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昨日(2日)は一応、神田明神へ初詣に行った。その前に湯島天神を通ったが、ここは受験の神様とかで若い人の波、それでそこはパスした。神田明神もかなりの人で、鳥居の所からぎっしりだったが、人の流れはあった。 帰りに、湯島聖堂というところが開いていたので、初めて寄ってみた。そこは人も少なく、ひっそりとしていた。ここは何なのだろう、変な宗教だったりしたら、いやだなと思って、それで、説明の看板を読んでみたら、5代将軍綱吉が作った儒学の学問所跡とあった。外観はお寺のような建物で、孔子廟のようなもの、のようだった。東京へ来てもう何年にもなるが、初めて知った。 |
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最近になって、急にジャンヌ・ダルクに興味を持つようになって、関連の本を読んだ。実は、正月の3日頃にテレビに海外ドラマという番組があって、それを見てからだ。2日に分けて合計4-5時間あったと思うから、ドラマとしては長い方だと思う。しかし、それでも内容がよく分からない部分があった。例えば、後半でパリを攻撃するのだが、ジャンヌ・ダルクひきいるフランス軍がなぜパリを攻撃するのか、そのあたりもよく分からなかった。たぶん、フランス人にとっては誰もが知っている歴史だろうから何の疑問も無いのだろう。だが、ボクはフランスの歴史などほとんど知らないから、だからそのドラマも後半部分はよく分からなかった。それで関連の本を読んでみることにしたのだ。 ボクはどちらかと言えば、中国史や日本史は得意だが、西洋史はほとんど知らないから、ジャンヌ・ダルクと言ってもナポレオンの時代と区別があまりつかなかった。しかし、それは1420年頃の出来事で、日本で言えば室町時代の中ごろに当たるようだ。百年戦争と言えば、名前だけは聞いた記憶はあるが、その時代の事だそうだ。中世の終わりに相当するらしい。免罪符、これも名前だけは知っているが、その頃のキリスト教会はそれで財力も権力も蓄えたらしい。この話はキリスト教もかなり関係している。 百年戦争はイギリスとフランスの戦争で、戦闘地はほとんどフランスであった。しかもフランスは王太子派ともう1派の2派に別れ、後者はイギリスと手を組んで、つまり内乱状態のようであったらしい。そこにジャンヌ・ダルクが現れ、王太子側についてから、それまで連戦連敗だった王太子軍を勝利に導いたとの事だ。王太子派は領地もかなり回復して、戴冠式もあげられるようになった。これがジャンヌの第一の功績であった。しかし、後半は負け戦が多くなり、ついにはイギリス軍に捕らえられてしまう。その後宗教裁判にかけられてしまうのだ。 ジャンヌは戦闘の先頭に立って騎士や兵士を励まし、戦闘を勝利に導いた。しかし、別名はオルレアンの乙女と言われるように、ジャンヌは19歳の女である。しかも王族や貴族ではなく農家の娘だったそうだ。なぜ文字も読めない農家の娘にそのような事ができたのか、歴史の謎であろう。実は王妃の私生児だったという説もあるらしいが、あまり支持されていないようだ。 戦闘の指揮に当たったのは男の隊長で、ジャンヌはどちらかと言えば隊長を指揮していたか、あるいは、隊全体の勝利の女神のような存在だったらしい。女神と言っても、ジャンヌはほとんど男装して鎧を着て、頭だけ出していたそうである。しかし、最初の勝利から1年後ぐらいの戦争で敗れ、イギリス軍の捕虜になってしまった。 キリスト教会による異端者を裁く宗教裁判でジャンヌの罪が問われ、ついには火刑にされてしまうのである。正確に言えば、イギリスの意に沿った宗教裁判で異端とされ、世俗のイギリス政府に引き渡されて処刑された、というべきらしい。場所は今のフランスだが、当時はイギリスに占領されていたので、実行したのはイギリス政府である。その後何年かして、フランスがその地を回復して宗教裁判をやり直し、ジャンヌ・ダルクの名誉も回復して今日に至るらしい。 やはり、話せば長くなるものだ。背景の解説はここまでにしましょう。続きは、もし書けたら、後日書き加えよう。 |