするんなら展開も現代的にして欲しいって、それも無茶だろ。
えー、ずばり言い切ると、これは平井和正の「幻魔大戦」です。発禁処分だの、著者の投獄だのといろいろあるそうですが、完全に納得できます。神様よりサタンのほうが魅力的に書かれています。これは、ピカレスク・ロマンです。だけど、もういいや。下巻の途中だけど。